KENの日記
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2014年09月30日(火) 香港で大規模デモ

香港中心部を学生等のデモ隊が占拠しています。「Occupy Central」と称されるこのデモ行為は、香港の行政長官選挙における「普通選挙」実施を要求しているものです。現在の北京政府の方針は北京政府が認める候補者しか立候補できないとする「官製選挙制度」です。これに対して「一国二制度」において自由な選挙の実現を目指す香港の若者たちが抗議の行動に出たのでした。

市内中心部占拠は3日目に入っていて警官隊とデモ隊の睨み合いが続いています。デモ隊も過激な行動に出ないよう注意して行動しているし、警官隊も「催涙ガス」程度で解散を求めるものの、それに抗するデモ隊の動きには対してはそれ以上の過激な措置を採ることはしていません。デモ隊・警官隊ともにギリギリの線で踏みとどまっています。さすがは「香港」という感じです。但し何かの間違いや悪戯で不測の事態が発生すると、激しい衝突に発展しかねないという状況にあることも事実です。

今のところ北京政府は冷静に推移を見守っていて、香港行政府に事態の収拾を任せているようです。明日「国慶節」を迎える中国は「香港」の情勢を横目に見つつ、お祝いムードに浸っています。中国の国民にとっては「一国二制度」の「香港」の情勢は当面自分達の政治環境とは関係ない「外国」の事件なのだと思われます。「天安門」の記憶は薄れ、「香港セントラル」は外国の出来事ということでしょうか。

昨日行われた国慶節を祝うコンサートでは「習近平国家主席」と側近が逮捕されて崖っぷちに立たされている「江沢民元国家主席」が並んで音楽を聴く写真が報道されました。この報道は二人の間で何か「妥協」が成立したのか、それとも「嵐の前」の「和気藹藹」なのか分かりません。香港の占拠に対する北京の指示は「江沢民派」からなされたものという噂もありました。「習近平」政権が「汚職問題」と供に「香港民主化要求」をどのように裁くのか世界が注目しています。



2014年09月29日(月) 御嶽山噴火

一昨日土曜日の午前中「御嶽山」が噴火しました。噴火は水蒸気爆発による噴火のようで溶岩が流れ出すようなものでは無かったようですが、水蒸気爆発が火山灰、岩石を吹き飛ばしたために噴火口近くにいた登山者30数名が犠牲になった模様です。御嶽山は今が「紅葉」の見頃なので、天候が安定する午前中でそれも土曜日の午前中には登山客が集中していたようです。

幸い頂上付近には山小屋が幾つかあり多くの登山者は山小屋に避難して無事だったとのことです。しかし犠牲になった30数名の登山者と助かった人達は何が違っていたのか。どういう行動が生死を分けたのかこれから解明してして欲しいと思います。

報道を見る限り頂上付近の山小屋には災害対策用のヘルメットが常備されていたり、山小屋人達の適切な誘導があったようです。御嶽山の噴火は過去にも水蒸気爆発の噴火があり、その時に情報に基づく対策は一応取られていたとものと考えられます。そうした準備は今回どこまで役立って、不足していたり、守られなかったのはどういうものなのか明らかにして、こういう自然災害を少しでも減らして欲しいと思います。



2014年09月28日(日) モンスター「逸ノ城」

大相撲9月場所はモンゴルのモンスター「逸ノ城」の活躍で大いに人気沸騰の感じでした。新入幕の21歳の「逸ノ城」は今日の千秋楽でも勝って13勝2敗の成績を挙げました。横綱白鳳が千秋楽で負ければ白鳳との優勝決定戦もありということで今日の千数楽は珍しくNHKテレビに釘付けになりました。白鳳が勝って優勝決定戦はありませんでした。

「逸ノ城」はモンゴル出身ですが、他のモンゴル出身力士とは違って「遊牧民」出身なのだそうです。モンゴル出身の力士は番付上位に大勢いますが「遊牧民出身」の幕内力士は「逸ノ城」が初めてなのだそうです。ニュース番組で初めて見たときの印象は、「下半身の力強さ」と「バランスの良さ」でした。199Kgもある大きな身体を腰とお尻と太腿の筋肉がバランスよく支えていて、左右・前後に振られてもなかなか倒れない強さを持っていると思いました。これは小さい頃から乗馬で鍛えたバランス感覚が役立っているのだと思います。日本人力士も「遠藤」とか注目される若手力士が出てきましたが「逸ノ城」はスケールが違います。モンゴルにはまだまだ人材が豊富に眠っている感じです。



2014年09月27日(土) 旅行カバンが壊れた。

長らく使ってきた中型の旅行カバンの車輪が壊れました。全体に傷みがあって車輪を修理しても価値がないと思われるのでこの際思い切って廃棄することにしました。


この旅行カバンは10年以上前スリランカに住んでいる時に買ったものです。スリランカの高級ショップの「オデール」で見つけたものでした。大型のスーツケースはあったのですが一週間程度の旅行用の中型スーツケースが必要となってコロンボ市内を探したのですが、手頃なものが見当たらず「ソフトタイプ」のこのカバンを買ったのでした。ブランドは「TimberLand」で「スリランカ製」です。

このカバンはスリランカ国内・インド国内は勿論スリランカ・インドと日本の間を何度も往復しました。これまでアメリカ出張の際に「鍵」を合法的に壊された他には全くトラブル無く付き合ってきてくれました。今回ナポリの石畳の道をガンガン引っ張ったので素材の劣化もあってキャスターがぼろぼろに壊れてしまいました。使い慣れてきたカバンだけに寂しいものがありますので、しっかりお礼を言ってお別れします。



2014年09月26日(金) 「ISIS」との戦い

アメリカが中東五カ国と連携してシリア国内の「ISIS」の首都への空爆を開始して2日目となりました。「ISIS」からは目立った反撃はなされていません。アメリカは非常に厳重なテロ対策を実施してこの「空爆」にそなえたものと思われます。しかし安心するのはまだ早そうです。テログループは爆発する「衣類」とか、歯磨き粉爆弾などを作り出しているのだそうです。

人質を処刑して「見せしめ」としている「ISIS」は非常に残虐であり、「イスラム」の名を語ったテロ国家だとオバマ大統領は非難しました。差し当たり「シリアのアサド政権」を倒すよりアサド政権に敵対する「ISIS」を根絶するほうが「先」ということなのでしょうが、この「筋書き」がうまくいくかどうか全く予見を許しません。

というのも「アフガニスタン」「イラク」等で戦いでは、紛争が長引き・泥沼化して、状況は以前より悪くなってしまうと言うケースが多いからです。しかも「ISIS」はアル・カイーダとは違って既に「シリアとイラク」の一定地域を領有してその地域の「統治」しており、「国家」に近い体制を確立しているのです。

オバマ大統領は国連での演説で「ISIS」との戦いは「長期化」する可能性があるとして自らその懸念を認めました。「ISIS」と同様の動きは他のイスラム諸国にも派生しつつあり、今後この動きが拡大していくおそれがあります。「ISIS」の一万人を超える武装兵力は海外それも先進国から集められているようで、この問題は単なる中東・アフリカの問題ではなくて、先進国の抱える内部矛盾が噴出したという側面もあるのです。



2014年09月25日(木) イスタンブールの「サバサンド」

イタリア旅行の飛行機乗り換えのためにトルコの「イスタンブール」に寄りました。乗り換え待ち時間が長かったのでトルコに入国してイスタンブール歴史地区を散策しました。そして名物の「サバサンド(バルック・エクメーク:Balik Ekmek)」を食べてきました。


ネットの観光情報の通りでTRAMの「エミニョニュ駅」に降りると、目の前に海が広がっていて、向う岸に繋がっているガラタ橋があります。ガラタ橋の北側には「サバサンド焼き船」が3隻係留されて「サバサンド」をガンガン作っていました。


この「サバサンド」が予想外に美味しいのでびっくりしました。塩とレモン汁を振り掛けて食べるのですが、生臭さが全く無いどころか「サバ」の味が(オリーブオイル炒めのようです)パンと野菜と絡み合って「クセ」になりそうな味です。この味の秘密は「オリーブオイル」にあるのだと思いました。「サバ味」のオリーブオイルはちょうど「海産物アヒージョ」をつくって残ったオイルのような味なのでパンにつけても美味しいに決まっています。サバサンド売りのおじさんが売っている「レモンジュース」はさっぱりしていてサバサンドと一緒に頂くと大変美味しかったです。(下がレモン汁、塩、レモンジュースです)


新潟にいる長男がたまたま帰省したので「サバサンド」の話を紹介すると、新潟県の柏崎にも「サバサンド」があるということを知っていて教えてくれました。かつて柏崎に「トルコ文化村」なるものがあってそこで「サバサンド」が売られていたのだそうです。本体の「トルコ文化村」は経営難に陥り中越地震の影響もあって閉鎖されたのですが、この「サバサンド」はその後も「ご当地B級グルメ」として残り、現在でも高速道路のパーキング等で売られているのだそうです。

トルコ航空機の乗客を考えても、イスタンブール観光名所での日本人の多さを見ても、現在「トルコブーム」が到来しているとおもいます。トルコの思い出の「サバサンド」を日本でも食べてみたい人は沢山いると思います。簡単なレシピだと思うので、首都圏でも「サバサンド」を売る店ができないものでしょうか。(ネットで探したところ築地のパン屋さんで「サバサンド」を製造・販売しているとの情報がありました。)



2014年09月24日(水) アメリカがシリアの「ISIS」を空爆

アメリカのオバマ大統領はシリア国内の「ISIS(イラクシリアイスラム国)」に対する空爆を開始しました。この空爆は、国連決議に基づくものでもなく、また当時国のシリア政府の要請でもない空爆で、オバマ大統領は友好軍と共に実施するテロとの戦いと位置づけています。その友好軍とは中東の「バーレーン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)、ヨルダン」だとのこと。しかし同じはシーア派主導国家の「イラン」はこの空爆に反対の態度を示しているようです。

「ISIS」が「アル・カイーダ」とは違って自分達の支配地域の統治を行っていることから、単なるテロ集団とは少し違うのでアメリカはこれまで「ISIS」攻撃を慎重に行ってきましたが、「ISIS」が「アメリカ人人質」の殺害を続けているし、シリア・イラク両国内でのISIS勢力拡大が続くことに「オバマ大統領」は耐え切れなくなったのだと思います。

アメリカがISISのシリア国内の「首都」に相当する都市を攻撃したことは、ISISが今後どのような反撃に出るのか非常に懸念されるところです。アメリカ・フランスなどの一般市民の犠牲が増えなければ良いのですが。



2014年09月23日(火) インチョンのアジア大会

先週金曜日から韓国のインチョンで「アジア大会」が開催されています。開幕当初は柔道・水泳の日本が得意とする種目が集まっていますが、水泳の「萩野公介選手」の活躍には目を見張るものがあります。自由形個人種目において日本人がメダルを取ったことはこれまであったのかしら。しかも彼は個人メドレーも得意とする万能選手です。日本人男子スポーツ選手が世界レベルに達したことは歴史的快挙だと思います。

少し前に「全米テニス選手権」で「錦織圭選手」が決勝に進み準優勝しましたが、最近の若い日本人選手の活躍はたいしたものだと思います。「萩野選手・錦織選手」とも体格においては欧米あるいは中国の大型選手に及びませんが、そのハンディを乗り越える技術力・精神力を身に付けていると思います。そしてインタビューで見る限り二人とも好青年です。

萩野選手は20歳、錦織選手は24歳です。彼等が義務教育を受けた時代の「ゆとり教育」がこの活躍をもたらしたのであれば「ゆとり教育」を再評価すべきかもしれません。昔のように「精神力」とか「根性」とかに訴えずに科学的に手法に則って努力し、強い精神力と明るい「ノリ」で困難を乗り切る強さは、現代的で非常にスマートです。

こうした傾向は、若者全体の平均値が変化したのではなく、若者の多様性が更に進化したものだと位置づけるべきだろうと思われます。大成功する例もあれば逆に人生を台無しにする若者も出現しているのかもしれません。嘗てのように平均値的な人間が大量生産されるのではなく、様々な個性的な人間が出現する世界に変化してきたのだと思われます。こうした変化がどのような社会変化をもたらすのか。注意してみて行く必要があると思います。



