ゼロの視点
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2003年06月28日(土) 再びサン・ドニ

 本日も早起きして、サン・ドニ・バジリクへ。

 夫が参加している、とあるアソシエーションにより企画されたバジリク研究一日ツアー、みたいなものに、一緒に参加するため。みんなに、昨日の夜もバジリクにいた、と言うと、「どうせならここで寝泊りすればよかったのに!!」とからかわれる。ま、確かにそうだ・・・・。

 専門ガイドの説明に沿って見学するのだが、実は私はこういうのがあまり好きではなかったりする・・・・。要するに自分の見たいように見て、あとで自分の興味のある質問だけをしたいのだ。ゆえに、しょっぱなからちょっと苦痛気味。

 大聖堂からは、本日もコンサートがあるのか、オーケストラの音(ブルックナー)が聞こえてきて、もうひとつ違うところからは、おそらくグールドのCDだと思われる“ゴールドベルク変奏曲”が聞こえてくる。そんな状況下、ガイドの説明よりも、ついつい音に耳や身体が反応してしまい、バジリクの説明はあまりわからず・・・・(汗)。

 一同でのランチで、すっかり酒を飲んでしまい、昼寝をしたい気分になっている私を察して、夫が「飽きたなら、家に戻ってもいいんだよ」と今回だけは“やさしく”提案してくれたので、その申し出にすぐさま飛びつく。なにしろ、こんな申し出をすることがめったにない夫。彼の気が変わらぬうちに、さっさと帰ってしまおうと思う私。

 さりげなく、一同に挨拶をして、メトロに乗ろうと思ったら、バーゲンの字文字があちらこちらに・・・。そうだ・・・・、もうバーゲンの始まってるんだ・・・・、等と考えるより早く、すでに私の足はブティックの中に入っていた。すると不思議なことに、さっきまであった疲労感も飛び、逆にエネルギーすら沸いてきているのを実感(笑)。

 ということで、突然、皿を大量購入してしまった。しかもガラスで一枚がものすごく重い。おまけに配送してくれない、とのこと・・・・・。でも、お買い上げ。番町皿屋敷状態。

 メトロで途中まで頑張って運んでみたものの、5歩進んでは休み、という状況でも、指がちぎれ、腕が抜けそうになったので、タクシーで帰った。ああ、長い道のりだった・・・・・。

 ところで、途中のメトロでのこと。私の隣に、30代後半と思われる男性が3、4歳と思われるかわいい女の子を抱いて座った。彼の娘は悲しそうに泣いている。その声は徐々にクレッシェンドしていく。そのうち、車内に豪快に響きまくり、周りの人の眼がこの父と娘にクギ付けになっていく。

 娘はひたすら「私のママン」と叫んでいる。でも、彼女が一緒にいるのはパパ。パパが撫でようとすると、娘はその手をムゲに振り払う。パパがウンザリして「これが見える?」と叩く真似をして手をかざすと、その手を逆に娘が叩くように振り払う。

 もうパパには、何の権威もないのがバレバレ。そんなことを知って、もっと困らせるように泣き叫ぶ娘。その娘を見て、また周囲の人を見ては、どこかに消え入りたくなってきているパパ。

 わたしも、ついつい娘をじーーっと見てしまった。すると、彼女と眼があった。彼女が泣いてないことに気付く。でも、まるで「ちょっと私の好きなようにパパを困らせてちょーだいっ!!」って感じで、彼女は眼で私に訴えてきたようだった(笑)。

 多分、このパパはママと離婚して、週末それぞれの時間にあわせて娘を預かったりしていたのだろうか・・・・?。


2003年06月27日(金) 今後のこと

よく私の掲示板に書き込みをしてくれる“たまさん”と、本日はランチ。彼女に実際にお会いするのは2回目だ。

 実家も妙に近かったりして、パリにてローカルな話が出来ると言う点、またお互い一人っ子同士ということで、今後の生活での問題点などを話し合うにも、共通点が多く、必然的に話が盛り上がってしまう。

 また、たまさんは愛猫を、私は愛犬を実家に残してきているので、この点についても、話があう。お互い、ペットに何かがあったら、どんな状況でも日本へ飛んで帰る、つもりでいる。

 また、もし“夫が死んだら”ということで、色々と話が盛り上がった。どこまで夫の死後、自力でやっていけるか?、乃至はそうなってもいいように(実際にはよくないが)もっと自分で稼ぐ環境を、どんどん充実させていくには?、等ということで、あーでもない、こーでもないと話にハナが咲く。ま、死ぬという極論は置いておいたとしても、事故だの、離婚だのと、色々な選択肢が人生にはあるわけだし・・・・、ということで。

