KENの日記
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2005年11月27日(日) ソニア・ガンジーについて

何の脈絡も無く、ソニア・ガンジー(インド国民会議党のリーダ)について調べたので記録しておきます。


ソニアはイタリアのトリノ郊外の寒村の中流家庭に1946年生まれました。
経験なカトリックの家で平凡に育った彼女は、18歳の時に英語を勉強するためイギリスのケンブリジに遊学しました。そして1965年にケンブリッジの街のレストランで偶然に出会ったインド人と恋に落ちました。


このインド人はケンブリッジ大学には在籍していましたが、あまり勉学に励まず、インドの飛行機会社のパイロットになろうと考えていた青年でした。この青年の名前はラジブ・ガンジー。インドの革命の英雄「ネルー」の孫で、当時のインド首相「インディラ・ガンジー」の長男でした。


インディラは「のんびりした性格」の長男のラジブより、活発で覇気のある次男の「サンジャイ」を後継者と考えていました。従ってラジブはケンブリッジを出た後は「パイロット」になり、平凡な家庭を持つこと考えていたはずです。ソニアもインド随一の名門家に嫁ぐことは覚悟していたものの、結婚してパイロットの奥さんになるのだと考えていたでしょう。


1977年の総選挙において国民会議党党首のインディラを弟の「サンジャイ」が助けて国民会議を牽引しましたが国民会議は敗れました。これは与党政治汚職スキャンダルに対するインディラ・ガンジーの煮え切らない姿勢がマイナスになったのです。国民会議はインディラとサンジャイを中心にして盛り返し、次の1980年の選挙で勝利して政権を取り返しました。


選挙には勝ったものインディラの政権は安定せず彼女の支えは次男のサンジャイだったのです。ところが1980年6月、ソニアの義理の弟「サンジャイ」が飛行機事故で急逝してしまいます。「サンジャイ」の妻の「モネカ」はサンジャイ同様に政治向きな活発な女性であったのでサンジャイの死後、インディラの後継者としての地位を望んだようです。


しかし、インディラが選んだのは、当時、飛行機会社のパイロットであった長男のラジブでした。ラジブは国民会議の政治活動を始めますが、当初はインディラ、サンジャイには遠く及ばない存在でした。ソニアは息子のラウル、娘のプリヤンカの子育てに専念していました。


1980年前半シーク教徒とヒンドゥー教徒の対立が激しくなりインディラは強硬姿勢をとりました。そうした中1984年10月、インディラはシーク教徒の自らの護衛官によって暗殺されます。その直後長男のラジブは、インディラの後を継いでインド首相の地位に着きます。ソニアはいつの間にか、インドのファーストレディになってしまいました。


実際彼女は政治活動が嫌いでこの突然の事態は彼女を当惑させたことでしょう。国民会議与党の政治汚職事件でラジブは野に下り総選挙に復活を期していました。彼は与党時代にスリランカ内戦終結に向け努力し、スリランカに平和維持部隊を送りました。スリランカの反政府勢力はこれを嫌い、総選挙運動中のラジブをチェンナイ郊外で爆殺します。これが1991年5月。


国民会議はラジブの突然の死を受けて、その後継に妻のソニアを選びました。ソニアを頂いた国民会議は2004年の総選挙で勝利しました。ソニアは首相候補に推されましたが「外国人では如何なものか」という批判を受け、さっさと身を引き腹心の「マンモハン・シン」氏を首相に据えました。現在のインドでは、ソニアの存在は非常に大きいです。彼女がこれから内政、国際舞台でどのように活躍するか、期待が高まります。


と同時に不安もあります。彼女の味わった悲劇は再び起こって欲しくないということ。義理の弟の事故死、義理の母の暗殺、夫の暗殺。彼女の苦悩は想像を絶します。これら苦悩を克服してきたソニアが21世紀初頭インドのリーダなのです。