2014年09月22日(月) 旅行の御土産



今回の旅行の御土産です。左はナポリの魔除けのお守り「コルノ」、右はイスタンブールの魔除けのお守りの「ナザール・ボンジュ」です。ナポリもイスタンブールも宗教的に古い伝統を持つ都市だけに、巡礼者向けにこの種の「御土産」が重宝がられたことは想像できます。

イスタンブール空港の乗り換えフロアにある「オールド・バザール」はトルコの伝統的な御土産品を扱っている店ですが二年前からは少し様相を変えていました。二年前はオリーブオイル等の伝統特産物を多く扱っていましたが、今ではもう少しハイカラな雰囲気になっています。「ナザール・ボンジュ」の品数も減っている感じでした。周りの「お酒・化粧品・チョコレート」等を売っている世界共通の免税品屋さんに似てきているのかなと思いました。

また「ナポリ」の「コルノ」は空港の免税品店では入手困難ではないかと思われます。「コルノ」は「角」で、横浜中華街に売っている中国のお守りは「唐辛子」ですが、形が似ているので融合してしまっています。どちらも魔除けのお守りです。本物のコルノは粘土で作ったもので、中国製はガラス・プラスティック製のものが殆どのようです。



2014年09月21日(日) 「彼岸花」が満開




別所沼の「彼岸花」がほぼ満開となっていました。先週水曜日に帰国したときに既に彼岸花の開花が始まっていることに気づいていましたが、涼しい気候が続いてどんどん開花が進んだようです。昨年は残暑が厳しかったと記憶していますが今年は一気に「秋」がやってきた感じです。

日高市の「巾着田」のホームページによると、巾着田曼珠沙華は22日位から最盛期を迎えるとのことですが、最盛期の到来の日付は、昨年は30日、23年・22年が29日となっていて今年は過去3年間に比べて一週間程早くなっています。もっともその以前21年度は9月19日、20年度は22日ですから、19年度は23日ですから、今年は4年前の水準に戻ったということができるかもしれません。



2014年09月20日(土) 円安、株高局面

19日のスコットランド独立の住民投票において「独立が否決」されたために、欧州の株価は上昇しました。米国の景気回復に基づく高金利政策の思惑も絡んでドル高局面は継続しています。

金曜日の日経平均、外国為替市場は、日本株の上昇継続、円安進行局面を維持しました。来週週明けの東京市場の動向が注目されるところです。今年何回か東京証券取引所の株価最高値を試しましたが、その都度「反落」を経験してきました。こんどこそ継続的な株価最高値更新が継続して欲しいところです。同時に円が「110円台」に下落すれば、長らく継続保有せざるを得なかった「ドル払い給与」を円に返還するチャンスが到来します。



2014年09月19日(金) スコットランドの住民投票

スコットランドでイギリスからの独立可否をめぐる住民投票が行われました。日本時間の今日昼頃に大勢が判明し、「反対」が過半数を獲得して「独立」は否決されました。なぜスコットランドがグレートブリテン連合王国から「独立」を求めるのか詳しい理由は知りません。人口も少なく経済的にそれほど恵まれた地域ではないと思いますが、住民の自治・自主性を求める機運が高まっているということなのでしょう。

翻って日本のことを考えてみると、「安倍首相」は「地方創生」を改造内閣の大きな政治課題に据えて、石破元幹事長を地方創生担当大臣に指名しました。私の故郷「信州」もそうですが、若年人口が減少し駅前商店街が殆どシャッターを降ろしている状況は全国共通の見ることができます。このような東京・関西中心の経済優先の社会構造の中で、日本のどこかで「独立」を求める声が上がるとは思えません。どうしてこのような違いが出てくるのでしょうか。

イタリアのフィレンツェを旅行してみて、イタリアの地方都市「フィレンツェ」の元気の良さにビックリしました。世界中から観光客を集め、その観光客がフィレンツェの町に多額の「金」を落としていきます。世界有数の文化遺産を有する「都市」なので当たり前と言えば当たり前ですが、フィレンツェの文化はフィレンツェの住民が過去から営々と築いてきたものだということを確認しておく必要があります。

まずずっと昔の「メディチ一家」を始めとする昔の住民が「文化遺産」(美術館・魅力的な町並み)を残しました。これはその地方の先祖から子孫への贈り物です。そして住民はその土地の伝統・文化を大切に守り続けました。フィレンツェでいうと豊かな農作物・牧畜産業・ワイン産業です。子孫達がこれらの伝統を守り続けたお陰で、美味しいトスカーナ料理を楽しめる「レストラン」が繁盛しているのだと思います。牧畜産業からの副産物の皮製品産業は「鞄・靴・上着」を得意としていて観光客が土産物として買って帰ることになります。

そして重要なことは、レストラン・ホテル・皮製品産業は「大資本」が支配することなく、相変わらず家族単位中心の小規模事業者の運営が中心になっていることだと思います。街中には昔ながらの「八百屋・肉屋・魚屋」が商売を続けています。最近は郊外に「大規模アウトレット」が出来始めているようですが、街中の生活は相変わらず近所の商店での買い物が中心であるように見えます。家族経営の古い建物を利用した小さなホテルが沢山あって観光客を収容します。観光客はフィレンツェの古い町並みのホテルに宿泊して、近所の昔ながらの伝統的なレストランでトスカーナ料理を楽しむことになっています。

石破地域創生担当大臣は難しい課題を解決していかなければなりませんが、中央からの「金のばら撒き」だけでは地方は再生しないことだけは確かだと思います。



2014年09月18日(木) 10日間で「秋」が進行

旅行で10日余り日本から離れていた間に「秋」が進行していることを実感しました。武蔵浦和の図書館から自宅に向かう歩道脇の草むらの「彼岸花」がかなり花を広げていることに気づきました。今年は雑草の草刈が遅れていて背の高い草に埋まりながらも、真っ赤な彼岸花が懸命に頭を出して花を開いています。お彼岸まで少し時間がありますから、今年は「秋」の訪れが少し早いようです。



2014年09月17日(水) 羽田空港に到着

関西空港到着が遅れて、代わりにアサインされた羽田行きの飛行機は6時30分発の全日空3820便でした。この飛行機はスターフライヤーSFJ20便の共同運航便です。機材はスターフライヤーのA320−200の最新式で、座席は3人・3人ですが座席は広く各自にモニター画面が設置してあって機内エンターティメントを楽しむことが出来ます。そしてキャビンアテンダントによる機内サービス(コーヒー・ジュースなど)があります。

大手キャリアが国内線機内サービスを縮小しているので、この差別化は重要だと思いました。私達が始めてのスターフライヤーを利用したと察知した「CA」さんが葉書にお礼のメッセージを書いてプレゼントしてくれました。細やかな心使いは大手既存キャリアとは随分違うと思いました。

イスタンブール・関西空港と2日続けての「深夜にホテルチェックイン・早朝の出発」は厳しいものでしたが、日航ホテルが空港に隣接しているので少し余分に睡眠を取ることが出来ました。イスタンブールのホテルで頂いたランチボックスのパンを食べてシャワーを浴びると比較的良く眠ることが出来ました。久しぶりの日本のホテルだったためだと思われます。

火曜日朝の羽田行きの飛行機は予想外に混んでいました。飛行機はほぼ満員の乗客を乗せ1時間余りで羽田空港に到着しました。朝8時過ぎに、京浜急行とか京浜東北線・埼京線に大きな旅行荷物をもって乗り込むことは気が引けたので、少し前から運行開始している「羽田−武蔵浦和」空港バスを利用することにしました。

このバスは料金は少し高めですが、乗客を羽田からダイレクトに武蔵浦和駅まで運んでくれます。首都高速の混雑で多少スピードは遅いですが、それも運行時間には織り込み済みで約1時間で「武蔵浦和駅」に到着しました。直行バスは荷物を運んで歩く必要がないので疲れないし少し、少し贅沢な気分に浸れます。旅行の「行き行程」はともかく「帰り」には利用価値が大いにあると思いました。利用客が少なくても運行を続けて欲しいと思います。快適なバスのお陰で「トラブルのあった帰路」も楽しい思い出に変わりました。



2014年09月16日(火) 関西空港に到着

早朝のトルコ航空便で関西空港に向かいました。飛行機の客室乗務員は異常なほど親切でした。飛行機が6時間以上遅れたので乗客が「頭にきている」ことを事前に申し合わせたようでした。客室乗務員に飛行機の遅れた理由を聞きましたが、はっきりした理由は教えてくれませんでした。「機体の変更があった」とのコメントだけでした。

東に向かう「飛行」は時間がどんどん過ぎていきます。「夜」が猛スピードで飛行機に向かって突き進んでくる感じです。前日夜明け前にイスタンブール空港に入って、飛行機には早朝に搭乗したのですが、関空に到着する頃には深夜になっていました。6時間の時差がこの日の活動時間を短くしてしまます。

関西空港から羽田空港への接続便は既に終了しているので、関西空港で一泊することになりました。仮に羽田空港に移動できてもそこから動けなくなるのです。そして羽田空港への飛行機便として6時30分発のANA3820便が割り振られました。この飛行機に乗るとすれが「ホテル滞在」は5時間程度になります。遅い便への変更が可能かどうかトルコ航空地上職員に聞きましたが、ANA地上職員が既に帰ってしまっているので対応できないとの回答が来ました。関西空港は24時間営業するために海上に作ったのではないのかしら。空港だけ24時間開いていても、その他の交通機関やら空港内施設が休んでいたら「意味がない」ことが分かりました。

私達は関空に隣接する日航ホテルに泊まることになりました。関空が最終到着地である人達も空港から自分の家に帰る交通手段が無くなっている人が多くいました。そういう人達は梅田・難波あたりの交通の便の良いホテルに泊まったようです。トルコ航空はヒルトンとかウェスティンホテルとか高級ホテルを手配したようです。緊急に客室を確保しなければならない事情だと思いますがかなりのコストです。但し「飛行機機体の異常」が運行機材変更の理由だとしたら「懸命な措置」です。乗客の命は「金」では買えませんから。



2014年09月15日(月) 帰国の旅に出発

「ピサ空港に移動」
朝フィレンツェのホテルをチェックアウトしてサンタ・マリア・ノベッラ(SMN)駅のバス停から「テラヴィジョンと言う会社のバスに乗って出国空港のピサに向かいました。フィレンツェにも飛行場がありますが、トルコ航空は就航していないのでトルコ航空が就航している空港でフィレンツェに最も近いピサを帰路の出発空港に選んだのでした。フィレンツェとピザ空港の間は鉄道も利用できますが、乗換えが面倒なのでバス便を選びました。ピサ空港までは約一時間のバス行程です。

バスはフィレンツェ市内を抜けると自動車専用道路を時速90キロのスピードで走りました。景色を眺めるためには最高の最前列の席に座れたので、トスカーナの山や畑の風景を堪能できた一時間でした。イタリアの公共交通機関は競争が激しいので料金は結構安いです。フィレンツェからピザまで座席予約料金で一人6ユーロでした。

ピサ空港はナポリの空港より大きいのではないかと思われる規模でした。それでも免税店の数は少ないのでお土産を買うのは途中の乗り換え空港のイスタンブールにしました。チェックイン窓口では少し戸惑いました。ピサからイスタンブール、イスタンブールから関西空港、関空から羽田への通しのチケットが発券できないことが分かりました。最後の関空初便の出発時刻がその発券時点から24時間を越えるのでコンピュータが受付ないという回答でした。本当かどうか怪しいのですが、イタリア人空港職員と揉めても仕方が無いので「ピサ−イスタンブール」だけの搭乗券を受け取って飛行機に乗ることにしました。イスタンブールで預けた荷物を引き取る必要が生じたのでした。機械の故障とかで私のマイレージ登算はできませんでした。困ったものです。

トルコ航空機への搭乗開始時刻は大分遅れましたが、飛行機の離陸はほぼ予定通りとなりました。早く搭乗口に乗客を集めて一気に飛行機の乗せてしまう作戦のようです。日本なら集まった乗客が文句を言うところですが、外国ではこの程度の「調整」は当然の如くに行われるようです。

「イスタンブール・プチ観光」
乗り換え地のイスタンブールには現地時間の午後3時30分頃定刻に到着しました。関空行きのトルコ航空便は午前0時50分発です。イスタンブールで預けた荷物を受け取る必要が生じたので、自然な形で待ち時間を利用した「イスタンブール・プチ観光」をすることになりました。受け取って荷物は「ネット」で急遽探した手荷物預かり所(二つで36トルコリラ)に預けました。荷物を預けて身軽になって地下鉄・市電を乗り継いぎ、「エジプシャンバザール」とその向かいにある「エミニョニュ広場」と「ブルーモスク」観光に出かけました。

