ゼロの視点
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2004年08月18日(水) バカンス最終日

 11時がチェックアウトなのに、10時30分になっても、まだ荷造りしてない私たち・・・・・、相変わらずだ。

 どうせ、ここはフランス、ちょっとぐらい時間が過ぎたって平気、ってわけで、急いで支度する気が最初からない。で、もしホテルの従業員に文句言われても、2人で調子よく言いくるめてOKにしてもらえる“妙な自信”がある。

 11時半頃にようやく部屋を出て、ホテルのオーナーへ宿代を支払いながら、雑談。

 昔は廃墟になりかけてたボロい建物を購入して、改装工事を重ね、今のホテルにしたオーナーCは、元々はパリジェンヌ。演劇関係の仕事もしていて、フェスティバルなどがあるアヴィニョン、アルルなどに10年前から住んでいるとのこと。

 50歳前後と思われるCは、非常にキュートで、社交的。なので、ついついサロンで長話となる。

 で、ついつい好奇心で“パリと南の生活だと随分違うと思うけれど、すんなり適合できてますか?”と、夫と私のどちらともなくCに質問。

 実はこの質問、バカンス中ことある毎に、色々な人に投げかけ続けてきているお題。

 太陽の恩恵を浴びたい一身で、南仏へ移住にトライするたくさんのパリジャンたち。そして数年後、激しく絶望して再びパリに戻ってくるという話は、ごまんとある。実際に、知人・友人にも存在するくらいだから、かなりの割合なのだと思う。

 私の友人Sは、現在トゥーロン住まいだが、以前はバリバリのパリジャン。彼曰く、南仏での生活は“ボキャブラリーを100から50に削減させて、適当にスポーツの話などを周りの人にあわせてすることができれば、幸せに暮らしていける”と、こういった状況を皮肉って語ったほど。

 これらが本当かどうかは別として、“移民”として南仏にやってきた人の生の声が聞きたかったのだ。

 これにも増して、コルシカにおいては、ホテルの従業員はほとんど“移民”といっていい状況だった。どこ出身?、と尋ねると、リールだったり、ノルマンディだったり、色々。“コルシカ人と仲良くやっていける?”と尋ねると、多くの人が“コルシカ人は働かないから、同僚にはいないんだ”という答えまで返ってきて、激しく笑いを堪えたこともあった。

 さて、Cは相当アルルの生活にウンザリしているところ、という。気候もいいし、美しい町並みも彼女は大好きだという。が、閉鎖的なのだという。おまけに、いちいち皆に挨拶するのを忘れると、あとでホテルの評判を落とすようなことを言われるので、本当に気をつかう・・・・、と洩らしていた。

 少しでも画期的なイヴェントなどをやろうとすると、どこかから横槍が入ることはしょっちゅうだそうだ。そして、企画は中断。なので、あと数年でもしたら、どこかへ違う場所へ行こうと彼女は企んでいた。

 確かに、3週間弱、コルシカと南仏でブラブラしていると、さすがのわしらでも、一瞬くらいは、こっちに移住したらどうなんだろう?!?!?!、という気持ちが芽生える。が、一瞬。

 そういえば、パリ在住の友人Gは、ブルターニュ出身。彼の父はブルターニュ地方の警察のお偉方。そんな彼は、昔はじめてコルシカへ行った時、その美しい大地に恋をしてしまい、コルシカに別荘を建設することにした。

 コルシカといえば、山間の村が情緒があって最高とばかりに、彼はとある小さな村を選んだ。そして村といえば、噂が伝わるのも早いのは古今東西変わりはなく、警察のお偉方の父を持つ“よそ者”がやってきたことが知れ渡る。

 さて、コルシカは警察嫌いが多い。もし好かれている警官なら、違った意味でコルシカ人に好かれることをしている・・・、というわけだ。

 そして、友人Gの別荘は、彼の不在中にぶち壊された。誰がやったのかわからない、が、見事に粉々になったGの別荘。

 でも、こんなことでは負けない、頑固者ブルターニュ人G。テロだの事故だのに強い住宅保険がおりたので、またそれを使って同じ場所に別荘を再建。すると、また、半年後にGの別荘が粉々になる・・・・、というを今までに3回ほど繰り返している。

 この話を突然思い出し、しばしば私は笑いが止まらなくなってしまった。壊しつづける人間もすごいが、それにへこたれず別荘の再建に意地になるGの姿を思い浮かべると、彼には悪いが笑いが止まらないのだ。

 以上はコルシカの話であり、南仏ではないのでその違いを明らかにすると同時にしたとしても、郷に入ったら郷に従えというように、多少は現地のやり方にあわせてもいいんじゃないか?、とクビをひねりたくなる私がいたりする。

 で、またそれに合わせたくないのだとしたら、住まなきゃいいだけ。

 夫と2人で思わず、

1年目・コルシカを始めて旅行して感動する。

2年目・もう一度コルシカを訪れるものの、物価が高いので次回はキャンプにしようと決意。

3年目・キャンプをしてみたものの、不便。

4年目・レンタル別荘を使ってみるが、やっぱり高いので、同じ金使うならと、別荘建設を決意。

5年目・別荘がはれて完成。

6年目・別荘がぶち壊される。

 という“コルシカ・フルコース”を諳んじて大爆笑しながら、ローヌ川沿いの道からアルルの駅まで歩いていった。


 アルルから電車でマルセイユへ。ついついRERのような電車を、いつもの癖で想像していたが、乗ってみれば座席は8人がけのコンパートメント。ううーーん、旅だわっ。

 どこのコンパートメントも適度に人で埋まっていて、やっと2人分ぐらいの空席がありそうなところを発見。巨大な荷物を、すでに座っている乗客にゴンゴンとぶつけ、それと同時に謝りながら、席に落ち着くまでに3分。ふう、疲れた。

 コンパートメントには、わしらを含めて6人。気がついたら誰ともなくお喋りしはじめて、マルセイユに到着する頃には6人のおおよその人生を語り終わったあとだった(笑)。特に、リノ・バンチュラそっくりさんのオヤジは、なかなか強烈なキャラクターだった。

 そして、マルセイユ駅で、みなと握手して別れた後、バスにてマルセイユの空港へ。後は、イージージェットに乗って、パリに戻るのみ。早々とチェックインを済ませた私たちは、空港の外にあるベンチで赤ワイン飲みながら、眼前に広がるカランク越しのサンセットを眺める。

 沈みゆく太陽に、自分達のバカンスの終わりを見たような気がし、少し寂しくなるが、ま、しょうがない。



 その後、飛行機の出発が大幅に遅れ、パリの自宅に到着したのは午前1時すぎになってしまった・・・・・。


2004年08月17日(火) ヴィデオカメラ

 ホテルでは、自分達の部屋で朝食。これは、非常に快適だが、アル意味非常に危険でもある。なぜなら、ずうっとダラダラしてしまい、出かけない可能性が高くなるから・・・・、だ。

 で、予想通り、やっと出かける気になってきたのが、午後3時・・・・(汗)。町へ繰り出すと、たくさんの観光客。それも世界各国からの観光客で溢れており、そこには日本人の姿もある。

 7月30日にパリ・オルリー空港を飛び立ってから本日まで、一度も日本人観光客に遭遇してないので、とても懐かしい感じがした。観光案内所でも日本語のパンフレットや、日本語を話すガイドなどを用意しているくらいだから、アルルという町は、それだけ日本人観光客を惹き付ける何かがあるのだろう。

 古代劇場や、円形闘技場など有名観光地へ足を運ぶと、たくさんの観光客がヴィデオカメラをもって熱心に撮影している。その撮影者の9割以上が男性なのは、本当に笑える。

 一家のパパも、ラブラブな彼も、おじいちゃんも、みんな片手にヴィデオカメラ・・・・・、ってな感じ。

 恐らく兄弟で、それぞれの家族を伴っていると思われる男性二人は、同じ場所に立ち、同じ目線から、同じようにヴィデオカメラを回している。で、きっと自分の家に戻ったら、同じような映像を得意になって見せられる被害者が続出するのだろうと思うと、ニタニタしてしまう。

 でも、撮影したものを見る意欲があるだけでもましなほうなのではないか?、と思うことしきり。きっとヴィデオカメラで撮影している瞬間が楽しいのであって、あとで編集して、鑑賞しやすい作品に仕上げるほどマニアックな人間は意外に少ないと思われる。

 何を隠そう、我が夫こそ、撮影するだけ撮影して、あとは見返すこともしない人間。何がなんだかわからないヴィデオテープが、我が家にはゴロゴロしていて、足の踏み場もない。

 が、幸いなことに、我が家の3台もあるヴィデオカメラは、すべてぶっ壊れてしまってから早4年。この先も、夫がヴィデオカメラを購入しないことを祈るのみ。

 ひらすらカメラ回すオトコ達の横で、オンナ・コドモは退屈そうに待っている姿・・・・・、明日我が身か?!?!?!と、冗談交じりに夫の耳元で囁いていく。

 夫も、そんなオトコ達をみているうちに、その中に昔の自分を再確認したのか、クルッと私のほうへ振り向き、妙に恥ずかしそうな顔をする。

 しめたっ、どうやらアホみたいにカメラを回すこと自体を、夫自らバカらしいと認め出したようだ。作戦成功か?!?!?!。

 行為自体をアホ臭いと認めたからといって、新製品のならぶ店へ行っても、誘惑に負けずにヴィデオカメラを購入してこない、というわけではないので安心はできないのだが・・・・。


2004年08月16日(月) アルル

 朝から、またヨットの掃除。もう嫌だ、と思いつつ、恩もあるのでせっせと働く、乃至は、働いているフリ。

 さて、船長Eとその彼女Mは、昨晩の“蚊事件”のこともあって、喧嘩中。ただ喧嘩といっても、Eが全くMと喋らず無視を決めていて、MはそんなEに“手伝ってやらない”という態度で対応しているだけなのだが。

 喧嘩中のカップルから醸し出される“独特の空気”というものは、なかなか興味深い。おまけに、いつもはクールな精神科医として、バリバリ働いているEが、こうしてプリプリしているのが、妙に笑える。

 さて、Eは、昔フランスでベストセラーになったという本を書いた女性Valérie Valèreの、実兄。

 昨年の12月頃、いつもように自宅の郵便ボックスを開けると、私宛にEからの小包を発見。中を開けてみると、一冊の本が入っていた。それも日本語の本で、内容は拒食症の話・・・。

 この本の表紙を開けると、扉にEの私宛の寄せ書きが・・・。ワシは拒食症でもないし(その反対で、大飯喰らい)、なんで、なんで、なんで?!?!?!。このくらい痩せろ、ってのか?!?!?!。

 まったくもって、事情を理解できなかった私は、すぐさまEに電話すると、彼の亡き妹Valérie Valèreの本が、日本語に翻訳・出版された記念に、私に郵送してくれたことがわかった。

 Eの妹は、思春期に拒食症をわずらい、両親に精神病院に入れらた。そしてその時の体験談をかなり挑発的な作品に仕上げ、出版。たちまち話題の本となり、彼女は売れっ子の作家になっていく。