2005年11月25日(金) ムンバイの気候

モンスーンの後のムンバイの気候の素晴らしさを実感しています。ニューデリーの朝は相当冷え込みます。人々には長袖のシャツに加えてセーターが必要です。あさの散歩も正直言って辛いものがあります。路上生活の人にはさぞ厳しい季節なのだろうと思われます。


しかし、ムンバイの朝は非常に快適。散歩には持って来いです。日中は強い日差しで相当暑くなりますが、空気が乾燥しているので気持ちがいい。モンスーンが物凄くうっとうしいことと全く対照的に、素晴らしい季節が3月頃まで続くのです。こういう土地なら路上生活の人も楽です。一年中半袖・薄着で暮らせるのですから。人々が集まるのが分かります。


ムンバイ市営バスがどんどん新しい車両に代わっているようです。新しい車両は「一階建て」バス。眺めの良さそうな「二階建て」バスはどんどん減っていくようです。新しいバスは車体の色が、これまでのバスと同じで、見た目はあまり変わりません。車両入れ替えの際に、クーラーを着けようとか、モデルを変えようと考えない見たい。


クーラーを着けて贅沢にするようなことはしない。経費が嵩んで値上げしなければならなくなります。進歩とか改善とかいう発想について回る、コストアップ、環境への影響を考慮しているのでしょう。ムンバイのバスの最低運賃は「4ルピー」(10円です)。庶民の足なのです。10億人の人口を抱えるインド人の知恵なのでしょう。


インドの社会は10億人の人間とそれに匹敵する数いやそれをはるかに超える動物・植物達の土地なのです。人間に加えて、街中の牛、犬、猫、鶏、リス等がいっしょに生きていく権利を有する場所なのです。人間との共存が難しい動物たちは、特別保護地域で暮らしています。人間に親しい上記の動物達は人間に混じって暮らしているのです。


道路や公園は人間だけのものではない。動物や植物全てのものなのです。人間にはトイレが用意されているが、動物達は自分勝手に用を足してもOK。それは彼らの権利なのです。大きな木はリスは鳥の住処なのであって、人間の都合だけで切るわけにはいかない。公園で出会った愛犬家は、そんなインドを誇らしく語っていました。

彼は日本は便利で快適だろうけど、それは人間だけの事でしょう。と言っています。確かにそのとおりです。動物達にとっては非常に住みにくい。ある種の特定の動物は人間のペットとしてしか生きられない。人間と混じって生活することが難しい動物はどんどん排除されていく。


近くの公園に住む犬で、一際綺麗なメス犬は、ベンチに腰掛けている私のところの横に座り、片方の前足を上げて仕切りに「お手」のポーズをするのです。
これは何の合図かと愛犬家に聞くと、「身体を撫でてくれ」という合図なのだとのこと。この公園のベンチは、犬と人間の共有の場所なのです。



2005年11月21日(月) チェロとの対面

午前中楽器修理職人のハイクさんのアパートにチェロの受け取りに行ってきました。ハイクさんは素晴らしい職人です。分解修理の概要を説明してくれ、主用工程のデジタル写真をディスクに入れてくれるのです。「最初楽器にのこぎりが入るシーンを見ると、楽器の持ち主は大体目を覆うのよね」ハイクさんのコメント。まさしくそうですね。持ち主のとって少しサディスティックな写真です。


修理が終了した楽器はまさに違う楽器です。音が深いし響きが長続きします。
ハイクさんの説明によると、箱を開けてみて大分改善点があったようです。私の楽器は工場製造の安物ですが、材質は「まあまあ」だそうで、修理の甲斐があったようです。工場製造の量産楽器は細かいところに目が届いていなくて、様々な問題が複合して最終的に鳴らない楽器になっているのだそうです。弦楽器は箱を閉じてしまえば後は殆ど何もできないのです。今回箱を開けて上板を丁寧に修理したのだそうです。有難いことです。こんなこと(高価なこと)日本で出来るかしら。様々な改善を施して修理完了した楽器は響きが違います。


