ゼロの視点
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2004年06月30日(水) 難行苦行

 本日も、クーリングオフ作業続行。どうも母がモタモタしていて、なかなか手続きが進まない。というか、未だにまともに周囲でスタンバイしてくれている援助者に対し、救いを求めていないのが現状だ。

 これが、私を狂わせる。もう、絶叫したいほどに、イライラしてくる。で、母に電話すると、“あんたは口うるさい”“小姑みたいで嫌だ”“性格が悪い”“ゼロの世話にはならない”等の愚痴を吐かれる始末。もし、近くにいたら、母の首のひとつでも絞めてやりたいものだ。

 パリで日本から来ている母君の世話をしているY嬢どのは、現在、彼女自身が精神安定剤を飲むことで、なんとかやっているというメールがきた。そうか、そうか、よくわかるぞよその気持ち・・・・。

 罵るだけ罵ればいい、が、本来の目的はクーリングオフすることじゃ、ばばあっ。わかっとるのか?。で、もっと本来の目的を言うならば、悪徳業茶に易々とドアを開けるな、ばばあっ。

 こんなのは、たとえ同居していたとしても、防げんぞ、ばばあっ。24時間監視してない限り不可能だ。

 で、60万円で悪徳業者を喜ばせるなら、それを私にくれっ!!、と叫びたいほどだーーーーーーー(汗)。


 と、毎日怒り狂っていても身体に悪いので、夕方からお出かけ。



 来週ロンドンへ引越しするY嬢のお別れ会もかねて、今年春にH嬢が仏人夫と一緒にオープンさせたバーへ遊びに行く。急だったが、総勢8人+H嬢が集い、楽しい会合になった。ついつい調子よく、ビールをしこたま飲む私。途中で合流してきた夫は、なぜかカバンも持たずに、スーツ&ネクタイ姿で、電話帳2冊だけを持って登場。

 いつも何を持って歩いているかわからないのが我が夫なのだが、あまりにも日常茶飯事なことゆえ、私は気にもしなかったが、夫のそんな日常に慣れてない参加者が“なぜ電話帳なのか?”と私に問うてくるので、答えられなかった(笑)。
 
 わたしには、よくわかりませんのです、夫の奇行については・・・・。


2004年06月29日(火) ガス欠

 本日も早朝から、日本とのコンタクトに明け暮れる。もちろん、母のやらかした契約・屋根の修理60万円のクーリングオフの件だ。

 私としては、どうしてもこの作業を周囲の援助をうけてさへ、母に遂行させたい。じゃないと、どのくらいクーリングオフが面倒くさいことか、その上、訪問点検詐欺の悪質さなどを、母に実感してもらいたいのだ。

 まだ、今の母だと実感することは充分に可能。だから、こそ、である。ここですんなりとクーリングオフができても、彼女にとって勉強にならない。また、援助に背を向けるばかりじゃなくて、自ら素直に“お願いします”と周囲の人に頼めるようにもなってほしいからだ。

 こんな性格が彼女の孤独に拍車をかけていることは火を見るより明らか。人の世話をするのは大好きという彼女も、たまには世話をされる側になりきるのも悪くはない。また、そこで世話されるようになったと思い、自己嫌悪になるのではなく、他者に感謝できるようになるべきだ、と娘の私は考える。

 本当に、信じられないほど素晴らしい人たちが母の周りにいる。その人たちは、母が頼んでくるのを待っていてくれる。どうして、それができないのか、バカ母よ。ネットワークを生かして、それをまた今後の交流に活かしていけば、もっともっと充実した生活になるはずなのに・・・・。


 さて、消費生活支援センターのK嬢曰く、母が契約した業者は、やっぱり悪徳業者として有名だった。名前を言うと、すぐK嬢が“またあそこね”というほど。

 それにしても、私のフランス帰国を待ってたかのような、悪徳業者の襲撃。本当に腹が立つ。どこかで、私のスケジュールを知ってたのか?、と思うほど巧妙だ。

 こんなことで一日の大半を過ごしてしまったので、帰国疲れ&クーリングオフ手続き疲れで、ガス欠寸前。が、今晩は、8人ほど招いているので、急いでディナーの準備。

 20時過ぎから、招待客がやってきて、アペリティフ、前菜、メインまでは、なんとかホステスとして踏ん張ったが、デザートの時間に、ふと席を立った瞬間、無意識のうちにどうやら寝室へむかったらしい私。もう、ここからの記憶はない(笑)。

 靴を履いたままベッドに倒れこんだ私は、その後それを発見した夫が揺り動かそうがなにをしようが、ピクっとも動かなかったそうだ。翌朝、起きた時には昨晩の宴の後がサロンに残っていただけだった。

 幸いなことに、招待客たちは私の状況を理解してくれたようで、よかった、よかった。寝たもの勝ち、ということですな。


2004年06月28日(月) 一難さって、また一難

 夫との格闘技も終わり、やっと落ち着いたきたかな・・・・、と思ったら、日本から電話が入った。

 それは、小学校からの幼なじみM嬢の両親からだった。M嬢の両親からというのは、もちろん母に何かあったわけであり、それだけでも心臓に悪いのだが、
話の内容を聞くと、もっと心臓に悪かった・・・・。

 M嬢の父S氏が、我が母の家の前を夕方通りかかると、なぜか長い梯子がかかっており、その上に目をやると業者のような人間がおり、屋根の上を歩いていたという。

 ちょっとだけ不審に思ったS氏は、さりげなく我が母に世間話を装って梯子の意味を問うてみたら、なんと母がさっき来た訪問業者にのせられて屋根の修理60万円の契約をしてしまったことが発覚。

 母はS氏に“屋根が心配だったので”と言ったらしい。

 S氏は、なんとか母に、“でも、修理はまたゼロちゃんが戻ってきてからでもいいと思う”“そんなに急いでやってもしょうがない”“うちはこの間屋根の簡単な修理したけれど、1万円もかからなかった”等と、やさしくなだめすかし、母がしたという契約書を見させてもらうところまでこぎつけたそうだ。

 そして、機転をきかせたS氏は、そこで業者の名前、住所および電話番号をすべて書きとめ、それを私にしらせてくれたというわけ。

 以前から、この訪問点検詐欺については頭を悩ませていた私。それゆえに、後見人制度を調べに家庭裁判所に母と行ったり、消費生活支援センターに相談に行ったりしたは、ついこの間のこと。相談員にも、くれぐれも簡単にドアを開けないようにさとされていた筈の母だったが、私は先週の金曜日にフランスに戻った週明け一発で、こんなことになったので、私の怒りは尋常ではない。

 その上、怒りの矛先がないのが、もっと救いがない。絶望感に似たものを感じる。

 S氏からは、「おかあさんは、ゼロに怒られる」としきりに言っていたといわれ、くれぐれも母を叱り飛ばさないように・・・・、と念を押されるが、いざ母に電話すると、身体の底から怒りが噴出してきて、母にガミガミと言ってしまう私。

 でも、怒り続けるよりも先にしなければならことがある。それはクーリングオフの作業だ。

 先日訪れた消費者生活支援センターの相談員K嬢に電話することにした。が、時差があるので、私はフランス時間の午前2時まで寝ることは不可能。そして、その時間から色々と手続きを遠隔準備することになる。

 幸い、時間を待ってK嬢に電話すると、私たち親子のことをよく覚えていてくれたようで、色々とクーリングオフの手配をしてくれると申し出てくれた。そして、その旨を次にS氏に電話して、どういうやり方でクーリングオフを母が進めていくか・・・・、という事情を伝ええる。

 明日の火曜日は、母は終日デイサービスセンターへ行っているので、その留守の間に勝手に業者に工事を進められないようにするために、S氏が見回りをしてくれることになった。

 こうして、周囲の方々の援助は確保できたのだが、問題なのは母。どこまで援助を素直に受けて、コトを進められるか?、が大問題。もともと、自分で問題を抱えるタイプゆえ、これが実に難しい。

 母とは何度もこの件で電話したが、私が強烈にエキサイトしてしまい、それにつられるように母の態度もどんどん硬直してくる。そして、実に腹立たしい言葉を吐く、我が母。

“あんたがやってちょうだいよ”
“あんたがいないから、こうなったのよ”
“もう面倒くさいから、60万くらいあげちゃってもいいわ”

等・・・・・。本当に怒りでアタマが爆発しそうな言葉ばかり。60万円もあれば、フランスと日本を5回往復できる金額だというのにっ!!!!。

 母と電話していると、一週間分のエネルギーを使い果たしたような感覚に襲われる。もうグッタリ、だ。これがボケなのか、それとも本来の性格なのか、もうどっちでもいいが、やめてくれ、お願いだから、わけのわからない契約するのはっ!!!!!。

 もともと、しっかりものだった母なのだが、ボケるずうっと前から、つまりは私が小さい頃から、こういった訪問販売にコロッとひっかかるところがあったのを私は嫌でも覚えている。

 また、家が崩れる・・・・、とやたら不安がっているのも知っている。それも大昔から。だから、本当に点検詐欺にひっかかりやすいのだ。また、それだからこそ、日本滞在中に、あれほどドアを開けないために努力してきたのに・・・・、と思うと、極度の不毛感に見舞われる。

 ああ、無事にクーリングオフは済むのだろうか?。

 休めない日々が続いているゼロでした。


2004年06月27日(日) 格闘技

 朝、目が覚めると、夫が“クロワッサンでも買ってこようか?”と妙に優しい声で尋ねてくる。

 しかし、一瞬身構える私。というのも、妙に優しい夫の提言をムゲにすればそこで喧嘩、じゃなければ、それに甘んじた後、夫が求めるほど私が優しくないとそこでまた喧嘩と、八方塞りな展開を想像してしまったから。

 とはいえ、ま、今回はお願いしてみようと、OUIと答えてみる。もう、こうなると賭けの世界だ。

 夫は、いそいそと出かける用意をして、いなくなった。そして、戻ってきた彼の手には、花束がっ!!!!!!!!!!!!。


 出たっ、フランスオトコの花束作戦。


 ありがとうっ、と言いながら、未だ女優になりきれない私は、満面の笑みではなく、半面の笑みでなんとか状況を回避。

 とはいえ、夫の顔を見ていると、里帰り中にことごとく私のカンに触るようなことをしたことが完全に払拭できないでいる私ゆえ、何かスッキリしない。なので、夫には、なんで“喜んでくれないの?”という反応を益々引き起こさせる。

 鬱陶しいなあ・・・・、なんてクチにしたら、喧嘩勃発は間違いなし。ここはまた、ひとつ大人になろうと抑えて、表面的には楽しいブランチになるはずだった。

 が、そんな妻の様子を察して、最初は妙に優しい言葉をかけてくる夫だったが、何かが夫を不安にさせるらしく、だんだん夫が私のカンに触るようなことを言ってくる。

 ああ、この挑発に乗ってはいけない、と思いつつ、気がついたら、乗っていた・・・・・。時、すでに遅し。クそっ。


 こんなにまでして避けたかった喧嘩に突入。

 確かに、自他共に認めなければいけない、私の毒舌。毒舌というより、スイッチが入ると本当に論破してしまう性格なのでこれが夫を益々逆上させる。で、それに対抗して、夫がもうわけのわからない罵詈雑言を私に浴びせる。そして、また私がそれに対抗して、いかに夫の発言に根拠がないか?、を全部証明してしまう。時には図解説明もするから、厄介だ(汗)。


 私は、知っている・・・・・。こういう理詰めは男性には耐えられないことを・・・・。やればやるほど、男性は自己嫌悪に襲われ、逃げ道がないゆえますます爆発していくのだ。が、もうボタンは押されてしまった。

 売り言葉に買い言葉、もうグチャグチャ。一ヵ月半分の憂さを互いに晴らしているともいえる。


 そして、とうとう言葉だけに終わらず、取っ組み合いに発展した。これは始めての展開だ。逃げ道のない夫は、文字通り逃げようとする。さんざん、私に質問しておいて、それを私が完全に解答しきると、バツが悪くなったのか出かけようとするのだ。
 
 ズルイぞ、じじいっ。

 本日、喧嘩を吹っかけてきたのはじじいだってこと忘れたかっ?!?!。

 というわけで、今までだったらそこでオシマイにしておいたが、今回は玄関を封鎖してみた。すると夫が私を押しのけようとする。そして、玄関のドアの前で取っ組み合いが始まる。


