ゼロの視点
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2004年12月20日(月) 失われた時を求めて・9

 12月19日と20日の1泊2日で、幼なじみの友人2人と一緒にまたまた激安旅行へ。皆生温泉、鳥取砂丘・宍道湖・出雲大社などを巡る、バスガイド付、一泊二食つきの名旅館、往復飛行機で、なんと23,500円っ!!!!!。

 たまたまある日、我が実家に子連れで遊びにきていたMF嬢。彼女は、98年に私がパリに来て、同じ年に彼女が母親になるまで、あらゆる旅を供にしてきた野次喜多道中の相棒。私の山陰フリークは、彼女があってのものなのだ。

 そして、我が実家でまたまたA新聞の夕刊に掲載されていた、激安ツアーを発見したMF嬢は、興奮したように、“どーせゼロの夫も来ないんだし、うちの子供たちも冬休みに入るから、この際、旅行しちゃおーぜーーーっ!!!!”ということになり、その日のうちに申し込み。

 そこに、またフラッとやってきた、近所に住むわしの幼なじみのMT嬢が、あまり旅行好きでもないのに、わしらに巻き込まれて参加するカタチになった。

 

 あまりの格安で、応募者が殺到したらしく、わしらの飛行機は羽田から山陰地方へはダイレクトにいけず、なぜか岡山空港になってしまった。それもかなり早朝の便。

 もし間に合わなかったら?、ということも考えて、空港に近いMF嬢の家に、わしとMT嬢が前泊するという完全防備。早朝に、MF嬢の夫のクルマで空港まで送ってもらい、楽チンスタート。

 飛行機の中で寝る暇もなく、あっという間に到着してしまった岡山空港。ボーっとしたまま、用意されていた“ゲゲゲの鬼太郎バス”に乗り込む。(※鳥取県境港市出身の水木しげるを記念してのものらしい)。

 ここの何十年と味わってなかった、日本独特の喋りをするバスガイドの語りに多少イライラしながら、なんとか目的地である大山までに一眠りに成功。大山は、暖冬とかで、雪はまだなかった。

 お土産屋で、色々なものを試食して楽しむ。ああ、ばばあになったものだ(汗)。しかし、ここまで試食させてくれる世界は、フランスにはないので、ついついやりたくなってしまうのだから、しょうがない・・・。

 お次は、鳥取砂丘。思えば、学生時代MF嬢と始めてこの地を訪れたのは1988年のことだった。ああ、もう16年前のことなのだ・・・・・。昨年、夫を引き連れて山陰を旅行した時は、鳥取砂丘は時間のロスになるので、パスしたものの、やはりこうして戻ってくると、なんとも気持ちいい。

 今まで何度もMF嬢とはここに戻ってきているが、それでもいつも9月だったので、冬の鳥取砂丘は始めて。ラッキーなことに、天気もよく、取り付かれたように3人で、ひたすら海に向かって歩き始めた。

 海岸まで近づくには、まず一山登ってから、思い切り下らねばならないのだが、それも躊躇せずに、子供時代に戻ったかのように、砂まみれになって3人で転がり落ちていくことの快感。

 転がりながら、MF嬢はまるでタヴィアーニ兄弟の映画『カオス・シチリア物語』のラストで、子供たちが両手を広げながら青い海へと羽ばたいていくシーンのようだと言う・・・・・。

 ああ、本当だ・・・・。

 本当に、気がついたら、わしらも30代後半とはいえ、同じことをやっている・・・。

 着込んだオーバーは砂まみれになってしまったけれど、なんという開放感だろうかっ!!!!!。

 旅行好きではなかったMT嬢も、子供の顔になって転がっている。

 思えば、30代後半にもなって、ひとりはパリ在住、ひとりは2人の子持ち、もうひとりは、バリバリの映画業界で働くキャリアウーマンとなれば、そう簡単にスケジュールが合うはずもなく、こうして、3人で奇跡的に一緒に旅行を今できることに、感謝したくなってきた。

 たった一泊二日とはいえ、3人がそれぞれの社会的役割をすべて忘れて、ただただ快楽に浸ることができることの幸せ。

 また、こういった交友関係を築くにあたって、いつも実家を快く開放してくれていた母への感謝。そして、ボケはじめたわしの母のことを気づかって、さりげなく、私の不在中にも母を訪れてくれる、この2人の友への感謝。また、夫が日本へこられなくなったことへの感謝(笑)。

