ゼロの視点
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2003年10月29日(水) エロティズム

De l'érotisme, il est possible de dire qu'il est approbation de la vie jusque dans la mort.-----Georges BATAILLE, "L'EROTISME"------


 エロティズムにおいて、それは死に至るまでの“生の高揚”と言うことができるかもしれない。(ジョルジュ・バタイユ『エロチスム』)。





本日の午後、担当編集者の家に出向いて、今後の打ち合わせをしてきた。かなりの編集方針の変更など、色々あったが、ある意味自分にとっての予想外のことが発生すると、妙な生への高揚を感じてならない自分を再発見する。

 ともすると、ナンパ男の原理とも似ているのかもしれない。相手がどうなるかわからないからこそ面白い。そして、それを通して、自分がどうなるかわからないから、もっと面白い。

 スリリングなゲーム。しかし、一度でもこの面白さを知ると、もうやめられない。一種の麻薬ともいえる。






恍惚感・・・・・・。







 “生”の何もかもひっくるめて、私はそこにエロティズムを発見していきたい、という強い願望がある。生活の安定を求めながらも、安定しきるととたんに死人ないしは、囚人のようになってしまう自分。本当にやっかいな性格だ(笑)。


 状況は考えようによってはシビアかもしれないが、この状況をどうやって乗り越えていこう・・・・、と考えるだけでワクワクしてくる。それは、性的エクスタシーを超越するほどだ。それらすべてを含めての、私にとってのエロチシズム。



ディオニソス(バッカス)しかり。
そして、タナトスしかり。





さーーて、サン=サーンスの歌劇『サムソンとデリラ』の“バッカナール”と、交響詩『死の舞踏』でも聴こうかな。この2曲は、端的に言語を超越したエクスタジーを見事に表現していると思っている。ああ、なんという“生の高揚”だろうかっ!!。

 この2曲を度々聴くたびに、現在の一瞬、一瞬がすべてであり、その瞬間を完全燃焼したいという根源的欲求を呼び覚ませてくれる。



 自分ではサン=サーンスを特別好きだと思ったことはなかったが、とはいえ、最近毎日無意識のうちで好んで弾いているピアノでひいている曲は、サン=サーンスの『動物の謝肉祭』内の“水族館”だったりする。私は、この曲の繊細さが好きでたまらない。

 イライラしている時は、この曲の一音、一音の繊細な響きをうまく表現できなくなる。またそれ程、微妙な音。またそれほど、頭では認識できないほど、身体の奥底から発するシグナルに敏感に反応する曲だともいえる。

 『死の舞踏』に至っては、もう圧巻だ。あくまで私の解釈でしかないが、この曲は、人間が生まれ落ちた瞬間から、死の瞬間までを見事に表現していると思えてならない私。言語、思考を超越したすざまじいまでのサン=サーンスの表現力。そこには、エロティズムをはじめ、あらゆる“生=性”の高揚感と黄昏が表現されているのだ。

 今、しみじみ実感する・・・・・・・・。私の波長とサン=サーンスは妙に合致するのだ、ということ。そして、形容のつかないエクスタシーが私に再び訪れ始めている、ということ。

 嬉しい。


2003年10月27日(月) 二面性

2000年の初めに一度だけ会ったことのあった夫婦の話。この夫婦、フランス人夫J33歳、中国人妻M28歳で、妻は夫にベタぼれで、夫は毎日ナンパしないではいられないという性質。この隣人が私の友人Aだ。

 友人Aは、隣人ということもあって、よく家族ぐるみでつきあっていた。なにしろ、Aは女で一つで二人の子供を育てているので、彼女の仕事が大変な時、JやMに時間があると子供を預かってもらっていたりもしていた。

 さて、この夫Jは大変な曲者。表面的にはいたっていい男。鍛えぬかれた体に、甘いマスク&声で、かたっぱしから“アジア人女性だけ”(特に中国人専門)をナンパしていく。妻のMは、彼と結婚するまえはビザなしでフランスに住んでいたので、彼に結婚してもらってようやくビザが出たという関係でもあった。

 夫Jは、ナンパするたびに「ボクは結婚しているけれど、妻にビザをあげたいという一心だけ。だからそこに愛はない」と語りつづける。そんな彼は、また新しい中国人女性をナンパした。そして、彼女と結婚するために、妻Mと離婚。

 私はここまでの話はAを通して知っていたが、つい最近ショッキングな話が入ってきた。

 Jは新しい中国人と暮らしながらも、前妻Mから金をせびり、Mが金を工面できないと殴ったり蹴ったりしていた、というのだ。そして今から一ヶ月前のこと。金をもってきたMにいちゃもんをつけ、玄関先で口論になり、怒った勢いでMを階段から突き飛ばしたらしい・・・・・・・。

 Mはヨレヨレになりながら、今もJの隣に住んでいるAのところへ逃げ込んだ。Mのただ事ではない姿を見て、Aはすぐ病院へ連れて行く。レントゲンを撮ると、身体のあちこちの骨にひびが入っていたとのこと。打ち所が悪ければ、Mは死んでいたのかもしれないと思うと、本当にゾッとする。

 Aは、何度もMに警察に被害届を出せと説得したが、ここまでされてもまだMはJをかばいたいらしく、Aの提案を却下。しょうがないので、AはMの代わりに彼女のレントゲン写真を保管。また今度同じことがあったら、とにかくこの写真を警察に送りつけようと決心したのだった。そして、AはJと絶縁宣言した。

 甘いイメージ(全然わしの好みじゃないが)で、虫も殺さないような感じのJの本性は、鬼畜だった。とかく、面白半分で語られがちな“悲惨な国際結婚の末路”の典型的パターンが、身近であると本当にビックリ。おまけにJは“アジ専”だし・・・・・。