 柔道をはじめ、太極拳の選手権では台湾で準優勝している夫。相手の力を利用して、吹っ飛ばす術には非常に長けている。また、強烈に足腰が強いゆえ、ちょっとやそっとのことでは、彼のバランスを崩すことはできない。

 が、こんな夫になんだかんだと武道のコツや、訓練を受けてきた私ゆえ、予想以上に実力がついていたりする。

 スポーツなどを観戦していると、男性社会では、議論よりも、先に手足が出る場面に遭遇するが、とうとう我が家もこうなったようだ。もう、無言で2人で取っ組み合い。何度も投げ飛ばされたが、私も夫を抑えかえす。夫は夫で私を組み伏せようとするが、合気道的技術で、それをスルスルと交わす私。とにかく5秒も互いに組み伏せられない攻防戦が続く。


 夫は内心、“おぬし、なかなかできるな・・・”と思ったはずだ(笑)。

 
 奇妙なことに、お互い俄か武道家になったつもりか、殴る蹴るという技は使わない。ここでぶん殴れば勝つなぁ・・・・、と何度かヤバイ考えがアタマを掠めるが、それをやらないから武道家?!?!?!。

 最後にとうとう、夫に身体ごと持ち上げられて、私はソファーに吹っ飛ばされた。で、苦し紛れに、私が夫の肩に噛み付いて、とりあえず休戦。とにかく、夫は逃げることが出来なかった。

 ここまで来ると、双方息切れして議論にならない。そして、ボソボソと夫が本音を話し出し、急速的に仲直りをしてしまった。本当にわけのわからない展開だ・・・・。

 家政婦を雇って、きれいになっている我が家。だが、ランプがつかない。なぜなら、ランプが切れたので、その換えを購入しようと夫の魔法のポケットに入れた瞬間、そこかへ消えてしまったからだ。それ以後、どんな電球を買っていいのか検討がつかず、そのままに放置されていたらしく、死闘の後、仲直りした私たちの食卓には、蝋燭が灯っていた・・・・・。


 戦時中か?。





 夫婦喧嘩は犬も食わない・・・・・。

 まさにその通りだと思ったゼロでした。



追伸・今気がつきましたが、100000ヒットしてました。
これも、皆様のおかげです。
ありがとうございましたっ!!!。


2004年06月26日(土) 気分転換

 到着後の一件で、非常にアタマに血がのぼってしまった私は、自宅に戻ったというのに、全然眠れなかった。6月24日からまともに寝てないというのに・・・・。

 早朝、夫はノルマンディに出かけていった。以前からこれに誘われていたが、あらかじめ断っておいてよかった・・・、と、つくづく思った。とりあえず、本日は、ひとりでゆっくり精神的にも、肉体的にも休めるはずなのだが・・・・。

 友人Sに電話すると、本日パリ5区の教会にてコンサートをやるという。だが、まだ本当にそれが実現できるかどうかわからないとも言う。さすがフランス人。当日の昼になっても、予定がたたないのがフランス。ああ、フランスに戻ってきたんだ、私・・・・、と、妙に笑えた。

 そして、午後になって、再びSより電話。どうやらコンサートが確定したらしい。ついては、Sの友人プロ・ピアニストがリストやスクリャービンを弾いて、それに合わせてコラボレーションとして、Sが画家で即興的にその場で作品を仕上げるというプログラムだった。

 そりゃ面白いっ!!、ということで、すぐ行くことにした。

 でかける寸前に、昨日の夫婦喧嘩の証人にもなっているT氏から、“陣中見舞い”の電話がかかってきたので、もしよかったら一緒にコンサートに行くか?、と尋ねると、行きたいということで、最寄駅で待ち合わせ。

 会場である教会に着くと、さすがに突然の企画だったため、あまり観客はいなかった。入場料は当初5ユーロと聞かされていたのに、実際には10ユーロだったので、またまたゴネたくなったが、ま、いいやとちょっと大人(もしくは日本人モード)の私。

 ピアノの脇に、神妙な顔で座っているSを発見。なんか笑ってしまう。

 それにしても、Sの友人というピアニストの女性は、ものすごくエネルギッシュな演奏を披露。圧巻。外見は、ちょっと太めなジャニス・ジョップリンといった感じ。音を聴けば確かにクラシック音楽だが、まるでロックコンサートかなにかのようだった。

 そして、S以外では、サックス奏者が参加。スクリャービンの非常に難解な曲をピアノとのアンサンブルで披露。ダイナミックなピアノと、繊細で官能的なサックスは、まさしくエロティズムそのもの。実に楽しい。

 人の少ないコンサートの特典で、演奏後は、関係者や演奏家などと歓談。サックス奏者とは、かなり意気投合して議論にもハナが咲いた。こういうことをやっていると、悩みもなにもすべて吹き飛ぶからいいっ。

 ついでに、私と同行した友人T氏の営業もしてみた。実はT氏は写真家。できればパリで仕事をしたいと思っている。なので、こういったアーティストなどとどんどん交流・参加して、仕事になっていけばいいなぁと思ったゆえ。

 なにせ、パリは口コミの世界。コミュニケーションしたもの勝ちというところが未だにある。待っていても、何も始まらない。逆に働きかけて、無理矢理にでも参加したら、門戸が開かれることはたくさんある。自分をプロモートする意識があるか否かで、人生が180度変わってしまうのだ。

 ま、私ももっと自分をプロモートせなあかんのだが・・・・。


 コンサートの後は、SとT氏の3人でリュクサンブール公園近くのカフェでダラダラ。Sとは非常に趣味・趣向が似ているので、話していて非常に楽しい。ゆえに、あっという間に時間が経ち、3人でシャトレまで歩いて、それぞれ終電にて家路につく。

 家に着くと、夫はすでに寝ていた。

 ということで、本日は喧嘩は回避できました、とさ。

 


2004年06月25日(金) 到着

 成田エキスプレスの中での記憶がない。それほど、乗った瞬間から熟睡したらしい。いつもは退屈で長いはずのこの路線が、私の感覚だと5分だった(汗)。車内で食べようと思って、あらかじめ購入しておいたおにぎりが、足元に落ちていた・・・・。

 ああ、もったいない・・・・・。


 成田空港では、これからの海外旅行で嬉しそうな人をたくさん見る。昔は、こんな感じで飛行機に乗ったこともあったような気がするが、今は、ただ家に帰るだけの乗り物、それが私にとっての飛行機。直行便じゃなかったら、気が狂いそうだ。

 荷物チェックで、スーツケースに入れておいた100円ショップで大量購入しておいた使い捨てライターを発見されて、破棄するように係員にいわれて、怒り狂う私。かなりゴネタような気がする。だって、聞いてないもーーん。それに、昨年は全然OKだったし、ねェ・・・・。

 スーツケースをあけるように言われたので、“これを開けたいと思うのはあなた方、だからあなた方がすべてやってください”と言って、スーツケースの鍵を渡す。“でも、必ず元通りにキレイにスーツケースの蓋をしめてくださいよ、わかりましたね?”と脅すように念を押す私。

 それでも、係員が“どこらへんにライター入れましたか?”とアホみたいにきいてくるので、“それを機械を通して発見したのがあなた方だったら、その映像と照らし合わせて探し出すのもあなた達の仕事でしょ?”と言い返してみると、それに従って係員は必死に探す。

 10分後に、やっと係員がライターを探しだしたので、一件落着。とにかく、この人らの前で、アホみたいに従って、わざわざ自分が腰をかがめて必死にライターを探し出す作業を避けることができたので、OKとする。

 飛行機に乗ってからは、しばらく乱気流が続いて飲み物、食べ物が一切支給されず。なので、新宿駅で購入しておいたおにぎりをムシャムシャ食べる。う・う・うまいっ。ちゃんとお茶だってあるのだ(笑)。

 ようやく支給された食事も全部たいらげ、映画『カレンダー・ガールズ』を堪能したあとは、熟睡、ひたすら熟睡・・・・・。

 座席は、最後部の2人用を早々と予約していた私だったが、今回は隣に人がいた。たいてい、一人占めできるのだが、今回はツアー客らの団体がたくさんいて、満席だったからしょうがないのだが・・・、チェッ。

 が、ふとしたことで隣に座る女性と話をしはじめると、奇妙な偶然がっ!!。なんと、彼女はパリに住む娘に会いに行くということだった。そして、彼女の娘が住んでいるところが、我が家から歩いて3分のとことだったので、ビックリ。

 “○○通り”ってところなんですよ、と言う彼女。番地もほぼ隣といっても過言ではない位置。そんなこともあり、2人で爆笑し、着陸まで世間話にハナが咲いた。

 

 そして、とうとうパリに到着してしまった私。ひたすら飛行機の中で我慢して座っていると、別世界に到着するというのはアタマでわかっていても、未だに不思議だ。全然違う時間が流れているし、状況に合わせて、私も自然にフランス語を話している・・・・。

 そして、到着ゲートを出ると、そこには夫と、友人T氏がいた。T氏は先月の末からパリ暮らしを始めた日本人。そして、彼は到着した瞬間、またわしら夫婦が喧嘩を勃発させるのではないか?、と心配して空港に来てくれたらしい(笑)。

 私が里帰り中、夫は夫で、私の悪口をT氏に言い、それを聞いたT氏がわざわざパリから私の実家へ電話してくれ、今度は私の言い分を聞いていてくれたのだった。いやあ、マジでお騒がせ夫婦だ。

 しかし、妙にエキサイトしている夫の姿を見ると、腰がひけるのはどうしてだろう?!?!?!。私は疲れているのだ、だから、そんなキミを受け止められないのだが・・・・・(汗)。

 とはいえ、夫が私の到着より早く空港にいた・・・・、というのは今回始めて。これだけは、私にとって本当にスゴイことだった。


 無事に我が家に到着して、5分後に夫婦喧嘩に突入。T氏がなんとか取り持とうとしてくれたが、やはりフランス語の応酬になると、初心者のT氏も対応できない。そりゃそうだ。で、私もいちいちT氏に日本語で訳していられない。

 ま、それほど、私にとってムカッとくることがあったのだった。ま、絶対そうだと思っていたけれど。

 私が大切にしていたものをたくさん紛失し、頼んでいたものをすっかり忘れていた夫。家政婦を雇って、家の中はピッカピカになっていたことは素晴らしいと思うが、それは金を払えば済むだけ、だ。

 疲れで非常にキレやすくなっていた私は、

“こんなになんでも忘れるなんて、あんたもアルツハイマーなんじゃないの?。ボケテスト受けさせようか?。今のあんただったら、30点万点中、5点もいかないんじゃないの?。”

 と言ったことで、喧嘩のゴングがなった。夫としたら、こんなに家の中がキレイだし、空港にも生まれてはじめて定刻に到着したというのに、なんでアルツハイマー扱いされなければいけないのか腑に落ちず、怒り狂う。



 ああ、ゆっくり休めるのはいつになるのだろうか?。


2004年06月24日(木) 出発

 さすがに、ガス欠になってきた私。もう、ここで無理してもダメなので、ぼんやりして過ごす。

 とはいえ、またヘルパーやケアマネージャーが最終打ち合わせでやってきたりするので、完全休息はならず。

 午後は、今朝慌てて荷造りしたスーツケースを宅配業者に渡す。予定時間までに来なかったので、イライラ。思わず、業者にさりげない苦情の電話を入れると、その直後にトラックが到着。

 佐○急便のにいちゃんが、“いやあ、雲隠れもできませんねェ!!”とアタマをポリポリしながら、やってきたので思わず笑ってしまった。

 が、これで終わったわけじゃない。まだ、機内持込用荷物の準備が待っている・・・。巨大なスーツケース以外に、必ず機内持ち込み可能なソフトスーツケースと、リュックで乗り込むのが私流。このソフトスーツケースも、マジで機内持込可能なサイズ?、反則では?、という感じでデカイし、重い(笑)。

 逆に言えば、この時点で半分しか荷造りが終わってないのだ・・・(汗)。


 さて、夕方は、母のことを非常に世話してくれるご近所さんにあらためてあいさつ回り。花束じゃなくて、鉢植えをもって、だ。庭付き一戸建ての主婦にとっては、きっと花束より、鉢植えのほうがいいだろうと、あらかじめ考えたゆえ。いざ、という時の緊急連絡網も大量にコピーしておいたので、それも預かってもらう。