 もちろん、先のことばかり杞憂して現在をおざなりにするという訳ではないが、気持ち的に備えあれば憂いなし、という感じになりたい時があるのも事実。そんな状況を踏まえて、本日はたまさんとたくさん議論できて、非常に楽しかった。

 例えば、
(1)今住んでいるアパルトマンが持ち家だとしても、どうやって高いか理費を含め、自分達の力(つまりは妻だけ)で払い続けることが可能か否か?。

(2)もし離婚しないまま、夫に先立たれて、妻の権利として残された一族の不動産等をどのように維持(状況によっては売却)するか?。

(3)日本の実家をどのように維持していくか?。(一人っ子ゆえ、相続問題はないにしても、維持についてはひとりで色々とやらねばならんということが多々あり・・・・)。

(4)子作りはどうする?(お互いに現在は、決して若くない状況で子供なし)。

ざっと挙げて、こんな感じ。きっとここにふと日常生活で気になる、将来の問題を挙げ続けたら、物凄いことになるだろう(笑)。いずれにせよ、とりあえず自分達でどこまで稼げるか?、ということがキーポイントなことだけは確か、だと思う。


 さて、夜からサン・ドニのバジリク(大聖堂)でのコンサートに招かれていたので、出動。ラジオ・フランスのオーケストラによるベートーヴェン『交響曲第六番』、後半は同コーラスによる、ブルックナー『ミサ曲ホ短調』。指揮はチョン・ミュンフン氏。

 サン・ドニ・バジリクの駅および街には、日焼けした方々ばかりなのに、大聖堂の中に入ると途端に日焼けしてない人ばかりになり、非常に奇妙だった。世界が二部しているとしか言えない印象。

 大聖堂の中には、オーケストラ団員、コーラス団員、そして観客にはアジア人はみられたが、本当に見渡す限り黒人がいないのだ。それなのに、一歩大聖堂から出ると、そこにはたくさんの黒人がいる。

 久しぶりに聞いたベートーヴェン『交響曲第六番』は、もともと私の好きな作品じゃないが、今回はなんとなくいつもより楽しめた気がする。またブルックナー『ミサ曲ホ短調』は、非常によかった。

 日本にいたときは、しょっちゅうクラシック音楽のコンサートに行っていたが、フランスに住み始めてからはほとんど足を運んでないので、これからはもっと頻繁に出かけてみようと思った。


2003年06月25日(水) 憧れと現実

 古いつきあいの友人MJの家でのディナー。MJは長いこと空手をやっている。昔別れた夫が大変な暴君で、それにほとほと嫌気が差した彼女は、自分で自分の身を守るために空手を始めた。

 彼女の空手の師匠は日本人T。Tの門下生には、日本人が一人もいない。Tは、非日本人の間から神のように崇め祭られている。ちょっと異様ほど。数年前、T自身にあって、日本語でダイレクトに話したことがあったが、どうも私は、彼のことが苦手。

 MJは、私に師匠と直接話させてみて、私がどんな印象を持つかテストしてみたかったのだと思う。が、案の定というか、予想以上に私がKTに対して呆れた感想を持ったので、MJもガックリしていた。

 さて、MJとその仲間は大の日本好き。日本へは行ったことがなく、憧れは人一倍という人種でもある。おまけに、日本人師匠Tから、色々聞きかじった“日本”というものから、現実の日本を超越した、不思議な日本観を長いことキープしている。

 彼女らが日本に抱くイメージは、武士道・・・(汗)。本当に、こういう人はたくさんいるが、彼女らもその一人。マダム・タタミゼ。私は別に人の幻想をぶち壊そうとは微塵も思ってないが、あまりにも幻想が妄想の域に達してくると、さすがに話を黙って聞き流すことができなくなってくる。

 武士道関連の本を読み漁るのはいいが、なぜ、同時に現代日本のことを知ろうとしないのか?、さっぱりわからなん。もし、旅費が高くて日本に行けないのなら、何故目の前に正真正銘の日本人(例えば私)を少しでも利用して、“現代の日本”のエキスを感じ取ろうとしないのだろうか?!?!?!?!。

 “フランスは好き、ただしフランス人がいなければ!!”と思いながら、フランスを旅する、世界中からの観光客が多いというが、ま、日本に対しても、フランスには同じことがいえる人種が存在することが、ここで証明されたわけだ(笑)。

 要するに、現実を知るより、憧れていたいという人物がいるということ。これは、ある意味私にはとっても不思議なことなのだ。憧れの裏とか、現実の裏などにばかり興味を惹かれすぎる傾向のある私ゆえ、両者には深い溝ができてしまう。