 ちなみに、Jは中国人ナンパの専門家だが、中国語はほとんど話すことができない。簡単な挨拶だけだ。




 そういえば、あの“ジョ○パン”も二面性では有名だったらしい・・・・・、という噂をきいた。本当がどうかは知らぬが(多分本当らしい)、彼はすごいドメスティック・バイオレンス男らしい。誰か本当のことを知っていたら教えてくださいな。あの、血走ってギョロギョロした目で奥さんをぶん殴っている“ジョ○パン”のことを、ついつい想像してしまったゼロでした。


2003年10月25日(土) イライラ

非常にむしゃくしゃしていた。
誰かにこのイライラを聞いてもらいたいと思った。
誰かいないかな?、と考えてみた。

あっ、と一人強く思い浮かべた友人Aがいた。
そうすると、Aからメールがきた。
おっ、メールが今来た、ということは彼女は家にいる?。
と思って、電話すると、彼女がいた。
ラッキー!!。

イライラしていたのだが、
Aと話しているうち、大爆笑毒舌大会になってしまい、
2時間も話したあとは、なんでそれまでイライラしていたのか
ほとんど忘れてしまっていた。


ああ、ありがたや、ありがたや。


今度、Aの息子に、最近はまっているという遊戯王のカードでも持って行ってあげようと思った。(遊戯王はフランスで流行っていて、私が日本人だとわかると、あちこちから子供たちにせがまれる。とはいえ、私個人は遊戯王のことよく知らないのだが・・・・)。


2003年10月23日(木) 普遍的な問題

 昨日の昼は、S嬢を招き我が家でランチ。期間限定で、我が家のサロンだけがキレイになり、人を呼べるようになったので、急いでやってきてもらった(笑)。先日まで日本へ里帰りしていたS嬢は、色々な日本食良品のおみやげをもってきてくれ(新米もっ!!)、感激の涙をながしそうになった私。そして、今晩はE嬢ととある中華レストランで夕食。

 立て続けに、仕事と関係なく、夫の国へ嫁いできた外国人妻としての立場を思う存分話すのは、とても楽しいものだ。S嬢とは、特に姑の基本的なところ、つまりはおブルジョワの専業主婦(働いた経験なし)で、カトリックとカチコチの道徳が入り混じったところが奇妙にも似ていて、話がはずむ。

 特に、どうも我々の姑というのは、“苦しんでこそ人生”と勘違いしているところがあり、それがさっぱりわからん、というわけだ。わざわざ手のかかる方法ばかりを選び、それに苦悩して、そうした自分に酔っている?、と突っ込みたくなることもしばしば。

  そしてE嬢とは、自分たちの選択とはいえ、ちょっと双方の“おこちゃま夫”の取り扱い注意点などを話しあう。殊に、E嬢はここのところ猛烈に自分の夫に対して腹をたてているとのことで、料理をつまみながら、楽しみながら夫を懲らしめる方法を伝授(笑)。

 E嬢は、今まで仕事と家の往復で非常に疲れきっていて、休日もヘロヘロになっていることも多く、なかなか会う時間がなかったので、とてもいい機会だった。明日も仕事だからゆっくりしていられない、というE嬢だったが、きがついたらレストランの閉店まで二人で話していた(19〜24時)。


 後につくづく思ったが、嫁と姑の問題、そして夫婦喧嘩の原因など、古今東西同じ、ということ。それぞれの立場で抱く不平不満もほぼ似通っている。実に笑える。

 あまりに、ありふれた問題であり、永遠の問題でもあり。

 だからこそ話が盛り上がる。




 その後、ほろ酔いで気持ちよいいままアパルトマンのエントランスに入ると、暗闇に人が・・・・・。

 ギョッとして明かりをつけると、それは夫だった。どうやら暗闇で鍵を探していたらしい。

 夫は暗闇が好きだ。電気をつけずに生活ができるように・・・、とわけのわからないことを言いつつ、時々訓練している・・・・・。私としては、訓練すべきことが他にあるんじゃないの?、と思うが。


2003年10月21日(火) 旅のしおり

 ようやく我が母がパリにやって来る気になってきたので、その勢いにのって航空券を手配してしまった。12月8日〜12月18日(19日日本到着)という予定。

 とにかく、この時期、直行便が強烈に安いのだ。ゆえに、このまま母にのんびりと“どーしよーかなー?!?!?!”等と考えさせておいたら、チケットがなくなってしまう場合もある。それで急いだ、というわけ。

 日本時間の夕方突然、娘から電話がかかってきて『チケットとったから!!』と宣告されて、母も驚いていたが、そのわりには随分乗り気になってきてるようで笑える。

 1994年の1月に、母は近所の商店街の福引で“ロンドン・パリ旅行”を当ててパリにやってきている。もう10年近くも前のことだ。当時私は日本で仕事していたので、母には一人でツアーに参加してもらった。

 バルザックが大好きは母は、ツアーの自由時間にバルザック記念館にひとりで足をのばしたり、かなり好きなことをやってきた模様。そこで“わたしとは違って”大変にやさしい日本人の大学生(仏文科専攻)に出会い、色々とガイドしてもらったともいう。

 とはいえ、その時とは違い、母も老いてきて(71歳)、また今回はツアーじゃない。さて、どうするか?。本当にひとりでやってこられるのか?、と思いつつ、いろいろ電話で説明などをはじめるが、ラチがあかないので、詳細な“旅のしおり”を作ることにした。

 夫を一人で成田から都内まで呼び寄せる時も、色々と旅のしおりを作ったものだが、今回は母の番・・・・・。思うに、前回の旅行では、すべて添乗員まかせだったと思うゆえ、搭乗手続きから、出国手続きのやりかたなどを含め、執拗なほど詳細な“しおり”を作成した。あーーーーー、疲れた。



 愛犬マルチンがとうとういなくなってしまった今、母が自宅を離れられない理由はなくなった。そして、私も時間をぬうようにして里帰りするぐらいなら、母にこっちにきてもらって気分転換してもらったほうが断然いい。一石二鳥、というわけだ。