 と、色々な感謝の念が交錯した瞬間でもあった。


 すっかり砂まみれになって、出発時間にバスに戻ると、わしら3人を抜かした全員のツアー客は、すでに皆座席に座っていた・・・・。あ、ここは、日本だ・・・、と思った瞬間でもあった。

 こういった団体旅行というのをするのは、実ははじめてに近いが、すべてお任せというのも悪くないと思った。上げ膳据え膳の心地よさ、雨がふろうとなんだろうと、次の電車は?、等と考えなくてよい楽チンさなども含め、すっかり便利さの味を占めてしまったわしらだった。

 そして、また次のわしの里帰りの際にも、格安旅行へ行こうということに決まった。どうやら、しばらくの間は、これが恒例化するのだろうなぁ・・・。

 いやあ、それにしても、温泉はよい・・・・・、癖になりそうだ。


2004年12月13日(月) 失われた時を求めて・8

 昨晩は、まずいとこH嬢と一緒にレイキの交流会へ出席して、そのあと、わしらにパリに滞在しているT氏の彼女Y嬢とその妹M嬢が合流。4人でもんじゃ焼きをたらふく食べた。

 もんじゃの仕切りは、H嬢におまかせして、あとは、食べて、食べて、話して、話して、そして大爆笑の連続。かなり店の中でもわしらのテーブルはうるさかったのではないだろうか?!?!?!。

 H嬢は今、かなりの問題を抱えているものの、この日は大爆笑できてよかったと言っているほど、かなり笑ったような記憶がある。

 そのあと、Y嬢は私と一緒に実家へ来て、そこで一泊。今回、大阪からわざわざきているY嬢を一目見ようと、近所の幼なじみMT嬢が午後11時頃、我が実家に合流。そして、また3人で酒盛り。

 そして、一夜明けた本日は、Y嬢と一緒に某駅まで出かけ、そこでただ今スペインから来日中の、日仏カップルR&Cを待つものの、彼らが予定時間にやってこないので、新幹線の時間が迫るY嬢とお別れ。

 その数分後、ようやくR&Cが、巨大交差点の向こうから歩いてくるのが見えた。ウジャウジャといる日本人の中で、浮きまくるスタイルのR・・。その後ろにC嬢。ちょっと腰が引けたが、あまりにも奇天烈な服装にひとり大爆笑の私。

 本日もせこく、彼らと某ファミレスの安ワインで延々とお喋り。ヤバイ話は全部フランス語、ちょっと周りを挑発するときは、日本語と使い分けて、サウナに入ったか?、と思うほど大爆笑して汗を流してしまった・・・・。

 しかし、Rはやっぱり変わっている・・・(2004年9月6日の日記参照・おならで猫を自殺させたオトコこそ、Rである)。

 
 最近は笑いすぎてアタマがフラフラする日が続いているが、と同時に、どうやら凹み時期は、気がついたら完全に終わってしまったようである。

 こうなってくると、母との関係もすこぶるよくなってくるから、興味深い。それでもイライラすることはあるが、なんか、このまま日本で暮らしていてもいいんじゃないか?、と思い始めてきたゼロでした。


2004年12月09日(木) 失われた時を求めて・7

 母との旅行を終えて、我が実家に戻ってくると、電話が鳴った。受話器を取ると、それは、昔一緒に暮らしていた相手O氏だった。

 別れてからも、友人として交流しているので、電話がかかってくること自体は全然不思議じゃないのだが、なんと、これからコンサートがあるから、来るか?、という誘いだった。

 ま、別に用事のない私は、とりあえず母の分だけ料理をして、そのまま新宿厚生年金へ向かった。以前、O氏とわしは新宿で暮らしていたので、非常になじみあるところ。

 ちょっと出かけるまでに時間がかかってしまったので、私が実際にそこへ到着した時は、ちょうどコンサートが終わってしまったところだったが、暇つぶしに、某アーティストのデマチなんてものをしてみた。