ガラダ橋付近の「エミニョニュ広場」は大変な混雑でした。地元の人観光客が入り混じって物凄い熱気です。旅行案内書にある通り釣竿を垂れる釣り人が沢山いましたが、釣れているところには巡り合いませんでしたが。また解説書で紹介されている通り「サバサンド」を売る船3隻がガラダ橋の北側に接岸してサバサンドを売っていました。旅の思い出にサバサンドとレモンジュースを頂きました。サバサンドは予想を超える美味しさでした。

その後大混雑の「エジプシャンバザール」でトルコ名物のお菓子をお土産用に購入してブルーモスクに向かいました。ブルーモスクは丁度礼拝の時間になっていて拝観が終了したところでした。残念ながらモスク内を拝観することは出来ませんでしたが、乗り継ぎ飛行機待ちの短時間の入国なのできっぱり諦めました。ブルーモスク北側の公園には観光客から餌をもらう猫が沢山いました。トルコの猫(野良猫)は人懐こいです。そして日本の猫の種類(トラ・雉・白黒・三毛)と共通だと思いました。一方同じく公園で休んでいる「カラス」は真っ黒ではなくて胸から肩にかけて「白い羽の部分」を持っていて外観は日本のカラスと違っていました。

空港に戻る帰りの「トラム」は通勤客で大混雑でした。2台位やり過した後、逆に一つ駅を戻って空いている列車に乗って奥の方に居場所を見つけることが出来ました。ナポリのスリ遭遇の思い出がダブりました。しかしイスタンブールの人達はとても親切でした。特に「若い男性」がしっかりしていて女性に席を譲る光景を何度も見ました。非常に「頼もしく」思えました。


「イスタンブールの空港に足止め」
地下鉄で空港に戻り出発便の搭乗窓口を確認しようとしましたが、私達が乗る便より後の飛行機の搭乗口が決まっているのに私達の便の搭乗口は決まっていませんでした。乗り換えコンコースにある電源設備のある喫茶店に入ってこの「日記」を書くと同時にパソコンと携帯に充電しました。妻は何度もWiFiに挑戦していましたが繋がらなかったようです。

その喫茶店を引揚げてそろそろ「大阪行きトルコ航空便」の搭乗口が決まっているだろうと表示板を見てみると、なんと「大阪便は6時間30分の遅れ、出発は明朝の7時30分」になるとのコメントが掲載されていました。前回の旅同様にイスタンブールからの帰国便にトラブルです。しかも今回は更に条件が悪くて、大阪着が深夜になる見込みなので「大阪−羽田」乗り継ぎ便にも影響が出ることが予想されます。(前回は成田直行でした)

羽田便までの心配はやめて「今晩のどのように過ごすか」を考えなければならず、トルコ航空地上スタッフに聞くことにしました。文句を言う客対応は面倒な仕事だとは思いますがトルコ航空地上職員の対応は酷いものがありました。総合案内所職員は「ホテルと夕食は用意する。乗客対応窓口に行け」という対応でした。「乗客対応窓口者」は「一階下の219ゲートの休憩場所」に行けとのこと。

この219ゲートを探すのが大変でした。様々間違えて行き着いたのですが、219ゲートは到着フロアにあり、出発フロアから到着フロアに降りる方法は簡単ではありませんでした。219ゲートでは入国手続きをしてくれました。その担当者は「外にでて右側のホテルへ行け」とのこと。その場所に行ってみると空港近辺のホテルに案内するたために地上職員が何人か対応していました。

結局そこに集合した8人の同乗客と共に車で空港から10分位走った場所にある「ルネサンスホテル」に案内されました。このホテルにチェックインして部屋で眠りに着いたのが午前1時過ぎで、朝7時半の出発便に乗るために午前5時にホテルを出発しなくてはなりません。数時間眠って4時30分に起きて身支度をしました。フロントには昨晩頼んでおいた「ランチボックス」が準備されていました。



2014年09月14日(日) フィレンツェ最終日:ダビデ、パラティーナ美術館

フィレンツェ最終日は日曜日です。予定ではアルノ川南のピッティ宮にある「パラティーナ美術館」を見学してから「サンタ・クローチェ教会」を見て回って、余った時間は町でお土産を買うことにしていましたが、昨日「アカデミア・ギャラリー」を見送ったので、予定の名に今日は朝一番で「アカデミア・ギャラリー」を見学してから予定のルートを回ることにしました。

「アカデミア美術館」
朝のアカデミアギャラリーは開館前から観光客の行列ができていました。アカデミアギャラリーには切符を買うための列と切符を持っている人(引換券を持つ人を含む)の列があって、フィレンツェカードの客は私達が先頭でした。開館まで少し待ちましたが私達は開館と同時に最初に入場を許されました。ここでは何といってもミケランジェロの「ダビデ像」ですが、この日最初に入場した私達は暫くの間「ダビデ像」を独占して鑑賞することができました。

ウフィッツ美術館には「ギリシャ彫刻のローマ時代模彫」が沢山所蔵されていて、その見事さに圧倒されますがルネサンス同時代のミケランジェロの天才もギリシャ彫刻を凌ぐ作品を作り出しました。ルネサンスはまさしく「文芸復興」でした。ダビデを見ると「ルネサンス」以降においてはまだこの水準に達した芸術は生まれていないと思います。

アカデミアギャラリーを存分に楽しんでからアルノ川南のピッティ美術館に行くことにしました。サンマルコ広場付近のバス停からピッティ宮までは歩くには少し遠くまた便利な直通バスも走っていません。一旦「サンタ・マリア・ノヴェッラ駅(SMN駅)までバスで戻り、SMN駅で「ピッティ宮」行きのバスに乗り換えることにしました。SMN駅では全く待つことなく都合よく「Dラインバス」に乗ることが出来ました。このようにバス路線を乗り継ぐ術を覚えると移動はかなり楽になります。バスの中では十分に休憩を取ることが出来ました。このバスはアルノ川南の「サン・スピリット」広場を通過しますが「第二日曜日」のこの日は「市」が出ていました。

「パラティーナ美術館」
アルノの南にある巨大なピッティ宮殿には幾つかの美術館が入っています。その中でも「パラティーナ美術館」は「ラファエロの絵画」を収蔵することで有名です。三日目の狙いの一つがその「ラファエロ」です。ピッティ美術館は非常に贅沢な展示がなされています。各部屋の壁は下から上まで多くの絵画で埋め尽くされています。そうした中に何気なく「ラファエロ・サンティ」の作品があるのですからその贅沢さに驚いてしまいます。

「ラファエロ・サンティ」の絵はバチカンのラファエロの部屋の力強い巨大な絵を見ました。パラティーナ美術館ではラファエロの可憐で優しい絵を見ることができました。「ミケランジェロ」「ダ・ビンチ」と並ぶこの天才は他の二人に比べて非常に「誠実」で「優しさ」が滲み出る絵を描いています。ラファエロはその色彩感覚と善良で明るい画面が人気を集めているのだと思います。以前から好きだった「ヴェールを被る婦人の肖像」を間近に見ることが出来て感動しました。帰りに「サン・スピリット広場の「日曜市」を除いてバスにのってサンタ・クローチェ教会付近まで行きました。

「サンタ。クローチェ教会付近」
サンタ・クローチェ教会付近の横丁には「革製品屋」さんが軒を連ねています。ここで旅行中に誕生日を迎ええいた娘へのお土産として小さなバッグを買いました。私も旅行記念に「10年は持つ」という宣伝文句の「ベルト」を購入しました。サンタ・クローチェ教会の直ぐ近くのレストランで昼食を食べて午後から開いた教会内部を見学しました。

サンタクローチェ教会には至る所に「墓」があります。左右の壁には「ロッシーニ、ガリレオ等」の立派な墓がありますが、床には無数の墓の「標石」があります。ナポリで見た「カタコンベ」そのものです。サンタ・クローチェ広場も観光客が一杯でした。サンタ・クローチェ教会の美術館にはウフィッツ美術館以来気になっていた「ブロンジーノ」の「キリストのLimboへの降下」がありました。大変力強い絵で益々この画家に興味が沸いてきました。

「帰路準備・最後の夕食」
サンタ・クローチェを最後に今回のフィレンツェ旅は終了です。SMN駅によって明日の「ピサ行き」のバスを予約しました。混んでいることは無いと思いましたが念のために座席を予約しました。この日の夕食は「肉屋さんレストラン」が休みなので、これまた気になっていたパスタ専門店の「ラ・カパニーナ」に行くことにしました。ここもホテルから目と鼻の先にあるレストランです。地元の人が食べているので間違いないと思いました。

「ラ・カパニーナ」ではグリルチキンとご主人お勧めのパスタ「ソーセージとズッキーニのスパゲッティ」「カプレーゼ」を地ワインとともに頂きました。「炒めたなす」の添えられたカプレーゼは本当に美味しかったです。スパゲッティも大変美味しくて夕食が3回しか食べられない短期間の旅が恨めしく感じました。今回のイタリアの旅ではレストランの選択はほぼ大当たりだったと思います。

フィレンツェの多くのレストランで「トリップ・アドヴァイサー」の「評価表」(フクロウの目玉マーク付き)が掲げられていました。「インターネットでの評価」がレストラン選択上の重要な要素になっている証拠だと思います。「トリップ・アドヴァイサー」も商売上手で「投稿者の評価」を数値化して「証明書」を発行しているのです。投稿意見が必ずしも信頼が置けるというわけでもないですが参考にはなります。便利になったものだと思います。



2014年09月13日(土) フィレンツェ2日目:ウフィッツ美術館

ホテル・グローバスの朝食はナポリのホテルよりは充実していて「ゆで卵・ハム・チーズ」なども提供されます。ナポリのホテル同様に一杯ずつ丁寧にいれてくれる「コーヒー」と一緒に美味しく頂きました。

今日は朝一番でフィレンツェ観光最大の目玉の「ウフィッツ美術館」に出かけました。「ウフィッツ美術館は夕方が空いている」という噂がありますが、やはり朝一番に新鮮な気持ちで見たいと思いました。ホテルから少し距離がありますがバスは通っていないので徒歩で行きました。因みにフィレンツェは道が細く、入り組んでいるのでバスは不便そうに思えますが、幾つかの重要なバス路線を覚えるとバスは非常に便利で移動時間の短縮ができます。更に「歩く」と「疲れます」がバスを利用すると、空いていえ殆ど座れるので車内で「休憩」ができて一石二鳥です。フィレンツェカード活用法のひとつは「バス利用」にある思いました。

「ウフィッツ美術館」
「ウフィッツ美術館」には待つことなくフィレンツェカード利用ですんなり入館できました。朝の美術館には混雑という程ではないですが既に多くの観光客が見て回っていました。まず3階まで階段で登りギャラリーと左右に彫刻を配した廊下を進んでいくことになります。3階の第一廊下には世界的に有名な名画を贅沢に並べたギャラリーが続きます。基本的には年代準に並べられているようなので、天才画家達が絵筆を競ったルネサンス中期の時期には名画が集中しているのは当然と言えば当然です。

最初の方の部屋(古い絵画を展示)が修復中でそこの絵画は後のほう荷部屋に引越し中なので見学者いきなりすルネサンス名画の部屋に入っていくことになりました。目を引いたのが「ピエロ・デッラ・フランチェスカ」の描いた「フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(ウルビーノ公)夫妻」の有名な肖像画です。夫妻が見つめ合うような形で横顔が描かれています。ウルビーノ公は「傭兵隊長」として百戦錬磨の名戦闘家であると同時に、芸術・文化の愛好者であっとということです。ウルビーノ公が活躍したのは15世紀の中頃でルネッサンス最盛期と重なります。ウルビーノ公のような文化保護者が沢山居たのでルネサンス文化が花開いたのだと思います。

3階第一廊下中程のギャラリーでは「ボッティチェリ(1445〜1510)」の一連の名作が並んでいます。日本にも一点「ボッティチェリ」の作品があるそうです。それは丸紅役員フロアに飾られている「美しきシモネッタ」。一点でも国宝級の絵画が「ウフィッツ」には一部屋に何品も無造作に展示されています。その中でも一段目を引いたのが「ビーナス誕生」と「春」でした。見るものに不思議な感動を与えてくれます。それがガラス板で守られているとは言え極近くから鑑賞できることにも感動しました。「写真」も取り放題。やはり凄い美術館です。

