みちる草紙

2002年02月28日(木) 異邦人

高校生の頃は、ゴダイゴの他に、久保田早紀を好んで聴いていた。
彼女もまた「悲しみ」をモチーフとするシンガーソングライターである。

アタシの父が当時、恥ずかしながら『詩とメルヘン』という雑誌を定期購読しており
父の留守中にパラパラ見ていると、たまたま“異邦人”の歌詞が載っていた。
70年代の終りにヒットし、CM曲に起用されていたのでサビの部分は知っていたが
初めて1〜2番の全詞を読み、何ときれいな歌だったのだろうと、すぐに聴きたくなり
シングルレコードを買い求め、ジャケット写真の久保田早紀の美貌に改めて驚いた。
誰もが見とれるだろうほど可愛らしいこの女性が、なんでまた、恋に破れて泣く
辛い歌ばかり書くのかと、奇異な感じがしたものだった。

  子供たちが空に向かい 両手をひろげ
  鳥や雲や夢までも つかもうとしている
  その姿は 昨日までの何も知らない私
  あなたに この指が届くと信じていた
    空と大地がふれあう彼方
    過去からの旅人を呼んでる道

  市場へ行く人の波に 身体をあずけ
  石だたみの街角を ゆらゆらとさまよう
  祈りの声 ひづめの音 歌うようなざわめき
  私を置き去りに過ぎてゆく白い朝

歌声は記憶していたよりもっと高くか細く、いかにも脆げな女性のものであった。
「シルクロードのテーマ」と銘打たれ、ノスタルジックな異国情緒と失恋の切なさが
聴く者を酔わせたのだろう。だが、彼女の曲のうち売れたのはこれ1曲きりである。
その後何枚かアルバムを買ってみた。歌詞は絵のように繊細で美しいのだが
確かに“異邦人”に比べると曲調も凡庸というか、インパクトに欠けるものばかり。
それだけに入魂の1曲であると同時に、ニューミュージックの金字塔とも呼べる
1曲であるかも知れない。

  あなたにとって私 ただの通りすがり
  ちょっと振り向いてみただけの異邦人

  サヨナラだけの手紙 迷い続けて書き
  あとは悲しみをもてあます異邦人

子供だった昔は、特に気にもとめなかったフレーズなのだが…。



2002年02月23日(土) あした

上京して間もない頃、TVから流れるこんな歌のフレーズにハッと打たれたのだった。

♪ もしもあした私たちが何もかもを失くして
  ただの心しか持たない痩せた猫になっても… ♪

「猫」に惹かれた。猫が絶望を体現し、こんな風に胸をかきむしる歌詞になろうとは。
絞り出すような女性の歌声。ところがアタシは当時、その歌手を知らなかった。
レコード屋の店員に尋ねて、ああその名前は聞いたことがある…と思い当たり
“あした”のシングルカセットを買った。以来10年、中島みゆきを聴いている。

浜省ともども「暗い歌」の代名詞とされるアーティストだが、安直に明、暗、と
世人が分類する根拠はともかく、昔から哀感のこもる曲や物語が好きなのである。
中島みゆきの楽曲全てを好む訳ではない。詞があまりにも冗漫だったり、歌い方が
芝居がかり過ぎていたりして、アルバムに収録される10曲のうち気に入ったものが
2〜3あるかないかという割合なのだが、その僅かの及第曲ゆえに、また次回の
リリースを待つ。赤剥けの感受性を更に抉り込むような、心の絶唱聴きたさに。

若手ミュージシャンの斬新さに触発されでもするのか、たまに奇妙な言葉を多用し
演奏も技巧に凝り過ぎた曲を発表することもある。そのせいかどうか、近作はやや
トーンダウンの感が否めず、染み入るような哀調を奏でるのは初期の歌が多い。
無理もないか。70年代と今とでは、小道具一つとってもすっかり違うのだから。
街から街への渡り鳥、安宿、一途なあばずれ… 背景には、まだまだ不便な生活と
若さゆえの貧しさがあり、出会いや別れ、孤独と悲しみを愛しむことを人々が知る
時代でもあった。ただれた豊かさの現代、死に絶えたかに見える「ペーソス」。

竹内まりやにも好きな歌はあるのだが、あの甘くスタイリッシュな都会的洗練は
中島みゆきの泥じみた飲んだくれの絶叫とは、実に好対称をなしている。

           

♪ 女に生まれて喜んでくれたのは
  菓子屋とドレス屋と女衒と女たらし
  嵐明けの如月 壁の割れた産室
  生まれ落ちて最初に聞いた声は落胆の溜息だった ♪ ≪やまねこ≫

ひょっとしたらこれなどは、自らの出生を歌ったものなのだろうか。
今日で50歳の誕生日を迎えたみゆきさん。今年はコンサート行けるかな…(*^_^*)