 が、有名になると同時に、彼女の周りには胡散臭い人間が集い出し、やがて彼女は薬物中毒となっていく。もともと自己破壊的なところが激しく強かった彼女は、21歳で薬物の過剰摂取で他界するまで、数冊のベストセラーを出版している(←私は、まだ全部読んでないが・・・・)。

 そして、こんな過程もあり、Eは精神科医の道へ進んでいったのだった。

 ただ、ヨットの掃除しているだけだと気が滅入ってくるので、EにValérie Valèreの本の内容について、執拗に質問して、気を紛らわす。色々と裏話をゲットできて、個人的に大満足なゼロでした。

 それにしても、Eの亡き妹と、ふとした表情が非常に良く似ているEの長女J(12歳)。時には生き写しのようにも見えるから、Eの両親はどのように孫娘を見つめているのだろうか・・・・・?!?!。

 Valérie Valèreの生涯についての本なども出版されているが、個人的にはその兄であるEの生涯のほうもかなり波乱万丈で、面白そうな気がしている。人の話を聞くのが商売ゆえ、なかなか自分の話をしないEだが、時間をかけて探りたい好奇心に駆られてくる。




 さて、午後3時、港の送迎タクシーが私たちを迎えにやってくる。

 昨年は、この送迎タクシーの運転手の運転が酷く荒く、心臓が止まる思いがした等、Mから散々聞かされていたが、今回、わしらを迎えに来た運転手は同じ人間であることが発覚・・・・(汗)。

 キレイにしたヨットを後に、荷物をまとめてわしらはタクシーに乗り込む。わしら夫婦はアルルまで、そしてE一家はその先のアヴィニョンまでタクシーで運んでもらうのだが、本当にこの運転手の運転は荒いのだろうか・・・、等と考えているうちに、タクシー発進。

 ひえーーーーーーーーーーっ、というくらいのスピード狂運転手。窓からの景色が早すぎてよく鑑賞できない。タイヤも磨り減っていて、グリップの悪さがもろ尻から伝わってくる。

 乗客全員でブーブーと文句を垂れるが、運転手はお構いなし。一般道を時速180キロで走行するのだけは、勘弁してくれーーーー。

 ようやくアルルに到着した時には、みんなヘロヘロ。EとMの次女Mに限っては、タクシーから降りた瞬間、吐いてしまったほど。そんなMを見て、母のMは“今度からは、運転手にこの辛さをわからせるために、彼の顔面に吐いてあげなさいっ!!”という言葉に、思わず笑ってしまった。

 ちょっと休憩したあと、E一家はこの運転手とアヴィニョンへ向かった。ここでお別れだ。

 そして、わしらはアルルで、本日から2泊。コルシカではクルマの旅、コルシカから南仏まではクルージング、そして、わしらの最終バカンスは、徒歩での観光に切り替わった。

 アルルの観光案内所で、たまたま紹介されたホテルが見事ヒット。ホテルの窓からローヌ川が見える。まるで未だ船の中にいるような錯覚を起こすが、足元が揺れない不思議さ。

 さあ、今晩はゆっくりとシャワーを使えるっ!!、と思うと、妙に幸福に感じたゼロでした。


2004年08月15日(日) クルージング終了

Les Calanques de Sormiouではすでに3泊。連日吹き荒れる暴風も、いささか落ち着いてきたようだ。

 本日は、クルージング最終日。ヨットの巨大パーキングのある、Le Port St-Louis内にある"Port Napoléon"に到着するだけ。到着した後は、ひたすらヨットの清掃作業なのだ。

 楽しいだけでは終わらない・・・・・・・、ううっ(涙)。


 航海も終わり・・・・、と皆なんとなくうなだれながら、マルセイユの前を通過。

 “パリに次いで、フランス第二の都市”とも言うよネエ、と話していると、誰彼ともなく、“とはいえ、北アフリカの首都とも最近は言われてるよねェ”とブラックジョークが飛び交う。

 何でも、大げさに表現するのがマルセイユの人間だと、よく耳にしていた。そして、誰かが非常に大きな魚を釣ったが、あまりに大きくてマルセイユの港を塞いでしまった・・・、というタイプのジョークもよく聞いていた。

 が、実際にマルセイユの港を見ると、本当に彼らは“大げさな表現が好きなんだな・・・・”と妙に納得(笑)。


 さて、カマルグ地方にある、"Port Napoléon"にいよいよ近づいてきた。湿原地帯だけあって、ヨットが進水できるのに、そのちょっとわきでクルマを停めて釣りをしている人々がたくさんいるという、奇妙な光景にでくわす。

 その間、ほんの数メートル。この数メートルの間に、どのくらいの割合で海水の深さが変化するのか知らないが、本当に不思議だ。

とにかく、本当にたくさんの人たちが、一心不乱に釣りを楽しんでいた。時には肩まで海水に浸かって釣りする人の姿まで・・・・。


 そして、とうとうわしらはヨットの巨大パーキングに到着してしまった・・・・。ああ、終わった。


 到着と同時に全員で大掃除スタート。私とMは船内、男性陣&子供たちは甲板などの洗浄。清掃始めはうんざりしていたのだが、さすがに6人もいると作業が早い。

 掃除でヘロヘロになったところで、パーキング内に唯一あるレストランへ食事に出かける。が、ここにしかレストランがない、ということで、このレストランは強気な商売をしているのが、ちと気に障るのだが。

 レストランに入ると、非常に蚊が多いことに気づいた。とはいえ、日本に住んでいた時には、蚊がいる生活が当たり前だったので、たいして気にはならなかった。

 が、Eの彼女Mは、蚊がいるということで、俄かに狂い出してきた。彼女は蚊の刺されると、アレルギー症状が出て大変なことになるらしい。

 ってわけで、メニューで料理を選ぶまでもなく、ひたすら蚊をぶっ殺そうとするM。またそんな母につられるようにして、ヒステリックになっていく2人の娘達。

 アレルギーはわかる、が、何もそこまで・・・・、という感じも拭えなかったが、あえて放っておいた。が、あとになって判明するのだが、この行為にEは激しくイライラしていた模様。

 あまりの蚊にとうとう嫌気がさしたMは、子供達を残して食事も途中でヨットに戻ってしまった。そして、この時点でEはかなり呆れていたらしい。

 子供達はデザートまで食べ終えると、ママンことMのところへ合流するためにヨットに戻る。そして、レストランに残されたわしら夫婦とEだけで、酒飲みながら話が続く。

 普段は、ほとんど愚痴をいわないEだが、さすがに今回はMの態度にカチンときたらしく、私たちにちょっとだけ自分の気持ちをこぼしてきた。

 長年の別居を解消して、今はラブラブになってきたEとMだが、まだ完全に元通りになったわけでもないことを知る。とはいえ、こういったことを繰り返しながら、2人がいい方向へ進んでくれることを願うばかり。

 と同時に、どんなカップルでも、くだらん理由で喧嘩になっていき、それが積もり積もって別居とかになるのだ・・・、とつくづく思った次第。

 寝室で夫と“わしらも注意しようね・・・”と言い合いながら、大掃除の疲れで話のまとめもする間もなく熟睡。
 


2004年08月14日(土) ハプニング

 本日も相変わらず風が強い、Les Calanques de Sormiou。しかし、晴天。これがブルターニュだったら、風は強い、雨はジャンジャン振り、ってな感じなのだろうが。

 朝食後の一服を、甲板の上で楽しんでいた私。ふと、隣に停泊している小さなヨットの存在に気がつく。ドイツのケルンからのヨットらしい。何気なしにこのヨットをボーっと見ていると、中から50代くらいの夫婦が出てきて、出かける準備をしている。

 ボムボートを夫のほうが下ろしだし、それにモーターをつける作業を彼はもくもくとしている。そのモーターの大きさが、Eのソレとは違って、ひどく小さいので、“ま、2人だけなら、このくらい小さいモーターでもいいんだろうなぁ・・・”などと、思いつつ、ひたすらこの夫婦を観察。

 そして、準備も終わって、彼らは嬉しそうにモーターボートでビーチの方へ向かって旅立っていった。

 停泊中のヨットの上で、さしてやることもない私。観察してた人間も旅立ってしまった今、退屈になってきたので、自分の部屋に戻って本でも読むことにした。が、案の定、ベットに横になったら、熟睡していたようで・・・・(汗)。

 30分くらい熟睡してたのだろうか・・・・。ふと、まわりが突然騒々しくなったので、目が覚めると、なんと、隣のドイツ人のヨットの錨がはずれて流され始めたというではないかっと!!。

 おお、こりゃ事件だっ、ということで私も飛び起きて、急いで甲板に出る。さっきまで観察していたヨットだけあって、その時の彼らの位置と、現時点でのソレが明らかに違っているのがわかる。

 昨日は、わしらの船も一度同じ目に遭ったが、幸いなことに不在時でのことではなかったので、すぐに対処できた。

 が、彼らは30分前に、幸せそうにゴムボートで旅立ってしまった後。しかし、どんどん流され始めている彼らのヨット。



 さて、どうするか・・・・?!?!?!。

 

 まずEが、流され始めているヨットを発見したということを無線で連絡。が、応答なし。

 あと数秒で完全に錨が外れると、彼らのヨットはあっという間に沖合いに消えていく可能性があるので、彼らのヨットを救って、Eのヨットに繋ぎとめようということになった。

 Eのヨットの全長は15mなのに対して、ドイツ人のモノは7m弱。物理的につなぎ止めることは出来そうだ。

 すると、Eの彼女Mが、この案に激しく反対。人を助けて、自分も事故るということが多々ある中、そんなことを自分の彼にやって欲しくなかったらしい。

 一方、Eは、わしの夫と共に、人助けにすでに燃え始めているから、そう簡単には奴らを止められない。そして、そんなMの反対を押し切るように、Eとわしの夫は、ゴムボートで流され始めているドイツ人のヨットに接近していっ
た。

 ゴムボートのモーターを全開にしてないと、向かい風に対抗できないほどだったが、なんとか彼らは不在のドイツ人ヨットを、自分達のヨットにつなぎ止める作業に成功。

 自己満足な達成感もあり、Eとわが夫が満面の笑みで戻ってくる。そして、どんなことをしてやっと繋ぎとめたか等、の彼らのヒーローストーリーを甲板で聞かせてもらっているところに、例のドイツ人夫婦がゴムボートで戻ってきた。

 彼らは、自分達の船がどうなっているかはわからなかったものの、突然、2人組みの男性が乗ったゴムボートがソレに接近して、繋がれていくのをみて、一瞬、強盗にあったのか・・・・、と思っていたらしい。

 それを、バカ正直に話すドイツ人。また、それにバカ正直に反応するEの彼女Mは、怒りまくる。

 一方、海では、一度錨が完全にはずれて、流された船を発見したら、それを発見してゲットした人間のモノになる、というオキテがあるらしい。これを聞いて、ビックリした私だったら、もしそれが本当で、これを実行したら、ドイツ人の船は、Eと夫のもの。

 この辺をちょっと恩を着せるようにEが、ドイツ人に伝えると、一度彼らは自分達のヨットに戻って、きちんと係留し直してから、お礼にドイツから運んできたビールを持ってくるという。