 また、小学校からの幼なじみM嬢の両親宅へ、母のクルマの鍵を預けに行く。投薬も始まり、新生活も同時にスタートする母。なので、とりあえず落ち着くまで・・・、という理由で母からクルマのキーを取り上げる。

 夕食後は、壁にデカデカと貼れるタイプの、母用の週間予定表、私の滞在中に新しくなった電話の使い方(殊に留守電機能について)の早わかり図表、ヘルパーおよび配食サービスのキャンセルの仕方の早わかり表等の作成にとりかかる。

 この時点でもう午前0時近い・・・・。ひえっ。明日は、本当に出発が早い。なおかつ、クルマのキーを預けてしまった今、重い荷物をひきずりながら最寄駅まで延々と歩かねばならない・・・・。

 それでも、まだダラダラしたかったので、一風呂浴びてからビール飲んで、『赤い衝撃』の再放送を見終わってから、最終荷造り。午前3時頃のことだ。

 昔から、母が2階で寝た後、夜中1人、一階で好きなように過ごすのが習慣だったので、不思議な気分。また、母が起きてきた頃、私が今度は眠りについて、また明日もここにいるような錯覚が私を襲う。でも、本当は、明日の今ごろは、もうパリに到着しているはず。

 もう、当分この家で眠ることもないので、里帰り中は万年床だった私のベットを片付ける。午前4時。

 だいたい終わってきたので、出発前にははやく起こせと私に言っていた母をたたき起こしに行く。午前5時。そして、早朝に母と久々にのんびりする。

 奇妙なことに、本日の母はまったく呆けてないっ!!。衝撃的だ。すべての予定は言えるし、自覚もある。昔のように、テキパキしているっ!!。どうしたというのだ?!?!?!。今まで、私を騙していたのか?。わからん、わからん、わからん・・・・。

 一過性のことなのか?、と思われたが、母はずうっとテキパキしている。私がそれを突っ込むと、母は爆笑して、“ホントね、今日はとってもアタマがハッキリしているわっ”と言い返してくる。何が起こったのか?。

 子供を駅まで送っていかなきゃとか、これから色々とやることがあるとか、そういったことが彼女を変えたのか?。ま、これが長続きすりゃあ、問題はないのだが・・・。

 駅まで歩く道すがらも、母のほうがテキパキ歩いていく。最寄駅までの歩道は盲人用の点字ブロックが張り巡らされており、スーツケースを持ってだと、非常に歩きにくいゆえ、必然的に私の歩く速度は遅くなる。私のリュックを背負った母は、どんどん先へ進んで行く・・・・・。

 “ちょっと待ってよっ、ばばあっ!!”と叫びたくなるほど。

 母の速度で、あっという間に最寄駅に到着してしまったので、しばしベンチに座って休息。

 ようやく電車が来て、ホームで母とお別れ。電車のドアが閉まり、窓越しに小さくなっていく母の姿。どこまで母が、新しい生活の中で、楽しんでやっていってくれるのだろう?!?!?!、と思いつつ、母の姿はとうとう見えなくなった。


2004年06月23日(水) 誕生日

 今日は私の37回目の誕生日。37年前の猛暑の日に、東京都立川市の共済病院にて生まれている。

 子供が産まれるということで、自分の研究時間が脅かされる恐怖と、父親になるという責任感から、完全に幼児がえりしていた当時47歳だった私の父は、出産にも立ち会わず(笑)。が、母は一人で準備して病院へ行き、予定時刻をきちんと守って私を産んだらしい。

 で、今でも、母が時間厳守だったのか?、それとも私が時間厳守だったのか?、というくだらないことで母と言い合いになる。



 37回目の私の誕生日は、これまでの人生で一番奇妙だったともいえる。



 午前中に、明け方までかかって作成した、ケアマネージャーとヘルパー向けに念入りに作成した“母の取り扱い方説明書”と、地図付きの緊急連絡網の大量コピーを、近くのコンビニで済ます。

 そして、家に戻り、ランチを作って母と味わい、一息つく間もなく、また書類などの最終チェック。時計を見ると、あと数分でケアマネージャーがヘルパーを連れてやってくるだろう・・・・、と思ったら、玄関のチャイムがなる。

 多分、一緒に酒を飲んだら気が合いそうなケアマネのI嬢の説明で、居間で打ち合わせが始まる。私の“時間がない”という要求に、本当にI嬢はよくやってくれて感謝している。また、本当にラッキーなことに、ことによると時間がかかることが、どんどんうまく運びここまできた。

 先日、幼なじみM嬢の両親から、ヘルパーの選択についてのアドヴァイスをもらっていた私。実は、ケアマネI嬢から、医療機器会社系列のヘルパーを紹介すると言われていたのだが、これをM嬢の両親に話すと、別にけなしはしないが、あまりいい顔はしなかったのをよく覚えていた。

 なんで私が彼らの反応を覚えていたか?、というと私も薄々そう思っていたから、である(笑)。とはいえ、ま、これも運命だ、しょうがない、と思っていたら、また奇妙なことが起こった。

 ケアマネI嬢が、医療機器系のヘルパー斡旋会社に電話すると、その責任者はなんと、私の小学校の同級生の母親だったらしい。そして、PTAか何かで私の母と対立していたことが発覚。相手側は、それでも私の母が気にしないのなら喜んでお手伝いします・・・、ということだったが、それをケアマネI嬢から聞いて、二人で色々と話し合った上、面倒は極力避けたほうがいいということになり、この話は流れた。

 そして、気がついたら、企業系のヘルパーじゃない人を紹介されることになっていた。この結果は、まだはじまってないのでなんともいえないが、スタート地点としては、私は満足。



 介護の世界は、契約。ゆえにたくさんの書類に目を通し、サインをして、印鑑をつく。各ページに割り印を押し、それを繰り返す作業が続く。私はもともと印鑑の押し方が下手だったのに、印鑑のいらないフランス社会で益々その習慣が消えてしまった今、非常にこれらが面倒くさく感じる。

 今回もまた、あまりにも詳細なレポートを作成してしまっていたらしい私の対して、ケアマネI嬢は、これで私の仕事の半分は終わってしまったっ、と笑っていた。

 これが終わると、次に配色サービスの責任者がやってくる。また、彼を相手に居間で打ち合わせ。食器の取り扱い方をはじめ、数々の規則の説明をうける。

 そして、お次はデイサービスセンターの責任者が訪問してきて、再び契約書を前に打ち合わせ。この責任者にも、“母の取り扱い方説明書”を渡しておいた。支払いは銀行自動引き落としになるので、用紙に記入やらなんやら、本当に本日だけで何回印鑑をついたか、数え切れない。

 そして最後に、今度は自動車保険のことについて、保険屋がやってくる。母には残念だが、これを機に一切運転するのを止めてもらうつもりなので、もし私が母の保険を引き継いだ場合、いくら保険料が安くなるか厳しく見積もりさせてみる。あーだこーだ言って、おすすめ保険を言ってくるが、却下。また、即答するつもりもない。

 そして最後に、保険屋に“母のところを直接訪問する前に、必ず私にメールで一切の説明をすること”を強要し、納得させる。うーーーん、自己満足(笑)。とにかく、ホイホイと金は払いたくないのだ、私はっ!!。

 昼からはじまった契約地獄が終わったのは午後6時過ぎ。いやあ、疲れた・・・・っ。

 そして、一息ついたところで晩御飯のしたくをはじめると、今度は幼なじみM嬢の母君がやってきた。九州風の野菜の煮込みを作ったので、どうぞ、とのことだった。そして、しばらく母とM嬢の母君と私の3人で居間で談笑したのち、私の不在中のクルマの管理についてのことに話題が及んだ。

 さりげなく、私に鍵の管理を申し出てくれるM嬢の母君。いやあ、本当に救われた。母の近所で鍵を預かっていてもらえれば、本当に助かる。また、これがコミュニケーションのきっかけにもなるだろうし、いざ、車検などで母が鍵が必要になっても、すぐに取りに行ける。

 クルマを処分してしまうのは簡単。とはいえ、また私が実家に戻ってきた時に足がないのは非常に不便。というわけで、このクルマは出来る限りキープしたい、というのが本音だったゆえ・・・・。

 

 やっと母と一息ついたあと、今度は私と母の間で打ち合わせ。気がついたら時計は午前1時をさしていた。私の37歳の誕生日は、あっという間に過ぎていった、ということになる。

 しかし、これで一応すべての準備が整った。本当にフランス帰国前、ギリギリセーフ。明日から配色サービスが始まり(母と一緒に試食予定)、あさって私が早朝に実家を出た数時間後から、母はデイサービスセンターに通い出す。

 母にとっても、寂しいだのなんだのといってられない“新しい生活”がいやおうなしに始まることになる。とはいえ、体制が整ったといえど、これ自体に母が嫌気をさしてしまったら、それでお終い。どこまで母が楽しめるか?、それが一番の問題だ。が、あまり不安は感じていない、私。

 とにかく、自分で問題を抱えるより、色々と体制と母自身の能力を信用していきたいと思っている。


2004年06月22日(火) 雑用

 台風も過ぎ去り、またまたいい天気が復活。ということで昨日できなかったことを本日、遂行。

 まずは、長年行きつけだった母の病院(新宿区百人町)から、地元の医院へ通い、薬をもらうという、母にとっては新しい週間に、彼女がどこまで対応できるかを個人的にチェックしたいと思っていた。

 如何せん、母はキチッと決められた規則・習慣をこなしていくのが好きなタイプなゆえ、ボケ気味になった現在、ますますアタマで習慣が変わったと理解しても、ついつい昔の病院へ行ってしまう可能性があるわけだ。

 また、定期的に病院へ行って、薬をもらい、それを毎日飲むという生活でもなかったので、これも母にとったら新しい習慣となる。また、以前の病院は予約制だったゆえ、必ず“次回は何月何日”と書いた診察券を返されていたのだが、新しい医院は、そういったシステムがない。

 これは、逆にいえば、母が自分で意識しないと病院へ行くことを簡単に忘れる可能性が濃厚ということを示している。また、今度の医院が意外にわかりにくい場所にあるゆえ、本当に母が単独でそこを発見できるか?、ということも知りたかった。

 本来なら母と一緒にバスに乗って尾行するのがよかったのだろうが、残念ながらその時間はない。なので、母がバスを使ったと想定して、医院最寄のバス亭までクルマで行き、そこからは、母のぺースでそこまで行ってもらった。私が母の資質を疑うことにより、ムキになって医院を発見しようとする母。ま、いいことだ(笑)。

 最後は、ちょっと記憶があやふやだった母だったが、なんとか医院を発見。めでたし、めでたし。無事に診察も終え、医院隣りの薬局で、処方箋をもとに薬を購入。そこで薬局の人たちにも、さりげなく、私達親子の事情を説明しておく。

 あとは、母とラーメンをすすって、銀行へ行ったり、百円ショップ(フランス人用のみやげ)やLoftで買い物をしたりと忙しい。また駅で成田エキスプレスのチケットを購入。雑用だけで、簡単に数時間が経過してしまった。

 しかし、本日は暑かった・・・・・・。

 さて、明日はケアマネージャーをはじめ、たくさんの関係者が我が家へやってきて、説明&契約となる。なので、夜は、これ用にまたまたレポート用紙に10枚ほどの“母の取り扱い方”と、緊急連絡網(地図付き)を作成。

 はあ・・・・、疲れてきた、マジで。


2004年06月21日(月) 台風情報

 今日は、色々なことをやってしまおうと思っていたら、台風が・・・。関東は直撃しないというわりに、風と雨が強い。そんな中、窓から外をみていると、どんどんひきこもりモードになっていく私。

 今日は、やーめたっ。



 それにしても、テレビの台風情報というのは、なんともノスタルジックな気分にさせてくれる。色々とやることがあるのに、深夜に延々と台風情報をみていたあの頃・・・・、って感じ。究極の現実逃避ともいえる。

 テレビ画面に映し出される、暴風に吹き飛ばされそうになっている人達、荒れ狂う海(たいてい足摺岬や、室戸岬)、半壊する家、浸水する家など、たくさんのカタストロフ。

 一方、テレビの前の私は、安全な場所にいる。きちんと戸締りして、風に吹かれることもなく、ビール飲みながら、自分のちっぽけな問題を忘れて、それ以上の悲惨な光景に見入ってしまう、というわけだ。