 思い起こせば、このアーティストのコンサートをO氏と一緒にきたのが、1996年。その時も暇つぶしにデマチをして、とりあえず持っていた雑誌『噂の真相』の表紙にサインをしてもらったものだった。他のファンらは、このアーティストのCDなどにサインしてもらっていたのだが、なにぶん、リスペクトも何もない、私は、“サインしてもらってナンボ”なので、手持ちの雑誌を差し出した、というわけだ。

 この世界的に有名なこのアーティストは、差し出された噂の真相に、ちょっと戸惑った様子を示したが、さすがに、皆の手前、断ることもなく、ちゃんとサインをしてくれたものだった。

 で、今回は、噂の真相も廃刊になってしまった現在、私の手元には雑誌も何もなかったので、自分のスケジュール帖を出して、本日12月9日のところに、サインしてもらった(笑)。

 O氏のほうは、コンサート会場で購入したと思われるTシャツにサインしてもらっていたようだった。

 コンサートの後は、またまたなじみの居酒屋へ。O氏が奢ってくれるというので、遠慮なく、ワインのみまくる私。実にセコイ。

 O氏もかなり仕事で忙しいらしく、それなりの社会的責任もあり、ずいぶん丸くなったなぁ・・・、とニタニタしてしまう。

 ま、いずれにしても、飲みながら、互いに心の中で、“ああ、こいつと一緒にならなくてよかった”と思っていたに違いない(笑)。

 お互い全然違うので、こうやって友人としてなら、逆に面白いが、一緒に暮らすということ自体が、やはり困難でしかなかったんだろうなぁ、としか思えない。ま、若気の至りといったところか。

 と同時に、なんで、わしはフランスであの夫と暮らしてるんだと問われれば、答えられなかったりするから、また妙に笑えるのだが・・・。


2004年12月08日(水) 失われた時を求めて・6

 12月6日〜8日まで、母と2人でのんびり(?)秋田県にある乳頭温泉へ行ってきた。

 往復新幹線、ホテル2泊の夕食&朝食付、温泉入り放題で、たったのひとり23,800円。すっかりフランス人的にケチになっている私には、なかなか満足なお値段。

 母を新幹線の窓際に座らせ、旅行気分を楽しんでもらう。あっという間に都心を離れ、車窓からは、のどかな田園風景が広がる。

 昨年まで愛犬がいて、旅行へ行く気にもならなかった母は(愛犬を留守番させるのは不憫という理由で)、久々の旅行で顔が非常に明るい。道中、駅弁を食べたり、ビール飲んだりしているうちに、あっという間に田沢湖駅に到着。

 旅館の部屋に案内されて、さて一息と思うものの、ここで母の性格がまた私をイライラさせた・・・。

 いかんせん、のんびりできない性質の母。到着した瞬間に、私に色々とせっつくように質問してくる。“夕食は何時だっけ?”“いつ帰るんだっけ?”“これからどこいくの?”等・・・・。

 昔から、こうだ・・・・・。で、これが小さい時から嫌で嫌でしょうがなかった私。が、現在はこれにボケが加わっているので、この質問が延々と続く。が、それでもボケはそれほど酷いわけでもないので、傍目にはわからない。

 そして、私がまたついついキーっとなってしまうと、とりあえず、ヒステリーな娘の付き添いで旅行しているかわいそうな母、というイメージになるのだと思う・・・(汗)。

 母の生き甲斐は、私の世話をすることと、私が発狂するまでかまうこと。

 なので、出かけるときは“ゼロちゃん、お財布持った?”“外は寒いから、ちゃんとコート着るのよ”等のアドヴァイス。

 が、哀しいかな、実際に母が初期のボケになってからは、声にだそうが出すまいが、母がちゃんと財布を持ったか否か等をチェックしているのは、私。

 で、私がこれをすると、母は私のことを“おせっかいの小姑”とほざく。この時点で、プチンと私のどこかの神経が切れる音がする。

 次に、さて、どこへ行こうか?、と地図を見ていると、“あーーあ、ゼロちゃんと一緒にいると、いつもダラダラねェ”等と母はほざく。この時点で、もう一本、また私のどこかの神経が切れる音がする。

 すでに神経をかき乱されつつあった私は、もうどこに行こうなどと明確な意図を放棄して、ただ、母と乳頭温泉のある裏山を歩き出した。私も昔山登りをしていたし、母に至っては、もっと経験があるので、足はすこぶる強い。