2002年02月21日(木) “ダーティー・ハリー2” 中止

既に何度か観ているけど、それでも楽しみにしてたのに…どうしてかしら?
先週、シリーズ第1作が放映され、2週連続でハリー・キャラハン警部が見られると
手帳にまで書き付けておいたものを。どうしてくれるのよぅ〜(-_-;)
そうでなくても、民放じゃこの頃ろくな映画やってないというのにさ。

               

「こりゃ〜M字型に禿げ上がるな」と、前髪前線の形状から予想はしていたものの
改めて若き日の、髪の毛がフサフサしたクリント・イーストウッドを見ると
比べちゃいけないけど…やっぱり…若い時の方がかっこいいわね…(*^o^*) 
“ダーティー・ハリー”とスタローンの“ロッキー”シリーズは確か、全部観たような。
ストーリーが分かりやすく、主役は滅法強く、内に哀愁を秘め、台詞も粋で、男らしい。
昔の映画はBGMもアナログでアコースティック。それがまたイイのよ〜♪(*^_^*)

近年のイーストウッドは“マディソン郡の橋”という、らしくなく甘たるい感傷的な
不倫映画に出演し、一応はスダレハゲをさらしての熱演(?)…だったのだが…。
ああ、彼も老いたなぁ。雨でおでこにはりつく残り少ない毛が涙ぐましい(ノ_ー、)
“荒野の用心棒”“アウトロー”“マンハッタン無宿”“夕陽のガンマン”etc...
女を寄せ付けない孤高の男のダンディズムは、今や遠くなりにけり、なのだろうか。

ジャッキー・チェンなんか観てもしょうがないので、今夜はTV消しました。



2002年02月12日(火) 一期一会

こたつむりで読書に耽っていると、懐かしのM主任から電話があった。

『メイ子さん元気ですか?今、OさんがJ.BOY歌ってるんですけど♪』
なるほど確かに、背後にO係長の歌声が聞こえる。また男2人でカラオケBOXに
入り浸っているんだろうか。何か話しかけようとすると、電波の調子が悪いのか
無音のあと切れてしまった。浜省でメイ子を思い出してくれるなんて…(*μ_μ)
しばらくして、O係長からかかってきた。声の調子からしてヘベレケ。

O係長:『そりゃ俺は言ったよ、こんな会社もう辞めちゃえよって。
     けど何もホントに辞めることないじゃんよ。俺どうすりゃいいのよ』
アタシ: それより、アタシの居ないところで浜省歌うなんてずるいじゃない(`ε´)
O係長:『あ〜あれはMがさ、俺がJ.BOY歌い出したら即よ即。
     「メイ子さんに電話しなきゃ!」ってさ。さっき別れたばかりだけどね』

話によると、アタシの後任者は、今どうやら相当苦労しているらしい(;^_^A
手取り足取り引き継ぐほどの業務でもなかろうと思ったが、少々無責任だったか。
けれど向こう気の強い女性らしく、残業お断り宣言して、周囲は持て余し気味だとか。
あそこはそのくらいでちょうどいい。甘い顔見せるとたちまちセクハラの餌食だから。

O係長:『で、次の仕事はもう決まったの?』
アタシ: まだノンキに遊び暮らしているわ。働くのは3月からにするわ(*^o^*)
O係長:『羨ましいね。俺なんか今月一杯出張で埋まってるよ。岐阜で学会もあるし』
アタシ: 実はTVで某タレントを見るたび、Oさんのことを思い出しているのよ…。
O係長:『誰、某タレントって。ブラッド・ピット?』
アタシ: う… ウンそう!(^_^;) (えなりかずきって言うと傷つくからな…)

電話を置いて、ふとかすかな不安がよぎった。これまでに無いことだ。
新しい職場。またしても新たな環境下での新しい生活が始まろうとしている。
そこでもこんな風に、冗談の言い合える気の良い仲間に出会えるものだろうか。
古巣を去ると同時にそこでの一切を切り捨てる。未練を断ち切り後は振り返らない。
その繰り返しではや10年が過ぎた。思えばこうして、当たり前に親しくなり
次々と当たり前に別れを告げることに、いつしか慣れ切ってしまっていたのである。

一期一会と人は言う。年のせいか、時に虚しく、時に切実に響く言葉である。



2002年02月11日(月) 真冬の怪談

酔狂な奴と笑われそうだが、昔から、怖い話がそれはもう大好きである。

小学1年の時、担任が小泉八雲の“耳なし芳一”の話をしてくれたことがあった。
それは大して怖くなかったが、興味を覚えたアタシは、小学生向けに書かれた
ラフカディオ・ハーンの怪談集を親に買ってもらい読んだところ、たちまち戦慄して
その晩はまんじりとも出来なかった。薄闇の中、母の嫁入り箪笥に彫られた紋様が
芳一の耳をもぎ取った平家の亡霊の顔に見え恐ろしくてたまらず、まだ赤子だった
妹の手を握りしめ、明け方まで布団の中で身じろがず震えていた思い出がある。