 もうすぐで台風が来るといわれている地点にたつリポーター、もしくは、さぞスゴイ荒れ模様が見られるかと思い待っていると、木がただヒラーンと揺れているだけの肩透かしだったり、それは色々だ。

 今回は、改装して間もない宿かなんかの屋根がぶっ飛び、それが新幹線の高架線に引っかかり、何時間もダイヤが乱れるという光景をみることができた。このクソ暑い中、足止めを食らってしまった人は大変だろうなぁ・・・、と思いながらも、あくまで他人事で見ているたくさんの視聴者のひとり・・・・・・、それが私。

 これこそ、日本ならではのモノなので、母国を満喫した気分だった。


2004年06月20日(日) 結婚観

本日の昼すぎは、わが実家に、母の妹N叔母とその夫M氏、そしてその次女であるM嬢、プラスもう一人の母の末妹F叔母がやってきた。

 全員が到着した瞬間、そりゃあうるさいほど全員が喋る。フランス人か?、という感じ。そして、ちょっと離れた所にN叔母の夫M氏がポツンといる。これが女系家族の王道なんだろうか・・・・・?(汗)。

 思い起こせば、母を含む姉妹らが育った都内某所の実家(現在はF叔母とその家族が在住)に皆が集うと、当時元気だった祖母と三姉妹(母とその姉妹)が祖母の部屋に集合してしまい、子供だの、夫だのが放置されているようにみえることがしばしば。

 仲がいいのか悪いのか、傍目にはわからなかったし、今でもわからないが、とにかく気がつけば4人でよく固まってたなぁ・・・、と思うことしきり。

 既婚者になった今、配偶者の実家に行って、ここまで極端に自分達だけで平気で固まる人たちというのに、いささか“?”と感じることもあることは確かだが・・・・、当時はそんなもんだと疑問すら思っていなかった私。

 当時、一番自分勝手だった私の父は、そこへ行かないという選択を早々を選ぶ。そして、N叔母の夫M氏は我が父ほど人でなしでないので、一緒にやってきていた。そこに、F叔母の夫S氏は、選択の余地なくやってくる自分の妻の姉妹らとその子供達(ほぼ同世代)にやすらぎの空間を乗っ取られ・・・・。

 気がつけば、居間にいるのはN叔母の夫M氏と、F叔母の夫S氏。適当な時間をテレビの前ですごし、きがつけばS氏はフラッと外へ出て行く。でも、そんなのお構いなしに一部屋に固まって笑ったり、喧嘩している祖母とその三姉妹。

 今思うと、なかなかスペシャルな光景だったような気がしてならない・・・・(汗)。

 が、しかし、女系家族とはいえ、この三姉妹には、彼女達なりの“夫をたてろ”というスタイルがある。また、結婚したなら多少の事は目をつむり、離婚なぞ決して考えるな、という考えが根強い。

 思えば、そういった考えは祖母から来ているのだと思う。本当に祖母は色々な意味で強かった。で、ちょっとちゃらんぽらんな夫(祖父)がいて・・・・。もともと祖父が酒好きだったのか、それともこれほどまでに女性が集結した家に、素面じゃ帰ることができなかったのか、それは今となってはよくわからない。

 とはいえ、この三姉妹の各配偶者には、続柄で長男というのはいても、本当に一番初めに生まれた長男というのは存在しない。必ず上に姉がいたりしている。オトコばかりの長男という長男らとは、やはり違いがあるように思われて仕方がない。

 それだけ、生まれた時から少なからず“女性という生き物”の現実を知っていた人だけが、彼女らの配偶者になっているような気が・・・・。

 
 N叔母一行は、早めに退散していった。で、残ったのはF叔母。


 F叔母をクルマで最寄り駅まで送ろう思っていたゆえ、アルコールは我慢して手をつけなかった私だったが、“どうせ、ビール飲みたいんでしょ、だったら、さっさと飲んじゃいなさいっ!!”と渇をいれられ、そそくさと買いに出て、夕方からF叔母と酒盛り。あーあっ、結局飲んじゃったぜ・・・。

 コロコロと話題が変わる中、ひょんなことから男性一般像の話になっていった。で、私が“オトコと言うのは頼りになるか否か?!?!”という話題をふっていくと、その瞬間、母とF叔母が物凄い勢いで声を揃えて、

「頼りにならないからオトコなんだっ!!」

「そんなのあたりまえでしょっ!!」

と言われてしまい、もちろんそんなの承知とはいえ、ここまでの勢いで母と叔母に言われるという状況に、腰が引ける私(汗)。すごい迫力。これが一番。

 とはいえ、すぐさま引っ込みたくない私は、F叔母に質問してみる。

私「でも、おばさんだって色々あったでしょう?!?!?!」

叔母「あったりまえじゃないのっ!!」

私「そういう時どうしてたの?。」

叔母「夫婦なんてのは、いちいちつまらないこと気にしてたら成り立たないのよっ!!」

私「で、実際におばさんはどうしてたの?。」

叔母「そういう時は、フトンかぶって寝りゃあいいのっ!!」

私「・・・・・・・・・・・・・」


 スゴイ人生哲学だと思った。当たり前とはいえ、なんとういう表現の仕方だろうっ!!。力技か?!?!?!。ここに、三姉妹の結婚観が集結されているようにさへ思えた。

 横で、我が母が激しくうなずいている・・・・。

 この人たちは、今まで何度フトンかぶったんだろうと思わず質問したくなったが、このメンツだと、ただただ私がやられるだけなので、やめておいた(汗)。

 こ・わ・ひ。


2004年06月19日(土) ラストスパート

 本日は、朝から母が介護保険を恩恵を被る事ができることを前提に、複数のデイサービスセンターの見学。私は5月初旬までデイサービスだの、デイケアだのの言葉の違いなど、全くわからなかったものだが、この里帰りでかなり詳しくなってしまった(笑)。

 出発間際に、もしものことを考えてネットで検索しまくった結果、おぼろげな意味はつかめたものの、それ以上は理解しようと思っていなかったのだった・・・・。

 デイサービスセンターとは、簡単にいえば高齢者の幼稚園のようなもの。同居してようがいまいがに関わらず、日中、手持ち無沙汰でボーッとしがちな高齢者が、センターに出向き、ケア人らに見守られながら、入浴、昼食、娯楽などを楽しみながら、脳に刺激を与えていくというような場所。

 私はこういった場所に、母を送り込みたかったのだっ!!。が、センターといっても、ピンからキリまであり、各自の趣向に合った場所を選ぶのは容易じゃない。

 母のケアマネージャーI嬢から、すでに数箇所を見学しておくようにと推薦リストをもらっていたものの、もし介護保険申請が却下されたことを考えると、無駄足になるので、今までやっていなかったのだ。

 が、明るい兆しが見えてきたので、母を連れてセンター巡り。が、一発目のところが、本当によかった。元うどん屋を改築した、日本家屋のセンターだった。少人数で、本当に手がよく届いている所なのだ。これなら、自分が高齢者になっても通ってもいい?、と思わせるところだった。責任者の女性がまた、優しく落ち着いていて、イライラすることがあるのだろうか?!?!?!、と思わせる人。

 今までこのセンターでの行事や日常風景の写真なども見せてくれたが、高齢者の顔が活き活きしている(←ま、うがってみればこういった写真だけを用意していると突っ込むこともできる、が・・・・)。

 母もかなり気に入ったようだった。ここなら自分がジジババの一員と思わずにいられる、と言っていたし・・・・。ま、充分ババなんだけれど(笑)。

 とはいえ、もうちょっと他の施設を見てみようと、今度は大規模なセンターへ出向いてみた。特別養護老人ホーム、ショートステイ、グループホーム、ケアハウス、在宅介護支援センター、ホームヘルプサービス、居宅介護支援事業、地域交流センター、在宅者機能訓練事業、在宅高齢者配食サービス事業・・・・・・・等、書ききれないほどの高齢者ビジネスをやっているところだ。そして、ピッカピかのホテルみたいなところ、だ。

 私達のアポ時間は14時。ちょうどランチが終わり、余興の時間になったところだった。足を踏み入れる否や、大音響のカラオケ。もう、ここで腰が引けてくる私達。私も母もカラオケが大嫌いなのだ・・・・。特に会話もなく、ただ歌っているだけの宴会など想像しただけで鳥肌が立ってくる。

 が、ここはそうだった・・・・・(汗)。ただでも、ボケが多かれ少なかれ入っている人たちが、他の人が歌っているのを完全に無視して、コックリ、コックリ、と無表情な顔でまどろんでいる姿は、実に怖い。

 視線を感じるので振り向くと、母が“よくもこんなところへ連れてきたなっ”という目で訴えてくる(笑)。私だって、たまらんぜ、かーさんっ。

 おまけに、主任が私達に色々と説明してくれるのだが、音の外れたカラオケにかき消されてしまって、なかなか会話にならん。もう、途中で、怒りより、おかしくなってしまって、一人で笑いが止まらなくなってしまった。

 素晴らしいアクティビティと語る主任に対して、雰囲気を見渡して、ただただ固まる母、そして壊れたように笑いが止まらない私・・・・、といった感じを想像していただけるだろうか?。

 確かに、きっとカラオケ好きな人にはいいセンターなのだと思うが。ハイテク機器に、大人数の高齢者。ボケのレベルに関わらず、皆同じこと(椅子に座ったままの体操など)をする。

 “引きこもり気味の母を社会生活に復活させる”という大義名分で、ここに母を送り込んだ暁には、さらに引きこもりに拍車をかける結果になることは火を見るより明らか。本末転倒だ。それに、彼女のまだらボケにも拍車がかかりそうだ・・・・。

 興味があったので、主任に色々とインタビューしたあと、センターを後にすると、やっぱり母は、私に対して怒っていたことを告白。“こんな所につれてやがって・・・”ということだった。そして、後で二人で大笑いしてしまった。


 さて、夕食のあとは、小学校からの幼なじみM嬢宅へ。といっても、M嬢自身は相変わらず、京都で撮影の仕事をしている。で、本日はM嬢の両親が私のコンサルタント。前にも書いたが、彼らは福祉・介護業界のプロ。今までも、さりげなく母のことについて相談にのってもらっていたが、本日は、M嬢の両親のほうが、私がフランスに戻った後の母の見守りを買って出てくれたので、それの打ち合わせ。

 いやあ、本当に感謝、感謝。もう言葉もでないほど、こういった申し出は嬉しい。おまけにM嬢宅は、母の家から徒歩5分。母のケアマネージャーのことも知っていて、“あの人は本当にしっかりしている人”と太鼓判まで押してくれた。

 M嬢の両親は、裏の裏まで介護業界を知っているので、もし母が変なケアマネージャーに当たってしまっていたら・・・、とかなり心配していてくれていた模様。色々と励みになると同時に、現実に即したアドヴァイスをたくさんいただいてしまった。

 殊に、私が帰国した直後に、母がガタっとおかしくなるのは目に見えるので、そのあたりを集中的に、つかず離れずのケアをしてくれるという。

 小さい頃から、よく遊びに言っていたM嬢の家で、M嬢抜きでこんな話をする時が来るとは、昔は想像もしてなかった。しかし、本当に助かるし、嬉しい。

 また、M嬢の両親以外にも、私の帰国後、私に代わって母の第二の愛犬探しをしてくれると申し出てくでるご近所さんが出現。

 そのほかにも、母のかつての犬の散歩仲間のご近所さんらが、定期的な母の見守りを買って出てくれている。

 そして、恐らく選択するであろう、私と母が一緒に気に入ったセンターの看護婦も、実は母のかつての犬の散歩仲間だったっ。彼女は、昔からさりげなく母にいつも声をかけてくれていた人でもある。

 ついつい、これは、私と故・愛犬マルチンのおかげなのだっ、ガハハっと、などといって母に恩を売りたくなるが、今のところはやめておく(笑)。

 そして、M嬢の父上は、私に母の見守り緊急ネットワークの作り方を伝授してくれた。なので、これを書き終えたら、M嬢の父上のノウハウに従い、親族、ご近所さん、介護チームなどをすべてひっくるめた詳細系図&住所録を作るつもりである。