 街歩き用の靴でもなんでも、とにかく、裏山を2人で冒険気分で彷徨ってみた。途中、さすがに私のほうが歩くペースが速まってきて、どんどん母が遠く担っていく。

 “ああ、これじゃ、まるで楢山節考じゃないか?!?!!”とひとり突っ込みを入れながらも、まだ、どこかでイライラしている私は、自分の歩くペースをダウンさせない。

 そして、だんだんと日が暮れてきた・・・。日暮れと同時に、さっきまでそれでも楽しそうに裏山トレッキングしていた母の言動が、もっと私をイライラさせてくるモノになってきた。

 こうなってくると、早く歩くどころか、歩けなくなり、立ち止まり、母にヒステリックに詰め寄ってしまう。が、これが大失敗だった。

 私はうっかり忘れていたが、ボケには夕暮れというのが大敵なのだ。夕暮れ症候群というのがあるほど、この時間帯に、ボケ症状が一気に進むことがあるのだ。老人ホームでも、老人らが徘徊しだすのは、この時間が多いと聞く。

 視界が暗くなるのと同時に、彼女らのアタマにも霞がいっそうかかってしまうのだろうか?!?!?!。

 母のことをボケ、ボケ、と書いているが、それでも同じことを何度も繰り返したり、以前の能力はなくなってきているということだが、この夕暮れ時の母は、ほんまもんの、ボケになったか?!?!?!、と思わせる言動が増えるので、こっちも動揺する時間帯になるのだ。

 昨年末、彼女がパリに来た時も、意識が朦朧とし始めるのは決まって夕暮れ時だった。が、これは場所が変わったからだと思っていたし、現に、10月末から実家にいても、これほど顕著な“夕暮れ症候群”は体験してなかったので、忘れていたが・・・・・、よく考えてみれば、パリではないものの、彼女にとっては、旅行先・・・・。そう、彼女の慣れてない場所に来てしまってるのだから、こういうことが起こっても不思議はなかったのだ。

 が、イライラモードだった私は、ついつい母に八つ当たりして、ギャーギャーわめいているうちに、母はもっとヤバクなっていった。

 が、なんとか夕食時までに、母をなだめることに成功して、二人で美味い旅館の食事を完食。一休みして温泉に入ろうということになった。

 露天風呂など、考えてみるだけでも、母はあまり経験がないだろうと思い、内風呂で彼女の身体が充分に温まるのを待ってから、露天風呂へ誘ってみた。が、やはりせっかちな母は、適当につかるともう風呂を出たいという。

 “もうちょっといいじゃないか”という私と、“出たい”と一点張りの母の応酬を、親子で真っ裸のまま続けたものの、最後には、母に完全に無視されて、彼女は勝手に出ていかれてしまった。

 裸で逃げる母に、裸で追いかける娘。ああ、なんつー追いかけっこだ(汗)。

 もし、昔だったら、母がさっさと出て行っても追いかけることはしなかっただろう。が、今では、場所が変わったうえに、先の夕暮れ症候群もあって、母が自力で自分の部屋に戻れるか否かに激しい不安を感じる私は、追いかけないわけにはいかない。

 特に、もう母と娘で喧嘩モードに入っているので、向きになった母が、そのまま部屋に戻るらずにフラフラと外に出て行ってしまったら、これは大変面倒なことになる。おまけに外は雪・・・・。

 しょうがないので、私も母と一緒にユカタに着替え、部屋に戻るものの、母は母で、私が自分に付き添って出てきたことを不服に思っているようで、またまた私がカチンとくるような言葉を吐く。

 そりゃそうだ、彼女にとったら、自分がボケてきているとは認識できないので、なんで、たまに帰ってきた娘がこんなに口うるさいんだ、と、彼女なりに腹を立てていると、容易く想像できる。

 が、私も人間。ついつい、母の言葉にカチンカチンきて、私もまたまたヒステリーを起こす。あーーーあ、温泉来て、2人でのんびりしようと思ったのに、なんなんだ、これはっ!!!!、と、自暴自棄な気分になってくる。