「ボッティチェリ」の次は「レオナルド・ダ・ヴィンチ」です。ここでは「ダ・ヴィンチ」初期の絵画が展示されています。「受胎告知」は「ボッティチェリ」の作品同様に天才の計り知れない想像力を感じさせてくれますが、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の「天才」は絵画に集中されずに様々な分野に分散されてしまったため、絵画においては「ダ・ヴィンチ」の成熟期を見ることは出来ないようです。名作「モナ・リザ」はダ・ヴィンチが最後まで自分で持ち続け最後に招聘された「フランスの至宝」となりました。

ウフィッツ3階の第二廊下は丁度アルノ川の川岸に近いため、窓からは「ポンテ・ヴェッキオ」を始めとしたアルノ川の橋を見下ろすことができます。第二廊下で一息ついて第三廊下に進みます。アルノ川寄りの第三廊下にはポンテベッキオに通ずる回廊の入り口があります。ここはメディチ家の人々がアルノ川の向こうにある住居までプライベートで行き来できる通路となっています。第三廊下に面するギャラリーには「ミケランジェロ」の絵画、ルーベンス・レンブラント(自画像が中心)の絵画などが展示されています。第三廊下の一番奥は喫茶コーナになっていてベランダの外に出て休憩できるようになっています。

3階の展示室の名画の数々に少々疲れを感じているのに、2階に降りると「ラファエロ」「ティツィアーノ」「カラヴァッジョ」が待ち構えています。これでもかという程の名画のラッシュです。「ラファエロ」は明日見学予定の「ピッティ美術館」にも多数の名画が展示されているはずです。ルネサンス後期に入っていますが、画家達は個性的な絵を描き始めています。女性のヌードに長けた「ティチィアーノ」、色彩豊かに非常に誠実な絵を描く「ラファエロ」少し特異な道に進む「カラヴァッジョ」。名前を知らなかった「ブロンズィーノ」が確かな技術で非常に丹精な絵を描いていることを知りました。

ウフィッツ美術館見学を終えてお昼までまだ少し時間があったので、ポンテ・ヴェッキオを渡ってみることにしました。シニョーリオ広場からポンテベッキオにかけての細い路地は物凄い観光客です。写真撮影に適している場所に観光客が集中するのでそういう場所で記念撮影の「順番」を待つことにあります。待っていても暇ですからセルフィーしているカップルや、同伴者を撮影している人に声をかけて記念撮影のシャッターを押してあげました。

「塩野」さんの本にある通り、ポンテヴェッキオ両側の商店街はそこが「橋の上」だということを忘れさせてしまいます。両側に商店街のある繁華街がずっと続いていていつの間にか川の反対岸に辿り着いていることになってしまいます。ルネサンスの時代にそうした効果を狙ってこの橋を架けたという都市計画の考え方があったことは非常に驚きます。


午前中タップリとウフィッツ美術館を楽しんだので近くで昼食をとることとにしました。その前に「ウフィッツ美術館」と「ヴェッキオ宮(Plazzo Vecchio)」の間の細い通りにある両替屋さんで両替をしました。ここはネットで手数料が小さいという情報があった場所です。噂通り多くの観光客が両替に訪れていました。昼食は「ヴェッキオ宮」の裏のレストランで頂きました。知らない場所で早く食事を済ませたいときには、「当たりも外れ」も考えずに最初に気に入った場所で食べることが得策です。

「BUZZINO」というレストランでは大変美味しい食事を頂きました。ペンネ・ポモドーロ+カプレーゼ+白ワインという至ってシンプルな注文です。カプレーゼで出てきたモッツァレラチーズはこれまで食べたことがないような「歯応え」のものでフィレンツェが乳製品が豊かなことを実感しました。

腹ごしらえをした後は「ベッキオ宮」「シニョーリオ広場」を見学しました。ここは大勢の観光客で混雑しているので早々に切り上げ、ドゥオーモの北のアカデミアギャラリーとサンマルコ修道院を見学することにしました。ここからの移動は「C2」バスです。サンマルコ修道院南側にバスターミナルあってここを通るバスルートを覚えておくと大変便利です。昼過ぎのアカデミアギャラリーの入口近くには入場を待つ観光客が列を作っていました。フィレンツェカードを持っている人も並ばなければならないということなのでサンマルコ修道院を先に見学することにしました。

「サンマルコ修道院」
サンマルコ修道院修道院にはここで多くの修道士の暮らした部屋がそのまま残されています。そして各部屋の壁には古いフレスコ画が描かれています。この修道院では「アンジェリコ」の宗教画が有名です。フィレンツェの北の「フィエゾーレ」で修業していた「アンジェリコ」が15世紀前半にサンマルコ寺院に移ったこととで彼の人生が大きく変わったようです。当時芸術愛好家の沢山いたフィレンツェにおいてアンジェリコの画才が大いに評価されて様々な作品を残すことになります。そしてその評判はローマにも伝わりバチカンで活躍する足がかりとなったのでした。

サンマルコ寺院見学を終えてもアカデミアギャラリーの行列は相変わらず続いています。アカデミア見学は明日一番に変更することにしました。昨日見ずに終わったドゥオーモ内部を見学してホテルに戻ることにしました。
ホテルに帰って一休みしてホテル食堂に準備されている夕食前の「アペタイザー」を頂きました。グローバスホテルでは6時30分から客に「おつまみと赤ワイン」を振る舞っています。こうしたサービスは大変うれしいものです。

夕食は昨日と同じく肉屋さん付属レストラン「ラ・パデラッキア」に行きました。とにかく「混雑しない、料理は上手い、安い」ので非常に有難いです。昨日は「ビーフ」だったので今日は「ポーク」にしました。大満足でその日が終わると旅行は楽しいものとなります。レストランの方が「明日(日曜)は休みだよ」というので、3日目は別なレストランを探さなければなりません。



2014年09月12日(金) ナポリからフィレンツェに移動:フィレンツェ1日目

「ITALO特急列車でフィレンツェに移動」
朝ホテルをチェックアウトし「R2バス」でナポリセントラル駅に行き、イタリアの新規参入鉄道事業者「ITALO」の特急列車にのってフィレンツェに向かっています。今列車の中から更新しています。「ITALO」は線路を所有するイタリア国鉄から線路・駅設備を借りて自前の列車(フェラーリと同じ赤色)を主要都市間に走らせています。列車設備は最新式で車内で「Wifi・電源」が使えます。今車内での食事サービスの案内が回ってきました。注文するとランチボックス形式で運んできてくれるようです。

「ナポリーフィレンツェ間」の途中には首都ローマがあります。ローマ駅での停車時間が全体の運行時間の長短を決めてしまいます。イタリア国鉄はさすがに終着駅の「ローマテルミニ」まで入り込み、そこで少し長く停車することになります。新規参入の「ITALO」はローマテルミニには入らずに郊外の「ローマ・ティブルティーナ駅」に5分間停車するだけなのでフィレンツェまでの所要時間は少し短くなります。ローマに寄る必要のない観光客には嬉しい配慮だと思います。因みに「ITALO」は2012年開業ということで前回のナポリ旅行の時にはまだ運行開始されていませんでした。

今9時20分ですがローマ駅に停車中です。ここで5分程度停車して次の停車駅フィレンツェ・サンタ・マリア・ノベッラ駅(SMN駅)に向かい出発しました。この列車の最終目的地はヴェネチアです。ナポリからの列車の「ナポリ−ローマ間」は比較的揺れない快適なものでしたが、「ローマ−フィレンツェ間」は結構揺れる気がします。それは内陸の丘陵地帯を通過していくことと「250Km/h」の高速運転を続けているからのようです。朝のナポリは雨の後のうす曇りでしたが列車の旅はところどころ雨でした。到着したフィレンェのSMN駅でも小雨が降っていました。駅は観光客で混雑しています。私達が降りるとヴェニスに向かう客が逆に乗り込んでいます。そしてSMN駅停車の合間に「煙草」を「すい溜め」する客がホームで盛んに煙を吸い込んでいます。

「サンタ・マリア・ノベッラ駅」
フィレンツェ・サンタ・マリア・ノベッラ駅(SMN駅)について最初にすべきことは「予約」しておいた「フィレンツェカード」を受け取ることでした。駅の中に「観光案内所」あると考えていたのは私の思い違いで、観光案内所は駅の向の「サンタ・マリア・ノベッラ教会」の建物の中にありました。ここで「72ユーロ」する高価なフィレンツェカードを手に入れました。このカードは72時間(3日間)有効でフィレンツェの殆どの観光名所の「入場料金」(優先見学も付随)が含まれていて、市内の公共交通機関が乗り放題となるのです。私達はフィレンツェ滞在の3日間を最大有効に活用するために「時間と手間」を「金」で解決することにしました。例えばいちいち入場券売り場を探して並んで切符を買う手間は一切省けます。これでフィレンツェ観光用の武器が揃ったので早速観光出発です。


「フィレンツェの宿:ホテル・グローバス」
フィレンェでのホテルはSMN駅から歩いて5分程の場所にある「ホテル・グローバス」を選びました。ホテル前の細い通り「サン・アントニーノ通りを少し行くと「中央市場」があり買い物や食事が便利だろうと考えて選びました。結果的は美味しいレストランは近所にあり、3回の夕食を近辺で食べることとなりとても満足できました。チェックインの2時までにまだ時間があったので荷物をホテルに預け、中央市場二階のフードコートで昼食を食べて、見学予約してあるアルノ川南側のブランカッチ礼拝堂に向かうことにしました。


「中央市場」
中央市場は市場内の店だけでなく、市場の周りの道に屋台店舗がぎっしり並んでいます。業種は鞄・上着・手袋・財布などの革製品を売る屋台が圧倒的に多いです。しかも結構良い値札を付けています。もっとも価格は交渉で決まるのでしょう。観光客の数も半端ではなく秋葉原の年末の感じです。中央市場二階には少し前から「フードコート」が開設されて観光客に人気が出ているようです。フィレンツェ食材使った料理を比較的安く食べることが出来ます。あちこちの店で複数買ってきてワインも買ってきてフィレンツェ料理を楽しめるようになっています。昨日夕食の「恨み」を晴らすために「ペンネ・ポモドーロ」にチーズをタップ振りかけて頂きました。トマトソースとパスタはとても美味しいのですが、「器」が紙製で「紙の匂い」がパスタに移って少し気になりました。やはり料理はキチンとした皿で食べるべきなのかもしれません。フードコートも改善の余地ありです。


「ブランカッチ礼拝堂」
フィレンツェの最初の訪問先はアルノ川の南にある「ブランカッチ礼拝堂」です。そこでは有名な「楽園追放」を含む「マサッチオ」のフレスコ画を鑑賞することが出来ます。フィレンツェでも完全予約制はこの「ブランカッチ」だけということで事前に午後1時からの予約を入れていましたが、15分位早く着いた私達はそのまま入館を許されました。礼拝堂内は10人程度の観光客が」いましたが混雑というよりは空いている様子でした。

フレスコ画はマサッチオ(1401〜1428)が晩年(いっても25歳)に描き掛け、最終的にはリッピによって1480年代に完成されたそうですが、数ある場面全てが明るく伸びやかに描かれています。大勢のフレスコ画内の登場人物は個性豊かです。ルネッサンス初期のマサッチオの画風はその後のルネサンス絵画流れに大きく影響を与えたことが分かります。ブランカッチ礼拝堂は「サンタ・マリア・デル・カルミネ教会」内のひとつの礼拝堂で、礼拝堂からは立派な主祭壇を見ることが出来ますが教会の開館は午後5時からということで教会の見学はできませんでした。再びこの教会に戻ってくるのは大変なので見学できず残念でした。


「サンタ・マリア・ノベッラ教会」
ブランカッチ礼拝堂から「Dラインバス」でSMN駅に戻り、駅名にもなっている駅正面の「サンタ・マリア・ノベッラ教会」を見学しました。ナポリで豪華で厳かなカトリック教会を多く見てきた私達の目には「サンタ・マリア・ノベッラ教会」の清楚で若々しい雰囲気はとても新鮮で気分を明るくさせるものでした。華やかな「ステンドグラス」が多用されて「光」に溢れている感じです。フィレンツェが「花の都」と称される雰囲気が分かるような気がしました。但しSMNの入館入り口は一般入場者は南側、フィレンツェカード保有者は教会北側の「観光案内所の中」なので分かり難かったです。