 いつかは、こういった母の見守られ自立生活にも破綻がくるのだろうが、可能な限り続くことを祈るのみだ。じゃないと、誰も守る人がいなくなった家のこと、財産処理問題など、一挙に私の身に降りかかるのだから・・・・。

 それに、母国に自分の土地が完全に消えることを考えると、なんとかなるぜ・・・、といいながらかなりウロタエテしまう自分をハッキリと感じるゼロでした。


2004年06月18日(金) じじい

 少し峠は越えたが、私は、とあるじじいに対して、強烈に怒り狂っているし、失望している。


 じじいとは・・・・・・?。

 それは、私の夫だ。

 
 私が昔、突然入院した時、私本人よりもオロオロして、“このまま入院が長引いたら、必ずヤツも隣の病室で寝込んでるなぁ・・・”と思わせてくれたじじいっ。

 着替えを持ってくるのを頼んでも、なぜか持ってくるのはハイヒールだの、セクシーなワンピースだのと、どこか大幅にズレている。おまけに大量に、だった。パジャマはないんか、パジャマはっ!!。

 “いざ、という時こそ頼りにならないのが、僕さっ!!”と楽しそうに、そして無責任に笑っていることの多い夫だったが、本当に今回もそうだった。

 ということで、私がパニクると、それに対抗意識を燃やすかのごとく、“僕はもっとパニくってます”“僕はもっと大変です”シフトになってしまい、問題行動が増えていく。

 じじいとしては、こんなに心配している僕だの、やさしい僕だのと思っているのだろうが、とにかく私が求めていないサービスばかりやるので、その結果喧嘩になるのが常。

 今回の里帰りでは、母のことで毎日フル回転で動く、乃至は考えることが多く、また事態も二転三転するゆえ、夫にいちいち、ジックリと説明するのが困難だった。
 
 だって、さぁ・・・・・、じじいは知っているようで、やっぱり日本のことについての知識は不十分なので。ゆえに、“ゼロの視点”を読んでくれている私も知らない読者のほうが、じじいよりよほど事情に詳しいんだよっ!!、と言うと、またまた逆ギレ。なので、それに反応するように、こっちもムキになって、悔しかったら私のサイトを解読してみろっ、と啖呵を切る・・・・、ああ悪循環。

 でも、毎日“今日はどうだった?。おかあさんは大丈夫?。あとで今日のこと教えて”等とメールしてくる。一方、私にはあーだこーだゆっくりのんびりと、じじいの国の言葉でメールを書いていく気力がない。メール書くんだったら、電話でダイレクトに説明してしまったほうが早い。


 そして、状況を伝えると、じじいは“わかった”と言う。

 えっ?、それだけかい?!、なんかいい提案とかないのかっ、じじいっ?。


 私は知っている・・・・。夫が“わかった”と言う時は、たいてい“わかっていない”ということを。そして、パニクっていて、提案などもでいないことも・・・。

 ここで、私が何か一言余計なことを言うと、今度は“自分の無能を責められている”と思い込み、自己防衛に走り出す夫。その結果喧嘩がまた勃発する。

 夫は会う人、会う人に、“電話で、必ずゼロと険悪になってしまう”と悩みを語り歩いているようだが、じゃあ、険悪にならない方法を模索する気はないのかっ、じじいっ。

 で、いちいち、自分が被害者みたいに悩みを語り歩いているのに、私はまたまたイライラしてくる。そんな時間があるのなら、日本社会を知れっ、介護の実態を調査しろっ、今後の生活について熟考しろっ、と叫びたくさえなってくるのだぞ、じじいっ。

 先日、夫の叔父にあたる産婦人科医Tと話をすることがあったという夫。でアルツハイマーのことについて話したらしいが、なんで産婦人科医がアルツについて知っているのか?。彼の専門は、女性の股間や腹部、そして出産であり、脳じゃないんだよ、脳じゃ・・・・、じじいっ。

 でも、ここで怒りをグッと押さえて夫に、Tとどんな話をしたのか聞いてみたが、夫の応えは次の通りだった。“アルツハイマーは大変だ”。それだけ・・・・・・・・・・。

私「アルツハイマーについて自ら調べたりすることはできないの?」

夫「アルツハイマーについては、僕だってよく知っているんだぞ。」

私「じゃあ、どお知っているの?」

夫「僕のパパがアルツハイマーだったから、たくさん本を持っているんだ」

私「で、あなたの見解と、ヘルプしている立場としてのこれからについてどお思う?」

夫「大変だと思う」


 ええっ、また、それだけかいっ?!?!?!、じじーーーーーいっ。



私「でも、あなたの父親の時は、実際にはあんたのママンが介護してたんでしょ?」

夫「そうだよ。ママンはとっても疲れていた」

私「で、たくさん本を持っているあなたは、結局、本の知識を生かす機会があったの?」

夫「(逆切れしだして)僕はゼロにいつもやさしいじゃないかっ!!!」


 やさしいと思いこんでやることが、必ずしも相手に同じようにやさしいと思わせることが可能だと思っているのか?、じじいっ。


 友人S嬢の夫も、“でも、僕はやさしい”と言うらしい(汗)。で、ある時とても精神的に辛かったS嬢に対して、たいしたヘルプもできずにいた夫ととの間で議論になった時のことを語ってくれた。彼女は夫にきちんと説明するように、クマのぬいぐるみを持ってきて、“やさしいってのは、ただいればいいと解釈するなら、このぬいぐるみのほうがよっぽどやさしい”と自分の夫に言ったらしい。凄いぞ、S嬢っ!!!!!。

 このエピソードは、今でも思い出し笑いしてしまうほど。

 が、私は今笑っている余裕はない・・・・・(汗)。


 女には生理がある。前倒しで次の生理のことを考えたりするのが日常だ。じゃないと、色々と支障がでる。が、こんなことをしなくてよい♂共は、その日限りの思考があるんだなぁ・・・、といやになるほど実感。とはいえ、それができる男性が存在する世の中、なんか変な犬拾っちゃったなぁ・・・、って自己嫌悪のゼロでした。


2004年06月17日(木) 内定

 本日は、今回の里帰りにおいて最も重要なこと、つまり、介護保険申請手続きで一番の難関と言われている、役所から送られた調査員との対決日だ。

 今思えば、ここまで長かった・・・。5月14日の夕方に日本に到着し、17日から母のかかりつけ病院に付き添いをはじめ、高齢者に強いとうたわれる地元の脳神経内科医院にたどり着くまでに、すでに3週間を使ってしまったいた。

 そして、脳神経内科医の紹介でケアマネージャーを紹介され、彼女と一緒に介護保険申請についての書類を作成、そして提出したのが先週のはじめ。医師の意見書のほうはなんとかうまく行くとして、本日の調査人とのやり取りいかんでは、申請が却下される可能性が濃厚だったゆえ、今週に入ってから実は、かなりのプレッシャーを抱えていた私だった。

 以前にも書いたが、母レベルのぼけとパッと見の印象だと、本当に健康に見えるので、ボケはアピールできない。また、調査員との対話においても、よく色々な経験者などからの体験談を元にすると、調査員の前ではボケた高齢者がシャキっとしてしまい、どんどんとまともに調査員と応答してしまい、その結果申請がアウト、ということが多々アルとのことだった。

 もし申請が却下されたら・・・、と考えると、本当にアタマを抱える毎日だった。これでもか・・・・・?!?!?!、というほどの暗いイメージが沸いてきて、将来を悲観することもあった。よく新聞で将来を悲観して・・・・、などの動機で家族内で殺人が起こったりしているが、なんか少しだけ、これらのことが身近に感じていた今日この頃(汗)。

 魔がさすように、マイナス思考というものは突然やってくるので、これを追っ払うのが本当に大変だ。

 なかなか思うように進まない現実、ひとつ処理すれば、また一週間待たされ・・・、という流れの遅さが、先が見えない不安を倍増させるのだ。

 介護ライター兼、実際に実母との介護生活をしているN氏に、メールを送ってみたら、丁寧に返事をもらえた。そして、そのメールの最後には“踏ん張ってください”との文字・・・・・。

 これは本当に印象的だった。踏ん張ってください、という言葉から発せられるニュアンス。頑張る、というのでもなく、介護者のゆれる心情(マイナス思考)と、あえてそれを抱えながらも、大地に足を踏みとどめるイメージというか・・・。

 実際、この言葉を頂いてからは、揺れだしてくると必ずこの言葉を思い出して自分をコントロールさせてきた。あとは、レイキ的思考とその実践。これは予想以上に効いた。

 まずは自分自身の癒しが必要とばかりによく、セルフヒーリングをやっていた。まさか昨年、取材の延長でお気楽に試したレイキが、こんな状況で威力を発揮することがくるとは・・・・・、その時には考えもしなかったのに、と笑ってしまったほど。

 

 そして、午後2時、予定通りに調査員はやってきた。調査員の名札を見ると、彼女の生年月日。“なるほど昭和44年生まれかっ”と確認。なんかその瞬間、根拠もなく“いけるっ!!”と思った私(笑)。

 明け方に用意しておいた、母のことについてのレポート(レポート用紙にビッシリ書いたもの、6枚)もあることだし、強気で乗り切ろうと決意。

 予想通り母は、まるでボケていないかのように調査員と“キチンと”応答してしまったが、それを100も承知の上で用意したレポートと私の語りで、乗り切る。

 あらかじめレポートは用意しておいたほうがいいとは聞いていたので、私なりのモノを提出したまでだったが、今思うと、調査員の驚いた顔と、“これはまた詳細に・・”という言葉を何度も彼女に言わせてしまったことを考慮すると、あまりここまで執拗に準備する人もいないのかな?、と思ってしまった(笑)。

 小一時間続いた問答のあと、調査員が帰り際に“申請の結果は本日から30日後です”という言葉を聞いて、ガックリしかけているところに、彼女が“でも、安心してください、お母様の件だと、必ず申請は受理されますから、介護2か3はいけるでしょう”とのことだった。

 合格発表じゃないが、その場で飛び上がりそうになってしまった私。人によっては、自分の家族がとうとう介護度をつけて認定がおりると、ますますその現実に落ち込む例があるというが、私は逆。

 母はボケているかもしれないし、また否かもしれない。でも、これで日常生活のサポートを確実にゲットできる、その保障がなによりも素晴らしいことに感じられた。

 とはいえ、まだ内定時点なので、本当に結果が出る時はどうなのかはわからないので、この辺でぬか喜びはやめておく。

 病院、ケアマネージャー、介護保険、そして隣人らのヘルプ、とすべての連携が、ある程度確立させることができた。

 今日のビールは、美味しくなりそうだ・・・・。


2004年06月16日(水) ぼけと外国語

 夕方、叔母Fと電話。彼女は母の6歳したの妹。今まで忙しくて連絡がなかなか取れなかったので、今までの母についての経緯を叔母Fに話す。

 で、先日医者から聞いてきた、アルツハイマー遺伝説を話す。

“どんな生活を送っていようが、なる人はなるんだって”

“精神的ショックは、あくまでも二次的なもので、それによってアルツになることはないんだって”

“だから、おばさんもやばいかもしれないよ”

 と、ちょっと脅かし気味に話してみると、案の定、否定モードに入ってきたので、“怖いんでしょ”と叔母Fに聞いてみると、しばし黙ってから、“あたしはへー気よーーっ”といつもの強気の叔母に戻った(笑)。で、おまけに“わたしじゃなくて、U(彼女の長女)が、すぐアルツになちゃうわよ”と意味不明の爆弾発言。ということで、このお方は強気で、まだまだ平気。

 さて、いとこH嬢(もう一人の叔母Nの長女)の反応は、今後のことも考えて老後のために、保険の内容を検討するかもしれないらしい。

 そして、夜はH嬢の妹のM嬢と電話。やはり、アルツ遺伝説は、少なからず衝撃だったらしい。

 母の次にヤバイのは誰か?、というとM嬢も自分の母、つまりは叔母Nだという。確かに叔母Nと母には少なからず共通点がある。が、叔母Nには、天敵・独身小姑様がいるので、まだまだ平気だよと伝える。