日本の昔話には、所謂「禁忌(タブー)」が多い。『決して…してはならない』とか
『今夜は…な目に遭わねばならない』とか『…すると必ず…する』といった風に
祟りそのものよりも、その前触れの得体の知れなさにゾッとし、恐怖心を煽られる。

大学の寮である夜、先輩が妙なことを言う。「家から学校までの通学路をイメージ
してみて?」 そこで、何の心理テストだろうと思い言われた通りにすると
先輩は「学校に着くまでに何人の人に出会った?」と、神妙に尋ねてくる。
単純なアタシは忠実に通学路しか思い浮かべなかったので、誰にも会わなかった
と答えた。「出会った人数は、これまでにあなたが見たユーレイの数よ…~~(m--)m」

しかし、昔から不思議で仕方のなかったことがある。先ずお化けのコスチューム。
幽霊というのは霊魂だろう。それなら何故生まれたままの姿=裸で出てこないのか。
白い着物(定番)、鎧兜、旧日本軍の制服、ウェディングドレス… ってホンマかい!
つまり衣服の生地までが、故人と一緒にあの世について行って幽霊になったと
いうことか。せめて経帷子にしといてよ。

心霊写真などで、写り込んだ霊の顔の陰影がまたまた謎。彫りの深い外国人霊は
陰影もクッキリだが、影を作るということはそこに光が当たっている訳である。
あの世にも太陽のような発光体が存在し、現世と同じ肉付きの顔で
その光を浴びているのか。

あと地縛霊。長い年月間、いたる場所で無数の人間が死んでいて不思議はない。
だが、塚の上に家を建てられたからと祟りをなすのは、近世人ばかりらしい。
アニミズムにどっぷり支配されていたであろう太古の人々や、弥生人の幽霊さまは
腹を立てたりしないのだろうか。みずらヘアの霊とか、聞いたことないけど。

まだまだ続くお化けの謎(~ヘ~;)



2002年02月09日(土) メアリ・ステュアート

6日にイギリスのエリザベス2世が即位50周年を迎えたが、その僅か3日後の
9日、奇しくも実妹のマーガレット王女が71歳の生涯を閉じるとの報。
自ずとかつてのエリザベスとメアリという、因縁の2女王のことが浮かんだ。
16世紀に君臨したエリザベス1世は、メアリ・ステュアートの又従姉にあたる。

スコットランド女王メアリ・ステュアートには、さほど深い思い入れはないのだが
小学時代に山本鈴美香の劇画“7つの黄金郷”を、中学時代に桐生操著の伝記小説
“女王メアリ・ステュアート”を読んで記憶するところでは、1587年2月8日は
『天に2つの太陽は存在せず』として、彼女が44歳で斬首された日である。
前者の劇画では、主人公の双子兄妹がエリザベス1世の臣下だったためか
旧教徒のメアリはヒールとして描かれており、後者の小説は、冷徹に資料文献を追い
分析を加えながら、悲運の女王に深い理解を寄せていた。

メアリ女王に関し、作家 桐生操は実にやたらあちこちと寄稿しており、個人的に
叙情的に過ぎる氏の文体はあまり好まず食傷気味なのだけれども、メアリに限らぬ
歴史上のヒロインを大まかに知る上での入門書としては、桐生氏のエッセイ等は
非常に読みやすい、格好のテキストであろう。日本では賢明なエリザベスより
美貌と悲劇性を備えた恋多きメアリの方が人気が高いと聞くが、少なからず
桐生操の数多の労作が寄与貢献しているのかも知れない。

  
       エリザベス1世                  メアリ・ステュアート

こうして見ても、才知では遥かに勝るエリザベスの、容貌の劣性は気の毒なほどだ。
淫蕩であった父王ヘンリーが梅毒を患っており、不幸にしてその影響とも言われる。
それでもエリザベスはメアリを処刑するまで彼女に競争心を抱き続け、何かあると
側近をつかまえては『アタシとメアリどっちがキレイよ?』と尋ね、臣下たちは毎回
事実と反対のことを無理やり言わされていたとか。
一方のメアリは、死後亡霊となってさ迷い出た姿を何度も目撃されているそうだが
その都度「とても美しい幽霊を見た」と、化けて出てなお賛美されているという。