「メディチ家礼拝堂」
サンタ・マリア・ノベッラ教会見学後は「ジリオ通り」を通って「メディチ家礼拝堂」に向かいました。この「ジリオ通り」は「ファエンツア通り」「コンティ通り」と並んでホテルから観光地に向かうために通る重要な道です。メディチ礼拝堂は今回滞在するホテルグローバスから眼と鼻の先のところにあります。外見は巨大な丸屋根と飾り気のない外壁ですが、礼拝堂内はミケランジェロ設計の荘厳な作りになっています。ミケランジェロの設計は華やかさはありませんが、色違いの大理石を巧みに組み合わせ、そこに「巨大性」を取り入れて人々を驚かせます。プライベートな礼拝堂をミケランジェロに作らせた「メディチ」家は、後世の人々に素晴らしい「贈り物」を残したと言えます。メディチ家が単なる「金持ち」ではなくて芸術を愛した金持ちであったことを我々にとって非常に幸運でした。

芸術作品の中で、音楽は再現芸術ですからどこにでも「持ち運ぶ」ことができます。比較的小さな絵画が「貸し出し」によって所在国から離れて巡回展示ができます。しかし大きな彫刻(例えばダビデ像)や建築物は移動させることができません。本物を鑑賞するためには所在地まで行かなければなりません。そのために巡礼の旅が必要になるのです。この「メディチ家」礼拝堂は堂自体が巨大な芸術作品となっています。残念ながら一部の壁が補修中で無粋な足場とカバーがかけられていました。「メディチ家礼拝堂」は閉館時間まで散策しその後隣接する「サン・ロレンツォ教会」を訪れようと思ったのですが道を間違えてフィレンツェ・ドゥオーモ広場に出てしまったためこちらから見学することにしました。


「サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会」
フィレンツェドゥオーモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会)はフィレンツエ教会群の中にの中心的存在です。その巨大なドーム屋根を含む風景はフィレンツェの風景の典型となっています。この教会ではドゥオーモ内部見学(地下遺構見学を含む)に加え、ドームクーポラ登り、ジョットの塔登り、隣接する「サン・ジョバンニ洗礼堂」「美術館見学」がセットになっています。フィレンツェカードで24時間有効な入場券を入手したので、この日はクーポラ登りとサン・ジョバンニ礼拝堂見学をすることにしました。夕方5時過ぎですがクーポラ登りの入口には観光客が長い列を作って順番待ちしていました。

ここはフィレンツェの中心なので短期滞在の観光客も押し寄せる名所になっています。ここではフィレンツェカードが威力を発揮しました。上から降りてくる客の一団が外に出ると、一般客の長蛇の列を後尻目にカード所有者を先に上らせてくれました。私達の後ろに並んだオーストラリアからの家族連れもカードの威力に驚いていました。しかしカードを持っていても階段を一段ずつ「464段」を登っていくことには変わりなく一番上まで登るのはかなり疲れるものでした。ローマのサンピエトロクーポラは途中までエレベータで運んでくれて残り320段を自力で登らなければなりません。やはりフィレンツェのクーポラを登る方がキツイのです。因みにローマサンピエトロクーポラを地表から上ると551段の階段があるそうです。登るのに苦労しただけあってクーポラの上からの眺めは最高でした。

「クーポラ登り」の後に「ジョット塔登り」は無理なので、サン・ジョバンニ洗礼堂を見学しました。大きな洗礼堂建物内は金色に装飾された宗教画で満ち溢れています。この感じはどこか「中尊寺金色堂」の雰囲気に似ていると思いました。夕方になってもドゥオーモの周りの広場にはかなりの観光客が集まっています。観光客は朝から様々な場所を見学した後に夕方になってホテルが集中するドゥオーモ近辺に戻ってきて1日の終わりを惜しんでいるかのようです。

フィレンツェ最初の夕食はホテルに近い「お肉屋さん」経営のレストランで頂くことにしました。フィレンツェ名物といえば「フィレンツェ風ステーキ」です。そしてステーキを食べるのなら「お肉屋さん経営」のレストランなら間違いないはずです。「ラ・パデラッキア」というそのレストランは入り口は小さいけれど奥にかなりの席があります。フィレンツェ風ステーキは1kgと500gがあるというので二人で500gの肉を頂きました。大変柔らかくて美味しい牛肉で結構あっさりしています。こういう肉なら一人500gは食べられそうな気がしました。地元ワインも大変美味しかったです。ホテルに数分で帰ることができるの非常に便利でした。日曜日も営業していれば滞在中三日間通い詰めていたと思います。



2014年09月11日(木) ナポリ3日目:カポディモンテの丘

「カピデモンテ美術館」
今日のナポリ観光はナポリ北部の「カポディモンテ美術館」です。ナポリの美術館といえば市内にある「ナポリ考古学博物館」と「カポディモンテ美術館」が双璧で、何れもナポリ国王(ブルボン家)家の「ファルネーゼコレクション」を見ることが出来ます。前回ナポリ旅行の際に「国立考古学博物館」でファルネーゼコレクションの「彫刻」を堪能したので、今回は「カポディモンテ美術館」訪問がナポリ訪問の最大の目的となりました。

しかし残念ながら「カポディモンテ美術館」は「ナポリ考古学博物館」ほどの感動を与えてくれるものではありませんでした。個人的感想をいうと「カポディモンテ美術館」は「堅苦しく、少し疲れる美術館」だというものでした。それは展示品の傾向に依るものだと思えました。「ナポリ考古学博物館」に展示されている数多くの「彫刻」はローマ時代に作られたギリシャ時代オリジナルの模刻です。「模刻」とはいっても技術力が高いので躍動感に溢れ精緻で力強いものでした。その種の彫刻を見て回ることは、驚きあり・感動有りの素晴らしい体験だったのです。

一方「カポディモンテ美術館」のファルネーゼ家の収集した絵画が主でした。人物画、風景画もありますが、精緻で上手い絵だとは思いますが多くは「写真替わり」の「絵画」の雰囲気があります。「看板作家」がいないというのも寂しいと思いました。そしてここでもルネッサンス後期以降の宗教絵画が多く展示されていました。「サン・マルティーノ美術館」、「ナポリ司教座美術館」の展示品と同じように、「暗い画面構成」の絵画が多くあります。題材も「気が滅入ってしまいそうな」ものが少なくありません。ファルネーゼ家の収集方針だったのしれませんが、見る人に「感動」「安らぎ」「浮きうきするような感動」を与える種類の絵画が殆どないと思いました。多くはありませんがルネサンス以前の古い時代の絵画に純粋な精神性をみることができると思いました。展示会場最後の方に「カラバッジョ」が一枚ありました。カラバッジョ独特の「光と影」の劇的効果を醸し出している名品だと思いました。

美術館のショップで収蔵品解説書を買おうと探しましたが、英文で手頃な値段の解説書はありませんでした。ショップで進められたのは70ユーロもする分厚い解説書でした。考古学博物館では12ユーロで英文解説書を購入してきたのに残念でした。こんなところは改善する必要があると思いました。美術館拝観の後は外の美しい庭園に出て気分転換をしました。高台にある美術館の庭からはナポリの美しい風景を見ることが出来ました。


「サン・ジェンナーロ・カタコンベ」
昨日から少し調子を落としていた妻が少し元気になってきたのでカポディモンテ美術館から程近い「サン・ジェンナーロ・カタコンベ」を歩いてみることにしました。カタコンベはロ−マ時代から中世にかけての教会・墓地です。それが地中や山の洞穴に作られているだけで通常のカトリック教会の構造と同じく「礼拝堂」があり「墓地」があることは同じです。カタコンベは山の低い場所から掘り進め、地中を掘り進んで上っていき、山注腹部に出て「空気・光」取り入れ口が作られています。見学は逆に山中腹から入ってカタコンベを下って入口に進み形式になっています。

カタコンベ内の通路の両側に作られている礼拝堂は裕福な人々の墓です。そして通路の壁には上から下まで穴が掘られていて丁度「棺」を収納できるような棚となっています。ここが中級の人々の墓。そして地面には多くの穴が掘られていますが、そこが最も貧しい人々の墓という訳です。ナポリビショップだった「サン・ジェンナーロ」の墓と礼拝堂も穴の奥にありました。

このような墓と礼拝堂を収める空間が山の中腹を刳り貫いて作られています。日本の墓地や現代の教会が平面的に、貴重な土地を占有していることに対し、このような形式の「カタコンベ」が非常に優れたものと思われました。高いビルの中に「墓地」を階層的に作ることも「一案」ですが、日本のような山の多い国では、山の下の地下空間の利活用を考えることはゆうこうだと思えました。ナポリの街で教会は見かけても「墓地」を見かけなかったのは今でもこのような思想があるからだと思われます。


「有名店のブランディ」
この日の昼食は少し遅くなったのでホテル近くの「ブランディ」に行ってみることにしました。ホテルから10mも離れていない「ブランディ」は「マルゲリータ発祥の地」として世界的に有名です。「ナポリのマルゲリータの元祖」といってもいい存在です。しかしネットでの評価は良く無かったし、いつも観光客で混雑しているので敬遠してきました。遅いランチなので待たずにテーブルに座れると思いましたが「20分待ち」というのでホテルに戻って休むことにしました。こんな所がキアイア・シャルメ・ホテルの強みです。

予定通り再びブランディに行くと二階の食堂に案内されました。まだ多くの客が食事の最中であり、注文した料理を待つ客も多く残っていました。店員さん達は「食器の片づけ・注文取り等」で疲れ切っている様子で、新しい客に対応する気力が萎えているようでした。レストラン一階に設置されている「ピザ釜」周辺も整頓されてはいなかったし、注文も聞かれずにずっと待たされたので「ブランディ」での食事は辞めることにして店を出ました。

代わりに選んだのがブランディから少し離れた「Nu' Murzill' Sapurito」(サプリート食堂)です。このレストランの少し先にある「トリップ・アドヴァイザー」で評価の高い「Il Gobbetto」では夕食を食べることにして、ピッツェリアでもあるサプリートで食べてみることにしました。選んだ理由は「店は狭く、室内も地味」で如何にも地元の人達が集いそうな様子をしていることと、顧客担当(注文取り)の方が「存在感」があり、店を仕切っていそうな雰囲気を醸し出していたからです。更に店に入って「ピザ釜周辺」が綺麗に整理されていることも気に入りました。注文したカプレーゼ、マルゲリータ、ハウスワインは何れも予想通り大変美味しく、肩肘張らない店の雰囲気は大変暖かい物でした。


「サンタ・ルチア」「ナポリ最後の夕食」
ナポリに来たら「サンタ・ルチア」は外せません。ナポリ観光の最後はサンタ・ルチアにしました。サンタ・ルチアからのベスビーオは大変美しく、夕方日暮れが進むほど掛っていた雲が晴れて写真撮影には最高の景色となりました。ナポリ最後の夕食は昼飯時からきめていた「イル・ゴベット」で食べることにしました。昨日の夕食が少し遅くかつ少し多めだったので今日は早めに軽く済ませようと考えました。「トリップ・アドヴァイザー」でも評価の高い「イル・ゴベット」の料理に期待は大きかったのですが。

出された料理はどれも「?」マークが付くものでした。フレッシュ野菜サラダは単にミニトマトをバジルを切って盛り付けただけで味付けは客任せ。しかも器は平皿なので塩・オリーブオイル・ビネガーを混ぜるのに苦労する始末。期待の大きかった「ペンネ・ポモドーロ」にはスパゲッティに新鮮なミニトマトが混ぜてあるだけでトマトの芳醇な味はありませんでした。イタリアのどこの家でも作るという自家製トマトソースの味を期待していたのですが完全に外れました。この店は「新鮮なミニトマト」料理が売りなのかもしれません。結論としては「マルゲリータピザ」を作るピッツェーラの自家製トマトソースをタップリ使った「パスタ・ポモドーロ」が旨いということだと思います。普通のレストランでは魚料理とか肉料理を食べるべきなのでしょう。ナポリ最後の夕食は不満足なものとなってしまいました。