 いろいろとボケ関連の記事などを読んでいると、天敵だった姑が死んで、ホッとした瞬間にボケてしまったという例に数え切れないほど出くわした。“こいつには負けられん”と思う気持ちが、アタマをフル回転させるのだろうか?。ま、確かに思い当たるフシは自分にもあるわけで・・・(泣笑)。

 ところで、M嬢から面白い話をきいた。F叔母の前に住んでいた高齢のおじいちゃんがボケはじめて、なぜか日本語を話すことをやめ、スペイン語になってしまったそうだ。そして、そのまま徘徊するので、スペイン語を話すおじいちゃんとして有名になって、発見しやすかった、とか。

 私が常日ごろ聞いている話とは逆だったので、驚いた。というのは、いくらバイリンガル並に外国語が話せても、最終的に残るのは母国語という説。実際、アタマ打ったり、ボケたりして、自分の住んでいる国の言葉が話せなくなり、母国語だけになってしまい、家族とも誰ともコミュニケーションが取れなくなってしまう、というケースなら知っていたのだが・・・。

 で、考えた・・・・・。

 私は将来、フランスで日本語だけ喋って徘徊するのか?。それとも、日本でフランス語を話して徘徊するのだろうか・・・、と。

 
 ああ、長生きするのも大変だ。


 先日は、クルマを運転していて、交差点で対向車に譲られた時、大きな声でお礼を言おうと思い、咄嗟に口から出てきた言葉が“メルシー”だった時の、小さな衝撃。

 また、この間は、ふと名案が浮かんだので母に話しかけたら、母がポカンとしている。どうやら私の言っていることがわからないようだ。ああ、ここまで母がボケてしまったと嘆くやいなや、自分が母にフランス語で話しかけていたことに気付いた。

 母曰く、フランス語は全然わからないそうだ。ただの連なった音のようにしか聞こえないらしい。ふーーん、そうか。

 なんだか、私も徐々に壊れてきたようだ・・・・、ううっ。


2004年06月15日(火) 相違

 自分と母の違いとつくづく感じる今日この頃・・・・。こんなに違ってるのか・・・・と、眩暈すら感じるゼロでござる。


(1)妻としての姿勢について

母→夫に徹底的に世話して、尽くせ。
私→夫に尽くしすぎることでいいことはないので、放置プレイ、そして最後の最後に本当に援助が必要なら、ヘルプする。

(2)仕事について

母→同じルートを出勤に使う。一番早く乗り換えられるドアなどに執着し、毎日定時に出勤することには苦を感じない。

私→定時出勤ができない・・・(涙)。そのかわり、取材だのなんだのと毎回場所・時間・相手が変化する状況にはすんなり対応できる。

(3)料理について

母→基本的にあまり好きではない。夫のため、子供のためという目的があってはじめて毎日料理したくなるタイプ。

私→夫がいない昼でも、自分が食べたいモノを思い浮かべると一人でこった料理でもなんでもして、食べようとする。一人っ子特有の一人遊びの世界ともいえる。

(4)一日のスケジュールについて

母→スケジュールが詰まれば詰まるほど、嬉しい。雑事に追われてはじめて生きていると思えるのだろうか?!?!?!。

私→スケジュールが詰まれば詰まるほど鬱。ドタキャン病が始まって、必ず一日中ボーッと出来る時間を探す。

(5)社交について

母→表面的に、適当につきあうのはうまい。一人でツアーなどに参加してもその場で楽しくやってくるが、それ以上関係を深めようとはしない。

私→色々な人に出会うのが好きなのと同時に、それぞれの特性を知ったうえで深く付き合っていくの好き。

(6)子供について

母→子供を作ってはじめて人生がわかる。
私→子供がいない人生でもいい。

(7)財テクについて

母→かなり凄い(今はやばくなってきているが)
私→ケチだけれど、下手・・・・(汗)。

(8)家具などについて

母→色々なものに、埃よけとしてカバーをかけるのが好き。
私→カバー類全般が大嫌い。

(9)読書について

母→外国文学好き。とはいえ、主に小説類。バルザック、スタンダール、ロマン・ロラン、ヘルマン・ヘッセなど。

私→小説よりも、思想書や哲学書のほうが好き。

(10)死に目について

母→自分の姉、自分の夫、愛犬マルチンの死に目にあう。
私→誰もなし

(11)酒について

母→自分の父が酒癖が悪かったせいで、酒飲み全般を忌み嫌う。
私→大好き。

(12)男性一般について

母→結婚したからには、旦那一本であるべき。
私→結婚しようがなかろうが、まず女性として人生を全うしたい。(その点、日本よりフランスのほうが住みやすい)。

(13)自分自身についての興味について

母→ありそうでありながら、実はあまりなし。
私→それが一番。自分自身でも予期できない、意外な変化が人生だと思っている。

(14)服装について

母→私が産まれるまでは、すべての流行に合わせ、自分自身で最先端の服を作っていたし、それを着こなしていたが、母になった途端、おばさんファッションに変化。極力露出を控えるのは当たり前。

私→裁縫は苦手。が、自分が好きなファッション(それが流行だろうがなかろうが)を追求するのが好き。露出大好き(←夫も応援っ)。

(15)髪型について

母→人妻になったらのなら、ショートにすべき。つまりはあまり女性性を追及しないこと。

私→人妻云々は関係ない、ということで相変わらずロングヘアー。

(16)離婚の可能性について

母→考えられない。(終身雇用制時代の人間ともいえる)。
私→人間なのだから、心変わりは否定できない。(終身雇用制時代の崩壊をはじめ、絶対などというシステムが存在しないことを当たり前に感じた人間だからこそともいえる)。

(17)人生のモットーについて

母→〜すべき。
私→〜したい。

(18)対人関係について

母→大きなお世話。
私→皆様のおかげです。

(19)雨戸やカーテンについて

母→誰が覗くかわからないしからカーテンは閉めろ。夜は、誰がどお思うかわからないし、入ってくるかわからないので、時間になったら早めに雨戸をしめろ。

私→どーでもいいし、カーテンや雨戸がなくても死なないと、考える。実際にパリの自宅では、巨大な窓に対して、今まで数えるほどしかカーテンを利用してないし、アパルトマン自体に雨戸なんかないっ。

(20)浮気について

母→既婚者たるもの、絶対にありえん。
私→性別関係なく、そういった誘惑を完全否定した人生は考えられない。

(21)死全般について

母→怖い。(わしの姑も同じ)。
私→父親譲りの、まずは死体写真肯定派。人生において避けられるもの。

(22)食事の準備について

母→習慣的に、自分が腹が減っていようが否かにも関わらず、時間がくると準備しないではいられない。

私→私が腹減った、乃至は夫の自己申告による“腹減った”により、準備開始。

(23)妻という存在について

母→気がつき、気をまわし、相手を読むことに翻弄してナンボ。相手にあえて言われるようだと、かわいそうだし、自分の役目としても不満足。

私→たとえ相手の感情が手に取るようにわかっても、自己申告まで自分が動くのを待つ。で、夫があえて言いにくい表現を言わせる。察するということを相手にむやみに期待するのは、甘えだと基本的に考える。

(24)夫の仕事でのつきあいに関するサポートについて

母→夫が自分の仕事場の応接室ですべて、仕事上のつきあいを処理していたので、自宅に仕事関係者を招くことが皆無。

私→どこでどう夫の関係が広がるかわからないので、ちょっとでも可能性が臭ったら、夫のサポート、つまりは自分の生活のサポート(笑)。エンターティナーに徹する。本日まで、かなりの成功率を誇る。

(25)夫の出勤に対する身支度について

母→寝る前に、夫が翌日起きたら何も考えなくていいようにすべて準備。ワイシャツ、靴下、靴、そしてカバンの中身まで・・・。

私→・・・・・・・、まったく、逆。自分で最低限のことはしろ・・・・(汗)。もし、靴磨いて欲しかったら、前日のうちに自己申告しろっ、というだらしない立場。

(26)夫婦のコミュニケーションについて

母→女性性、つまりは彼女の世代の妻兼母のような立場が基本。(我が姑殿も同じ)。

私→夫が気分がいい時は、たいてい彼の夫婦関係が限りなく同性愛のような感じになっている・・・・。

(27)夫の家系について

母→ほとんど感知せず。自分の家系について話したがらなかった夫に、“あせてそこまで”という考えで、決して探らない。だから、現在になっても、自分の夫の過去については、自分の娘より知らない(笑)。

私→家系について話さない夫なんぞと付き合えん。ということで、現在は夫より夫の家系図を書けるようになっている(苦笑)。

(28)迷信・風習について

母→信じていないといいつつ、意味不明に怖がる傾向あり。これは彼女の母、つまりは私の祖母と同じ傾向。とはいえ、つまらぬ新興宗教などに一銭も払ったりしたことが今まで無いことが、私には救い。

私→怖がる前に、それについて徹底的に調査しろっ、という姿勢。どこまでが植えつけられたモノか否かを先に知ることが第一。お布施と称して、どこかへ金をおさめている自分が全く想像できない。

(29)庭仕事について

母→到底咲かせることが限りなく不可能な花を咲かせたり、死にかけた植物を復活させることが得意。

私→死にかけた植物は、そのまま死んでしまうし、第一庭付きの家になんか住みたくない。ということで、都心のアパルトマン暮らし・・・。

(30)35歳

母→私を出産。母になる。
私→今度の6月23日に37歳・・・・・・・・・・・・・・・。


 違いをあげていったら、きりがないので30項目でやめておく。が、類似点もあったりするから怖い・・・。


2004年06月14日(月) 遺伝の恐怖

 色々と、アルツハイマーについて、介護経験者、またはその関係者などにメールや電話で相談する日々。

 そして、本日の午後、新しい地元のかかりつけになろうと思われる医者のところへ母と出向く。本日からは、私は本当に彼女について行くだけにする。病院への行きかた、受付でのやりとり、など、すべて彼女のペースでやってもらう。たとえ、まごまごしていても、最後の最後まで手を出さないやりかた、だ。

 医者との話も、まるで私がいないかのように進めてもらう。そして、ある程度母と医者の話が終わったら、私は私の視点なりに、再び医者に質問攻撃。

 昨年秋の、以前のかかりつけ大病院での脳ドッグから本日まで、時間がかかかりすぎているのが、私をイライラさせるのだが、それプラス、大病院の脳外科部長や、神経内科の医師も、たいしたことは言わずに、“70歳代の平均的な脳であり、そこに萎縮もなにもみられない”という診断だった。ただ、ボケテストにおいては、母の結果が正常より低かったこともあり、初期の痴呆の疑いありとはいえ、アルツハイマーと誰も宣告しなかった。

 さて、今度は地元の医者に行くと、いきなりアルツハイマーの疑い濃厚とのこと。これは、非常に私を混乱させる。なので、この医者に、

私『脳の断面図に異常がみられなくとも、アルツハイマーであると診断できるということに、個人的に興味があるのですが、説明いただけますか?。』

と問うてみた。

医者『初期というのは、脳の断面図にはでません。物凄い細かい検査をして、それもミクロ単位の検査だけでわかるのであります。ということで、診断云々に神経質になるより、現状の改善のほうが先になると思います』とのことだった。

私『次の質問ですが、仕事を失うとか、犬を失うなどの、ま、ある意味での人生の生き甲斐を喪失するショックでアルツハイマーになるということはありますか?』

医者『それは、ある意味で引き金になることはありますが、あくまでも引き金。もともとアルツハイマーになりやすいタイプというのがあるのです』

 いやあ、これには参った。ってことは、わしもなるのか、いずれ?!?!?!。母方の祖母が、脳の断面図までの診断はしなかったものの、最後は酷いボケで亡くなっているのだが、この体質を受け継いでいたら、ヤバイということになる。

 性格、脳の使い方は、母方よりは、父方に非常に似ていると言われることが非常に多い私ではあるが、父は早く亡くなっているので、参考にならん・・・・(汗)。もし、今父が生きていれば、84歳なので、ボケてたんだろうか?、と想像たくましゅうする私。

 以前、この日記にも書いたが、父方の祖父も、我が父も53歳で亡くなっているので、私もできることなら、このくらいで逝ってしまいたいと思っていたが、ますますそう思う今日この頃。フランスに埋葬されようが、それが日本だろうが、死んでしまったあとは知ったこっちゃない。