 Eの彼女Mは、“けっ、たかがビールなんてっ”とまたまた怒っている。


 さて、わしらは、このドイツ人たちの繋留作業をパスティス飲みながら観察していた。そして、彼らは四苦八苦した後、なんとか無事にソレに成功。休む間もなく、ビール片手に彼らはゴムボートに乗り込み、私たちのヨットに向かって進み出した。

 すると、第二のハプニングが発生した。あとちょっとでわしらのヨット、という時点で、彼らのゴムボートのモーターがぶっ壊れたのだ。

 なんとか、モーターを作動させようと、紐をひっぱり直すドイツ人。何度も何度も同じことをやりながらもまったく作動しない彼らのモーター。そしてこんなことをやっているうちに、どんどんと波に流されて、私たちのヨットから離れ、豆粒のように小さくなっていく彼らの姿。

 哀れなドイツ人の姿を見て、ますます怒りを募らせていくM。とはいえ、ここまでみじめな航海者を見て、放っておけないと考えるEと我が夫は、再びゴムボートに乗り込んで、彼らを助けに行く。

 実際の援助作業をするのは、E。それにくっついていき、フランス語を全く話さないドイツ人らの通訳として活躍するのが、わが夫というわけだ。使命感と緊張感にみなぎったEの隣に、どこか楽しそうな夫の姿をみて、私は、怒り狂うMの横で、ひとり大爆笑。

 この夫の姿は、まるでインチキ・フランシスコ・ザビエルのように見えたからだ。


 ま、それはいいとして、2度も助けられたドイツ人を連れて、Eと夫がわしらのヨットに戻ってきた。

 戻ってくる気配を感じて、怒りの頂点に達していたMは、子供達を連れて船底に篭ってしまったので、私が彼らを歓迎した。

 ドイツ人夫婦が持ってきたビールは全然冷えてなかったので、“チェっ”と思いつつ、笑顔をキープ。それでいながら、船底にわざとビールを持っていき、Mにそれをみせて、“全然冷えてないよ”と伝え、Mの怒りをヒートアップさせてみる。

 で、また調子よく甲板に戻り、ドイツ人夫婦のインタビューに参加。まるで戦後直後に捕まったドイツ人を尋問するようで、おもしろい。

 しかも、Eはユダヤ人。ユダヤ人がドイツ人助けて、ドイツ人に占領されて迫害されてたフランス人が英語で通訳。おまけに、笑顔で戦中、ドイツと同盟組んでた日本人がそれに対応する不思議。

 船底に篭りきっているMに、甲板に来るように諭しても、彼女は決してやってこようとしない。

 また、ドイツ人のほうとしても、ここまでの失態をして、まずパニクっているのと、もしかしたらわしらに脅されるのではないか?、と妙に構えている。

 このように奇妙に緊迫している時は、わしら夫婦の出番。ギャグやってナンボなので、ドイツ人夫婦をリラックスさせて、話させる方向へ進めていく。そして、彼らがドイツでどんな生活をしているかを大体掴んだ。

 ドイツ人夫のほうは、なんと自動車製造業者のためのエンジニアー学校の先生だという。それを聞いた瞬間、みな言葉には出さなかったが、心の中で“ゴムボートのエンジンも修復できないのかよーーー”っと激しくつっこみ。

 そして、昨日から、マルセイユをスタート地点にして航海に出た彼ら。昨日の時点で、マストより前にある三角帆であるジエノアが破けてしまって、トラブル続きだということも知った。

 それを聞いて、Eが“ああ、わかった、昨日は13日の金曜日だからですよっ、きっと”と、慰めともなんともとれないようなコメントと入れる。でも、それを聞いて、ハッとしたドイツ人夫婦は、“ああ、そうだっ、きっとこれが理由だっ”と、元気になってきたので、妙に笑えた。

 
 ところでEの外見は、真っ黒に日焼けした全身に、カーリーヘア(天然)。遠くから見ると、アラブ人のようにも見える。実際には物凄く優秀な医者なのだが、何も知らない人間から見ると、怪しい人物そのものにも見える。

 恐らく、ドイツ人夫婦もEに対して、怪しい印象を捨てきれなかったのだと思う。なので、私が英語で彼らに“貴方達は本当にラッキーですよ。というのも、彼はヨット競技でも素晴らしい成績を上げているからこそ、瞬時に判断ができるわけであり・・・・云々”と、一応、Eの宣伝をしておいた。

 また、船底で怒り狂っているMに対しても、“Eの彼女であるMも、ヨット競技においては彼女もセミプロ。ゆえに、こういった油断から引き起こされる事故にはナーバスにならざるを得ないんですよ・・・”と説明。

 これを言った時点で、少しドイツ人夫婦の被害者意識が解けたようだった。とはいえ、ビール以外に、もっとわしらに礼をしようという感触は得られなかった。

 というのも、Mは、ここまでしたのだから、もっと礼をしても当然と言い張っていたので、それがどこまで通用するのか、我が身を持って交渉してみたかったのだが・・・・。

 小一時間ほど甲板でドイツ人夫婦を囲んで話をしたあと、彼らは自分達のヨットへ戻っていった。帰り際、彼らがフランス語をわからないことをいい理由に、ふとわしらの方を振り返ったEが、“強いといわれていたドイツ人が、どうして戦争に負けたかわかったような気がした”と発言。私は、もんどりうつほど大爆笑してしまった。

 ドイツ人夫婦が去った後、色々とわしらで議論が白熱。結局、わしら夫婦とEは、それでも人を救ったのだからそれで満足と言うのに対し、未だに面白くないM、という図式。

 救うことに対して、見返りを求めてもしょうがないよ・・・・、と諭したが、彼女はなかなか怒りを消化できない様子だった。

 10年中国に住んでいた夫もそうだが、私も異国に住んでみて、みかえりのない援助にどれほど感謝していることか・・・・。だからこそ、見ず知らずの人でも困っていたら、できる限りのことは援助したい・・・、という気持ちが自然に発生するようになっている今日昨今。

 それに対して、未だ母国を出て生活したことのないMには、ピンと来ない様子だった。それは、それで仕方ないのだが。



 あとになって、Eが、“今日の出来事を、ボクのおじいちゃんが知ったら・・・”と何度もうわごとのように言うので、それについて尋ねてみるた。すると、Eの祖父は、第二次世界大戦中にパリでゲシュタポに捕まって以来、戻ってこなかったということがわかった。

 それに対して、我が夫は“そんな歴史がありながら、それでもドイツ人を助けたってことは、かえってユダヤ人の誇りになるよっ”と答えていた。


2004年08月13日(金) 岩登り

 夜は、暴風の音で何度か目が覚めた。どんなところでも熟睡できる私が目覚めるのだから、かなりの暴風だったはず。

 が、暴風なのに船は揺れない。不思議なことだ。そのくらい風が四方八方から同時に吹き付けるので、船が風で固定されて動かないからだ。それでも、入り江から沖にかけて、船を押し出すようにする波の動きは速い。

 船長Eは、こんなことも考えた上で、錨を2つつけておいたのだが、朝食後、ボーっとしていると、突然、わしらの船が流され始めた。

 ま、そのくらい強い力が働いていたのだろうが、大慌てでひとまず錨をあげて、船の位置を修正してから、錨2本を下ろし直す。ふーっ、一安心。

 錨が外れてからの、船の流され方は非常に早かった。こんなことが、不在時にあったら、どうするんだ?!?!?!、と思ったほど。


 昼食後は、せっかくLes Calanques de Sormiouにいるのだから、と、岩登りをすることにした。ゴムボートで岩場に行き、そこからとりあえず見晴らしのいいところまで全員で登る。

 岩場からEのヨットを見ると、今回はしっかりと停泊している。ゆえに心配事もなくなった今、さて、みんなで本格的に岩登りして、断崖のてっぺんまで進み、その向こう側の景色を楽しもうということになったところで、Eの彼女Mが、“やっぱりやめた”と発言。

 ということで、E家族は岩登りを中止して、わしら夫婦だけが続行することになった。Eは、適当に時間を見計らって、後で再びゴムボートで迎えにきてくれるとのこと。

 また、コルシカのレストニカ渓谷に引き続き、“バカの高登り”が始まった。しかし、ビキニで岩登りをするのは始めて。バランスでも崩して、ひっくり返ったら、全身ズル剥けになりそうなので、ちと不安。

 とはいえ、登り出すと止まらない。途中、同じようなことをしている男性二人組とすれ違いざまに、“もっと上へ行くと絶景だから”と薦められ、ひたすら登る。

 そして、突然開ける視界。おおっ、これが断崖の向こう側だったのかーーーーっ、と意味もなく2人で叫ぶ。なんてわしらは単純なのだろう・・・、と思うが、自己満足の達成感は、こうも人をアホにさせるから笑えるのだ。

 足元は非常に乾燥しており、クダリは非常に滑りやすい。あらゆる小石などが、ザラザラと下へ落ちていく。安定してそうな石だと思って、ふと足を下ろすと、そのままグラグラと落ちそうになること数度あり。

 それでも、全身ズル剥けになることなく、ほぼ下りきったところでEのゴムボートを発見。その瞬間、妙に気が緩んだ私は、最後の難関を下ろうとして、巨大な岩場に、カエルが踏み潰されたようなスタイルで張り付いていたのだが、右手を次の岩場に指をかけた時、その岩の一部がはがれたのだ・・・。

 ひえーーーーっ、と焦れば焦るだけ、ますますカエルが潰れたような状態のまま身動きが取れなくなる私。膝などを使って体制を整えたいところだったが、なんせビキニゆえ、ヘタに足などを使うと、私が当初から不安だった全身ズル抜けになる恐れがあるゆえ、それはやりたくない。

 なので、とりあえず“助けてくれーーーっ”と叫んでみた。で、叫んだら気が楽になったのか、この体勢から抜け出すコツを発見して、どうにかクリアーできた(笑)。めでたし、めでたし。

 いやあ、それにしても、みっともなかった・・・・。やっぱり、ビキニでは岩登りはやるまい、と心に誓ったゼロでした。


 
 ゴムボートに無事乗り込み、そのままみんなでビーチへ。

 Les Calanques de Sormiouは、夏の間はここへの観光客のアクセスは大幅に制限されており、プライベートビーチのように人が少ない。唯一のアクセス手段は、船ぐらいなのだろうか・・・。

 ビーチへ到着すると、暇そうな現地の警官がいたので、夫がさっそく話し掛ける。色々な話を聞いているうちに、ビックリする情報が耳に飛び込んできた。

 なんと、さっき私たちがやっていた“岩登り”は、禁止されていたのだったっ!!。詳細を言えば、全面禁止ではない。午前11時まではOKなんだそうだ。が、それ以外の時間帯に岩登りをしているところを、警官に発見されると300ユーロ近くの罰金を支払わなくてはいけないとのこと。

 再び、ひえーーーっ。

 山火事を防ぐため、という理由らしいが、それにしても捕まらなくてよかった。1人300ユーロといったら、わしら夫婦2人では600ユーロの出費。痛いぞ、これは・・・。(実際に酷い山火事があったらしいが・・・)。