 ま、どうせ10日以上こちらに滞在させても、“家が心配だわ”等と言い出すに決まっているので、この日程ぐらいでいいと勝手に決めた(笑)。姑も80歳になっても、未だに飛行機のって、あっちこっち旅行しているし。

 フランスの“引退”する気なんぞまったくない老人連中の姿を間近でみることは、今の母にはいい刺激になると考えている。

 ということで、母がパリに来るまでに、最近放っておいた仕事を再開せねばならなくなった。ま、こうやって自分を追い込むことも必要だ(泣笑)。


2003年10月19日(日) 佐藤さん

 夕方、姑がやってくる。あらかじめ聞いておいた彼女からのリクエストに沿って、てきとうに晩メシを用意しておく。

 姑が一枚の古い写真を持ってきた。昔、姑の家に、広島からきたシャトーブリアンの研究をしていたという、“佐藤”氏とその妻の写真。1960年代の終わり頃のものだという。


姑「広島の佐藤さんって知ってる?。」

私「・・・・・・、あのねぇ、それって、フランスのデュポンさん知っている?、というのと同じなんだよね、わかる?。」

姑「・・・・・・・、あ、そう・・・・」

 
 もし仮に、この“佐藤さん”が広島にその当時住んでいたとしても、どこの研究機関にいたかまではわからないとなれば、人物の特定は難しい。また、その当時もし、大学で教鞭をとっていたとしても、写真からみて、もうとっくに“佐藤さん”は引退しているはずだろうし・・・・・。

 姑にとっては、彼らがはじめて出会った日本人だということ。まさか姑の晩年に、“佐藤さん”と出会った前後に産まれた日本人女性と長男が結婚するとは考えてもいなかったことだろう(笑)。

 写真の“佐藤さん”夫婦は、非常に品のある。そして、この夫妻にはさまれて、真中で女王のように活き活きと写っているのが、若かりし日の我が姑サマ。ずうっとこの写真を見ていると、姑の顔が強烈に夫の顔に似ていることに気がついた。まるで、夫が女装しているかのようだった。


 さて、我ながらビックリしているが、金曜日に姑がパリにやってきて以来、未だに何もいざこざが発生していない。スゴイことだっ!!。29日までこの高気圧が続くのか?。それとも低気圧になり前線を伴う嫌な天気になるのか?。俄か気象予報官になった気分だ。


2003年10月17日(金) デート

 本日、レンヌよりパリへ姑が上陸。夫の弟が、昼休みを利用して、姑をモンパルナス駅までクルマで迎えに行き、1区にある彼女のステュディオへ送り届け、そこで義弟と選手交代して、私が姑の相手をする。

 今まで、姑がモンパルナス駅に到着すると、夫かその弟が迎えに行き、彼女の家まで送る、ということだけはしていたが、あとはそこに放置してくる、と言う感じだった。

 もちろん、姑は80歳ながら、ものすごくバイタリティーがあり(あり過ぎるともいえる)、独立独歩で、毎日美術館や演劇を観に行くので、ある程度放置しておいても一向に構わないのだが、それでも、あまりに放置されすぎると、むかついてきているな?、というのをヒシヒシと感じたので、今回は、ちょっと趣向を変えてみた、というわけ。

 というのも、到着した瞬間に彼女の機嫌が悪くなると、すべての人が彼女の滞在期間中振りまわされることがあるから。そして、それが実際に何度もあった(汗)。

 ゆえに、彼女が部屋に到着した時間に合わせて、私が彼女の家にまず“花束”を持って出かけていき、彼女の荷解きや、ベットメーキングなどをおしゃべりしながら“一緒にする”ということ。

 姑がくる前にぺッドメーキングなどをすべてやっておくのは難しい。なぜなら、部屋のトータルコーディネートが好きな彼女は、その時の自分の気分に合わせて、シーツ、枕カバーなどを選びたい・・・・・、という人間だからだ。例え息子たちが、適当にベットメーキングしていても、それが気に入らないと、全部引っ剥がし、自分でゼイゼイ言いながら、働き始める。

 それらを目の当たりにして、姑は愚痴っぽくなり、息子達は意味不明な罪悪感にかられだし、あっという間に喧嘩になるというのがパターン。もうそうなると、グチャグチャ、修復不可能。

 そこで私は考えた。“始め良ければすべて良し”。とにかく、たとえ姑の機嫌がちょっと悪かろうと、まず花(それも切花じゃなくて、鉢植え)を持って、出迎え、すぐにでも愚痴っぽくなりそうな口を塞ぎ、あとは、色々な話を聞きながら、彼女のリクエストに応じながら、パリ滞在用の巣作りの手伝いをとりあえずしておく。

 一仕事終えた後、二人でまったり茶をのんで、気分転換にパリ市内散歩。姑もすっかり機嫌がいいのか、気がつくと二人で腕組んで歩いている(笑)。しかし、我が姑様、ものすごく体力がある。終いには私の足のほうが先に疲れてきた。

 ブティックを見つけリャ、二人で入り、この服は似合うか否か?、なんつーことをする。そして、道行く人の顔や格好で、変わったものを見つければ、二人で小声で毒舌批判をして皮肉な笑いをする。

 時々無償にタバコが吸いたくなるので、姑を一人でブティックに入れてしまい、ホッと道端で一服していると、それを姑に見つけられる。が、面白いことに機嫌のいい、姑は喫煙について説教をするものの、いつもよりは執拗ではない。ラッキー。

 我が家に今晩ディナーに来るか?、と誘ってみたが、さすがに今日はよく歩いたので疲れているから、自分で勝手に簡単なものを作って自宅でさっさと寝たい、という姑。そしてモノプリでそれぞれが夕食の買い物をして、午後7時頃わかれて、私は自宅へ戻った。

 本音を言えば、花束持って行き、巣作りの手伝いしたらさっさと家に戻るつもりでいた私えあったが、姑も機嫌がよく、そうなると、私も彼女といることに対して楽しくなり、気がついたら午後、ずうっと彼女とデートしていたような感覚を得た。不思議だし、妙に笑える。