2014年09月10日(水) ナポリ2日目:歴史地区散策

「ホテルの朝食・キアイア通り散策」
キアヤ・シャルメ・ホテルでの朝食は簡素なものでした。ジュース・パン・ヨーグルト・フルーツサラダ・コーヒー等が準備されています。イタリアの朝食では肉類とかソーセージとか食べないのかしら。しかし昨日夕食をたっぷり頂いたたので朝食は軽い食事でOKでした。食堂では必ずコーヒーを一杯ずつキチンと作ってくれます。エスプレッソを一杯ずつ作る機械はどこにでもある感じです。朝食の他のオカズを準備するよりも「コーヒー」を美味しく作ることが大切なことのようです。

朝食後にホテルの面している「キアイア通り」を散歩してみました。私達には全く関係ないのですが、この道はナポリでも指折りの高級なショップの並んだ通りです。プラーダとかアルマーニが並んでいます。この道を急ぎ足で通り過ぎる人達は概して素敵です。一方でナポリの観光地の路上では「プラーダ」「ヴィトン」等のマークの入った「偽」革鞄が平気で売られています。

「ナポリ歴史地区散策・ナポリドゥオーモ・司教座美術館」
今日のナポリ散策のポイントは「ナポリ歴史地区」です。「ナポリドゥオーモ」を出発点としてナポリ歴史地区の教会・人形屋街等を見学しようという計画です。ナポリ歴史地区は「DECUMEN」というローマ時代に作られた東西を結ぶ3本の道路を基本にして出来ています。トリブナリ通りは南北に3本並ぶ「DECUMEN」の二番目(中央)にあたり、ナポリドゥオーモの直ぐ南側を通っています。この3本の歴史ある道路は道幅が狭く、5階程度の中層の建物が道路の左右に聳えていて、洗濯物が様々乾してあって「ナポリ独特の風景」となっています。

「ウンベルトバス停」でバスを降りてドゥオーモまで歩くことにしましたが、この南北に走るドゥオーモ沿いにも幾つかの面白いポイントがあります。丁度朝の礼拝で開いていた「S.GIORDIO MAGGIORE教会」に寄って今回の旅の無事を祈りました。またその少し北の「CARMINELLO AI MARRESI」では1世紀から4世紀のミトラ教教会遺跡が柵で囲まれています。ナポリ歴史地区には古代ローマから中世バロックまで数世代にわたる遺跡が層状に埋まっているので地下鉄工事は大変です。路線拡張工事が続くナポリの地下鉄路線は前回訪問時から全く進んでいませんでした。

ナポリドゥオーモはナポリ教区の「司教(ビショップ)座」を擁する教会です。ナポリはローマに近くかつ強大なナポリ王国首都であったのでナポリ司教は非常に権威があったことが想像されます。壮大で厳かなナポリ・ドゥオーモを拝観した後に、ドゥオーモの北側にある「SANTA・MARIA・DONNAREGINA教会」とそこに併設されている「司教座美術館」を見学しました。

これまでナポリを訪れる観光客にとって美術品を鑑賞する目玉は、市内の「ナポリ国立考古学博物館」と「カポディモンテ国立美術館」でした。どちらもナポリ王国を治めたブルボン家(アンジュー家)の収集したコレクションを展示しています。これらはファルネーゼコレクションとして世界的に有名です。

これに対して「ナポリ司教コレクション」はこれまで系統立て展示されることはありませんでした。バチカン博物館はローマ教皇のコレクションですが、有力なナポリ司教コレクションも十分に凄いのだろうと思われます。最近になってその司教コレクションを整理し展示するためにこの「SANTA・MARIA・DONNAREGINA」教会が整備され次第に美術館として展示物を展示する活動が進んできたようです。

美術館でボランティアで説明しているという「Maria Villet」さんが私達と一緒に回って展示品等の説明をしてくれました。ナポリ教会の宗教画はルネッサンス後期からバロック(17世紀)に属するナポリ絵画派の画家達による作品が主要なものです。フィレンツェで始まりヴェニス・ローマに伝播していったルネサンス芸術はナポリにも伝わり、ナポリの画家達はその影響を受けました。元々教会の数が多く需要があったので「ナポリ派」と呼ばれる画家集団が形成され教会絵画を沢山描きました。

「光と影」を巧みに使って劇的な画面構成を得意とする「カラヴァッジョ」がナポリに移り住み画家達に影響をあたえたことから、ナポリ派も「光と影」を使った多くの作品を残しました。しかし残念ながら「カラヴァッジョ」のような天才は現れませんでした。逆に絵は全体に「暗く」なり、作品のモチーフはイエス・聖人の受難伝説をこれまで以上に残酷に表現するような少し異様な世界に入っていってしまったようです。美術館に展示されている絵画の多くがこのような範疇の作品なので正直言って見て回ると「気が滅入り」ました。この感想はサンマルティーノ修道院の印象と全く同じです。これからこの司教座美術館をナポリ観光に目玉にしていくためには、もう少し古い作品を多く展示するなど作品の選択に配慮する必要があると思いました。

「有名店マッテオのピザ」
お昼まで少し時間がありましたが少し早い方がレストランが空いているだろうと考えて早めの昼食をとりました。ドゥオーモからも近いトリブナーリ通りにある人気ピッツェリアの「マッテオ」でピザを頂くことにしました。ナポリピザ二軒目です。昨日の夕御飯を少し食べすぎたので、昼は「マルゲリータピザ1枚」と「白ワイン小瓶」を注文しました。地元でも人気があるピザ店だけに「マルゲリータ」は本当に美味しかったです。

隣で食べていた観光客が普通のピザを一人一枚食べ終えた後にマッテオ名物の「揚げピザ」も注文しました。全部は食べられそうに無いということでその名物ピザを少し分けてくれるというので、お腹の調子と相談して少しだけ切り分けて貰って試食しました。正直言うと少し油っぽくて普通のピザの方が格段に美味しいと思いました。

「ナポリ・スリグループに遭遇」
マッテオで食事を食事を終えて次の訪問地の資料を見ようとリュックサックに入れておいたファイルを探すとファイルがありません。どこかにに忘れたかと考えましたがそれも思いつかないのでホテルに置いてきたのではないかと考えてホテルに戻ることにしました。ドゥオーモ通りからそれほど離れていないので「C2」バスでホテル近くまで戻ることにしました。このバスの中で今回の旅で忘れられない思い出となった「ナポリスリ団」に遭遇したのでした。その詳細を以下に記しておきます。

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そのバスはナポリセントラル駅から観光名所のサン・カルロ劇場を往復する「観光客」も良く利用する路線です。私達の乗ったバスは大変混雑していて、私達夫婦も後ろの扉から乗ってバスの中でギュウギュウ詰めになりました。忘れ物を取りに行くという「目的」があったので混雑バスを遣り過ごすという知恵は働きませんでした。

スリは集団行動で獲物を追い詰める作戦に出ました。或る者は切符に日付を押すことを口実にして動き、また別の者は次の停留所で降りる振りをして私を押して、妻と引き離そうとしました。この時に訳の分からないイタリア語で大声で話しかけるので、こちらは困惑してしまいます。私のリュックには金目の物は入れて無くポケットの財布には私は始終手を当てていることを感知したスリ集団は妻に目的を絞ったようでした。

スリ集団は先ほどの撹乱戦法で妻と私の間に何人かの人の壁を作ることに成功しました。さっきから私を押していたリーダらしい男が中心になって妻を取り囲んでいる様子が見えました。これが私達が降りる一つ手前の停留所のことです。「不味い」と思って最終停留所手前で私が強引に動いて困惑する妻をスリ集団の輪から引っ張り出しました。丁度停留所に着いたのでそのまま直ぐに停留所に降りました。妻は脇腹のあたりから伸びたスリの手に気付いていて、肩掛け鞄のチャックを1/3程開けられたところで鞄を体の反対側に引っ張ってスリの手から逃れたとのことでした。

青い買い物袋をもったスリのリーダらしき男その最終バス停で降りずにまた同じバスに乗って戻っていってしまいました。折口のドア越しに「彼」と目があいましたが「彼」は何の表情も変えずに過ぎ去っていきました。ナポリのバスでは一回一回切符を買わずに定期を利用する人が多いので地元人(若い男)が切符に刻印を押してもらうためにバス内を移動することはまずないのです。基本的に観光客はバスの前方(運転手の居る方)に乗るべきですが、スリ集団がその入口に陣取ってワザと後ろに乗せようとする手口だと後から分かりました。そして混んでいる後ろから前方に移動しようとすると吊革などにしっかり捕まって「獲物」の移動を邪魔します。

ナポリの石畳道路を走行するバスがガタガタ揺れて音は煩いし、一方通行の道ではカーブが多いためにバスは揺れます。スリ集団はバス停の間隔だとか道の状況を熟知して作戦を実行してきます。兎に角悪名高い「ナポリスリ集団」からのがれることが出来きたことは良かったです。
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「シメリオ楽譜店」
ホテルに忘れてきた旅行ファイルを持って午後から気分を一新してナポリ見物に向かいました。今日の朝はトリブナリ通りをドゥオーモ側から歩きましたが、午後はダンテ広場側から歩くことにしました。というのもダンテ広場に近いベッリーニ広場近くの「シメオリ楽譜店」に行くためです。この楽譜屋さんは音楽学校の正門の向にありかなり本格的な楽譜屋さんです。前回の旅の時にも来て買わず終いだったし、今晩の夕食は「カンツオーネレストラン」なのでカンツオーネの楽譜を買いました。

「サンセヴェーロ礼拝堂」
買い物をした後トリブナリ通りから南に延びる大変細い「サン・ドメニコ・マッジョーレ通り」で「サンセヴェーロ礼拝堂」と「サン・ドメニコ・マッジョーレ教会」に向かいました。サンセヴェーロ教会はベールを纏った横たわるイエス像で有名です。素晴らしい彫刻でした。この作品は18世紀の彫刻家ジョゼッペ・サンマルティーノの作品です。この教会の地下室には人間の血管だけを残した人体模型が展示されているという風変わりな礼拝堂です。パンフレットによればこの礼拝堂をにてを加えたサンセヴェーロ公爵が科学(錬金術)に造詣が深かったのだとこことです。この礼拝堂内は一切撮影禁止で各所に厳しい顔をした警備員が目を光らせているのは少し異様な感じがしました。

「サン・ロレンツォ教会」
引き続き「サン・ドメニコ・マッジョーレ教会」に行きましたが教会は休憩時間で閉まっているので、「サン・グレゴリオ・アルメノ通り」のプレゼピオ屋街を経由して「サン・ロレンツオ教会」に向かいました。今回のナポリ旅行の隠れた目玉として「ナポリの地下」というのがあります。サン・ロレンツォ教会の地下、またトリブナリ通りのナポリ地下散策、明日行ければ行ってみたいカポディモンテ美術館に近い「サン・ジェンナーロ・カタコンベ」と候補地は考えてありました。今日はまず「サンロレンツォ教会」の地下を見ました。

現在の教会敷地の下には大規模な古代都市の遺跡があるのです。ポンペイ遺跡と同じような古代都市で古代の道・家屋の様子を見て回ることが出来ます。但し違う表現を使うと「ボロボロの崩れたレンガ・石の構造物が延々と続いているだけ」で非常に単調で面白味のないものでした。残念ながら私達の他には誰一人見物人はいませんでした。前回の旅で「ポンペイ」を堪能していたのでこのナポリの地下遺物は格段興味を引くものではありませんでした。ということで「サン・ロレンツォ」の西側にある「ナポリ地下街」の見物も取りやめることにしました。

「プレゼピオ」「コルノのお守り」
「サン・グレゴリオ・アルメロ通り」では「コルノ」と小さな「プレゼピオ」をお土産に買いました。プレゼピオは観光客向けの「お土産」とは別に、地元の人達用のクリスマス・デコレーション・プレゼピオが作られ売られています。人間の形の物もあるし、家財道具、食べ物等で要すれば粘土細工の高級な「ママゴトセット」の部品といえると思います。かなり高価なもので毎年何種類か買い足してだんだんにコレクションが増やしていくようです。

こうした古いピレゼピオのコレクションが昨日行ったサン・マルティーノ修道院の美術館に陳列れていました。日本の大規模な「雛飾り」のようなものだと思いました。お土産用のプレゼピオを買い求めた店の女性従業員は「コルノのお土産」の安価なプラスチック・ガラス製の物は中国製だと教えてくれました。私も訝しく思っていたのですが、小さな唐辛子のような「赤いガラスのお守り」は横浜中華街で安く売られている「唐辛子のお守り」と同じ種類のようです。中国の唐辛子が先なのかナポリのコルノが先なのか。前回ナポリ旅行の際にはこれほど中国製「唐辛子お守り」の進出は無かったように思えます。中国恐るべしです。