 ビーチへE&Mの娘たちを遊ばせておいて、大人4人でカフェでビール。子供がいないからこそできる話で盛り上がる。こういう話になると、突然会話に積極的に参加しだすゼロ、とE&Mに激しく突っ込まれた。

 ま、確かに、そうなんだが・・・・。
 


2004年08月12日(木) 日焼け

 朝食後、全員でゴムボートに乗って、Cassisの町へ上陸。隔絶された空間から、突如町へ出ると奇妙な感じだ。さすがバカンスのハイシーズンだけあって、人、人、人。

 遊覧船乗り場には、たくさんの観光客が列をつくって並んでいる。確かに、クルージングなどをしてなければ、わしらもあの列にいたんだろうか?!?!、と不思議に感じた。

 クルージングもよい。が、シャワー使い放題のホテルも恋しい、って感じな私。やはりすべてを享受することは難しい。水の使用量に制限があるヨット生活。わたしゃ、頭が痒くてしょうがない・・・・。

 カフェにて、生ビール飲みながら、束の間の地上生活を満喫したあと、再びゴムボードでヨットに戻る。が、波が高く、ヨットに到着するまでに全員びしょ濡れ。

 濡れた身体を乾かすように、甲板で大の字になって寝転んでいたら、どうやらそのまま熟睡してしまった私。37歳だというのに、こうしてどんどん肌を焼いていってしまってよいのだろうか?!?!?!、と不安になるが、もうしょうがない・・・。

 日焼けを気にして、いつもいつも船底に篭っているだけのクルージングなんぞしたくないわけであり・・・。ま、これも運命だ・・、と諦める。とかいって、数年後泣きを見るのは自分なのだろうが。

 午後3時過ぎに、Cassisを出発し、一路Les Calanques de Sormiouへ。風は強いが、四方八方から滅茶苦茶に吹き付ける風だったため、モーターをつけて進む。荒れた海をボーっと眺めていると、引き込まれそうになるスリル。これが、好きなんだなぁ・・・。

 Les Calanques de Sormiouには、今晩から数泊する予定。一息ついたところで、甲板でチェスなどを楽しんだ後、夕食。風が荒れ狂ったように吹いている中での食事というのも、悪くはない。これが毎日だと嫌なんだろうが・・(笑)。

 就寝前、しみじみと自分の姿を鏡で見る・・・・。

 本当に、激しく日焼けしている・・・・。

 いいのか、これで・・・・?!?!?!。


2004年08月11日(水) セーリング

 昼過ぎまで、相変わらずIle de Porquerollesの入り江にヨットを停泊させたまま、わしらはそこから海に飛び込んで海水浴。

 朝食後に、とりあえず“海にドボーン”という生活が癖になりそうだ。海の水が限りなく透明で、水中眼鏡をつけて海中に潜ることなく、水面下が拝める快感。

 停泊中のヨット族に向けて、商売上手な人間がボートでクロワッサンを売ってまわる。わしらもついつい食欲に負けて、クロワッサンやバゲットを購入。ううん、やられた・・・、と思いつつ。

 と同時に、これがオニギリと味噌汁だったらもっといいのに・・・、等と、ひとり心の中で呟く私。潮風に吹かれながら食べるオニギリは、たいそう美味しいだろうに・・・・。

 
 さて、昼過ぎに出発。本日の行き先は、Cassis。

 風もないので、モーターで小一時間ほど進むと、だんだんといわゆる“セーリング”するのに都合がいい風が生じてきたので、ここでモーターを切る。いよいよ青空の下での、セーリング体験。

 まずメインセールをはり、次にジエノアというジブセールをはる。この作業がなかなか体力を必要とする。そして、セーリングで重要なロープワークの一貫を見学(←たまに手伝うが・・・)。

 グループワークなので、息が合ってないとなかなかうまく行かない。協議中などは仲間割れして、ヨットの速度が落ちることもあるらしいから、なかなか興味深いものだ。

 セールをはるだけでも面倒くさい作業なのに、これを風と進行方向の具合でちょくちょく張り替えながら進まないといけないのがセーリング。

 もともとヨットは風上に向かって一直線に進めないので、斜めにジグザグで進んでいく。そして、その方向転換として用いる作業が、タッキングといい、風を受けるジエノアという、メインマストより先にはってある三角帆を、随時はりなおして進まなくてはいけない。

 これをはり直すたびに、ヨットが左右に大きく角度変化。ジエノアが左に膨らんでいた時は、右側が海面スレスレになり、また逆もしかり、という感じ。

 そして、角度が変化するたびに、乗組員のわしらも場所をかえる。

 途中から、船長Eに変わって、夫が舵を握らせてもらった。が、ヨット初心者にとっては、いくら説明されて頭でわかっていても、なかなかジグザグで進んで行くという感覚がつかめない。

 目的地は右側にあるのに、左側へ進まなくてはならない仕組みを、身体で覚えるには時間がかかる。

 すると、わしらの前方に失速しはじめたヨットを発見。こうなると船長Eのレース魂に火がついて、“絶対に追い抜いてやる”というモードに切り替わる。そして、Eのアドヴァイスにのっとって、夫は舵を取り、残るわしらは指示に従いロープワークや、帆の張替えなどをする。

 これが、最初は面倒くさいと思っていたのだが、なかなか面白いのだっ!!。こんなことしょっちゅうやってたら、いつか癖になってそうで怖い(笑)。

 そのうち、どうやらEのヨットがなかなかプロな動きをするのを察知したらしい、周りのヨット2艘が、Eの動きをそのまま真似てくる。

 Eのヨットが帆を張り替えた瞬間、後ろの船も一斉に帆を張り替えて、いかに有効に進むかを競ってくるから面白い。ああっ、だんだんとドーパミンが出てくる・・・・っ。

 夫は元来なら人に命令されるのが大嫌いなのだが、今回は自分があまりにも初心者ゆえ、非常に素直にEに従っている。じゃないと、抜かれるものね、夫よ(笑)。

 結局、Eのねらい通り、抜きたいヨットはほとんど抜けた。みなで、“今ごろ抜かれた奴らは、激しく落ち込んでいるに違いないっ”“で、精神科医のところへ行って、鬱だなんだと自分を語るんだろうなぁ”と笑う。

 というのも、船長Eは、本業は精神科医。もし本当にヨットを追い抜いて、相手がガックリして、彼のところへ患者としてやってきたら・・・・、と考えると妙に笑える。

 こんなことをしているうちに、目的地のCassis脇の、ヒトケの少ない入り江に到着。ここで停泊すると揺れる一晩になることはわかりきっていたが、景観の美しさを優先。

 日没頃からのんびりと夕食。Eが一番好きという、Léo FerréのCDをかけ始めた。すると、Eの彼女Mがイライラした顔で甲板に上がってくる。なぜなら、MはLéo Ferréが大嫌いなゆえ・・・。

 そして、甲板のうえでLéo Ferréについての大論争がはじまった。夫もLéo Ferréが大好きなので、当然Eの側につく。そして、MとMの娘達はLéo Ferré
大嫌い派。

 ある程度議論が白熱した時、ふと沈黙が訪れた。その直後、全員が私のほうを向いて、“で、ゼロはどっちなのよっ!!”と詰問されたので、のらりくらりと“Léo Ferréは好きだけれど、Léo Ferré命ってわけじゃないし、彼のあまりにもメランコリックでいる自分が大好き、ってところはどうかな・・・、って思うわけであり・・・”、と答える。

 いずれにしても、Léo Ferréごときで、ここまで熱くなれないので(笑)。しかし、こうやってムキになって話している人達をみながら、自分だけちょっと引いて、うまい酒を飲むのは楽しいものだっ!!!!。
 


2004年08月10日(火) 交渉

 朝目覚めると、C嬢がすでに朝食を用意しておいてくれた、感動。C嬢は私とはまったく違って、本当に良く出来た日本女性の鏡。見習わなくては・・・・、と思いつつ、出されたものを頬張っている私・・・・(汗)。

 彼女もひとりっこなので、最近、色々と日本にいる両親のことについて考えることがあるらしい。幸い、Cの彼であるRは、日本語が強烈にペラペラなので、彼女の両親とも意志の疎通になんら問題がないのだが。

 とはいえ、普段はスペインはアンダルシアに住むR&C。そこからC嬢の実家までは直行便もなく、なかなか里帰りは大変らしい。まだ彼女の両親はボケることもなく元気だからいいものの、私の話などを聞いて、しきりと“人事ではない”と言っていた。

 R&Cに丁重にお礼を行った後、午前11時までにヨットに戻るようにE船長から言われていたので、それに合わせて港へ急ぐ。

 港で少し待つこと5分、Eがゴムボードで私たちを迎えに来る。また、クルージングが始まるのだ。


 さて、いよいよ出航しようという時、問題が発生した。わしらのヨットの前に後から停泊していた、初心者風の家族のヨットが邪魔して出航できないのだ。

 昨日の朝、彼らにそこに停泊するのは違反だ・・・、と申し出ていたのにもかかわらず、彼らはその意見に耳をかさずヨットを動かそうとはしなかった。

 おまけに、わしらのヨットの錨は波にもまれて、岩の下に食い込んでしまっており、前方に進んで食い込んだ錨の位置を変える必要がある。なのに、隣人のヨットがある限りそれができない。

 船長Eは、まず素潜りして錨の様子を調べる。その深さ8メートル。それに続いて夫も素潜り。が、急いで潜ってしまったため、途中で耳が痛くなったらしく、無念の表情で海面に上がってくる。

 しばらく、こんなことを繰り返しているうちに、誰ともなく、隣人に交渉して別の場所に移動してもらうのが一番ということを言い出した。

 まったくもってその通り。

 じゃ、誰が交渉するか?。

 実は、船長Eは、意外に頑固だったりする(笑)。人に頭下げて頼むぐらいだったら、相手が出航するまで我慢して待ったほうがいいと考えるタイプ。

 また、その彼女Mは、それに輪をかけるように頑固&アグレッシブ。もう今まで散々、この迷惑な隣人のことをこき下ろしているから、そんなヤツに頼みたくない、というわけだ。

 そこで、私か夫か?、ということになる。こういうことに強いのは、夫。本当に強い、というか、意地だとか見栄などがない。実に、哀れに自分達が動けない理由を話し、あっという間に隣人に船を出させることに成功してしまったのだ(笑)。

 その様子を見ていたE&Mは、本当に驚いていた様子だった。また、そんなことで驚くE&Mをみて、私たちが今度は驚いてしまった。いずれにせよ、夫がやらなかったら、私がやってたであろうし。

 もじもじしててもしょうがないし、怒りを溜めながら我慢しているのも時間の無駄・・・。となったら、例え調子よくでもいいから、相手のことを責めずに交渉することは必須と思うのだが、これがなかなか彼らには出来ないことだったらしい。

 アジア的交渉術とでもいおうか?。時には下手にでたって、別に負けたわけでもないし、自分のやりたいように結果が最終的に得られるのだったら、それでいいじゃないか?、と思うのだが、どうだろう。

 