 夫の家系は、彼の父親がアルツハイマーとパーキンソンの合併のような症状を併発させて、1996年に亡くなっている。妻、つまりはわしの姑のかかりきりの介護もむなしく、病気を宣告されてからたった2年後に、80歳で亡くなってしまった、私の会ったことのない舅。

 逆に姑の家系には、痴呆の顕著な例で亡くなっている人は、今のところ聞いたことがない。私もそうだが、夫がどっちの家系であるか否かで、今後の人生が、ちと怖くなってくる(苦笑)。生き続けるのも大変だっ。



さて、母は、本日から医者に、先週から試しで渡されている抗鬱剤にプラス、アルツハイマーの初期に人によっては効果があるという薬・アリセプトを処方された。毎朝、これらの薬を一錠づつ、母は私が帰国した後、きちんと管理して飲んでいけるのだろうか?。隣人等に援助を頼むつもりだ。

 と、同時に、またまた本日から、私は料理&買い物をするのを一切やめることにした。出来る限り、母に全部やってもらう、親のためを考えた“私にとっての上げ膳据え膳”を実行する。母の以前の得意料理を、本当に今での再現できるか否か?、等たくさんの観察ポイントがある。

 また、これによって、もし介護保険申請が通った場合、ヘルパーさんらにお願いする詳細なことなども、さらに浮き彫りになってくることだろう。

 たまの里帰りの親孝行と称して、全部やってしまうのが、本当の親孝行にならないという皮肉。かなりテキパキとやってしまう娘を見て、これ以上自信を喪失されても困るし、それがいつまでも続くものだとも思ってもらいたくない。まだ、自分でできることを認識してもらわないと、ヤバイ。


2004年06月11日(金) 国民性

 先日、高齢者を狙った詐欺について書いた。で、最近よく思うのだが、この手の詐欺は、果たしてフランスでは横行するのだろうか?、ということ。

 日本人は、世界の観光地でも有数のカモとして有名。あらゆる観光地で、日本人価格というのが高めに設定されているのが常。とにかく、未だにポンポンと金を落とす民族として、時には憧れを、そして時には失笑を買っている存在なことは否めない。

 さて、そんな民族だからかどうかは知らないが、確かに高齢になればなるほど、財布の紐が緩みやすいのだろうか、先にいう詐欺が横行する。そして他人に対して、ケチだと思われたくない、ないしは申し訳ないと思ったりする性格も災いしてか、きっぱり断るのなら、ま、適当に契約しちゃって金払ってその場を丸く治めちゃおう・・・・、というシステム。

 とにかく、消費してナンボの世界なのだ・・・と痛感することしきり。何かを買わないといけないような社会。お金が手元になくとも、簡単に金を借りられるシステム、サラ金なんてのも山のようにあるわけであり。

 これが、フランスになると逆なのが面白い。フランス人は基本的にとことんケチ。信じられないほどケチ。新製品などなかなか買わない。古いものを直し直し、時にはだましだまし使う。

 恐らく、日本で適度に稼ぎ、消費することになれた人間が一度フランス人社会にどっぷりはまって生活することになったら、そのケチさに、腰を抜かすこともあろう。

 すべてのフランス人高齢者を知っているわけではないし、例外もあろうことだが、とはいえ、もともとケチなフランス人は、年をとればとるほど、もっとケチになっていくように思われて仕方がない。出来ることなら、一銭も出したくない、ただならいいが・・・、というわけだ。

 だから、こんな高齢者相手に、訪問販売のセールスマンが汗水たらして営業しても、ほとんど何も売ることができないであろう。それ以前に、暇つぶしに高齢者のお喋りに散々付き合わされた挙句、無残にも放り出されるのがオチだ。

 個人的な例でいえば、我が姑殿がセールスマンに言いくるめられて契約書にサインしている姿などは、全く想像できない。逆に、セールスマンが言いくるめられて、商品を無料でむしりとられている可能性すらある。

 また、家の改築などのボッタクリ訪問業者なども、あまりフランスにはいないのではないか?、と思うことしきり。というのも、もともとブリコラージュと称して、自分で家の修繕、時には建築までもを当たり前にやるフランス人どもゆえ、オーダーメイドで業者に金払ってまで頼むとは、考えられないからだ。

 それでも、色々な詐欺というのは、各国で、その国民ならではの戦法があるから、フランス人だけがカモにならないというわけではないので、あしからず。あくまでも、ここで語っているのは、訪問販売のカモ率を想像しただけであるので。

 私はこれでも、フランス人社会にどっぷり浸かってたかが6年、されど6年。もともとケチな性格もあってか、割とすんなりフランス・ケチケチ生活には馴染んでいる。おまけに、すっかりケチ度に拍車がかかったようにも思うゆえ、久々に日本に戻ってきて、訪問販売のセールスマンにおされ気味になっている我が母の姿をみると、イライラ度合いがレッドゾーンを越える。

 “キサマはアホか?。そんな金があるなら、わたしにちょーだい”と心の中でつぶやく。

 で、またまた個人的な興味もかねて、地元の消費生活センターへ母と一緒に出向いてみた。相談員は懇切丁寧に色々と話してくれ、最後には楽しい世間話になってしまった。そして、そこで作成している“悪徳商法に注意”というパンフレットをもらったので、あらためてそれを読んでみると、かなり笑えるし、巧妙ゆえ、ゾッとする。

 バカバカしい戦法であっても、被害者が絶えないという現実。その中に我が母もいるかもしれないというまた別の現実。ああ、たまらん。


 が・・・・・、どうなのだろう・・・・、私の場合は・・・。私が高齢者になったら、どっちの国民性が出てきてしまうのだろうか?、と考えると妙に頭が冴えてしまって眠れなくなってしまった(汗)。


2004年06月10日(木) イタズラ電話

 “夜中に、わけのわからない日本語での電話がかかってくる”

 “僕がでると、相手は話さないんだっ!!”

 “この電話のおかげで、僕は夜中に飛び起こされる”

 “機械仕掛けのような女性の声の時もあるんだっ”


・・・・・・・と、フランスで相変わらずドタバタと意味不明な暮らしている夫の口から悩みが発せられている。


 即座に、わたしじゃないわよっ、と言ってみる。でも、本当だ。私は夫にそんなイタズラ電話する理由がない。イタズラ電話するぐらいなら、名乗ったうえで文句を言うほうが先立ったりするわけであり・・・・。

 で、しばらく夫の悩みを放置していた私。

 が・・・・・、真相がわかったのだ。


 母が今年の初めから、電話がおかしいとよく言っていた。確かに母に電話すると、会話途中で声が遠くなったりすることが多々あり。とにかく受信状態が悪いのだ。が、私はきっと母がボケて変なボタンでも押したせいで作動しないのか?、などと疑っていた。

 が、実際里帰りをしてみると、本当に電話はかなりヤバイ状態だったので、さっそく新しい電話機を購入した。

 新しい電話機には、色々な機能がついていた。その中には、不在中の留守メッセージを別の電話番号に自動的に転送する、という機能があった。この機能を利用すれば、フランスからも日本での母のコミュニケーションを監視できると思い、さっそく転送先にパリの自宅電話番号を入力した。

 で、私はそんなことをすっかり忘れて生活していたのだった・・・・。まさか、そんなに機能がちゃんと働いているとはつゆ知らず。

 時差は、日本時間マイナス7時間がフランスの時間。そして、母は早起きだが、昔からの習慣で午前中のうちに色々な雑事をこなすために、家の中にはあまりいない。で、わしは午前10時〜11時の間に起床するので、だいたい午前11時ぐらいまでの電話は留守電直行という感じだ。

 さて、午前11時といえば、フランスでは午前4時。ということは、夫からすると、寝たと思った瞬間に電話が鳴り、飛び起きるという生活をしていたことが判明・・・・・(汗)。

 ああ、なんだ、わたしのせいだったんだと悟ると同時に、なぜか、真夜中に飛び起きて、理解不可能な言語を耳にして、誰にも応答されず、怒り狂って受話器を叩きつけている夫を想像すると、ニヤニヤしてしまってしょうがない。

 ちなみに、さっきこの事実を知った私だが、夫には真実を未だ話していない・・・・。いつ、白状してやろうか?!?!、などと考えているわけである。


2004年06月09日(水) 後見人

 朝、遅くまで寝ていると、玄関のチャイムがなる。母はそれに対応して、“はーーい”と答え、玄関の戸を開ける。愛犬マルチンのいない今、訪問者は簡単に門を開け、母が開けた玄関の戸のところへ進んでくる。

 私は、母と訪問者の会話を襖越しに盗み聞き。訪問者はセールスマンだった。母はそれを購入する気はないが、セールスマンはなんとか母を説得しようとする。そんな会話が5分くらい続いたので、襖の向こうから、私が適当な嘘を言って、ケンモホロロにセールスマンを追い返して、一件落着。


 実家は、昭和40年代中期に建設された住宅街にある。当時、30代、40代でやっとマイホームをゲットして入居してきた人達は、子育ても終え、気が付いたら、たくさんの高齢者が残っているという状況。もちろん二世帯住宅などにして、子供世代と一緒に暮らしている人達もたくさんいるが、それでも、昼間は子供世代は家にいない。

 ゆえに、高齢者を狙った詐欺の温床になっているのだ。床下換気扇、屋根の工事、そして点検詐欺など、数えだしたらきりがない。母は、昨年家を少し直したのだが、その直した業者が、繰り返し繰り返し定期的にやってきては、“点検させてください”と言ってやってくる。

 確かに、母は長年修繕していない家に対して、私からすると信じられないほどの恐怖感を持っていたので、昨年の修繕には私もOKを出した。が、もう点検などにひっかかって一銭も出す気はない。

 さて、こういった業者相手に、一度でも玄関に入れたら向こうが勝ったも同然。だからこそ、絶対に戸を開けるなということで、里帰りしてから毎日のように母と喧嘩している日々を送っている。

 そして、本日も母は戸を開けてしまった。もう、私は怒り爆発。というか、これを私がフランスに戻ったとやられたことを考えると、いてもたってもいられない。

 さあ、どうするか・・・・?。

 高齢者相手の詐欺についてのサイトを読みまくってみた。そして、ひとつの手段が見えてきたので、さっそく相談機関に電話しまくる私。その手段とは、成年後見人制度だ。

 が、制度にはいつも利点だけがあるとは限らない。確かに後見人制度は、こういった詐欺を回避するにはかなり有効だ。が、同時に母は社会的な能力を失ってしまう。以前は後見人を立てると、禁治産者扱いになっていたほどだ。禁治産者といえば、選挙権もない。

 私もそこまでは求めていない。で、もっと調べていくと、後見人制度が完全され、後見人までいかない、補佐、および補助という存在が誕生していたことを知る。

 これについて詳しく知りたい私はまたまた各種相談機関に電話攻撃。が、相談は午後2時間だけどか、面会相談になると一ヶ月に一度だけなど、なかなかうまくいかない。調べた挙句、最寄の家庭裁判所支部に出かけると手っ取り早いことを知り、母と一緒にクルマを飛ばして行ってみた。

 所定の用紙に用件を書き(日本の役所っぽいっ!!)、相談室へ回された。そして相談室へ入ると、非常に人がよさそうなおじさんがそこに座っていた。おそらく、退職した法律家が嘱託で相談室勤務していると推測される。

 私は非常にこと細かく質問するタイプなのだが、法律家というのはそれに輪をかけてきちんと説明してくれるので、気分がいい。が、気分がいい話ばかりではなかった。というのも、後見人申請には、あらゆる資産の洗いざらい記入することからはじまるのだ。

 げげげ・・・・・・・・・。

 確かに、今回の里帰りの目的の一つには、財産管理を徹底させようというものがあったが、まさか一銭でもぴたりと間違いのないように書き込まねばならないとは・・・・。ああ、面倒くさい。家の評価額はもとより、もう、ほんとうにすべてを書き込むのだ。

 なので、これも帰国日までにはとうても出来そうもない・・・・。また、なんとか作成して、後見人申請をしても、結果が出るまで4ヶ月ぐらいかかるという・・・・(滝汗)。申請をしてから、調査人に呼び出され、財産共々鑑定される。これには、おおよそ10万円ほどかかるらしい。ま、金はいいとしても、その呼び出しされる目処というのが知りたい私。じゃないと、いつフランスと日本を往復していいのか目処がたたない。