この後は「ジュス広場」に出て「ジュス教会」を見学してホテルに戻りました。ジュス教会はイエズス会の教会なので一般的には質素な作りだとのことですが、ナポリのジュス教会は非常に「豪華」なものになっています。祭壇など他のカトリック教会に全く見劣りしない豪華さでした。教会内に「ザビエルの像」がありました。昨年旅行したマカオのザビエル関連教会もそうですが、ザビエルとは世界の色々な場所で出会うことになります。

「カンツォーネと夕食」
この日の夕食はジュス広場からそれほど遠くない「カンツオネッラ」というレストランを日本から予約していました。ここはグルーポンで安くディナーが食べられるということでメールで問い合わせ、グル―ポン価格で予約しておいたのでした。しかし何より惹かれたのはこのレストランで夜9時頃から生の「カンツォーネ」を聴くことが出来るという情報です。メールの問い合わせに親切に回答してくれた「アルバさん」という女性が歌も歌うらしいのです。ホテルで少し休んでレストランの予約時間の8時30分に出直しましたが、暗くなったナポリの街中で「サンタ・マリア・ノーヴァ広場」を探すのに少し手間取りました。

食事は「激安の値段設定」なので最初から期待は小さく実際にもその通りでした。別に10ユーロでナポリワインを注文しましたが、この安いナポリワインはなかなか美味しかったのにはびっくりです。

さてカンツォーネの話に入ります。「マルゲリータピザ」と並んでナポリの名物は「カンツォーネ」です。しかし観光客用の流しの歌ではなく、本格的な歌を聞きたいと思っていました。コンサート情報からカンツォーネコンサートがないか探しましたが見つからなかったのです。ネットで出合ったのは「トリップアドヴァイザー」の情報でした。「料理より歌が高評価」の投稿が多かったので予約したのでした。結果は大正解。私達は夜9時から11時ごろまでじっくりとカンツォーネを堪能しました。

レストラン奥にはちゃんと小さなステージが作られています。そこには電子ピアノがありますが基本的にはギター伴奏でした。出演は「ギターと歌担当のニコラさん」と「歌担当のアルバさん」です。レストランのアルバさんは私達にステージ横の特等席を用意しておいてくれました。

ニコラさんはどちらかというと「明るく楽しいカンツォーネ」が得意、アルバさんは「情熱的で激しいカンツォーネ」が得意なようで上手い組み合わせでした。歌われた歌の中で知っている題名をあげると、サンタルチア、フニクリ・フニクラ、帰れソレントへ、カタリ、カルーソーといった具合の定番が歌われました。その他に初めて聞くカンツォーネ歌はかなりの数に上りました。

観客の殆どは地元のナポリの人達のようです。客の中には二人の歌手に合わせてすべての曲を口ずさんでいる歌好きの女性もいました。客の中に「旦那の誕生日」のディナーに来ていてプレゼントの歌に感動しているイタリア人女性もいました。総じて歌好きのナポリっ子の肥えた耳にも通用する本格的なカンツォーネで、外国人観光客向けの観光用歌謡ショーを遥かに超えて地元の人々が楽しむ音楽でした。進行は殆どすべてイタリア語でしたので細かいやりとりは分かりませんでした。

ニコラさんの楽しい歌声、アルバさんの聞きほれてしまう語り口(特にカタリとカルーソー)は素晴らしいものでした。日頃オペラ歌手で聞いているカンツォーネとは違った本物の「歌」だったと思います。この歌を聴くことが出来たことだけでもナポリに来た甲斐があったというもの。スリ集団もナポリならば、感動的なカンツォーネもまたナポリなのだと思いました。夕食の後はホテルまで静かになった深夜のナポリを歩いて帰りました。



2014年09月09日(火) イスタンブール経由ナポリ到着:ナポリ1日目

「イスタンブール到着」
トルコのイスタンブールを経由してナポリに到着しました。経由地のイスタンブール到着はほぼ予定通りの現地時間の朝5時40分。イスタンブール直陸後かなり長い時間タクシングして空港ビルから随分離れた場所に停止しました。空港バスで空港ビルの到着ロビーに移動し、そこで「トルコ国内観光組み」と「国際線乗り換え組み」に分かれてそれぞれ手続きを進めます。トルコは日本人に人気が高いようで3組のツアーが空港ビル入り口で集合していました。

一方イスタンブールはハブ空港だけに「国際線乗り換え客」もかなりの人数です。長い列に並んで手荷物検査を済ませて2階の国際線出発ロビーに上がると、前回同様そこは早朝とは思えない程の混雑ぶりでした。それも様々なファッションがあり、様々な肌の色ありです。イスタンブールが乗り換えハブ機能を果たしていることが良く分かります。ここからヨーロッパ・中東の国々に向かって乗り換えて行くのでしょう。

乗り換えに長時間かかる人には出発までの過ごし方が様々あります。トルコに入国して短時間の観光もできますし、ビジネスクラス以上の客は評判の高い「ラウンジ」でゆったり過ごすことができます。そして多くの一般旅行客(エコノミークラスの乗客)はそれぞれのやり方で時間を過ごします。寝る人、食べる人、買い物をする人。

私達は軽く食事を取ってからトルコに入国してみることにしました。トルコ空港から地下鉄に乗って市内中心部に向かう方法を確かめるためです。早朝の地下鉄駅はガランとして非常に寂しい雰囲気でした。現在イスタンブールでは「イスタンブールカード」なるものを普及させようとしていて、乗車ごとに支払うより大分安く地下鉄を利用することが出来るようになっています。空港の駅でこのカードの購入方法を確認しました。その後空港の外にでてトルコの空気を吸ってみました。印象に残ったのは豊富に実った「オリーブの樹」と「人を怖がらない野良猫」でした。

ナポリに向かうトルコ航空便は午前11時45分出発予定でしたが搭乗手続きは大分開始は遅れました。それでもナポリに行く乗客が予定時間から我慢強く並び整然と搭乗すると、飛行機はそれ程遅れることなく動き出しました。しかし昼を挟んだイスタンブール空港は出発ラッシュのようで、滑走路が離陸許可を待つ飛行機の列ができています。ここで大分時間を費やして飛行機は離陸しました。ナポリ便は頬満席状態。前に乗ったときは日本人は我々だけだと思われましたが今日は大分多くの日本人を見かけました。

「ナポリ到着」
ナポリの入国審査窓口のサービスレベルが非常に低いことは全く前回と同様でした。審査窓口がひとつしか開いていなくてそこに大勢の到着客が押し寄せます。他の空港職員が昼御飯から帰ってこないためだろうと思われました。本来優先的に入国処理してもらえる「イタリア人・EU諸国の人達」も外国人と同じように長い列に並ぶことになるので文句を言う人が何人か居ました。私達も不満はありましたが、どっちにしろ預けた荷物が出てくるのは時間がかかることは分かっているので我慢しました。このサービスの悪い入国処理のお陰で預けた荷物を待つ時間は比較的少なくて済みました。変なところサービス時間の帳尻が合っている感じです。

ナポリの空港でナポリ市内観光に便利な「アルテカード」を購入して早速空港バス(AriBus)乗車に利用しました。ナポリの空港は市内に近いですが、地下鉄が通っていないので公共交通機関はバス利用だけということになります。空港バスは「空港−ナポリ中央駅−市民広場(観光拠点)」に停車します。市民広場は観光拠点ですが、人と車が集まるビジネス街にもなっているために物凄い渋滞で空港バスは何回か立ち往生しました。

結局目的の市民広場停留所に行き着くことを諦めた運転手は停留所から数百メートル手前で運行を諦め、乗客は途中で下車して歩くこととなりました。私達も旅行荷物を引っ張りながら数百メートル歩くことになりました。石で舗装されたナポリの道は、「ごつごつ」しているので手荷物ローラーを引っ張るのは結構力が必要でした。

「ナポリのホテル:キアイア・シャルメ・ホテル」
今回のナポリでのホテルは観光名所に行くのに便利なキアイア通りにある「キアイア・シャルメ・ホテル」です。日本のテレビの旅番組でも紹介されたことのある古い建物を改装したホテルです。前回はマリーナ通りに近い現代的なホテルに宿泊したので、今回は古い建物を利活用したホテルを選んだのでした。「キアイア・シャルメ・ホテル」は昔の裕福な人の住宅の3フロアをホテルに改装したものです。フロントは2階で私達の部屋は3階。部屋の中は一階部分が洗面所で、室内にある狭い階段を上った4階に寝室があります。古いエレベータがガタガタ言いながら動いています。客室のベッドなどの調度品も時代物で揃えていますが、トイレ・風呂などは現代的に作られています。荷物を解いて少し休んでから早速市内観光に出かけました。

「ヴェロメの丘」
ナポリ1日目の目玉はナポリ西方の「ヴェロメの丘」です。ホテルから程近い「アウグステオ駅」からナポリ名物のケーブルカー(セントラル線)でヴェロメ丘の上に行き、そこから歩いて最初の訪問場所の「サン・マルティーノ修道院美術館」に向かいました。この修道院はヴェスビーオ山を背景にしてナポリ市内を一望できる場所にあるためにナポリ市民(カップル)の憩いの場所にもなっています。

修道院内の教会には大変迫力のある宗教画が保存されています。ナポリ派の画家達はルネサンス後のバロックに活躍した人達が多く、カラバッジョの影響もあって「光と影」を大胆に描き分けます。その結果画面全体は非常に暗い感じになることが多く、題材も「受難」場面が多いので、続けてみると少し疲れてしまうことになります。その気分を救ってくれたのが修道院からの素晴らしい眺望でした。修道院の南側の展望ベランダからの眺めは最高でした。また修道院の外の広場の道際にある眺望場所も展望スポットでカップルが大胆に「熱いキス」をしている場面に出くわしました。さすがは情熱の国です。

「ダンテ広場」
サンマルティーノ美術館の帰りは別のケーブルカー(モンテサント線)で降りて「ダンテ広場」に向かいました。ダンテ広場は交通の要衝で、バスでダンテ広場への行く方法、およびダンテ広場からのバス線の通り道を覚えておくとナポリ観光は大分楽になります。

またダンテ広場からはナポリ歴史地区の「トリブナーリ通り」が東に延びています。その入り口近くにはナポリ音楽学校があり楽譜ショップの「SIMEORI」があります。既に夕方になっていて「音楽学校」「シメオリ」共に既に閉まっていました。旅の思い出に音楽学校の西側で楽器ショップが並ぶ「サン・セバスティアーノ通り」をブラブラ歩いてウインドゥショッピングを楽しみました。

「ナポリ最初の夕食」
最初のナポリでの食事はホテルにも近い地下鉄「Toredo」のピッツエリアで頂くことにしました。地下鉄トレド駅の一本西側の通りを目指していると、道行く人達からテレビで放映されて有名になった「Nennella」に案内されます。近所の子供まで親切に「Nannellaは直ぐそこだよ」と教えてくれました。しかしNennellaは混雑しているし、最初の日は「ピザ」を食べたかったのでピザ屋の「Prigiobbo」に行くことにしました。

「Nennella」の少し南に客の全く入っていない小さなピッツェリアがあり、最初は通り過ぎてしまいましたが戻って確認してみるとそこが「Prigiobbo」でした。ここでは当然ですがマルゲリータを食べることにしました。食べ過ぎ注意なので、前菜の3種類の地元野菜料理とマルゲリータ(一枚)、ハウスワイン(500cc)の夕食を注文しました。

ところが「地元野菜の前菜」は矢鱈に上手いし、マルゲリータは文句なし、店内は空いていて直ぐ料理が出てきそうなので、我慢できなくて「トマトソースのスパゲッティ」を追加注文してしまいました。これはイタリア人定番の料理で感激するほど美味しくて二人でペロっと食べてしまいました。大満足の夕食は二人で20ユーロ。大満足。

この後は観光客・買い物客で賑わうトレド通りを下ってホテルに戻りました。長い1日でした。日本のピザ屋さんでもそうですが、美味しいピザ屋さんは「ピザ窯周辺」がキチント整理・整頓されています。「プリジョッボ」のピザ窯周辺も几帳面に整理されていました。ナポリは今日が満月(中秋の名月)のようで丸い奇麗な月が見えました。