 これから死に物狂いで仕上げなくてはならない仕事。実は、編集者から「ゼロさん、あんまり現実ばかり書かないでね」と念を押されてしまった(涙)。もっと夢を書いてほしいらしい。編集者にとっての夢は、時には私には嘘にしかならないから、厄介だ・・・・・。ああ、不毛っ!!。

 

 というわけで、今回は日本でたくさん撮影してきた写真を見せて欲しいというリクエストに答えて、それを披露してきたのだが、案の定、宮本武蔵の話になってしまう(泣笑)。なんで、わしらの写真を見て、宮本武蔵になってしまうのか?。誰も、武蔵の格好なんてしてないぞ?!?!?!。それじゃなかったら、“禅”という表現が、あちらこちらから聞こえてくる・・・・。

 そんなフランス人のニーズにこたえて、さまざまな人がフランスにてビジネスを展開。それに追従して、私がガイドブックのようなものを、フランス人に向けて書いていくという、ジレンマ。ああ、なんか私、魂を売ってしまったような感じがしてならないのは、気のせい?。

 でも、諦めないっ!!。絶対に、ところどころに毒を含んだことを書いてやるのだ(笑)。でも、これじゃ報われない“草の根運動家”みたいだな・・・・(涙)。



 ちなみに、MJとは“憧れと現実”一般の話になるとまったく話がかち合わなくなるが、とってもいい友人関係なので、誤解のなきようお願い申し上げます。
 


2003年06月23日(月) 36歳

本日、また一つ私は年をとる・・・・・。


36歳。



もう36歳?。

まだ36歳?。

36歳なのに・・・・。

36歳だから・・・・。



ま、色々と考えようと思ったら、考えられるが、どうでもいいや。とりあえず腹が減ったので、昼飯でも作ろう。

 


2003年06月22日(日) 記念日

 本日は、わしら夫婦が出会った記念日。

 それは1998年6月21日にからはじまる。その日に、とあるパーティーで夫が、一組のカップルと知り合いになった。そこで彼らと意気投合した夫は、翌日のパーティーにこのカップルを招待してみた。

 このカップルの女性Lこそ、私の友人だった。当時私は、Lの彼の家Pに住んでいた。何しろPは物凄い金持ちで、パリの16区にある広い一軒家の部屋が余っていたので、無料&無期限で私に住まわせていてくれたのだ。当時、たまたまPと知り合って、“ゼロってなんか面白いから”という訳のわからない理由で部屋を提供してもらい、そこに出入りするPの彼女Lと仲良くなった、という訳だ。

 今思うと、この当時の生活環境が限りなく“バブリー”だったなあ・・・、と。

 当時から、すでにフリーランスだった私は、ある意味では自由な時間がたくさんあった。ゆえに、パリでブラブラしていられたのもあるが、さすがにPがいくらいい人とはいっても、何もしないでパリでブラブラし続けるつもりは毛頭なかったので、1、2ヶ月ぐらい楽しむだけ楽しんだら、さっさと日本へ帰って仕事再開しよーーっ、と思っていた頃だった。

 以前にも書いたが、要するに旅行者感覚のパリで充分であって、決してこの国に住みたいなどと、思ったことがなかった私だった。

 

 そして、Lと彼は、夫に誘われた6月22日のパーティーに、ふと私を連れて行き、夫と出会ってしまったというわけだ。

 これで、マル5年経過。とうとうわしらの生活も6年目に突入だ・・・・。どうなることやら?!?!?!?。


2003年06月21日(土) 奇跡だっ!!

 義弟Jの息子Rが、試験に合格したとのこと。それに伴い、その作品を学校に見にきたついでに、一緒にランチでもしようとお誘いだったので、出かけていく。

 学校へ出向くと、いつもは無愛想な息子Rは、さすがに物凄く重要な試験に合格した直後ゆえ、今までに見たことのない愛想のよさ。あまり嬉しそうなので、こっちまでつられてしまうほど。全校で5番という成績をゲットした彼の作品は、予想以上に出来がよくて、これまだビックリ。

 それ以上に義弟Jのホッとして、嬉しそうな姿を見て、わしらはこれまでどのくらい家族中で、この試験結果の日までをやきもきして過ごしてきたか?、というのをヒシヒシを感じた。義弟家族にとっては、この日は忘れられないものになるのだろう。おめでとうっ!!。

 義弟夫婦とブラッスリーでランチしたあと、わしらは一路カルチェ・ラタン、夫が敬愛してやまないHenri ADAMCZEWSKIとその仲間達の講演会へ。フランスにおける英語教育の改革者としても有名なADAMCZEWSKI。しかし、時に理論的すぎ異端者扱いされ、ノーベル賞受賞を逃し、教育機関とまっこうから戦い続けて本日までにいたる。ゆえに、本日はADAMCZEWSKIの信奉者の集いといってもいいもの。また、ADAMCZEWSKIの後継者であるGが、これらの改革を詰め込んだ教科書をとうとう作ることに成功し、その出版記念会ともいえる会合でもあった。