 が、これもケースバイケースとのことで、はっきりとした時期がわからないとのこと・・・・。参ったな。

 ただ、海外在住でも、補佐として後見人的なことができればOKだと聞いてひと安心。また、私の場合ひとりっこなので、補佐選出に際して家族間で争いがないのが救い。これがまた審査をひとつ早く進めることができる理由となろう。また、例のあたらしいT医師に頼んで、診断書をうまく作成してもらえれば、もっと審査は早くなる確率はある。

 とはいえ、前述のように今回の里帰りではすべてをするのは無理ゆえ、とりあえず実家の表札のところに、“補佐人あり”とデカデカとはったりでもいいから書いておこうと思った。
 


2004年06月08日(火) ケアマネージャー

 午後2時に、昨日のT医師から派遣されたケアマネージャーI嬢がやってくる。どんな人がこういう仕事をやっているのか?、と個人的に興味があったのだが、I嬢は背も高く、傾向的な体育会系といった感じの人だった。非常に感じがよい。

 面会時間も限られているだろうと予想し、あらかじめ用意しておいた、母の略歴と、ボケの兆候、性格などを詳細に書き込んだレポート用紙15枚分のモノを資料をして提出してみた。

 とにかく、私には時間がないので、ポイントごとにいかに有効に母のことを説明できるか?、ということが鍵になってくる。また、もし介護保険をゲットできたとしても、ケアがスタートする時点には、私はいない。なので、それを予想したところまで、今の時点で考えておかないと、二度手間、三度手間になってしまうだけ。

 ケアマネージャーI嬢曰く、母は全然ボケていないようにしか見えない、とのこと。昨日のT医師もそうだった。

 それは、ある意味ありがたい。が、介護保険ゲットには、まったくありがたくないお話でもある。どこからみても健康にしかみえないので、これは介護保険申請の視察で、“この人には必要なし”と判断され、申請が却下される可能性が大だからだ。

 確かに、母は料理、買い物、洗濯などはできる。が、昔と較べて悲しくなるほど手際が悪いのは確か。また、記憶も本当にあやふやになってきている時もあるのだが、これが母をよく知らない人だと、“全然元気”という印象を受けてしまうのだ

 一応、私の事情も話して、申請を受けてから役所が調査人を送り込んでくるまで時間がかかるのだが、どうやらそれを早めにやってくれることが可能になってきた。が、その調査人とのやり取りで、どこまで私が母の状態をより細かく説明できるか、そして、調査人を納得させることができるか?、というのが今後最大の焦点になりそうだ。

 と同時に、フランスへ戻っても、また数ヵ月後に日本に戻ってくることになりそうだな・・・、と思ったゼロでした。

 


2004年06月07日(月) 告知

 本日は、かかりつけの大病院・脳外科医から用意してもらった母の脳の断面図および、意見書を持って、とある近所の医院へ。

 これらの書類を持って、どこの病院を選ぼうかと迷っている時に、救いの手が入った。それは、小学校からの親友M嬢の母だった。彼女は、地域の高齢者医療のケースワーカーをしているので、この問題には非常に詳しい。先週、M嬢にさりげなくこのことを頼んでおいたら、彼女の母が気を利かせて色々と考えておいてくれた模様。ありがたいことだ。

 彼女曰く、今後のことも考えて、大病院ではなく、自宅から出来るだけ近いところにかかりつけの医者を見つけておいたほうがいいとのこと。これには、まったく同感だ。それプラス、高齢者に強く、介護保険申請などにも積極的に動いてくれる医者が欲しかったのだが、この紹介された医者はまさにうってつけ、とのことだった。

 精神科を探していたのだが、この医者は精神科医ではなく、専門は神経内科医。こちらが求めるものとはちと違うが、それでも評判と自治体に強いことでいえば、押さえておいても悪くない医者と判断して、さっそくM嬢の母に話を進めておいてもらった、というわけだ。

 
 さて、医院につくと、さすがM嬢の母君のおかげか、何も説明しなくともさっさとことが進む。母の順番になり、二人で診察室に入る。T医者は書類などにざっと目を通し、簡単に母の手足の動きをテスト。動きには問題がないとのこと。

 また、脳自体にも問題がないとのこと。


 が・・・・・T医者は、「アルツハイマーの疑いあり」と述べる・・・・・・・。


 一瞬、固まる私だったが、色々と質問。母を知るものとしての状況などを話してみる。確かに、アルツハイマーの初期には、鬱的になったりという症状がある。なので、とりあえず最初は抗鬱剤を処方して、その経過を見たうえで、判断してみようということになった。

 で、ある程度判断できるようになっても、相変わらず物忘れなどが酷かった場合には、間違いなくアルツハイマーということになりそうだ。またそうなったら、アリセプトという薬の処方が開始されることになった。

 
 脳血管性痴呆の疑いだとか、鬱病、そして今度はアルツハイマーなどといわれ、はっきりいって、私はその情報に混乱している最中だ。が、もう診断ばかりに追われること自体、あまり意味を成さないと思ったので、この日を境に、母のサポートをもっと真剣に考えることに決めた。

 ま、どんな病名にしろ、母の状態がヤバイのに変わりはない。が、私は一緒に住めない。また、今の時点で一緒に住んでしまって、何もかも私がやってしまい、彼女が依存的になってしまったら、精神的には落ち着くものの、自立能力がどんどん失われていくに違いない。

 なので、この自治体対策に強いT医師に、これから介護保険の申請をしようと思うと話すと、その場で医師会に属するケアマネージャーを紹介してくれた。彼女を通して、介護保険の申請および、以後の介護プランを練っていけばいいように、すべてお膳立てしてもらえたのは、なんとも嬉しいことだ。


 医院を出て、母と喫茶店による。二人でコーヒー飲みながら談笑。まだ全然普通に会話ができる母。が、これが数年後にできなくなるのか?!?!、と思うとなんともいえない気持ちになってくる。

 昨日、ペットショップにいて、どうも犬を購入する気にならなかったのは、これだったのか?、とも思う。ということで、とりあえず犬購入作戦はひとまず棚上げ。まずは、介護保険をゲットすることが第一の目標になった。

 医師に、アルツハイマーの可能性ありと告知された母は何を思っているのだろうか?。

 

 

 


2004年06月06日(日) 八方塞がり

 昨日の午後から、いとこのH嬢が泊りがけで実家に来ている。

 昨晩は、恒例の近所の居酒屋へ、母とH嬢の3人で出かける。この居酒屋では、もうすっかり常連になりつつある私達・・・・。

 毎回、私は母と、本日のゲストという感じで妙齢(?)の女性を一人連れて行くパターンが、いつしか出来上がってきているようだ。そして、適当な時間になると、母が一人で家路に着き、私とゲストが延々と居酒屋で粘る、というパターン。

 そして、これ以上金をかけたくない酒量になると、店を出て、近所のコンビニでまたビールを購入して、実家へ戻り、トーク続行というのもパターンになってきている。



 さんざん話しすぎて、昼過ぎにフラフラと起床するわしら・・・。ああ、ちと呑み過ぎたか?!?!?!。

 夕方、H嬢を最寄駅に母と一緒に送りに行ったあと、その足でペットショップ2軒をはしごする。ターゲットは柴犬。一匹、非常に気に入った柴犬のメスがいたので、抱かせてもらう。久々の子犬の感触は、たまらないっ。それを見て、母もうきうきとしているのがわかる。

 が、まだ懸念があって、即購入という感じにはなれない私。なぜならば、まだ母の状況がハッキリしていない気がしてならないからだ。本当に長期間犬の世話が可能か?。その点をもっと掘り下げてみないと、犬にとっても、母にとっても、そして私にとっても不幸でしかない。

 また、本当に子犬からでよいのか?、ある程度大きくなった手間のかからない犬をもらったほうがいいのか?、考え出すときりがない。また、それをしだすと、時間に制限がある私・・・。ああ、八方ふさがり。

 なので、迷ったまま家に戻る・・・・。どうなるんだろうか?。
 
 


2004年06月04日(金) 逃避

 朝一番に、全○空に電話して、フランスへ帰国する便の日程変更をする。

 当初は、明日6月5日の便にてパリへ戻るつもりだったが、実際に日本へ来てしまうと想像以上にやることがたくさんあり、とてもじゃないが明日帰るなんてことはできないことが発覚。

 とはいえ、こうなることも予想していたので、日付変更が可能なチケットをあらかじめ購入しておいたのだが・・・・。

 一度目の変更は無料、二度目は15000円の変更料金が加算されるゆえ、あらかじめ今後のスケジュールを概算したうえで、帰国便を再予約。フランス生活をして、すっかりケチが身に染みた性格になったゆえ、絶対に2度目の変更はしたくないっ。

 で、選んだのは6月25日。が、選んだあとでふと気になって、オペレーターの女性に、“私のチケットって、何日まで有効だったのですか?。”とたずねてみると、“6月25日です”とのお答え。

 なーんだ、私のチケットは45日FIXだったのか、と、この時点で知る(汗)。


 本日は、あらゆることにやる気が生じなかったので、ダラダラと一日中読書、および、ピアノ弾いて終わり。懸案事項が多すぎて、こうやって現実逃避でもしてないと、やってられん、って感じの一日だった。

 


2004年06月02日(水) 習慣

 昨日中に、再び母のかかりつけの病院へ出向いて、担当医が準備しておいてくれた書類を受け取りに行くことになっていたのだが、“雨だったため”出かけるのが面倒になり・・・・。

 というわけで、本日でかける。今回は、一人で気ままに。さっさと病院へ付いて用事を済ませ、学生時代からのお気に入り大型本屋へ出向く。途中、昔、必ずこの本屋で本を大量に購入したあと、家に戻る前に立ち寄る喫茶店も健在だったのを確認。なんだかホッとする。

 それにしても、この本屋に足を踏み入れると、簡単に数時間経ってしまう。おまけに楽譜も置いてあるから、もう大変。時間もヤバイが、財布はもっとヤバイ。

 数時間後に、両手に本をかかえて電車に乗り込む自分の姿がフッと浮かんでくる。


 で、思ったとおりに数時間後にたくさんの書籍を抱えて、昔なごんだ喫茶店の椅子に座っている私。ここで、購入した本をパラパラと眺めないと、どうも電車に乗れない体質はやはり変わっていなかったようだ・・・。

 本を片手に、アイスコーヒーなどという、フランスではなかなかお目にかからない飲み物をストローでチューチュー。ほとんどアイスコーヒーがなくなっても、解けた氷でグラスの底に溜まる水分があるので、それをジュルジュル。ああ、懐かしい、この無駄な時間の使い方っ。

 せっかく払ったアイスコーヒー代、というより場所代・・・・。長くいたほうが・・・、と思っていた時に、自分が購入した楽譜を手に取る私。ずうっと欲しかった楽譜だったので、それを見ているうちに音楽がアタマに流れ出し、指も自然に動いてくる。こんなことをやっていると、早く家に帰って、近所迷惑になる時間前に、サラッとこの曲を試し弾きしたくなってくる。

 もうちょっといたい、が、家に帰ってピアノ弾きたい・・・・。


 と考えあぐねた結果、結局電車に飛び乗って家に戻ってしまった・・・・(汗)。よく、考えれば、これも昔の習慣だったりする。うーーん、人間、変わらない、というか変われないのか?!?!?!。


 帰宅後、いちおう満足するまでピアノを弾く。プロコフィエフのピアノソナタ第7番。まだまだ練習しないとだめなんだが・・・。


 夕食後の午後10時、小学校1年からの幼なじみY嬢がやってくる。6歳の終わりから知っている仲ゆえ、よく勘定すれば、ほぼ30年の付き合いということになる。
 
 Y嬢は仕事が忙しくて、なかなか実家に戻ってこられなかったのだが、今週は仕事をセーブしたとのことで、やってきてくれた。その“仕事”とは・・・・、パチスロ。彼と一緒に驚異的に稼ぎまくってもう数年。かなりその世界でも有名になってきているようだ。以前は、某巨大掲示板でも話題になってしまったらしい(笑)。

 彼女たちがあまりにも稼ぐので、サクラだと思われていることも多々あるようだ。また、パチスロの世界は若いので、30代のカップルが活躍しているのも珍しいらしい。

 Y嬢とは、ひたすらバカ話を二人でしているうちに朝の8時になっていた・・・・。これも習慣だったりする。


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