 ま、何よりも、こういったことが新鮮に感じられるということ=同居じゃない、プラス、姑はパリから遠いところに住んでいる、という理由だからだなぁ・・・・、とつくづく思ったゼロでした。


2003年10月16日(木) やる時はやる

 どうしても、人を我が家に招かなくてはならない状況に陥ったので、朝から大掃除。といっても、居間だけなのだが、これがとんでもない大仕事。これだけ形容もできないほど荒れてると、引越しに近いほどの労働をせざるを得ない。

 当初は、夕方に招待客がやってきて、とりあえず我が家でアペリティフでも楽しんで、近所のレストランへでも出向く、というつもりだったが、ここまで髪を振り乱して我ながらきれいになったサロンをマジマジと見ているうちに、ええいっ、この際、アペリティフの後のディナーもわしが用意したるっ!!、という気持ちになってしまった。 

 私の本が出来上がった暁に、序文を書いてくれるPADが現在、自分の仕事の件でパリに来ており、彼のわずかな自由時間を削って我が家に来てくれる、というのに、これ以上怠惰なことは言ってられない、というわけだ。

 そして、ロンドン在住の友人M氏が、日本から訪れている彼の母と叔母を連れて、パリにやってきており、やはり、彼らも本日の晩しか日程が空いていないという。

 PADは某通信社の記者として8年日本(バブル経済最高潮の時期からその崩壊まで)に滞在。それプラス3人の日本人客、ということで、本日は特別出血大サービスで日本料理オンリー。久しぶりにキレイなテーブルセッティングというのをやったきたする(笑)。

 夫は、本音では私にディナーを用意してもらいたかったのだが、掃除を頼んだ上(だいたいが夫のゴミ)に、それに大幅に時間を取られ、恐らく不機嫌になっている予想される私に対して、それ以上はあえて頼めなかった。が、家に戻ってくると、すっかりディナーの用意が、見違えるほどキレイになったサロンにしてあるのを発見して、口をあんぐりあけている。

 見たか!!。やる時は、やるのだ、ウハハハハ。


ところで、夫からしょっちゅう、PADは日本語を話すことができると聞いていたが、今まで一度も私に対しては日本語で話してくれたことがなかった。が、今回、S氏の母とその妹が日本語以外はアウト、ということを知り、PADが“たいして話せませんが・・・”と日本人のように謙遜しながら、日本語で会話していくのを見て、ビックリ。

 確かに、“てにおは”はちょっと怪しいが、ちゃんと日本語を理解してないと不可能な会話に充分ついてこられるのだ。

 S氏らは大阪出身なのだが、その話を聞いていたPADが突然、

PAD「1995年の1月に私は大阪から神戸まで歩きました」

私「ってことは、もしかして?。」

PAD「そう、例のアレですよ、アレ」

私「阪神大震災?。」

PAD「そう」

 PADは、1995年の1月16日の夜にパリから大阪に到着。そして1月17日早朝の悲劇に見舞われたとのこと。そのままパリに引き返すこともできたが、記者魂もあり、交通網が完全にアウトになった大阪から神戸まで歩き、その後10日以上神戸市役所で寝泊りしながら、取材をしていたそうだ・・・・・。

 それまで微震程度の地震を2度ほど経験したことがあるだけだったPADにとって、滞在期間立て続けに発生する余震に激しく驚いていたとのこと。また貧富の差なども、マジマジと感じ、この体験は決して簡単に語れることではない・・・・・、と神妙な顔で延べていた。

 残念ながら、これについて深く彼にそれ以上聞きだすことができなかった。なぜなら、日本語オンリーになってしまうと、夫がわからない。またフランス語だけになると、S氏たちがわからない。そして、英語オンリーになると、S氏の母&叔母がわからない、というように、いちいち誰かが訳したりしているうちに、そっちに時間が取られて、しらない間に、どんどん違う話になっていってしまうからだ・・・・・。



 さて、あまりにもキレイになった我が家のサロン。それ以外の部屋が“あかずの間”になったことは言うまでもない・・・・・・・・。


2003年10月15日(水) 意外性

 友人のY嬢の紹介で、H嬢と初対面させてもらった。10月の初めに、Y嬢とランチした時に、“バイタリティー溢れるH嬢さん”という存在を教えてもらい、時間が会ったら、3人で是非会ってみたいと思っていたのだが、、本日、それが実現。

 実際のH嬢は、私の想像をある種“心地よく”裏切ってくれた(笑)。印象としては、なかなか“役者”だな、おぬし・・・・、と言う感じ。とにかく、色々な話をして、時間があっという間に経ってしまった。

 Y嬢と私は、同じ“エンピツ”エンピツで日記を書いている。が、実は、それ以前から知り合いで、それぞれが細々とサイトを開いて、やっと互いにその存在を白状したら、同じ“エンピツ”だったという、奇遇な仲。しょっちゅう、ベタベタ会うというわけではないが、ふと一緒にランチしたりと、のんびりペースで色々な話をしてきて現在に至っている。
 
 そして、今回Y嬢が彼女のサイトを通して知り合いになった、H嬢(彼女もサイトを持っている)と出会い、それが巡り巡って、今回の出会いに繋がった。

 Y嬢からH嬢のサイトのアドレスを事前に教えてもらい、実際におめに抱えるまでの準備で、それを熟読させてもらう。ま、いってみれば、取材も出会いも一緒で、もし手がかりが少しでもあれば、研究したいもの。そして、なんとなく、私のイメージとしてのH嬢というものができたところで、本人と対面っ!!。

 サイトのイメージと、本人の、私が抱いていたイメージのギャップにかなり笑わせてもらった。もっとある種かしこまった人物なのか?、と思っていたが・・・・・(笑)。

 結局、H嬢の経験豊かで、好奇心旺盛な人柄と、話題の豊富さで時間を忘れて話しまくっていた。Y嬢にいたっては、夫から数度電話が携帯にかかってきているのにもかかわらず、それに気付かなかったほど。