 そして、母の決り文句登場。

 まだ私が料理などできない小さい頃だったら、“明日のご飯なんて作ってやらない”という言葉。で、もう少し大きくなると、“学費なんて払ってやらない”という言葉。で、今は、“老人ホームに入ってやる”というお言葉・・・・・。

 どんな思いして、里帰りしてると思ってるのじゃーーー、と、私もとうとう完全に切れてしまい、大喧嘩に突入。そして、もっと意地になった母は、今から家に帰ると宣言してくる。

 私はムキになりながら、“ここまでボケたくせに、どうやって老人ホームに入居手続きをひとりでできると思ってるんだっ。それに、ここから帰るだって?!?!?!、じゃ、どうやって帰るか、今、言ってみろーーー”等。

 で、もっと意地になった母は、完全におかしくなってきている。これ以上刺激すると、発作的に部屋を飛び出すなんてことをしかねない(←まだやったことないが)ので、とにかくこの場を落ち着ける方向へ、急遽作戦変更。

 とにかく、なだめてなだめて、母が自発的にフトンの中に入るのを待った。そして、30分の攻防戦の後、母はあきらめるように、フトンの中へ入っていった。そして、そこを狙い打つかのように、レイキを彼女にやってみた。

 本当に、レイキに効果があるのかどうか、自分でも試してみたかったのだ(笑)。

 するとどうだろう、本当に彼女は穏やかな顔になって、落ち着きだし、熟睡しはじめてしまった。この効果に、私のほうが、自分でレイキをやっているのに、驚いてしまったほど(爆)。

 正味一時間強のレイキを母にやったのだが、ここまで効果があるとは、本当に思わなかった。母の顔色まですっきりとしてしまい、私も、さっきまでのイライラが吹っ飛んで、母の寝顔を見ながら、いとおしいとさへ思えるようになっていた・・・・。

 なんなんだ、これは?!?!?!?。

 ま、ともかく、一時は最悪になりそうだった母との温泉旅行も、これを機にどんどんとよくなり、翌日には、たのしい観光もし、充実したものになった。ああ、よかった、よかった。


2004年12月04日(土) 失われた時を求めて・5

 里帰りして以来、柄にもなく、私のアタマの中は、“〜をしなければいけない”という概念で破裂寸前だった。で、ことごとく、“〜しなければいけない”ことをトライして、その逆のことをやってしまい、ますますイライラしていくという悪循環が続いていた。

 で、遠く離れた国で生活している夫も、どうやらそうだったらしく、電話で話せば、1分で喧嘩に突入するという、またまた悪循環。今思えば、夫のアタマの中も“〜しなければいけない”だったのだと確信しているが・・・(汗)。

 12月中旬に日本にいる私に合流するはずだった夫であったが、チケットを購入してから、彼の仕事スケジュールに大幅な変更が発生して、彼の日本行きはアウトになった。

 これらを通しても、オヤジが日本に来たらやるはずだったことが、すべてオジャンになったり、色々と変更が生じてくる。まあ、別に彼の責任ではないとはいえ、だ。

 で、こんな時、双方に心のユトリが少しでもあれば、喧嘩になるはずもなく、そこで励ましあったりできるのだろうが、稚拙な心をもてあましているわしらは、また、そこで意味不明な喧嘩を国際電話で繰り広げていたわけだ・・・。

 電話の最中、会話がオーバーヒートするので、どちらかが受話器を叩き置く。そして会話終了か?、と思われれば、お次はメールで罵詈雑言の応酬。とはいえ、死ねとか、そういったレベルの低い文章は書きたくないので、あくまでも慇懃無礼な口調で、ネチネチと攻めるのが私だったりするから、自分でも思うが太刀が悪い(笑)。

 が、ある日、思った・・・・。

 本当に、くだらない・・・、と・・・(滝汗)。

 夫のこともアホだと思ったが、これに慇懃無礼だろうがなんだろうが、日本時間で生活した上に、ヤロウの時間に合わせて喧嘩なぞしているから、こうもエネルギーが低下するのだ。そして、このアホにつきあう、わしも正真正銘のアホだ・・・・、と。

 で、またまた悟りの境地に入りだした私は、ただ、現在に焦点をあて、いかに有意義に毎日を過ごすか?、だけに集中することにした。

 以前の日記にも書いた通り、今、私は日本にいるのだ。

 例えば、だ・・・。フランスで、フランス人に、フランス語で習ったレイキっていうのも、もともとは日本が発祥の地であるのだから、この機会を利用して、日本人が日本語でやっているレイキをもっと知ってみることができてしまうではないかっ?!?!?!。