やっぱり女は顔か〜(-_-;) ←尻すぼみなまとめ方



2002年02月03日(日) 酒と別離の日々

やや遅い新年会。御徒町駅の集合場所に、一番最後に馳せつけた(←遅刻)。
1年ぶりに会う友人たちは、皆去年より更に垢抜けている。集まったうちの半数は
既婚で子供もいるのだが、とてもそうは見えないほど若々しく身ぎれいな女たち。
まずい…!最年少のアタシが一番くたびれてるような気がするじゃない!(~o~;)

カラオケボックスで4時間。いつもは歌わないのだけれども、今日は憂さ晴らしも
兼ねてやって来ているので、音痴も顧みずマイクを持ったぞ!中島みゆきに浜省!
ガラスのクレア嬢と二人でみゆきメドレーを3バージョン唱破。ああいい気持ち♪
女フランク永井とも言える低音なので、クレアさんのフォローがないと高音はきつい。
「別れ歌メドレー」って、何だかまるでアタシの半生を言われているみたいだな。
それにしてもよほど歌い込んでいるのか、なんで皆あんなに歌が上手いんだろう。
やっぱり恥ずかしくなって、あとはビールを何杯も干して飲んだくれた(ー_ー*)

歌い疲れてもんじゃ焼きのお店へ。実はもんじゃを食べるのは初体験である。
ゆるーいお好み焼きのタネを、鉄板に広げて火の通ったところからいただく。
こういうものを、最初にメニューとして店に出し、お金を取ろうと考えついたのは
一体どういう人なんだろうかと、考えずにはいられなかった… σ(-_-;)
残念ながらビールでお腹がふくれていた上、したたか酔っ払っていたので
せっかくのもんじゃも箸が進まず、そうするうちにお開きの時間となる。
酩酊して足がフラつき、おあいその時に、財布から名刺を落としたらしいのだが
友人に拾われるまで全く気が付かなかった。辞めてきたばかりの会社の名刺。
思わずじっと見る。もはや何の役にも立たぬばかりか、始末の悪い無意味な代物。

駅に向かう間に、順に一人二人と外れて行き、「またね」とそれぞれの帰途につく。
明日も明後日も顔を合わせる会社の同僚か何かのように、軽く手を振りあっさりと。
しかしアタシが再び彼女らと相まみえるのは、恐らく、早くて今年の忘年会か
来年の新年会の場でということになるであろう。皆が皆、日々を忙しく生きている。

酔いで全身の皮膚感覚が鈍り、冷たい風が吹き付けても、寒さを全く感じない。
新宿で最後の連れが電車を降りてしまうと、深呼吸して大きく酒気帯びの息をついた。
ぷふ〜〜〜〜っ!とな( ̄ε ̄*) ♪慣れた酒を飲んで酔う十把一絡げ〜♪



2002年02月01日(金) ジャンヌ・ダルク

不覚にもこたつでスヤスヤ眠り込み、最初の30分ほど見逃してしまった。
まぁ、いまどきの映画だし、内容は別に期待もしてなかったからいいけどさ(-_-;)
「例えばロールプレイングゲームって、こんな感じのもの?」という仕上がりである。

       

現代の「いのちをたいせつにしよう」的こうるさいヒューマニズムや倫理観念が
入り込み過ぎ、甚だ興を殺ぐ。登場人物は多いが、皆影が薄く印象に残らないし
戦闘シーン以外は特に見どころもない。ジャンヌは現代っ子みたいにヒステリーで
始終ごちゃごちゃブツブツ。押し問答好きの悪魔が登場するところも漫画っぽい。
そしてあれよと言う間にドタバタ駆け足の火刑で終り。何だったんだ(・_・?)これ。
致命的なのは、主演のミラ・ジョヴォヴィッチが美しくなさ過ぎる点であった。
名優ダスティン・ホフマンも、今更こんな下らない役(屁理屈悪魔)とはなぁ…。

名高いオルレアンの聖処女のドラマティックな生涯は、過去に幾度となく映画化され
そのまたリメイクを繰り返されている。昔、I.バーグマンの“ジャンヌ・ダーク”と
無名女優(←素人とも。名は忘れた)の“ジャンヌ・ダルク裁判”を観たことがある。
バーグマンのジャンヌは、恐らく理想化の極みで描かれていたのだろうが
構成が分かり易く神秘性も損なわれず、胸を打つ物語に仕上がっていたと思う。
後者は、主に裁判でのジャンヌの答申に焦点をおき、淡々とした展開でありながら
実録映画を観るようなリアリティがあり、モノクロ画面も想像力を掻きたてた。

サンドリーヌ・ボネールも確か“ジャンヌ”という映画で、やはりジャンヌ・ダルクを
演じていたと思うが、所詮これも近年の作品だし、観る値打ちがあるのかどうか。
映画の黄金時代も今は昔、いよいよ氷河期を迎えてしまった感がある。


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