 幸か不幸か、カフェの日陰のテラス席に陣取っていた私たち。日もどっぷり暮れ、皆の衆とお別れした頃には、身体の芯から私は冷えきっていたことに気付いた。

 以前にも書いていると思うが、私がパソコンという媒体を使って未知の方とコンタクトを取り始めて3年弱。当初は、“ネットで知り合った”云々などというものに、ある種のネガティブなイメージをいだきかねない状況だったものの、実際、それもコンタクトの一種と割り切ってしまった今、もっともっと以外で面白い出会いの幅が広がってきていると実感する昨今。

 おまけに、まったく人見知りじゃない性格ゆえ、相手にOKと言ってもらえれば、時間に余裕がある限り、どこへでも出かけていく私。時に、私がこういった性格ゆえ、逆に相手がたじろぐこともあろうと思うが、ま、それも最初だけ?!?!?!、などと気楽に考えている。

 出会って、相手が私のことを苦手を思えばそれまでだし、それ以上を考えてもしょうがない。所詮、人間関係などそういうものだと思っている。要は、いかにかぎられた時間で“自分らしく”コミュニケーションできるか?、というのが肝心とも思っている。

 おまけに、みずから時間を作らないと、あっという間に非日本人ばかりの世界になってしまうゆえ、こうしてパリ(時には世界中)においての日本人ネットワーク(あくまで個人的だが)をすこしずつ、それでいて焦らず、自然に築き上げていくことができる喜びというものを感じだ一日だった。





ところで、今晩の夕食に、いわしの竜田揚げを作った。それは本当に美味しくできた。そんなところに一本の電話・・・・・。私あてだった。ついつい色々と話して、電話を切って食卓に戻ると、私の自慢の“いわしの竜田揚げ”がすべて消えていた・・・・・・・・・・・・・・・・。

 食べ物の恨みというのは、怖い・・・、ということを夫は知っているのだろうか?。

 


2003年10月13日(月) 霊気 PART3

 霊気の第一段階イニシエーションを終え、パリの自宅に戻ってきたのが、日曜日の午後の7時前だった。

 MGの強烈なオーガナイズは、自宅に戻ってきた今、本当に強烈だったことが実感できた。そのくらい、ニューエイジだの、胡散臭いだの、それらの次元を超越した、参加者間の奇妙なハーモニーというのを確かに実感したゆえ。

 恐らく、MGが直接私たちにイニシエーションを施す、ということがなかったら、ただ私は、部外者インタビューとして、霊気実践者に話を聞くだけで終わったのだろうとあらためて思った。夫もしかり。




 ところで日曜日の朝、MGをガイドに参加者全員で『霊気まわし』というヒーリングを実践。その時、たまたま私は鏡の前に座った。そして霊気ヒーリングが始まり、参加者全員が目をつぶり瞑想がはじまった。

 私は昔から、妙に他者が神妙になってくると、どうしてもその様子を確かめてみたくなる性格を持ち合わせている。私の幼稚園はバリバリの修道院だったのだが、シスター達に導かれるまま“お祈り”の時間になると、同朋がすべて真面目に目をつぶってお祈りをしているのに間に、私だけ思いっきり目を開き周りを観察している写真がたくさんある。

 人間、いくつのなっても性格が変わらぬように、今回も霊気ヒーリングの最中にどうしても観察したい欲求にかられパチっと、自分の眼を開く。そして自分の前にある大きな鏡を見ると、鏡ごしに一人の人間と思いっきり目が合った・・・・・・・。


 おおっ。


 それは、まさしく私の夫だった(笑)。



 勘弁してくれ・・・・・・。ここまで、やることなすこと一緒(あくまでもガキレベル)だと、噴出しそうになってくる。それでも、少しは大人になっているわしらは、おのおのの視点でわしら以外で真面目に瞑想している仲間の様子を観察する。そして、各々が観察し終わると、またまたわしらで目があう・・・・・。

 幼稚園の時は、私ひとりで目を開けていて、誰とも目が合ったことがなかったのだが、ここまで細かなタイミングを同じくして、我が夫と瞑想中に視線が重なるとキツイ。

 “なんでアンタはそこまで真面目じゃないのかっ!!”と、夫を罵りたい気持ちになるが、その時点で私も目をパッチリ開けているから同罪ゆえ、何も言えない(苦笑)。



 さて、前述したようにパリの自宅に戻ってきた私たち。第一段階のイニシエーションを終了した現在、浄化期間というのを経て第二段階のイニシエーションを得るまでに私たちがすることは、ひたすら霊気の実践。つまりは自己ヒーリングを毎日最低でも40分はする、ということ。

 この事実を知ったとき、すべてのMG宅でのセミナー参加者は、心の中で“面倒くせーーーーっ”と思ったものだった。とはいえ、とりあえずチャクラも開いてもらったことだし、言われたままの訓練をわしらでやってみようということになり、トライしてみた。

 するとどうだろう・・・・・。予想を越えて、かなり心地よく、あっという間に40分以上が過ぎていた。おまけに、霊気が提唱する“ポジティブ”な思考というのが(思い込みかどうかは未だ判断できないが)、わしら夫婦間に確かに誕生したとも思え、なかなか奇妙で新鮮な効果が得られた。

 わしら夫婦共に、MGをいくら敬愛しているとはいえ、ここまで効果を得られるとはまったく考えていなかったうえ、誠にビックリしたというのが本音。ま、MGも、自分の性格を含め、かなりクセのある人間だけをこの週末に厳選したことだけは頷けるのだが(笑)。



 とりあえず第一段階を終えただけなので、私は霊気について何もコメントができない。実践した後で、あらためて日本語の霊気サイトをことごとくあさった私だが、今言えることは、とりあえず、個人的に尊敬できる人間から、厳選されたメンバーだけでイニシエーションを受けることができたことには、本当に感謝しているということだけだ。