 A新聞の夕刊に度々掲載されている、激安ツアー等に、フラッと出かけちゃうなんてこともできるのは、日本にいるうちだっ?!?!?!、などと、次から次へと、母だけのことではなく、自分が楽しめそうな企画がどんどんと頭に浮かんできた。

 そして、さっそく、数日後に母と乳頭温泉へ2泊3日の旅行へ行くことにした←早いっ)。また、数々のレイキ交流会へ、まるで“道場破り”をするかのような日々が、これから始まっていくのであった。

 だいたい、レイキというものをやりながら、“私はレイキをやっています”ということを人に言う気がしていなかった。ま、そのくらい、心の奥底で、“うさんくせーー”と思っていたからである。

 しっかりと実践したうえで、うさんくせーと思うのだったらわかる、が、うさんくさそうだから、やらない・・・、という立場だったので、実際のところは、私は判断できない立場だったのだと思う。が、人間というのは、気が乗らないと、どうでもいい理由をつけて、それを避けたがるもの。

 私もそうだったようで、うまくレイキを利用すれば、母にも効果があったかもしれないし、自分にもいい効果があったのかもしれないが、11月までは、それをあくまでも、“うさんくせー”からという理由で、一度もトライしようとしなかった。

 人生は、短い。母を見ていても、いつどうなるかわからない人生をいうのをひしひしと感じる。そんな時、あーだこーだと理由をつけて、とりあえずトライしてからでもいいのに、トライもせずうだうだしている時間などないのだ・・・、と、強烈に思い出し、なんでもいいから、できることは今のうちにやろう・・・、と思い始めたのが、この頃だった。

 そして、12月4日に、千葉であった某レイキ交流会へ初出席。遠いから面倒くせえ・・・、という気持ちもあったが、でも、とにかく行ってみた。

 が、これが非常に感じのよいところで、時間も忘れて、会場に来ていた人達と色々な話をすることができた。日本でレイキをやっている人達は、逆に、戦後海外で発展してしまったレイキ、というものに対して素直に興味を持ってくれて、また、その海外で、レイキをやってマスターにまでなっている私の率直な感想などに、耳を傾けてくれた。

 そして、2次会会場で調子よく酒でも飲んだら、すっかり気持ちよくなってしまったものの、千葉は遠いので、早めに電車にのらないと・・・、と思い、居酒屋を後にした。

 “ああ、酔っ払いながらも、ちゃんと家へ早めに帰ろう”というまともな意識をもっている自分に、自分で“えらいっ”と誉めながら、千葉駅のホームで、東京行きの電車に自信を持って飛び乗り、そのまま座席に座って熟睡。

 もうそろそろ、東京駅だろう?!?!?!、と思って目を覚ますと、どうも私の周りに座っている人間の服装が、ちょっと東京駅に向かう人のソレとは違ってみえる・・・・。

 え・え・えっ?!?!??!。

 ジャージ率が高いのだ。そして、なんとなく乗客が妙にリラックスしすぎているようにも感じられた。4人乗りボックス席を一人占めして、全身を延ばして寝ている乗客があちこちにいる・・・・・。

 総武線って、いつのまにこうなったのか?!?!?!、と未だに自分の置かれている状況がよくわからない私・・・・。

 で、とうとう恐る恐る路線図を見ると、私が千葉駅で自信を持って乗った電車は、私を犬吠埼のほうへ運んでいることに気付き、車内で愕然とする私。

 奇しくもこの日は、台風並の低気圧が来ていて、犬吠埼などは大荒れ・・・(涙)。

 慌てて、途中の某駅で飛び降りたものの、実家まで帰れるあてはなし。豪雨の中、小さな駅で小一時間千葉駅まで戻る電車を待ち、疲れきって、その電車に乗り、千葉でまた待たされた挙句、どうにか東京駅まで戻ることができた・・・・。

 が、ここで電車はなくなってしまったので、朝までファミレスの、ドリングバーのコーヒーを、胃が黒くなるまで飲み干していたゼロでした・・・・、とほほ。


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