 その後、無事に出航することが出来たものの、E&Mの娘達がまたまた体調が悪くなったので、今度は同じIles d'Orの中の、もう一つの島、Ile de Porquerollesで停泊。

 長いこと泳いだ後、ゴムボートでIle de Porquerolles本土へ。カフェで生ビール飲んでくつろぐ。また、晩飯の材料を大量に買いこんでヨットに戻り、料理。

 今晩は波もなく、快適な一夜になりそうだ。


2004年08月09日(月) 懐かしい島

 あまりに激しく船が揺れるので、目が覚める。昨晩は午前3時半すぎまで甲板で頑張ってみたものの、その後熟睡。朝の7時ぐらいにはまた甲板に復活しようと思ってたのに・・・・・(汗)。

 甲板に上がった時はすでに午前8時半すぎだった。どうやら、Iles d'Hyères(Iles d'Or)という3つの島のうちの一つである、Ile du Levantにヨットは接近中。

 風が以外に強く、なかなか接近できなかったが、どうにか錨を下ろすことができた。


 さて、Ile du Levantといえば、私にとっては思い出の島。夫と知り合った1998年の夏のバカンスに訪れたのが、ここだったのだ。今回のコルシカ旅行中も、帰りに6年ぶりにIle du Levantへ立ち寄れたらいいねえ、等と夫と話していたほど。そうしたら、船長Eが気を使ってここに停泊してくれたのだ。メルシーっ。

 今、Ile du Levantにはかなりのパリジャン・パリジェンヌの友人らがバカンスを過ごしている。なので、ヨットからさっそく彼らに携帯で連絡をとって、島内の中心部のカフェであうアポ取り。

 6年前の夏は、この島でダイビングをして楽しんだ。フランス語もほとんどわからないまま、それでもかなり楽しい思いをしたと記憶している。

 そして、なんとかフランス語がこなせるようになってきた現在、再びこの島を訪れ、昔はコミュニケーション不可能だった店の主人だの、顔見知りなどと挨拶や世間話ができる、ちょっとした達成感は、かなかな快感。

 船を下り、島の中心部まではかなりの登り。わしらはかつて知った道なので疲れなかったが、この島がはじめてのE&M家族は、ちょっと登りに苦しんでいた。特に、3週間も船で生活しているEは、身体に船の揺れが残っているらしく、歩き方が妙で笑える。

 ようやく島の中心部に到着すると、CAとCOの熟女パリジェンヌが私たちの姿を見つけて走り寄ってきてくれる。

 この島は、完全ヌーディスト地帯と、ちょっとだけ秘部をかくして歩く地帯の2部に別れている。で、中心部などは、ヌーディストではなくトップレス地帯ゆえ、走りよってくるCAとCOのオッパイがブルンブルンと揺れている。

 奇遇なことに、船長EとCOも顔見知り。オッパイ丸出しのままCOがEに“あーら、あなたにここで会えるとは思わなかったので、私とっても嬉しいわーーーーっ”と熱烈な抱擁。

 その脇で、Eの彼女Mのこめかみに筋が一瞬たったように思われるのは、気のせいか?!?!?!。

 さて、E&Mの娘たち(12歳と9歳)は、非常に微妙なお年頃。ヨットを降りた地点で、ヌーディストオヤジたちのフルチン姿を見て、激しく拒絶反応を示す。そして、中心地に上がってきても、フルチンまでとはいわずとも、見えそうで見えないような際どいオヤジがウロウロしているのに加えて、女性陣もオッパイもろだしでユサユサさせているので、完全に気分を害している。

 特に12歳の長女のほうは、もうすぐ初潮がはじまる頃。自分の身体の変調を受け入れきれてないゆえ、こういった女性性を直視することがあまり好きではないようだ。

 それに対して父でもある船長Eは、できればここでわしらと一緒にブラブラしたいのだが、娘達の拒絶反応も無視できず、中心地を降り船に戻り休息することになった。

 Eも徹夜の航海で疲れているので、今晩はここで停泊するとのこと。なので、遠慮なく私たちは、この島の知人・友人らを訪れて歩くことにした。

 そして、さっそくこの島に夏の間だけ住んでいる日仏カップルR&Cのところへアポなし訪問。6年前にこの家に宿泊させてもらっていた時は、Rはまだ独り身だった。とはいえ、それなりのハーレムを築いていたのだが(笑)。

 その1年半後、RはCと出会い、今は昔からは想像できないほどかなり落ち着いた生活を送っているのが、妙におかしい。

 玄関に私たちの姿を見つけた、素っ裸のR&Cが、手厚い歓迎をしてくれる。嬉しいものだ。そして、彼らの家の隣人宅へそのまま遊びに行って、アペリティフ。パスティスがうまい。

 6年前は、アペリティフの時間、フランス語の会話についていけず、つい調子にのって酒をクイクイと、注がれるまま“わんこソバ”のように飲んでしまい、途中で寝てしまうことが多かった。そのおかげでみなに“ゼロはよく寝るから大きくなった”と、訳のわからぬことを言われたのが懐かしい。

 アペロの後は、近所のホテルへ。ここにも知人・友人が集っているので、一緒にランチ。この島全体が物価が高いので、ホテル暮らしをしている人たちの年齢は決して若くない。20代ぐらいだと、かなり金銭的にかなり苦しいと思われる。

 ホテル併設のプールでは、真っ裸の男女がイチャイチャしながら泳いでる。それを眺めながらのランチ。ちなみに私はここのメンバーの中では、かなり若いほう・・・・(汗)。

 たらふく飲んで、食ったあとは、R&Cの家で昼寝をさせてもらう。船とは違って揺れないベッド、なかなか気持ちいいものだ。


 そして、結局R&Cの好意に甘えて、彼らの家に一泊させてもらうことになった。晩御飯は、C嬢お手製の麻婆豆腐。うまかったーーーーーーーっ。

 R&Cらの友人もまざり、食後はえんえんと宴が続いた。そして、突然Rが日本のCDをかけ始める。なんと中島みゆきとテレサ・テン。爆笑してしまった。

 みんな真っ裸で、テレサ・テン・・・・・・・。


2004年08月08日(日) 船酔い

 私はどうやら快適に熟睡したようだった。起床すると、すでに他のメンバーは皆、起きていた。明るくみんなに“Bonjour!”と挨拶すると、みなの反応が悪い。

 どうしたのか?、と思えば、私を除く全員がみんな船酔いしていたのだ。夫は比較的軽かったが、それでも一瞬吐きそうになったと言っている。

 確かに、昨晩、ヨットはかなり揺れていた。が、そんな状態でも平気で熟睡をして、元気な私をみて、みなが逆に驚いている。

 そういえば、中学生の頃、台風の影響で結構になるか否かの寸前で結局出向したフェリー“宮崎〜川崎”間に乗ったことがあるのだが、当然乗客のほとんどは“ゲロ袋”を肌身は離さずうずくまったままだったのを、昨日のように思い出す。

 一方、私は全然平気だったので、誰もいないように思われた船内を、ユラユラ揺れながら歩きまわって楽しんでいた。なにせ、予想もつかなく激しく揺れる船内だったので、そこでバランスをとって歩くというのが、一種のゲームのように感じて、楽しかったのだ。


 
 船長のEも、かなり具合悪そうだ・・・・。子供達は完全アウト。E&Mらはもうクルージングを始めて3週間目だというのに・・・。

 午前10時過ぎには出発する予定だったが、こんな具合だったため、出発を遅らせる。気分転換にと、みんなが次々にヨットから海に飛び込みだす。私もそれにつられて、飛び込みと、あーら気持ちの良いこと・・・・。

 船酔いしていた人らも、こうして海で泳いでいるうちにすっかり元気になっていったようだった。


 さて、本日は終日航海予定。コルシカから一気にフランス本土近くまで進む予定。

 停泊中は波にもまれて苦労したのに対し、一端航海しはじめると風がピタっと止んでしまい、帆を広げながらの快適クルージングが難しくなってしまうジレンマにずうっと悩まされているE。

 ゆえに、結局モーターを使って進まざるを得ず、Eは相当イライラしていたのだと思う。ま、彼は大人なので、そういった葛藤をいちいち表には出さないのだが。

 が、幸いなことに夕方頃からだんだんと適度な風が出てきて、モーターを止めて、本来のクルージングができるようになってきた。

 クルージング初心者の私は、別にモーターでもいいじゃん・・・、などと思っていたのだが、実際にエンジン音もなく、風をうまく利用して進んで行く楽しみというものを少しでも感じ始めると、だんだんとEのいうヨットの楽しみというのが理解できるような気がしてきた。

 以前にも書いたが、遊覧船とか、フェリーぐらいしか乗ったことのなかった私なので、船=モーターがあって当然、って感じだったのだが(笑)。


 今晩は、どこにも停泊する予定なく進むので、大人4人が交代で見張り。幸いにもオート運転機能もついているので、船長Eも適度に睡眠がとれる。また、問題が生じない限りは、オートにしておいて全然OK。

 真夜中に、甲板に出て潮風にもまれながら、パスティス飲んで星空を眺める。遠くに見える船の光の色で、その船の進行方向をチェック。衝突する可能性がないのを確認すると、再びパスティス飲んで、星空を眺める。

 午前2時過ぎになってくると、見渡す限り船の光もない。少しかけ始めた満月の光が、海面に反射しているだけ。本当に、このヨットだけが世の中に存在しているような、奇妙な錯覚に何度もとらわれる。

 船長Eは、国際ヨット競技大会で数年前に第4位になったほどの腕前。なので、甲板でうとうとしながらでも、何か異変を感じたらふと対応できるらしいから頼もしい。ただし、モーターをつけていると、この勘はまったく働かなくなってしまうという。

 自然のささいな音を聞き分けることによって、色々な危険の兆候を察するらしいのだが、それをモーター音が全部かき消してしまうらしい。

 午前3時半も過ぎた頃、さすがに眠くなってきたので、Eと夫を甲板に残し、私は就寝。あと2時間もすれば、今度はEの彼女のMが彼らに合流して、今度は夫が就寝という予定だ。


2004年08月07日(土) 太陽がいっぱい

 値段も、サービスも、雰囲気も、何もかもが私たちのお気に入り、というホテルを見つけたというのに、そこを立ち去らなくてはならないという矛盾に苦しみながら、チェックアウト・・・・。

 Ajaccioに到着して、私はE&Mカップルとの待ち合わせ場所になっているカフェへ直行。夫はその間にレンタカーを返しに行く。

 昼過ぎに、ようやくE&Mカップルとその2人の娘達、J(12歳)とM(9歳)がカフェに現れる。さあ、いよいよこれから、第一部のクルマの旅が終わり、第2部の船の旅が始まるのだ。

 遊覧船だの、フェリーだの経験はあるが、10日間もひたすら船を中心にしての旅というのは、私にとってはよくわからない。ただ、流されてみましょう・・・・、という感じ、だ。

 Eから、さんざん荷物は極力少なくしてやってきてくれ・・・、といわれていたのに対し、絶対に少ない荷物で旅行のできない夫。そんな夫の荷物をみて、Eは一瞬絶句していたが、ここまできて荷物を捨てるわけにも行かず、そのままゴムボードに積まれることになった。