午後からアパートに帰って弾いてみました。楽器の発音にあったボーイングが求められることを再確認しました。これまでは鳴らない分少し無理して弾いていた感じです。ボーイングの矯正が必要です。要は力を抜いて楽器の鳴るに任せる???。


夜ボンベイ室内オケの演奏会に行ってきました。今日の演奏会はオランダ領事館共催でオランダからゲスト演奏家が14人参加していました。アムステルダムコンセルトへボー室内オケのメンバーだとのこと。指揮者はコンセルトへボーのバイオリン奏者でもある「ペータ・シュピーリング」さん。


曲目は以下の通り。

「ウインザーの陽気な女房達」の序曲

サンサーンス バイオリン協奏曲

ベートーベン 交響曲第一番

スパルタクス アダージョ。


オランダからの助っ人のお陰で大分充実した演奏でした。木管がしっかりしているので安心して聞くことができます。サンサーンスのソロはオランダの18歳の俊英「Wel」君。丁寧なボーイングに好感が持てました。最後にオランダ領事の挨拶がありました。


GNP世界第2位の日本はどうなのでしょう。こういう文化助成の予算はないみたい。ハノイ交響楽団ではスイス大使館支援でCDを作っていました。前回のムンバイ室内オケではオーストリア大使館がかかわっていました。まあアメリカ領事館が協力しているという話も聞きませんので「仕方ない」ということにしましょう。



2005年11月20日(日) ムンバイ着(ニューデリーから)

ムンバイに帰るため午前中は荷造りをしました。大きなスーツケースにニューデリーで再び使うもの(ムンバイアパートにあるもの)を詰めてゲストハウスに預けました。1週間後にまた来るのでアパートで預かってもらうのです。


「引越し」と「出張」を何回も経験しているので荷物のパックは得意です。忘れ物しそうなものも分かっています。生活道具一式置いてきたのです。従ってムンバイへの帰り荷物はナップサック一つとコンピュータだけ。そして同じようなゲストハウスを偵察するため、タクシーで少し走り回りました。高級住宅街の中の家を改装してゲストハウスにしている場所が結構あります。外国人が長期滞在しているケースが多いです。(ホテルに比べると割安)


昼に事務所によって激励。土日のオフィス改装工事(2週連続)で社員が立会いで出てきているのです。この次来る時にはニューデリーのオフィスは綺麗になっているはずです。午後3時55分の飛行機に間に合うように、空港への途中の「田村」さんで日本食の昼飯を取りました。暫く本格的な日本食はお預けなのです。


豚肉の生姜焼き定食。味噌汁、ご飯に加えてポテトサラダと切干大根と生野菜のサラダ付き。この味には身体全体が感動している感じでした。(ビール小瓶をプラス)。納豆定食があればもっといいのですが・・・。それは無理。


今頃のムンバイの気候は素晴らしいです。今、風呂上りで殆ど裸でパソコン入力中。クーラーを点けようかどうか迷う室温です。ちょっと暑いですが、外気で体を冷やしているのです。久しぶりの波の音も素敵です。ニューデリーでは朝相当冷え込みました。寒いのです。(半袖シャツしかもっていかなかったので)ムンバイの秋・冬は最高ですね。


飛行機の中で新聞をつらつら眺めていたところ、今日11月19日は、インディラ・ガンジーの命日なのだそうです。1984年。過激なシーク教徒の手によって命を奪われたのでした。ニューデリーで過ごしていて知ったのですが、19日は11月15日の宗祖「グル・ナーナク」の誕生日の直ぐ後だったのですね。インド北部のニューデリーでは「ターバン」を巻いたシーク教徒が多いです。