 あとは、いつまで続くかわからないが、毎日の実践を繰り返し、12月の初旬に予定されている第二段階のイニシエーションに参加する自分を想定して、毎日を消化してくというのが、とりあえずの目標になると思う。
 


2003年10月12日(日) 霊気 PART2

 昨日の日記の続き



 MGからの霊気イニシエーション3回目を待っている時のことだった。とにかく外でゆっくりとしたかった私は、皆からすうっと離れた。典型的なcartésienな庭園のバロック調な椅子に一人腰をおろし、ボーっとする。

 映画『去年マリエンバードで』のような状況で、まったくその趣を異にするイメージが振り払っても振り払っても現れてきた。そのイメージとは、映画『ホーリー・マウンテン』(アレハンドロ・ホドロフスキー監督・1973)だ。

 今から20年近くも前に、この映画の原作である未完の大著『類推の山(ルネ・ドーマル著・巌谷國士訳)』を読んで以来、形容を超えた魅力を感じていて、それが原作となってホドロフスキーによって実写化された映画『ホーリー・マウンテン』は、私のお気に入り映画の一つ。何回、この映画を観たのか・・・・・、今ではまったく数えられない程だ。

 とはいえ、最近は、この映画を観返すこともなかったのだが、突然、原作と映画のイメージが絶え間なく強烈に私に襲い掛かってきた。そして、心地よくMGからの3度目のイニシエーションを終えた後、参加者でアペリティフを他のsミニながら議論していた時のことだった。

 この霊気イニシエーションでわしらにとって初だったもう一組の夫婦であるM&Dの夫のほう、Mが色々と話しはじめた。適当に彼の話を聞いていると、ふと気になる単語が私の耳に飛び込んでくる・・・・・。彼は確かに、"Alexandro Jodorowsky"と発音している・・・・・。


 え、マジ、マジ、マジ?!?!?!?!?!。


私「Alexandro Jodorowskyって、もしかして、あのアレハンドロ・ホドロフスキーのことっ?」

M「あの“アレハンドロ・ホドロフスキー”というと?。」

私「彼は映画製作してますよね?。」

M「うん、というと“エル・トポ”のこと?」

 この回答を聞いて、間違いなく私が憧れて止まない“アレハンドロ・ホドロフスキー”であることを確認。

私「確かに、エル・トポも面白かったですが、私が未だに大好きでどうしようもない映画は“ホーリー・マウンテン”なんですよぉぉぉぉぉぉぉおーっ!!」

 もう自分でも信じられないほど興奮している私。聞けば、MはAlexandro Jodorowskyとは、ただの友人レベルを超越した家族に近いほどの密接した関係を、私の憧れの人間と築いている人物だったのだっ!!!!!!。

 今までも、かなりの確率でフランスで有名とされている人物に、さりげなく出会ってきたものだが、いかんせん、自分でそれほど思い入れがないので、適当に会話を済ませてきた私だったが、Alexandro Jodorowskyとなると別だっ!!。本当に、彼に対する私の思い入れはスゴイのだ(笑)。

 つい一ヶ月ほど前に、私が日本庭園について原稿を書いているうちに、マイブーム的に気になる観点を発見して、未だに仕事関係なく個人的に追求しているテーマがあって、たまたま発見した本も、Alexandro Jodorowskyの"Le doigt de la lune"(Albin Michel出版)だった。

 霊気のイニシエーションですでに熱くなっていた私は、もう誰にも止められないくらいの興奮状態。面白いことに、わしら夫婦と一緒に同行していたPDも、彼なりにAlexandro Jodorowskyに非常な興味を持っていたっ!!。

 夫は夫で、フランスに定着するや否や、私がこの映画の原作"Mont Analogue"(Rene Daumal著)を購入して、辞書をひきひき私が読んでいたことをよく知っていたので、彼も私の興奮を止められない(笑)。

 M曰く、近いうちにAlexandro Jodorowskyとの会合をセッティングしてくれるという。どうしうようっ、嬉しすぎるぅぅぅっ!!。




 それにしても、ホストであるMG・・・・。とんでもない出会いをセッティングしてくれたものだ・・・・。MGなりのこだわりで、彼の初イニシエーションのメンバーを厳選したというのだが。この時点で、MGに対して常に抱いていた敬愛の念を超えてた何かが私に芽生えて始めたことは確かだっ!!。

 翌日の日記に続く。


2003年10月11日(土) 霊気 PART1

 ここはノルマンディー地方の小さな村。商店もなにもない、ところ。友人MGの招きで、昨日の金曜日の晩から彼の別荘に滞在している。彼の別荘の1ヘクタール以上ある庭は、プチ・ヴェルサイユ庭園のような刈り込みをされた巨大な樹木と、よく手入れの行き届いた芝で構成された、いわゆる"le jardin cartésien"。

 風情を売りにした、高級セミナーハウスのような彼の別荘で、これから霊気の第一段階・イニシエーションが行われるのだ。

 実は、これを日記に書くかどうか迷っていた。というのも、私自身、“霊気”というものをよく知らなかったこともあるし、そのうえなんかウサン臭いという色眼鏡を常にもちつづけていたからである。

 とはいえ、今の仕事の関係で編集者から霊気についての記事を書いて欲しいと言われたのが今年の3月。乗り気のしないまま、ちょっとだけ下調べをしておいたが、それでも、さっぱりその実態がわからなかった。

 今思えば、この“霊気”という言葉を知ったのは、2001年の春だった。いとこU嬢が、こんど霊気でもやってみようかな?、というメールを送ってきたのがきっかけ。実際に彼女が試したのか否かはわからないが、そのとき、“何それっ?!?!?!”と思ったのを、今でもよく覚えている。直感的に、ニューエイジ的なインチキくさそうなものか?!?!?!、と思ったものだ。