 本来なら、ゴムボートに全員が乗り込んで、ヨットにたどり着けるはずだったのに、わしらの荷物のおかげで、Eはヨットと港の間をゴムボードで3往復するはめになってしまった・・・・(汗)。

 
 ヨットに乗り込んでからは、Eからの“ヨット生活”での注意事項や、基本事項などの説明を受ける。たくさんのロープなどの扱い方などは、一度聞いただけじゃ覚えられん(汗)。

 Eが“どんなロープでも決して船の下、つまりは海の中にダラダラとたらしたままにならないように注意すること”と言われる。そうじゃないと、公開中に船の下で紐が絡まる可能性があるからだ。

 この説明を聞いたとき、ふと映画『太陽がいっぱい』を思い出した。まさしくこの映画では、捨てたはずの死体を結んだロープが、船底のスクリューに絡まっていたために、アラン・ドロンの完全犯罪がオジャンになるというもの。

 また、航海中はヨットの後ろにゴムボードをつけたまま進むことが多いのだが、そういえば、この映画ではアラン・ドロンが、モーリス・ロネのいじめで木製ボート(この当時はゴムボードではなかった)に放置プレイを食らうシーンなども、思い出す。

 ここに放置されて、おまけにうとうとと眠っちゃったら、さすがに日焼けしすぎて火傷になるよなあ・・・・・。

 ふーん、なーるほど・・・、等と、ひとりで映画で白昼夢。また、同じように船の中での傑作映画で、ロマン・ポランスキー監督の『水の中のナイフ』等も思い出す。

 こんな感じで、実際にヨットにのって航海がはじまると、ただスクリーンで見ただけの様々なヨット・シーンなどが、ある意味リアルに理解できて楽しいものだ。

 E&Mカップルは知り合ってすでに15年以上。2人の娘もいて、一見幸せそうなカップルでもあるのだが、実は昨年までの数年間、完全に別居していた。結婚していたわけではないので、離婚とはいえないが、ま、ほぼ離婚状態。

 が、昨年の末あたりから急速に2人の仲が修復されていって、今は生まれ変わったかのように2人でラブラブになっている。

 ゆえに、きっと家族4人だけでクルージングを楽しむことも可能だっただろうに、そこにわしら夫婦を招くという冒険に出たE。

 映画『水の中のナイフ』では、一組の倦怠期を迎えた夫婦のところに、1人の青年が混ざって、そこから色々な心理ゲームが繰り広げられるのに対し、今回は、わしら夫婦、そして彼らの子供達という6人でのクルージング。

 下界から遮断されたヨットの中で、いったいどんなことが起こるのか?!?!?!。

 ま、きっとたいしたことも起こらんのだろうが(笑)。


 
 夜は、おとといクルマで訪れたles Calanques de Pianaの脇にヨットを泊めて就寝。断崖の上から見た海と、海からみあげる断崖。なかなか面白いものだ。


2004年08月06日(金) 事故

 朝食をとりながら、今後の予定について夫と話す。というのも、予定ならあさっての夕方から、友人E&Mカップルの船にAjaccioから乗り込むことになっているのだが、今晩と明日の晩をどこで過ごすか?、というのが完全に未定。

 今いるPortoの宿は、格安で過ごしやすいので、もう一泊してダラダラしようか?!?!?!、等と2人で話がまとまりそうになった時、E&Mカップルから携帯に連絡が入ってきた。

 “予定を繰り上げて、明日の昼にはAjaccioに来て、船に乗り込まないか?”

という誘いだった。明日の夕方にはレンタカーの契約も切れるので、本当にちょうどいいので、即OK。今晩はAjaccioで一泊して、明日に備えることになった。

 12時にホテルをチェックアウトして、またまた近所のスーパーで惣菜などを買いこんで出発。

 道路は相変わらずクネクネ道。安全運転を心掛けながらも軽快にドライブしていると、渋滞に遭遇。なんでこんなところで?!?!?!、と前方をよく見渡してみると、なんと交通事故っ。

 私たちのすぐ前のクルマはすでにカラッポ。どうやら事故を見に行っているらしい。それなら・・・・、ということで私たちもすぐクルマを降りて、いつものようにヤジウマ根性丸出して事故現場へ進む。

 どうやらカーブで対向車が完全にセンターラインを超えて、真面目な50代の夫婦のランドローバーに突っ込んできた模様。ランドローバーのエアーバッグが衝撃の強さを物語っている。

 一方、突っ込んできたまだ20代になるかならないかのカップルのクルマの前部はグチャグチャ。オイルなどが物凄い勢いで漏れている。

 一見派手な事故だが、幸いなことに死者はなし。なので、事故当事者の話しに夫と2人で耳を傾ける。

 事故を引き起こした青年は、妙に正直で、自分が居眠り運転していたことをあっけなく白状。昨晩マルセイユから船でやってきて、その道中は酒飲んで徹夜で馬鹿騒ぎしてたので、まったく睡眠をとっていなかったとのこと。が、運転には自信があったので、寝不足のまま目的地に辿り着くためにハンドルを握ったらこのアリサマ・・・・、ということだった。

 巻き込まれた50代の夫婦は、運転していたのが妻のほうだったらしい。彼女は冷静に保険屋に提出する書類に必要事項を書き込んでいたが、ふと彼女の
夫が優しく彼女の肩に手をかけると、今までの緊張がはじけたかのように、激しく泣き出した。こういう光景はツライ。一瞬にして、バカンスの楽しみが奪われてしまったのだから・・・・。

 彼らはコルシカが大好きな、フランス北部(太陽の少ない地域)在住で、今まで20回以上このコースを問題なく旅してきた、とのこと。昨年、夫のほうがかかとの手術をしたらしいのだが、今回の事故の衝撃でまたそこを打ってしまい、彼は今、足をひきずるようにして歩いている・・・・。

 きっとこの事故は、私たちがここを通るほんの数分前に発生したのだろう。まだ警察や救急車も到着していなかった。と同時に、道の状態とそれに反比例するような無謀運転の数々を目の当たりにしてきた私は、絶対、わしらの旅行中に事故に遭遇するな・・・・、と抱いていた勘が当たってしまったことに、驚く。

 とにかく、油断はできない交通状況に感じられたのだ、私には・・・。自分がいかに安全運転してても、これじゃいつか巻き込まれるな・・・・、というような・・・・。自分達が巻き込まれたわけじゃないが、とはいえ、本当に被害者が気の毒に思われて仕方がない。

 減速もせずにコーナーを、センターライン思いっきりはみだしながら走るクルマってのは、マジで怖いものがある。

 ちなみに、この事故に巻き込まれた女性運転手は、昨日、もっと酷い事故に遭遇したと語っていた。その事故では、女性が亡くなってしまったとのこと・・・・。

 被害者のほうに、わしらのクルマのトランクにたくさん積んであったミネラルウオーターの一本を取り出し、それを差し入れにあげた。彼女らは、ゴクゴクとそれを飲み干した。



 事故を見た後、気持ちを取り直して、また一路Ajaccioへ進みだした私たち。Cargèseに差し掛かったあたりで、クルマをとめてしばし大自然の美しさに酔う。断崖の中腹から下を見下ろすと、エメラルドグリーンのビーチが見える。と同時にどうしてもそこへ行きたくなったので、引き返してしばらくそこで海水浴することにした。

 そこのビーチの名前は、Plage de Mésaina。白く細かい砂が足の裏に心地よい感触を残す。例年なら、たくさんの観光客で賑わっているのだろうが、さすがに30〜40%も観光客の少ない今年は、わしらにとっては都合がいい。芋洗い式なビーチなんてのはたまらんので・・・・。

 さっそく浮き輪持参で海へ飛び込む私。泳ぐという行為でエネルギーを無駄遣いせず、海で長時間漂流していたい私にとって、浮き輪の存在は重要。波も適度にあって、時間を忘れるほど楽しんだ。

 が、夫がなかなかやってこない。どうしたのだ?!?!?!。とビーチを見ると、まだ荷物の隣に座っている。しばらく夫のことを海の中から観察していると、その数分後彼はようやく決意したように、水中眼鏡を装着して海に潜り出した。

 そして、一直線に私のほうへ向かって泳いできて、私の浮き輪を掴むと同時に水中眼鏡を取り、開口一番“バックを見張らないとっ!!”と、非常に不安げな様子で一言・・・(汗)。そして、再び水中眼鏡をつけて海に潜り、ビーチに戻っていった夫。

 いちおう夫のあとについて、ビーチに戻ったり、夫に“盗まれたっていいじゃん、平気だよっ”となだめるが、夫はまだ心配らしい(笑)。というより、どーして君は貴重品をビーチにもってくるのだっ!!!!!!、と内心怒りもあったのだが。

 それにしても、私は海の中に戻りたい。どーしても戻りたい。できることならすぐ・・・・。

 しょうがないので、夫の貴重品を砂の中に埋めた。すると、今度は夫が、“もし埋めた場所がわからなくなったらどうする?”と妙な質問をしてくるので、“その時はその時だっ!!”と答えて、私はまた海へ戻った。

 しばらく海で漂流していると、突然、私の浮き輪に妙な重さが加わった。後ろを振り向くと、夫だった・・・・。で、やはり水中眼鏡をはずすや否や、“荷物を見張らないと・・・”とだけ私に伝えて、去っていく。

 勘弁してくれーーーー。というか、もうここまでくると笑ってしまう。

 昔、いとこの犬でぺコというのがいた。この一家はぺコを連れてあちこちを旅行していた。そして、ビーチで一家が荷物を置いて海へ入っている間、ぺコは荷物が心配で心配で、一歩もそこを離れられなかった・・・、という話を聞いていたのだが、今の夫は、ぺコのよう・・・・。君は犬になってしまったのか?!?!?!。

 何度、埋めなおしても夫の不安は消えなかったようで、私が海に入ると上記のことが繰り返され、そのうち双方とも、荷物を見張るためにビーチに縛り付けられてしまったのが残念だが、非常に気持ちのよいビーチだった。



 夕方、ようやくAjaccioに到着すると、そこは人で一杯。ホテルも満杯。地方都市といえど、バカンス中に都市で人にもまれたいと思わない私たちは、すぐに予定変更して、ここを脱出することにした。

 クルマの中から、Ajaccio近郊のホテルへ電話をかけまくって、ようやく見つけたホテルへ急ぐ。

 AjaccioとCorteのちょうど中間地点にある、Bocognanoという場所にある小さな宝石のようなホテル"Beau Sejour"。創業100年以上だとは、到着してから知った。山の中にひっそりと佇むこのホテルは、映画『シャイニング』を少しだけ髣髴させる。

 併設のレストランの味も、今回の旅行中でのベスト。今度、コルシカに戻ることがあれば、このホテルを中心にしたスケジュールを組みたいと、強く思ったゼロでした。


2004年08月05日(木) 休息日

 朝食を終えるか終えない頃、雨が降り出した。コルシカなのにィーーーーっと駄々をこねたい気分だったが、わしらもちょっと疲れ気味だったので、休息日とした。

 道中あちこちで買い集めてきた絵葉書を、ホテルの部屋にて書く。夫はフランス語、私は日本語で、ひたすら書き続ける。

 ホテルの部屋から中庭への回廊は、自分たちの部屋の延長として使えるようになっている。なので、そこにテーブルを出して、チビチビとアペリティフを楽しみながらの絵葉書書き。