2005年11月19日(土) ムンバイへ

今週末ムンバイに帰ります。1週間ほどムンバイにいて、事務所の会計業務を処理したり、残務整理したりします。11月の暮れに再びニューデリーに戻るつもりです。


今週ムンバイの弦楽器修理職人の「Heike」さんからチェロ修理完了のメールがありました。9月中旬に修理に出したので約2ヶ月かかりました。ということては2ヶ月まともに弾いていないということ。(この間色々ありましたので)この日曜日、ムンバイに戻った折に受け取ってきます。メールでは、非常によく鳴るようになったとのこと。楽しみです。練習に熱が入り、壁を乗り越えられればいいなと思っています。でも、心配なのは、日本に持って帰るときに大丈夫かということ。インドの運送者さんを信じましょう。



2005年11月17日(木) オフィスの外に猿、ドライバーのムーサさん

今日帰りのタクシーを待ちながらオフィスの外の道端でぼんやりしていると、
近くの木の上から、何か大きなものが降りてくるのです。暗くてよく見えないのですがリスや猫の大きさではありません。眼を凝らしてみると、猿だと言う事が判りました。こんな街の真中に猿がいるなんて驚きです。


猿はゆうゆうと道を横断し道の向こう側の木に登っていきました。猿、牛、犬、猫、鳩、カラス、ネズミが自由に歩き回る大都会ニューデリーです。因みみに私のオフィスはニューデリーの街の中心部にあります。日本で言うと新橋くらいかな。


面白いタクシー運転手に出会いました。白い「アンバサダー」の「髭もじゃ」の老人。(実はそれほど高齢ではなかったのですが)会社の近くで流しのタクシーを捜していたときに「スー」と寄ってきたのです。ビックリしたのはその言い値なのです。普通のタクシーの半分の値段なのです。半信半疑で乗ったのですが安い値段でアパートまで送ってくれました。携帯を持っていたので番号を聞いてチャンスがあったら呼んで使ってみることにしていました。


で今日彼に電話して4時間コースを頼みました。Rs400(冷房着き)。こんなものでしょう。この運転手自称「以前は大統領府の運転手だった」「国会議員とか大臣とかの家は熟知している」とのこと。好感が持てるのは「サンキュー」というと必ずゆっくりと「ウエルカムサー」と応えるところ。心がこもった「ウエルカムサー」なのです。「サンキュウー」の後の「ウエルカム」とか「マイプレジャ」という言葉が自然に出ずに苦労しているところなので、彼の丁寧な「ウエルカム」が、大変紳士的で且つ英語的に聞こえたのです。


本人曰く「年取って見えるけどまだ59歳だよ」。「妻は美人で働き者なんだ」と自慢話。挙句の果てに「来月の、27歳になる息子の結婚式なので是非来てくれ」。これは丁重に断りました。頑丈な車「アンバサダー」の安全運転だし、乗っていて悪い気がしないのでこれから使っていこうと思います。
彼の名前は「モハメッド・ムーサ」。



2005年11月16日(水) ニューデリーでの生活のこと

ニューデリーでの生活のことを紹介したいと思います。

「昼飯のこと」
新しいオフィスは、コンノート・プレイス(放射線道路の中心)近くのオフィス街。そしてマクドナルドがオフィスから100m位のところにあるので通常の昼はマクドナルドの「マハラジャセット」(2段重ねのチキンマック+ポテト+コーラ)です。毎日通っているので店の人も私の顔を覚えたみたい。インドまで来て昼飯がマックでは「味気ない」と思い、近くのインド料理・中華料理を試すのですが、その度にマックにしておけばよかったと反省することになります。


まずインド料理・中華料理とも料理が出てくるのが遅いのです。人気のないレストランで一人で料理の出てくるのを待つのは大変侘しいのです。さらに複数人だと別なものを注文してシェアできますが一人では無理。今日も中華料理にトライしましたが1人前ではまともな料理はないのです。「飲茶で沢山の種類をすこしづつ盛り合わせて1人前作れないか」と頼みましたが「No」。「1週間通って順番に頼んでいけば色々食べられます」というすごいアドバイスを受けました。
更に中華もインド料理も料が量が多いのです。貧乏性なので出されたものは食べ尽くす癖でつい食べ過ぎる。マクドナルドはこれらの問題点を全て解決してくれます。味はともかく。