 さて、前述のように霊気についての記事をかかねば・・・・、と思いつつ、どうもピンと来なかったところに、一人のフランス人男性が霊気を実際にやっているという情報を夫が持ってきた。PD41歳。百聞は一見にしかず、ということで、さっそくPDとアポイントを取って、取材に出かけた。何気に霊気について、私と同じような観点で興味を持っていた夫もそれに同行。

 取材という名目だったが、実際は、予想もしないほどPDとわしら夫婦は色々なことを話あい、帰り道に形容のつかない“縁”をシミジミ感じたのが今年の5月のことだった。

 しかし、それぞれ忙しいゆえ、縁を感じつつも、バタバタと過ごし、なかなかPDとそれ以上の話をする機会がなかった私。

 同じように、今回のメインホストMGとも、私は実際には、一回しか会ったことがないのだ(昨年の11月12日の日記参照)。とはいえ、たった一回のディナーだったとはいえ、かなり彼のことはインパクトに残っており、ここでも強烈な“縁”を感じていた。

 私は、いつも誰かと強烈な縁を感じたとしても、無理してそれを発展させようとはしない傾向がある。というのも、ここまで“何か”を感じるという時は、遅かれ早かれ、どこかで再び互いの道が交差する時が来ると考えているからだ。また、もし私が多忙で、実際に会いたいと思われる人に連絡がとれなくとも、もし本当に相手が私に少なからずの興味を持っていてくれるのであれば、向こうから連絡がくることもある、という考え。

 するとどうだろう、MGは、霊気のスペシャリストだったのだ。この事実を夫を介して知ったとき、我を疑った。およそ私のイメージしていた霊気の持つ、胡散臭さから遥か彼方にいるMGが、その実践者だったという新鮮な驚きっ!!。

 今まで数え切れないほどの非日本人に出会ってきたが、実をいえば、MGほど個人的にスゴイインパクトを私に与えた人はいなかった。夫もしかり。夫は彼の事情もあり、ちょくちょくMGとは会っていたが、普段は強烈に図々しい夫でも、MGの前では非常に行儀がいい、つまりは夫なりにMGへの畏敬の念がある、ということで、それはそれでひどく私を驚かせていた。

 MGは現在72歳。ものすごくダンディーで、実際年齢を感じさせない非常にパワフルな男性。立ち居振舞い、会話、生活環境のすべてをとっても、私にとっては痺れる男性なのだ。思想的にも決して偏ることもなく、常にオープンマインド。夫が、同性ながら、MGにかなりの敬意を払うのも無理ないなぁ・・・・、と思うことしきり。実際には、MGは決して他者に敬意を払ってもらうことを求めていない。まだそれがすごく素敵なのだ。

 恐らく、MGの今までの人生では、あまりにも敬意を払われてきたゆえに、彼自身の望みとしては、もっと色々な人間にダイレクト&フレンドリーに接してもらいたいと思ってきたのではないか?、とさえ考えられる・・・・・。

 さて、そのように非常に理性的なMGが霊気を実践しているということを聞きつけた私は、夫を通して私の現状を伝えておいた。そして、本日の霊気イニシエーションの集いが開かれた・・・・・、というわけである。

 MGは、前述のPDと連絡を密に取っており、とにかく何も準備せずに自分の別荘にやってくること・・・・、ただそれだけをわしら夫婦に伝えてきた。MGとわしら夫婦、そしてもう一組の夫婦がこのイニシエーションに加わるという・・・・・。

 メンバー構成にわしら夫婦は興味津々になるが、それを探ろうというわしらのどうしようもない好奇心を捨てることにした。すべては、ただMGを信頼するのみっ!!。それを機会に、わしらは、霊気に対するあらゆる疑念など、一切合財、とりあえず取っ払うことにした・・・・・。

 翌日の日記に続く・・・・・。

 


2003年10月10日(金) 喫煙事情

 ロンドンに比較すればまだ安いが、フランスのタバコも日本のソレよりは随分と高い。おまけに、平均給料は日本のソレより安いので、当然、タバコはかなり高価なものとなる。

 やれ、フィルム・ノワールだ、やれ、ヌーヴェル・ヴァーグだと騒がれていた時代の映画には、機関車のように煙を吐き出す人ばかりだったものだが、気がつけば、かなりの男性が現在はタバコを吸わなくなってきているフランス。それに対して、女性の喫煙率は高い。特に、若い女性。

 私が若いというカテゴリーに入るか否かは別として(汗)、そんな私も喫煙者の一人。私の夫は嫌煙家(16歳で吸い始め23歳でやめている)。夫の趣味(私にとっては悪趣味)は、タバコがいかに身体に悪いか?、ということを書いた記事などの収集コレクション。

 姑においては、記事を集めるばかりでなく、身近で癌で亡くなった人の原因がすべてタバコと断定して(よく調べると喫煙家ではないのだが)、その悲惨な最期を、末期癌患者が憑依したかのように、真似をして私を脅かそうとする。勘弁してくれ。

 そんな私とはいえ、平均的フランスにおける喫煙者よりは行儀がいいと思っている。タバコを吸わない人の家にいけば、外で吸う等だ。ゆえに携帯灰皿というのが大変活躍する。

 日本でも、禁煙キャンペーンが激しくなってきている昨今、いまや簡単に携帯灰皿を安い価格で求めることができるようになってきているが、私の愛用携帯灰皿は、6年前に購入した登山者用。象が踏んでも壊れないという非常に頑丈なシロモノだ。

 道路、床など、なんでも灰皿だと思っているおフランスの喫煙家からすれば、携帯灰皿などという存在は、まさに“信じられない”の一言に尽きる。今まで、不思議がられ、見知らぬ人に話し掛けられたこと、多々あり。

 さて、上記にも書いたように、若い世代にとってはタバコは高いゆえ、必然的に道端で『タバコ一本ください』という物乞い人口の数は上昇するばかり。

 日本にいた時は、こういった物乞いがいなかったので、喫茶店などに入っても、平気で自分のタバコの箱をテーブルの上に置いておいた。しかし、同じようなことフランスですると、タバコの箱=その中にたんまりとタバコ有り、という意味になり、必然的にたかられるゆえ、絶対にタバコの箱を人目につかないように所持する癖がいつのまにかついてしまったほど。

