ジンジャーエール湖畔・於
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2005年05月13日(金) 思い違いの科学史




(( 取材の空き時間は今これを読んでいます ))


火星人、永久機関、燃素 ―――古代から現代まで、世界を支配した“思い違い”の歴史をたどりながら「科学とは何か」を考える楽しい読み物!




電気はモノでない/熱素は元素のひとつ/一年の長さは不定/ライト機は二番手/落下速度は距離に比例/血を抜けば病気が治る/神経を精気が通る/遺伝子はたんぱく質/病気は部分の異常/生物はわいて出る/伝染病は毒あたり/交流の送電は危険/火星人はタコ坊主/頭骨は性格を語る/光は音と同じ縦波/ウランからは新元素/宇宙はタマネギ型/植物は土を食べる/肺結核は遺伝する/電池こそ永久機関/可燃物=熱素+灰/黄熱病の菌を見た/大屈折望遠鏡は無理/水中で花粉は動く





この前の日曜日に都丸書店で買った福永武彦の『廃市・飛ぶ男』を、さて読もうかねと開いたら
中身は『俳句歳時記 冬の部』にすりかわったものだった。
がっかり、というより「やってくれるわねぇ」という気持ちにさせられた。




2005年05月10日(火) スフィンクスステーキ







本屋や古本屋が楽しいのは本を買いに行くというよりも本を見に行くのが楽しいから。
だれかも(たぶん川上弘美)そのことを「本の背表紙をみるのがすき」と表現してた気がする。
背表紙やタイトルをながめるのは実際に本を読むことに負けないと思う。
それは映画や歌にもいえることかもしれない。
実際そのものを読んだり見たり聞いたりすることより、経験せずに想像するだけの方が豊かなこともある。
片想いが両想いよりも幸せな事があるでしょう。そしてすべての恋は恋の死に一直線。
本は読まれてしまったら面白いかどうか判断するだけ、感想を抱くことから逃れられ読書の夢はそこでとだえてしまう。
だから文学には詩というものがあるのだと思うけどそれすらまだそれ自身が雄弁すぎて夢をうばわれることもある
そうして短歌や俳句でようやく納得する
すべてはミソヒトモジの御心に・・・

昨日ナディッフで買ったのはミュノーナというドイツ作家の短編集「スフィンクスステーキ」


やさしい巨人
へべれけ花と幽体離脱したオットカール
肺のパラダイス
雲が雨を上方に降らせるとき
息子
老いた未亡人
老いた俳優ミドリギさんのクリスマス
性格音楽―毛のお話
ローザ、警官の美しい妻
ゲーテ蓄音機―ある愛の物語
不思議な卵
鼻持ちならない鼻
道しるべのネグリジェ
アモールの新床
謎の一団
誘拐
合体
うちのパパとオルレアンの乙女
ミュノーナ百歳の誕生日


などという珍奇な短編の題名たち!

((「道しるべのネグリジェ」って!!))

この題名たちひとつひとつもいいけれど全体ならべたときの感じもきにいってます。
たとえば「へべれけ花と〜」や「性格音楽」のような意味不明な題名だけがならんでいても
そういう奇天烈系なものだけがならんでいたらこうはいかなかったと思う
あえて「息子」「老いた未亡人」「誘拐」みたいなほとんど想像力をはたかせなくていいような
題名が間にはさまっているからこそのものだねだ



本を読むとか映画をみるとかそういうことは意外とたやすくできてしまうけど
体験しないことを尊ぶ文化というのはまだそんなに表面化してない気がする
そういうことに喜びを感じるというのは情報化社会の生んだあだ花でしょうか


見たい映画や本があっても別にすぐにみれなくてもいいとすら思ってしまう
たとえば私は寅さんシリーズが好きで江戸川乱歩が好きな女だけど
寅さんも乱歩も全作品みてしまわないようにきをつけている
渥美清も江戸川乱歩もこの世にはいないのだから全作品みてしまうことは
すなはち永遠に未知の作品に出会えないことになる
人生の中で少しずつそれらを楽しんでみていければいい



ちょうだいすきな人にUFOってきくと興奮するってゆったら
岡本喜八の「ブルークリスマス」みなよって勧められてすぐにビデオレンタルにいったけど
その内容がタブー視されたせいかビデオにもなってなくて長らくずっと観ることができなかった。
でも今年2月の喜八さんの訃報でケーブルテレビで追悼特集が組まれることとなり
昨日念願かなって「ブルークリスマス」をみることができた。
そういうんでじゅうぶんだ。いつか出会えたらそれで満足だ。
出会ってみたいものはたくさんあるけれど、そういう風にして
長い旅のどこかでひょっこり出会うっていうのを期待していたい。












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