 回廊を忙しく行き来する、ホテルの清掃係りのマリーとも昨晩からすっかりお友達気分で、色々と話す。

 昨晩、マリーに“この近くにプラージュ・ナチュリスト(つまりはヌーディストビーチ)はないか?”と尋ねていた私たち。昨晩の時点では彼女は知らなかったらしいが、ちゃんと本日は調べておいてくれたらしく、ホテルからクルマで10分のところ、そういったビーチがあることを教えてくれた。ありがたや、ありがたや。

 私たちは、ヌーディストビーチが大好なのだ。一度はまると癖になる快感とでもいおうか・・・・。フランス各地のヌーディストビーチは訪れた私たちであるが、まだコルシカでは未経験なので、是非とも訪れたいもの。

 しかし、ここからクルマで10分のところにあるといっても、今はあいにくの雷雨。マリーによると、コルシカのどこかでは落雷にて火事にもなっているらしいとのこと。ああ、見に行きたいと思ってしまう、自分のヤジウマ根性をちょっとだけ恥じる。

 いずれにせよ、フランス全土が悪天候らしいから、しょうがない。


 絵葉書をたくさん書いた後は、昼寝・・・・・、目覚めた時は午後6時だった(汗)。

 空を見ると、すっかり晴れていたので、急いで外出。メイドのマリーが教えてくれたヌーディストビーチに行ってみたものの、裸なのは♂1人だけ。あとは水着を来た♂と、トップレスの♀だけ。

 たったの3人かよーーーーーーーーーーーーーっ、とわしらは慄いてみるものの、夫はすかさず真っ裸になって、またまた海へ突進。私も裸になりたい衝動に駆られたが、ほかの♀がトップレスなだけなら、ここはもったいぶって自分もトップレスだけに留まりたいので、控えめにしておいた。

 だいたい、ヌーディストビーチというのは、その近くに覗き見する輩が潜んでいるもの。そんな輩がいるからこそ、面白いのだが、ここまで人数が少ない限り、私1人で“そんな輩”を楽しませてあげたいとは思わない(笑)。

 しかし、先ほどまでの雷雨の影響か、本日は非常に波が高いし強い。波打ち際で行水なんて悠長にしてられないほど、波に打たれる・・・・・、といった状況。が、これがまた楽しかったりする。

 波にもみくちゃにされる快感とでもいおうか・・・・?!?!?!。



 さんざん波に揉まれた後は、今度はPianaという絶景のリアス式海岸へクルマで向かう。ここでのサンセットはさぞかし素晴らしかろうと思って行ってみたら、本当に圧巻だった。

 あちこちにクルマを止めて、サンセットに見入る観光客の姿。中には、サンセットを拝みながら、高いレストランを避けて、サンドイッチなどを持参できている人もたくさん。

 その後、Pianaの町へ向かい、ブラブラと散歩したあと、食い気に負けてレストランに突入。でも、ここでちょっとだけ節約したかったわしらは、ワインは注文せず、食事だけして、ホテルに戻ってから晩酌。

 ううっ、せこい、が、こういった楽しい貧乏生活は癖になる(笑)。

 就寝前に、再びPortoの港へ出かけていき、しばし瞑想。潮騒の音というのは、なんと気持ちいいものか・・・・・。

 さて、わしらは明日、どこに向かうのだろうか?、と予定は未定のまま、ほろ酔い気分のまま就寝。


2004年08月04日(水) 移動日

 3泊したCorteのホテルを離れる日。

 また、再びダラダラになっている私たちは、いつも以上にのんびりと朝食。チェックアウトは正午に決まっているとタカをくくっていたら、11時だと発覚した時は、すでに遅し・・・・。

 結局、大慌てで荷造りをして、ようやくチェックアウト・・・・(汗)。

 ホテル裏にある大型スーパーにて、食糧やワインなどを購入してから出発。本日は、ひたすら山道を通ったのちに、港町Portoへ到着する予定。

 おととい訪れたCalacucciaに住むN&D夫妻宅の前を通るので、連絡を取ってみると、お誘いが。なので、再び彼らの家に立ち寄って、一杯だけパスティスをご馳走になる。うーーーーー、うまいっ。

 そして、また私たちは進んで行く。数分毎に美しすぎる光景に出会い、もうここではこれ以上これについて形容できない。雄大なる自然を前に、うーっ、とか、うおーっ、とか、声にならないような唸り声しか出ないからだ。

 夕方、ようやくPorto到着。今回もラッキーなことに、激安ホテル発見したので、さっそくそこに2泊することにした。Portoの港からもほど近く、クルマの移動にも便利なホテル。

 本来なら、ホテルに到着した瞬間ベッドでゴロゴロするのだが、日没前だったこともあり、サンセットをどこかの海岸で眺めたいと夫が激しく主張しはじめたので、それに同行。

 しかし、本当に日没前の光を浴びた山々の色合いの美しいことをいったら・・・。

 偶然見つけた人がいなそうなビーチに到着。本当に人がいないっ(笑)。夕暮れで海の色が変わりかけており、海水は冷たそうだ。なのに、突然海に走り出して泳ぎ出す夫。

 本当にこの人は、海に入ったら最後、果てしなく遠くまで一度いかないと陸に戻ってこないのが妙に笑える。で、案の定私に“絶対に損はしないから、海で泳げ”と強制してくる。

 夫があまりにも激しく薦めるので、それに折れて恐る恐る寒そうに見えた海に足を入れると、あーら不思議、気持ちいいではないかっ!!。もう、陸にあがるのが嫌になるほど気持ちいい(笑)。

 そんなわけで、2人でフワフワと海草のように海水浴。次回は浮き輪を持って来ようと思ったゼロでした。


2004年08月03日(火) トレッキング

 本日は、恒例のダラダラ・バカンス・モードから一転して、トレッキングに挑戦するために、異常な早起き。

 先日まで滞在していた港町のCalviは、大勢の水着姿の観光客でにぎわっていたのに対して、ここCorteは山間部、多くの登山者が集うことでも有名だったりする。

 確かに周りを見渡すと、皆、頑丈なトレッキングシューズを履いている観光客ばかり。そして、さんざんレストニカ渓谷がいいから是非行ってみろ、とあらゆる人に薦められたあげく、とうとうわしらはそれに挑戦することに決めたのだった。

 目指すは、1700m地点にある、Meloという名の湖。

 朝食をすばやく済ませ、クルマでトレッキング・スタート地点まで出ている無料送迎バス地点まで出かける。コルシカで無料の送迎バス?!?!?!、と疑心暗鬼で行ってみたものの、本当に無料だったので、妙に感動。

 というのも、ここから、トレッキング・スタート地点までに延びる細い山道は、断崖にちょこっと作られたようなモノなのであり、ガードレールもなにもなし。おまけに路肩も崩れかけてたりするので、マイカー族がバカンス時期にここを走り回ると、道路がどんどん痛んでいく可能性が高い。ゆえに、Corteの町自体が、なるべくこのバスを利用するように、観光客に奨励しているのだった。

 バス停に到着すると、私たち以外の乗客のイデタチは、完全登山スタイル。それに反するように、私たちの足元は、パリで5ユーロで購入した運動靴。リュックも背負わず、私の肩には、日本で昔購入したユニ〇ロの小さなショルダーバックのみ。夫も、とある会社の景品で貰った小さなリュック。

 近所に買い物に来たというイデタチの私たちを発見した、バスの運転手が心配して私たちに声をかけてくる。この運転手、名前はジェームスと言って、かなり強烈なキャラクターを誇るオヤジ。

 意識もせずに彼の話すフランス語の音だけに耳を傾けていると、まるでその響きはイタリア語のよう。そして、もちろんジェームスはコルシカ語も話す。コルシカ語のほうは、本当に私にはチンプンカンプン(笑)。

 バス停から、トレッキング・スタート地点までのバス行程は、およそ20分ほど。コーナー毎に、ジェームスが豪快にクラクションを鳴らしながら、ゆっくりと進んで行く。
 
 途中、2000年にあったという大規模な山火事の傷跡が未だに残っていたが、それでもレストニカ渓谷の雄大な姿に、しばし感動。

 ようやく、スタート地点。バスから降りた乗客は、もくもくと山道に進んで行く。そして、私たちもそれに従う。本当に、こんな貧相な靴で登れる場所なのかしらないが、とりあえず挑戦。

 なだらかな上り坂がしばらく続いた後、登山道の勾配はどんどんと急になってくる。先ほどまで、かなりの勢いで歩き続けてきた人たちのペースが、知らず知らずのうちにスローになってくるのがおもしろい。

 “もうやめようよっ”“こんなにキツイと思わなかった”等という弱音が、あちこちから聞こえてくる。

 逆に、突然昔の登山の喜びが蘇ってきた私は、どんどんいいペースになってくる。スモーカーなのに、息切れしない私。瑞牆山を彷彿させる岩山は、私をハイにさせるのだ。

 次は、どの岩に足をかけて進もうか?、などとゲーム感覚で没頭して登り続けているうちに、夫よりかなり早く進んでいたようだった。

 またこれを機に、普段は強烈な怠け者であった私を見て、今まで決して私の昔の趣味が登山だったことを信じようとしなかった夫が、ようやく理解を示してきた。してやったりっ!!。

 くさり場などもあり、本当に疲れを感じることなく思う存分楽しめた。そして、登りきりしばし歩くと、突然眼前に出現する大きな湖。これがMelo湖だっ!!!!。

 さっきまで弱音を吐いていた人も、これを見て疲れが吹き飛んだかのように、皆、穏やかで幸せそうな顔を湖の前でしている。本当に美しい湖。

 水温はどのくらいだろう?、と手を湖に突っ込んでみると、これが非常に冷たい。それなのに、ドイツから来ていると思われるボーイスカウトの一団は、自分達の勇敢さを誇るように、次々に湖に飛び込んでいく。

 私たちは、さらに先に進み、ヒトケのない岩場をまた登ったところで休憩。ここが非常にナイススポットで、湖と山々の景観がすべて拝めるのだ。岩の上に大の字になって。しばし昼寝。

 日本での登山というのは、いつも天候に悩まされていたが、コルシカというのはほとんど毎日が晴れ。この素晴らしい環境の中、数年ぶりにトレッキングが出来たことを幸せに思った。

 Melo湖のほとりに何時間ほどいたのだろうか?。わからない。が、煉獄を忘れて、至福の時を過ごす。

 下山は別ルートで。軽登山といえど、登りより下山のほうが事故が多いのは、よく知られたこと。まして、岩山系となると、下山時の身体バランスが非常に重要になってくる。

 登りは、ただガムシャラに進めばよかったが、疲労も重なり、バランスを保ち続けられず、立ち往生している観光客の多いこと・・・・。躊躇して進めば進むほど、バランスを崩すというのに。