2014年09月08日(月) イタリア旅行に出発。関西空港から書き込んでいます。

第2回イタリア旅行に出発しました。夕方6時のANA便で羽田空港から関西空港に来ています。これから夜10時20分発のトルコ航空機に乗ってイスタンブールまで行き、午前中のナポリ行きのトルコ航空便に乗り換えて明日の昼過ぎにナポリに到着する予定です。日本とイスタンブールの時差が6時間、イスタンブールとナポリの時差が1時間あります。長い飛行機の旅となります。行きのルートは前回の旅行の時と全く同じです。トルコ航空機が空いていればラッキーなのですが。(横になって眠れます)

トルコ航空機内で夕食が出るはずなのですが、それまでに「お腹」が空いてしまいそうなので羽田空港で軽食を食べてきました。長距離の飛行機便は「時差で感覚が狂い」「運動不足」と「アルコール過多」の状況が続くので体重は増えるばかりです。今回はその点に少しは気をつけるつもりです。機内で出される食事も食べられない場合には残すことが大切だと思っています。ワインを飲み続けることは変わりはありませんが。

関西空港の外貨両替コーナを見ましたが、「円」はユーロに対して値上がりしています。関空の両替所は会社によって両替利率が違っています。最も円高設定の場所は「139.18円」というレートを付けていました。関空では両替場所を選ぶことがとても大切です。さすが関西だと思いました。(最近の成田の状況は知りませんが)

夜の関西空港は日本人のような風貌をした搭乗客が多いのですが、近くを通ったときに話している言葉を注意して聴いてみると日本語でない場合がかなり多いです。中国・韓国から便利な時間帯の飛行機が飛んでいるのかもしれません。こういう戦略も十分ありだと思います。因みに午後6時の「羽田→関空」のANA便はほぼ満席でした。関西空港は不便だと勝手に考えていましたが、大阪以南の方達には東京への旅行に大変便利だし、海外旅行にいくにしても成田に行く必要がないので大変便利なのだと納得しました。



2014年09月07日(日) 錦織選手が全米決勝進出

4大メジャーのひとつ全米オープンテニスは、錦織選手が準決勝で世界ランク1位の「ョコビッチ選手」を破り決勝に進出しました。日本人でメジャー決勝進出は史上初の快挙だそうです。ここまで来たら是非優勝してもらいたいと思います。

錦織選手は昨年暮れから「マイケル・チャン選手」の指導を受けているのだそうです。メジャー優勝経験のあるマイケル・チャン選手は欧米の身体が大きくてパワーのあるトップ選手と戦う秘訣を知っているのだと思います。世界ランク10位台まで辿り着いた錦織選手が、マイケル・チャン選手の秘訣を学び取り是非ともテニスのトップグループに入って欲しいと思います。



2014年09月06日(土) 海外旅行前の最終献血

今日は旅行前の最後の献血に行ってきました。海外旅行の後は最短でも4週間献血が出来ないことになっています。衛生事情の悪い国とか伝染病の流行している地域に旅行すると、もっと長期間献血することが出来ないようになっています。来週月曜日に出発予定なので土曜日の今日行ってきたという訳です。

前回8月15日の献血結果における「GA比率」は過去最悪の「18.8」を記録しました。6月の義弟の結婚式出席から8月の高校同窓会出席と「酒」を飲む機会が多かったことが原因だと思っています。食事の量を制限して毎日「最低1万歩」歩くことを習慣付けているのは、好きな「アルコール」を飲み続けたいためのものですが、やはりそこにメスを入れる必要が出てきていることを示唆しているものと思わます。

懸念されるのは来週からの海外旅行でどの程度「体調」を維持できるということです。ポイントは食事のカロリー摂取量・毎日のアルコールの量・毎日の運動量です。運動量を確保することにはかなり自信がありますが、問題は美味しい食事と美味しいお酒です。カロリーの少ない「野菜類」を毎日出来るだけ多く食べることを心掛ける必要があります。

ところで「デング熱」流行の影響は「献血」の場にも現れていました。自己申請ですが「代々木公園」に行った方は「4週間」の献血自粛となっていました。



2014年09月05日(金) サッカー日本代表の試合

ブラジルワールドカップで惨敗した後の最初の日本代表の試合が強豪のウルグアイを迎えて行われました。試合の模様は前半の試合を通勤電車の中「ワンセグ」の小さい画面で切れ切れに見て、自宅に帰ってから後半途中からテレビで見ました。試合は2対0でウルグアイが勝ったのですが、最初の得点は携帯電話の小さな画面で見て後半の2点目は自宅のテレビの大きな画面でみました。両方の得点とも日本チームのミスから得点でした。

総じて言うと、ウルグアイはブラジルワールドカップで活躍した時の「試合運び・チームワーク・士気」を持ち続けていて世界ランク6位の貫禄を見せつけました。日本代表チームもワールドカップ惨敗が「まぐれ」でなかったことを明確に示していて、世界トップクラスのチームとは大分実力差があることを確認させられた試合でした。監督がザッケローニ氏からアギーレ氏に代わっても日本代表のサッカーは殆ど変わらないのですけど、これは当たり前のことでしょう。

日本代表側では、「長友、岡崎、本田」の3人が辛うじてウルグアイと対等程度のプレーを見せましたが、その他の選手は全くといっていいほど世界レベルから遠く離れています。若いフォワードの「武藤」が惜しいシュートを見せましたが、実力から言うとまだまだ遠く及ばない感じです。単純な話ですが、キーパを除いてもフィールド選手「7人」が国際的に通用するプレーをしない限り日本の復活はないと思います。「香川・内田」が復帰してもあと「5人」足りません。多分10人のフィールドプレーヤーの中で「1人」でもレベルの低い選手がいると、残りの選手に負担がかかって思うようなプレーができなくなるのでしょう。

残りの5人はどのように育つのかその可能性を考えてみました。ヨーロッパ組みでは残念ながら強豪チームで主力選手として活躍している選手はいません。従って技を磨いてレベルが向上するチャンスは殆どなし。Jリーグ選手は「J1でもJ2」でも「最初から最後まで本気モード・全力投球」の試合を経験するチャンスが無いので、ここからもずば抜けた選手が出てくる可能性はなし。非常に厳しい状況だと思います。アギーレ新監督には厳しい4年間となりそうです。



2014年09月04日(木) ECB利下げ

デフレ傾向が鮮明となっていたヨーロッパ(EU)の中央銀行は政策金利を引き下げる(0.1%)ことを決定しました。日銀は追加的な金融緩和を明言していないことから、日本と欧州の金利差拡大に反応した「ユーロ」は円に対して値下がりしています。先週土曜日にユーロに対する円の上昇は当面今以上進行しないだろうと想定して「旅行用ユーロ」を購入しましたがその判断は少し甘かったようです。ここ1から2週間のユーロの動きに注目していきます。



2014年09月03日(水) 唐突に「エンパイヤステートビル」

「ESLポッドキャスと」の8月20日配信の「English Cafe464」においてニューヨークの「エンパイア・ステート・ビルディング(ESB)」が取り上げられました。

「ESB」の情報としては、大恐慌の翌年1930年に建設が開始され、14ヶ月という短期間で完成したこと。このスピードは一階(高さ4メートル以上)を一週間で完成させたことになるそうです。使われたブロックは1千万個以上だったそうです。勿論400mを超える高さは当時「世界1」の高さでした。ニューヨークの観光名所で今まで250以上の映画に登場したのだそうです。

86階と102階に展望台(Observatory)があって、天気の良い日には5つの州を見ることができるのだそうです。日本だと山とか川・海が展望できると宣伝しますが、アメリカでは「州」が見分けることができるのかしら。また見分けられるとしても余り意味がないように思えるのですが、「州を越える」ことは日本の県を越えるのと意味が違うのかも知れません。

この「ESB」の話で非常に興味を覚えた話題は「ESB」の御土産とその御土産を売る「売り子」さんに関する以下の話でした。ホストのジェフさんの話をざっと訳しておきます。

「自分(ジェフさん)も15年前にESBに行ったことがありますが、正直言うとESBで思い出に残っているのは展望台ではなくて御土産の「メダル」を売る「売り子」さんのことです。そのメダルは大きな硬貨ぐらいの大きさでESBの姿が表面に彫リ出されています。それを売る「売り子」さんは、何ともやる気の無いトーンで自分の前を通り過ぎる観光客に向かって同じ台詞を繰り返していました。その台詞は「Souvenir Medallion!!」(お土産にメダルはいかが!!)。そのトーンが非常に特徴的なのでそれが頭にこびり付いてしまいました。15年経ってもその声色を鮮明に思い出すことが出来ます。」

ESBの展望台からの展望もさることながら、この「やる気の無い」売り子さんから「ESB」の「御土産メダル」を買ってみたくなりました。



2014年09月02日(火) イスラム国の戦闘員

「イスラム国(ISIS)」が放映したアメリカ人ジャーナリスト処刑映像で刑を執行した戦闘員が「イギリス訛り」であったこともあって、イスラム国の非常に強力な戦闘員が外国で訓練されてシリア・イラクに集まっていると想定されています。CNNは「イスラム国(ISIS)」の戦闘員の出身地域情報を報道しました。この情報はCNNが世界25カ国の政府筋から収集したものだそうです。出身者の多い10か国の国別の戦闘員の数は凡そ以下のようになっています。

1. チュニジア   3000名
2. サウジアラビア 2500名
3. モロッコ    1500名
4. ロシア      800名以上
5. フランス     700名以上
6. イギリス     500名
7. トルコ      400名
8. オーストラリア  250名
9. ベルギー     250名
10.アルジェリア   200名


こういう国の若者が高等教育を受け、戦闘に必要な体力・技能も身に付けてやってきて、資金のある「ISIS」が最新鋭の武器を揃えているのですから強いの当たり前だと思います。しかも「イスラム原理主義」に基づいて異教徒と戦うことを「聖戦」として位置づけ、敵を容赦なく打ち砕くことが「義務」とされますから、相手をする方は堪ったものではありません。シリア・イラク政府軍が各所で敗北していることはある意味当然と言えます。


フランス・イギリス・ロシア・オーストラリア等の先進国の若者がなぜ「イスラム原理主義」に傾いていくのかその理由がはっきりしません。日本の「オーム真理教」の信者がかなり優秀な人で、そういう人達が残酷な事件を起こしたことに現象的には似ていると思います。しかし、世界のイスラム教徒の殆どの方達は善良で平和を愛する優しい人々だと思います。同じように「コーラン」を奉ずる極少数の人達が何故「超過激」になるのか。この問題を「宗教」の問題とはせずに、「社会」あるいは「組織」の問題として対処していくことが大切だと思います。



2014年09月01日(月) 日本でデング熱感染

代々木公園の「蚊」にさされて「デング熱」にかかった人が20人を超えたとの事です。発症した患者の容態は安定しているようで何よりです。スリランカのコロンボに住んでいる時には「デング熱」にはかなり注意していました。毎年夏になるとデング熱が流行し、発症した患者の中で「劇症」の「デング出血熱」に進行する人がいて命を落としたというニュースが流れます。そうすると市当局は水溜りや河の消毒に取り掛かることになります。

通常のデング熱にかかった人に中で抵抗力が弱っていたりすると「デング出血熱」に進行する例がありますが、本当の原因は良く分からないようです。コロンボで聞いた話では一般のデング熱の回復期に更に高熱が出て出血の伴う「デング出血熱」に移行するのだそうです。従ってデング熱にかかって一旦熱が下がってきても油断してはいけないとのことでした。

なぜ「代々木公園」かということですが、私の推測は「代々木公園野外音楽堂」に関係するのではないかと思っています。「代々木公園野外音楽堂」では夏になると「世界各国」の「在留外国人」と日本人の交流イヴェントが開かれるからです。私も9月は恒例でスリランカフェスティバルに行きます。その日は日本中からスリランカ人が集まり故郷を懐かしむことになります。もちろんスリランカからもゲストが招かれます。これまで7月・8月には
「ブラジルフェスティバル」「タイフェスティバル」「アセアンフェスティバル」「中南米フェスティバル」が開かれています。そうした外国人が多く集まった時に症状の軽い「外国人」を刺した「蚊」によって感染が広がった可能性があります。

9月には「インドネシア」「ベトナム」「インド」「スリランカ」の交流イヴェントが毎週のように開かれます。デング熱の流行が一刻も早く収まって欲しいと思います。




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