 それでも、待ち合わせなどで外でプカーッと一本吸っていると、どこかから物乞いが近づいてくる。タバコをくれ、といわれて、即座に嫌だ、と答えると逆ギレするモノもいるので要注意。しかし、タバコは吸いませんと、タバコを吸いながらウソつくわけもいかず、ここ数年は、乞われると、

『あーら、ごめんなさい、これが最後の一本なのよぉ』と大変申し訳なさそうに、さもなくば、

『今、ちょうど私も人からもらったところなの』と、非常に愛想よく答えるようにしている。

 私は上記の方法で今までそれ以上にからまれたことはないが、人によっては、おとりタバコまで周到に用意している。絡まれたとき、一本しか入っていないタバコの箱を見せて、勘弁してもらおうというわけだ(笑)。


 ま、いずれにせよ、タバコやめちゃえばなんでもないことなのだが・・・・・(汗)。

 それじゃ、これからちょっくら、ノルマンディーへ行ってまいります。

 


2003年10月09日(木) 万引き疑惑

 夜8時過ぎにオペラ通りのMONOPRIXでぶらぶらしていた私。ちょっと小金が入ったので、何か買いたいのだが、何度みてもピンと来るものがない。何度も何度もフロアーをウロウロしている時、あきらかに喧嘩ごしの会話が耳に語尾込んできた。

 声のするほうへ視線を向けると、レジで30代後半の小さな子供連れの白人女性客が、黒人ガードマンに尋問されている。その行為にキレた白人女性が、かなり大きな声でエキサイト。それにつられるように、黒人ガードマンが口調は極力丁寧なものの、声が大きくなってくる。

 どうやら、この女性はガードマンに、カバンの中を見せてくださいと言われて、それを拒否したところから、このいざこざが勃発したようだった。この女性、完全に逆ギレしまくっている。おまけにものすごく強気。絶対にガードマンに鞄を触らせない。

 次第に、女性は人権侵害との訴えを強くしていき、彼女の慇懃無礼な態度に徐々にキレ出してきた黒人ガードマンが今度は、この女性に対し“人種差別者”と訴える。当然私は、『家政婦は見た』の市原悦子状態になって、耳はダンボ、目はらんらんと事態をちょっと離れたところから追う。

 そこにもう一人別の黒人ガードマンが仲裁にはいり、彼女は結局カバンを守りきり事態は収まったか?、と思いきや、今度はほとぼりの冷めないこの女性が、くだんのガードマンに、

「謝罪の言葉がないんだけれどっ!!」と強烈に大きくキツイ声で再爆撃。あー、また始まった。フロアーの客のほとんどは、私のように、それぞれの場所からさりげなく様子を追っている。

 不思議だ。本当に謝罪をガードマンに求めるなら、まず無罪な自分を示すためにカバンを開けてから、思いっきり罵倒してもいいのに・・・・と、思う私。しかし、彼女は何が何でも、カバンの中身を見せたくない上、その話題に触れないように、逆にガードマンを責めたてる。

 ガードマンは、再びこの女性客に“人種差別だ”というと、今度は彼女、『私の母はユダヤ人なのよっ!!』と叫ぶ。わからん、わからん、わからん・・・・・。

 結局、このいざこざは30分近く続いた。そして、彼女は一度もカバンの中身を見せることなく、他の従業員に謝らせて後ろ足で砂を蹴るようにして店を出て行った。

 彼女が本当に万引したのかどうかなんて、わからないし、どうでもいい。ただ、この騒動を通して、こういう女性は、自分が男でもつきあいたくないな・・・・、と思わせる異様なヒステリーパワー・・・・・、それがちと怖かった。きっと私が彼女の旦那だったら、言い争うのも面倒くさいので、ある日突然蒸発したくなっちゃうだろうな・・・・、と。

 日頃、毒舌だの鬼畜だの言われている私でさえ“ひょえーーっ”と、完全にひいてしまうレベルであったことがおわかりいただけるとありがたいです、はい。


2003年10月06日(月) 安堵

 仕事の締め切り延長を版元に交渉したしたのが、8月の末。担当編集者は全然つかまらず、また、版元の社長もつかまらずで、非常にやきもきとした日々を続けていた。

 それを逆手にとって、私も、かなり突拍子もない理由を作って、いろいろな方法で交渉してきたが、本日ようやく、版元社長から“ゆっくりと、落ち着いて書いておくんなせえ”調のメールがやってきたっ!!。




嬉しーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!。作戦成功っ!!。




 先週からあっちこっちと出かける用事が多く、まだまだこれが続く予定。いずれにせよ、締め切りまでには絶対仕事を納品できないことだけは明確だったとはいえ、版元社長からお墨付きの“OK”を貰えると、気分的に全然違ってくる。

 ここ数日の冷え込みですっかり風邪ぎみで、どよーーんとしているところに、寝違えて首が回らない私だったが、このそんな私に、一条の光が差し込んできたっ!!。


 なぜか知り合いに、バリバリのジャーナリストが多いのだが、彼ら曰く、契約書に書いた締め切りまでに出せないととんでもないことになる、と散々脅かされてきていた私。また、その話を聞きつけ、私以上に神経質になっていた夫・・・、という状況において、“まあ、なんとかなる”といつものように構えていたが、周りのヒステリックな焦りについつい負けそうになることもあり、それがかえって仕事を阻むという悪循環だった。

 私としては、いい加減そうなフランス人連中があまりにも心配するので、そちらのほうが、気味悪かったのだ。こんなフランス人らでも、神経質になるのだから、もしかすると、本当に期限の合法的延長など不可能ではないか?、という不安だ。

 いずれにせよ、自分が思うように事を進められたことに対して、非常に大満足なゼロでした。

 


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