 そんな中、5ユーロの運動靴のわしらは、軽快に下っていく。とにかくリズムがついているので、ある意味止まれないのだが(笑)。

 それでも、所々で止まっては、後ろを振り返り、さっきまで居た光景を刻み込んでみる。自然の美しさを前にして、自己達成感に満たされる。

 再びバス停に戻ると、ジェームスが待っていた。思い出に、彼と一緒に記念撮影。そしてバスに乗り、わしらのクルマの待つパーキングまで。

 パーキングでクルマに乗り込もうとすると、2人組の若い男性が近寄ってくる。Corteの町まで乗せていってくれないか?、ということだった。私は一瞬戸惑ったが、昔それこそ、ヒッチハイクでヨーロッパ中を旅し、今でもストの際には、ヒッチハイクで会社に行ってしまう夫としては、放って置けなかったらしく、彼らをクルマに乗せてあげることになった。

 彼らは若いだけあって、本当に貧乏旅行を楽しんでいる様子だった。かなりの場所を徒歩で旅してきたらしい。すげっ。

 町に到着し、彼らと別れ、食糧探し。やっとみつけたピザ屋でピザを頬張っていると、突然疲れが襲ってきた。二人とも疲れで無言。ただひたすら食べつ続け、どちらが言い出すまでもなく、ホテルに戻った。

 そして、ひたすら熟睡・・・・・・・・。

 それにしても、1700m地点で無防備に昼寝したのがいけなかったのか、物凄い日焼け&太陽アレルギー発症。かゆくてたまらん・・・・・・(涙)。


2004年08月02日(月)

 現在滞在しているCorteの町から、小1時間のところにあるCalacuccia近くに、夫の友人Nが住んでいるという。なので、せっかくここまで来ているのだし、現地人の生活を見学するいいチャンスなので、Nの家を訪れてみることにした。

 昼過ぎにNの家、正確には、Nの夫Dの別荘へ到着。N&D夫妻は、普段は同じコルシカでも、Bastiaという街に住んでおり、夏の間だけここにやってくるのだ。

 ジャン・レノに非常に良く似たDが、さっそくアペリティフを用意してくれる。せっかくなので、今回はパスティスを注文。

 普段はパスティスはあまり好きじゃなかったのだが、実際に太陽燦燦とした土地で、のんびりとパスティスに舌鼓をうつと、これが格別に美味しいのに気づいたからだ。この飲み物は、パリの薄暗いスチュディオなどで飲んでも、その醍醐味を味わえないのでは?、とまで思ってしまった。

 この後、N&D夫妻とその2歳になる娘とわしらで、近くの原住民しかしらない、とっておきの渓谷に案内してもらう。そこに流れる川の温度は、海のソレよりも冷たかったが、一度入ってしまうと、非常に気持ちがよい。

 軽く泳いだ後、皆でピクニック。

 食後は、みんな泳いだり昼寝したり、あるいはここに続々とやってくる原住民の間での井戸端会議に花が咲いていったり。

 さて、N&D夫妻は、一見うまくいっているようで、実はあまりうまくいってない。彼らは以前リヨンで暮らしていたのだが、5年前に夫の故郷であるコルシカに住処を移した。

 夫Dは、両親揃ってコルシカ人。妻Nは、母だけがコルシカ人。とはいえ、Nの父は世界中を股にかけて仕事をしていた国際人でもあった。ゆえに、だんだんとそこにズレが出てくる、というわけだ。

 例えば、この秘境に来るのに際して、わしらはN&D夫妻のクルマの後についてやってきたのだが、彼らのクルマがちょくちょく止まる。というのも、村にいる人にみな手を振ったり、挨拶したり、立ち話したりするから。

 まるでこの様子は、日本の選挙カーのあとについて走っているようなもの。そのくらい、友人・知人を無視して、自分の行きたいところだけに行くという行為はできない土地柄らしい。

 また、クルマを車道に止めたまま人と話す際、彼らは後続車のことは気にしない。自分たちが話したいだけ、そこで話し続ける。逆に、見ず知らずの人のことを気にして、昔からの知人・友人を軽視してその場から走り去ったら、あとで村八分になる可能性もあるという。

 だから、こういった特殊な社交はここで生きるには必須条件。

 さて、Nは非常に社交的な女性。しかし都会的な考え方ももっている女性でもあるゆえ、だんだんとこの村での生活が辛くなってきているとのこと。村があって始めて物事が存在するような世界から、どうやって徐々に距離を置いていくか?、と日々考察しているN。

 それに相反するかのように、どんどん村生活にはまり込んでいく夫D。彼にとっては、色々な意味で過ごしやすいこの生活、そんなに簡単に手放すわけがない。ゆえに、夫婦間で亀裂が生じていく。

 Nはあと少しで39歳。まだまだ若い。N自身“ちょっとした革命を起こさないとっ”と言っているが、それがいい意味でうまくいくことを応援してやまない。



 夜も、結局N&D宅で食事して、Dに薦められるまま調子よく酒飲んでた私は、かなり酔っ払いになってしまった。なので、帰路のクルマの中での記憶はほとんどなし、ひたすら熟睡。

 寝てしまえば、夫の運転の仕方などに心の中で葛藤することもなく、夫は夫で好きなように運転できるわけであり、一石二鳥だということに気づいた(笑)。


2004年08月01日(日) イエス・キリスト

 本日は移動日、CalviからCorteへ。

 でも、移動日だからといって、朝早くから行動しないのが常。やっぱり気づいたらテラスで時間ギリギリまで朝食。他の宿泊客らは、パンの追加やコーヒーや紅茶、ジャムやバターのお代わりはしてなかったようだが、わしらはどんどんする。“もしかしたら、勘定追加されるか?”と冷や冷やしながら、でもやめない(笑)。

 無謀にお代わりしたたくさんのジャムは、私たちのバックの中へ即座に消える。恐らくこうやって旅行している間に、たくさんのジャムコレクションとなることだろう。そして、1週間後のクルージングの際の朝食用として、これらが生かされることになるはず。

 ホテルをチェックアウトする時に、幸いなことに朝食お代わり代はついてなかったが、またまた“不可思議な追加物”を発見。頼んでもないのに、ウイスキー代がついてたのだ。なので、またやんわりと苦情を言って、取り消してもらった。

 近所のスーパーでまた食糧を買い込んで、いよいよ出発。ひたすら細い山道経由でのCorteまでの旅が始まった。

 景観の美しさは、言葉での形容は不可能。それほどまでに素晴らしかった。おしゃべりな夫も、ひたすら無言で感動(笑)。

 しかし、景観に見惚れていると、イタリア人にも優るとも劣らない“驚異的”な運転技術なコルシカ人が、平気でセンターラインを超えて猛スピードで突っ込んでくる。コーナリングの巧みさとか、そういったレベルじゃない無簿運転そのもの。道幅から考えて、極力事故を避けるには、自分で自分を守るしかないわけであり・・・・。

 こんな私は、昔はスピード狂。特にコーナーリングについてはかなり経験を積んでいる。が、フランスではあえて免許は取得してない。パリの生活ではクルマは必要ないし、もし免許があったら、なんだかんだと色々と使われるかもしれないから。とはいえ、縦列駐車などでかなり難しい場所に止める時などは、私が無免許ながら夫の運転を代行したりすることもある。

 ゆえに、今回の旅行も夫が運転手。が、山道になればなるほど、夫の運転に口出ししたくなってくる自分がいたりして、それに葛藤する。

 ブレーキとアクセルのタイミングをちょっとずらせば、もっと早く、それも安全にコーナーを抜けられるのに・・・・、とか、小姑のように囁いてしまいそうな自分。で、もし事故った時のことも考えても、自分側が絶対にセンターラインを超えてない限り、かなり有利になるから、これも考慮して、すばやく山道を夫に走ってもらいたいのだが、ま、しょうがない(汗)。

 夫の運転がどうのこうの、というより、私があまりにもマニアックなだけなのだから・・・・。

 

 さて、腹も相当減ってきた午後3時頃、Belgodèreという小さな町にクルマを停めてみた。一応、無駄遣いしないために食糧を購入しておいたはずなのに、教会脇にある軽食屋の、気持ちよさそうなテラス席を見た途端、店に入っていた(汗)。うーーん、相変わらず意志が弱いぞ、わしらっ。

 ボリューム満天サラダを頬張りながら、原住民と思われるボーイと色々と話す。

 パリを出るときから、決めていたのだが、とにかくコルシカ人はパリジャンに対していい印象をもってないらしいとのこと。なので、コルシカ人に出会って、どこに住んでいるのか?、と言われたら、夫はブルターニュ人、私は日本人であり、日銭を稼ぐためにパリに住んでいるが、パリなんてのはとうてい人の住むところじゃないっ、と言うように心がけるてみようと、いうこと。

 ま、ある意味お遊びで、ある意味真面目なわしらの決定事項だったのだが、これを、ここのボーイとの会話でさっそく使ってみる。おまけに、日本人的誉め殺し作戦で、夫がブルターニュは雨ばかりだが、コルシカはなんて素晴らしいところだっ、云々などを連発する。

 するとボーイもどんどんと観光名所ポイントなどを、教えてくれる。なかなか使えるな、この作戦(笑)。みなさんもお試しアレ。



 エネルギーを補給した後は、Belgodèreの町をフラフラと歩いてみる。ひたすら足元の悪い道を登っていくと、見晴らしのよい高台に出た。そして、そこには、真っ白なイエス・キリストの彫像が、この地方一帯を360度見渡すように立っていた。

 ここで私たちは、しばし大爆笑。

 というのも、今朝、夫が奇妙な夢を見たからだ。

 夢の中で、夫はビーチにいた。そこに1人の若者がやってきた。彼は自分が誰だと名乗らなかったが、夫は彼がイエス・キリストだとすぐにわかった。

 夫は冗談半分で、イエス・キリストに“一緒に太極拳でもやらないか?”と誘うと、イエス・キリストは即座にやる気まんまんで“やりたいっ”と答える。夫は心の中で、“イエーっ、この世の中で太極拳をやる人間は五万といるが、イエス・キリストと一緒にやったことのある人間は俺だけだっ”と喜びまくった。

 で、そんな中、私が“太極拳やる前に、まず一服したい”と夫に申し出る。夫は、“また、とりあえず一服かよっ”と内心非常にイライラする。するとどうだろう、イエス・キリストが“わたしも、とりあえずゼロと一緒に一服したい”と申し出てきたという。

 夫は“イエス・キリストまで、とりあえず一服かよーーーっ!!”と怒ったところで、彼の夢は終わったそうだ。



 こんな夢をみたあと、まさか突然イエス・キリストの奇妙な彫像をこんなところで発見するとは思ってなかった私たち。もう、笑うしかなかった。で、夫には、この彫像の隣で太極拳をしてもらい、私は、タバコを吸ってみた。

 しかし、本当にここからの見晴らしは素晴らしかった。


 日没間際に、ようやくCorteへ到着。Calviのホテルとは打って変わって、ここでは値段も半額以下のところをあらかじめ予約しておいたのだが、これが大正解。すごく過ごしやすいところだった。

 めでたし、めでたし。


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