「通勤手段」
現在のアパートからオフィスまで毎日タクシーで通っています。4輪車です。(日本の軽自動車のバンタイプで、冷房なし)通勤として以下の手段が考えられます。

レンタカーを雇う・タクシー(4輪)・オートリキシャ(3輪)・バス通勤


ムンバイでは月極契約のレンタカーでした。ニューデリーでは日々レンタルするレンタカーは割高(冷房車がいつでも使えるので便利ですが)。バスは路線がわからないし、ローカル満員バスにスーツを着て乗るのは非常に場違いな感じ。いつでもどこでも捕まる「オートリキシャ」は便利ではあるのですが問題も多い。とにかくニューデリーは空気が悪いので外気吸い放題のオートリキシャでは喉や眼がもたないのです。更に英語を話す「運ちゃん」は殆どいない。
料金交渉も面倒くさい。外人とみると今日はメータが壊れていると言い出すし。結局4輪タクシーを探すことになるのです。4輪タクシー運転手は英語が分かる人が多いみたい。暑くても窓を閉めれば外気の流入を抑えることができるのです。しかし、ニューデリーでは4輪タクシーはそんなに走っていないのが問題です。


多分ローカルバスだと往復でRs15からRs20程度でしょう。良心的なオートリキシャーだと往復でRs150くらい。4輪タクシーで往復Rs200。レンタカー(小型車)1日借りるとRs1200位です。



2005年11月13日(日) シーク教寺院

11月15日(火曜日)はシーク教の教祖「グル・ナーナク」の誕生日です。ムンバイではシーク教徒の方の数は少なく、シーク寺院も少ないのですが北部のニューデリーはシーク寺院が沢山あります。今泊まっているゲストハウスの近くにもこ綺麗なシーク寺院があるので日曜日の午前中に礼拝に行ってきました。


今日からグル・ナーナクの誕生日の準備が続きます。具体的には祭りを盛り上げる花火とか行列の行進があるのです。今日はちょうど行列が出発した後であったため静かに礼拝することができました。広い境内で読経の声を聞きながら黙祷していると清らかな気持ちになります。


午後は別のシーク寺院(下町にある寺院)にいきました。そこでは町内を回る行列が準備していました。そこでは大勢の金管バンド隊が制服を着て出発を待っていました。トランペットとユーホニュームが中心ですがバルブ式のトロンボーン、スーザホンも居ます。楽団の前には駱駝が5匹・象が1匹・馬が4匹。この辺は宗教に関係なく「賑やかし」です。駱駝がその辺にいるのもムンバイとは大違い。人間も動物もグルの誕生日を祝うということでしょうか。



2005年11月12日(土) ニューデリーの新名所

いきなり派手な写真ですがインターネットで入手しました。この寺院は「スワミナラヤン・アクシャルダーム」(Swaminarayan Akshardham)です。先週の日曜曜日(11月6日)に、大統領・首相を招いて賑々しくオープンした寺院です。


写真はオープンセレモニーの模様。広さ100エーカというとてつもない広い敷地を確保しています。私はこの寺が前から気になっていたのでオープン1週間後早速本日土曜日行ってきました。


場所はニューデリーからノイダに通ずる「ヴィカス通り」北側のヤムナ川河川敷。ニューデリー中心部から15分程度の近さです。非常に立派な石作りの寺院で遠くからもその威容を見ることが出来ます。


この寺院はヒンズー寺院と言っていいと思います。寺院の建築様式のヒンズー様式だし、本殿内にはラーマ・クリシュナ・シバ・パルバティ等の神々の像があります。でも本尊はというと「スワミナラヤン」。頭にターバンを巻いた青年の坐像です。


スワミナラヤンは1781年に生まれた天才少年で、10歳にしてギータとかウパニシャッド・ヴェーダなどのヒンズー経典をマスター。天賦の才能の上にさらに苦行を重ね、遂に神の声を聞いたというのです。このスワミナラヤンを祭る寺院がグジャラート州にあったのですが、それのニューデリー版が今回オープンしたというもの。入場料は無料。入り口で厳重な検査があり、カメラ・携帯、バック等は全ていり口でお預け。10月末のニューデリー爆弾事件のために厳戒体制が取られている模様。近くから写真が取れないのが残念。この措置は今後も続くでしょう。


今日非常に関心したのはミュージアムと称する建物の内容です。3つの巨大な建物からなる展示館です。あえて例えるとミニデズニーランドでしょうか。今日は、第1号館と3号館だけ見ました。それでも1時間以上かかったでしょう。第1号館は「スワミナラヤン」の生い立ちとかヒンズー文化を紹介しているもの。ここは自力で歩き回るのですがその内容はというと、

○ミニシアターで数分の映画を見せる。
○等身大の人形(ロボット)の演技により教訓の場面を再現する。
○また、別の映画館のようなところでビデオを見る。
○家族の絆の大切さとか「ヴェジ」の勧めなど、ヒンズー文化を展示している部屋を歩かせる。
(グジャラートは禁酒州ですし、ヴェジタリアンが殆どだと聞いています)


展示館は途中で抜けられないので一旦入ったら最後まで付き合う必要があります。言葉も解説リーフレットも全てヒンズーなので基本的にな全く内容がわからりませんでした。でもロボット人形が非常に精巧にできているので、出し物としてはとても面白いのです。


第3号館では大きな建物内を自動の「船」に乗って回ります。ここはインド文化を紹介したところ。これは面白いです。ディズニーランドのリトルワールドみたいでした(1周約20分かかりました)。寺院の敷地内には、大きなレストランと大きな土産物屋があります。広大な駐車場があってぞくぞくと観光客がやって来ています。ここは間違いなくニューデリーの観光名所になるでしょう。

因みにこうした大寺院建設を指導したのは「プラムーク・スワミ・マハラージュ」という偉い僧だとのことです。



2005年11月11日(金) ニューデリー生活開始

今週日曜日からニューデリーの生活が始まっています。仮り住所は「デフェンスコローニー C−83」。高級住宅街の1棟を各部屋ごとにゲストハウスとして貸しているところです。各部屋にはシャワーがついています。家のダイニングで朝・昼・晩の食事を食べることができます。もちろんインド料理のみ。オフィスまではタクシーで15分程度なので朝夕タクシーを使っています。このゲストハウスにはインド人とか外国人が入れ替わり入ってきます。とにかくニューデリーはホテル代が高いのでこのような高級ゲストハウスがビジネスに使われています。


ニューデリーの朝は冷え込みます。まだ11月なのでそれほど冷えないだろうと考え長袖を殆ど持ってきませんでした。ムンバイの気候はこの時期、朝夕快適なのです。でもデリーは全く違って朝の冷え込みは10度以下になっているでしょう。朝の散歩も半袖では厳しいです。土日にマーケットに行って衣類を買いたさないといけません。


先週は土曜日にデリー着いてからそのままアグラに行ったのでした。デリー空港に着いたのが午後6時30分。そこからレンタカーに乗ってアグラへ。夜の国道2号線は空いていることもあって夜の10時30分にはアグラのホテルに到着しました。翌日はタージマハルから始めてアグラの観光名所を回りました。タージマハルはさすがにスバラシイ建築です。素直に感動しました。寺院建築とか信仰対象の偶像彫刻の素晴らしさが信仰心の深さに比例するとすると、このタージマハルの素晴らしさは亡き王妃への愛の大きさに比例するのでしょう。


イスラムのムガール王朝はしばしばペルシャ人の女性を王妃に迎えています。
タージマハルも「シャージャハン王」のペルシャ人の妻「ムムターズ・マハル」の墓なのです。この王妃がどのような方であったか判りませんが、はるばるやって来た王妃は、多分大変美しく、賢くて、国民に愛されたのでしょう。(故ダイアナさんみたいに?)王と国民の気持ちがタージマハルの素晴らしさに現われているように思えます。


北インドにおいてははるばるやって来たペルシャ王妃の墓タージマハルに代表されるように、イランのペルシャ文化に憧れ・畏敬の念をもっていたようです。ムンバイにおいてはペルシャの影響は、パルシー社会(ゾロアスター教徒)に脈々と生きています。


大きく見るとアラビア半島に発生した「イスラム」。そして「ペルシャ(イラン)」に栄えていたペルシャ文化。そのペルシャ文化に東から接していた「ヒンドゥ文化」。この3つの文化が昔からそして今もインドの社会に大きな影響を与えているようです。



2005年11月02日(水) デワリの休日

今日11月1日はヒンズーの正月のデワリで休日でした。昨日の夜から今もそうですが、外はすごい花火の音です。昨日が大晦日・今日が元旦です。家の前とか車とかに飾りをつけます。デワリは「光の祭り」でもあるので町のいたるところに大きなランタンが吊るされています。今日町に出てみましたが、カジューナッツとか甘味菓子のショップは贈り物を買う人達で賑わっていました。しかし正直言って1月が正月の日本人にはなじめない正月です。この一週間インド人は正月気分。果たして仕事がはかどるかどうか。


11月3日は1ヶ月に続いたイスラム教徒のラマダンが終了する日です。イスラム教徒も晴れやかな週になります。こんな時に爆発事件を起こすなんて全く卑劣です。


今日コンピュータの電源修理に行ってきました。デワリ(正月元旦)ですが、午後から電気屋さん街(秋葉原みたいな)は賑わっていました。私のPCは電源の調子が悪いのです(構造的に壊れやすいみたい)。前回の修理は2年前の12月。スリランカからチェンナイに旅行に来た時に修理したのでした。今回はムンバイでの修理です。


パソコン技術者(ノートを開けられる人)を探して電源部分を直してもらいました。所要時間約1時間。修理代Rs1500(5000円弱)。正月初めての商売なので値切っても仕方がないので言い値で払いました。確かチェンナイでもRs1500だったと記憶しています。外国人価格でしょう。しかしこれで暫くは大丈夫でしょうから満足すべきです。


日本で直そうと思えば電気屋さんに持ち込んで、修理会社に送付して修理する。そして電気屋を通して帰ってくる。気が遠くなります。とても短期間の帰国の間では直らないでしょう。


ニューデリー引越し準備を進めています。といっても完全にムンバイを引き払うのではなくムンバイのアパートにも荷物を置いておきます。実はアパートは来年の1月末まで契約があるのです。ニューデリーのオフィススタッフを早く一人前にするためには現地に居ることがベストです。だからといってムンバイオフィスも放っておけない。中途半端な引越しなので準備が難しいです。


(今回の引越しのポイント)
○多少の不便には我慢する。(ニューデリー、ムンバイ両方とも)
○両都市の移動の際に荷物をいちいち持ち運ぶことはしない。
(片方に置くものを決める)
○どちらでも適度な運動ができるようにに運動用具を揃える。


ここで問題になるのがチェロとI−POD。これはムンバイに置いておこうと思っています。ニューデリーで自由時間があったら当面観光すればいいし、ニューデリーは日本食レストランもあるのです。さてどうなることやら。


話題変わって我が家がロッテと縁があるようです。社宅生活から足を洗って、住み着いた「武蔵浦和」はロッテの町(工場・社宅・寮など)。ロッテの2軍の練習場もあるのですよ。しかも武蔵浦和駅近くの一等地にです。埼京線から見える「ロッテ雪見だいふく」の大きなネオンサインで我が家に帰った気がします。


息子の高校は新久保でした。高校通学路にロッテの工場。息子の通学はロッテからロッテでした。娘の大学は千葉(武蔵野線ではるばる通学)。そして千葉ロッテ優勝。千葉県は盛り上がっているのではないかしら。武蔵浦和で優勝記念のイベントか何かあったのかしら。




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