 面白い講演会だったものの、私の一番の興味あるものではないので、途中しばしば“なくしてしまった私の財布”について考えてしまい、一人で落ち込んでいた(泣笑)。

 その後は、本日6月21日は“Fête de la musique ”で、街中に溢れる音楽の洪水に身を浸しながら、財布を買いに行く。これ以上なくしてしまった財布のことを考えていても、落ち込むだけなので、思い切って新しい財布を買ってしまおうと思ったからだ。ということで、夫の財布からで、私の新しい財布を購入。メルシー。

 シャトレでは、中国の法輪劫デモンストレーションが行われていて、冷やかし半分で見学。“中国を追われた法輪劫、SOS!!”という垂れ幕が印象的だった。


 てきとーに街中をブラブラしたあと、早々と家に戻る。というのも、講演会の後、調子にのって二人してたくさんの本を買い込んでしまったため、動くに動けず、とりあえず荷物を家に置いてから、また出かけようと思ったからだ。
本日も暑い日だったので、シャワーでもと思い、浴室に入ると、夫が素っ頓狂な声を出している。


何事か?。



 それは一昨日前に私が財布を置いてきてしまったタクシーの運転手からだったっ!!。事情がわかると、私も素っ頓狂な声を出して驚く。タクシーの運転手は、財布の中にあった身分証明書から住所を調べ、わさわざ我が家に私の財布を届けてくれたのであったっ!!。


 もう、言葉にならないほどの感激。あいにく、私はシャワーの下で素っ裸だったので、運転手のところへは駆けつけられなかったが、その代わりに夫が運転手をもてなし、謝礼を渡し、お礼の言葉を述べておいてもらった。財布の中身もすべてそのままだった。

 “どうせParisだから、財布なんか戻ってこない”なんて思っていた私や、周囲の者だったが、なんと、なんと、財布が戻ってきたのだ!!!!!。数ヶ月まえ、ロンドンでスリにあったのにも関わらず、現金は消えたものの、それ以外の財布とその中身が不思議に私の手元に戻ってくるということがあったが、今回は、現金も消えずに、また再び私の手元に戻ってきた・・・・・。



 あんまり嬉しくなったので、疲れも吹っ飛び、パワーも200%フル回転しはじめ、99%行くつもりはなかったパーティーに行くことにした。久しぶりに会う面々と楽しんでいるうちに、すっかり夜も明け、帰宅したのは午前6時半だった。


2003年06月20日(金)

 昨日は、仕事と遊びでいい気になってあちこちを駆けずり回って、最後はかなーーりヨッパラって明け方に帰宅した私ゆえ、なんとなく二日酔い。

 ボーっとしながらも自宅で、昨日T氏からいただいた膨大な資料などを読み耽っていた。夕方になり、“そろそろ買い物でも行くかっ!”と出かける準備をし始めると、財布が見当たらない。

 どこに置いたんだっけ?、と思い、焦りもせずに探すが、本当に見つからない・・・・。だんだんと焦ってくる。ただでも暑いのに、焦り出したせいか、もっと体温があがり、汗が垂れてくる。探し方もだんだん荒っぽくなってくるし、私の形相もいつのまにか変わっている。

 ないっ!!。やべえ・・・・・・・・。


 家中をくまなく探しても、財布は見つからなかった。昨日最後に自分の財布を触った瞬間はよく覚えている。そう、それはタクシーの中だ。それ以後、一度も財布を見てないという事実を認めたくなかったが、どうやら、そういうことらしい・・・・・。

 私の愛用の財布。中には滞在許可証やら、銀行のカードなどてんこ盛り。藁をも掴む思いで会社にいる夫に電話してみる。というのも、彼は時に、私の鍵等を、出勤前のバタバタで間違えて会社に持っていってしまうということを何度もしているからだ。しかし、結果はシロ。

 本当に、私は財布をタクシーの中に、置いてきてしまったらしい・・・。


 銀行へ電話して、カードを止めてもらい、その後近くの警察へ行って、身分証明書の紛失届けを発行してもらう。

 窓口で紛失手続きをしていると、私の隣に血相を変えた中年の白人男性がやってきた。そして切羽詰った様子で自分の状況を警官に語り始める。ついつい財布を無くし切羽詰っているはずの私の耳もダンボになる。

男性は「私は現在離婚調停中のモノです。妻は家を出て調停中は別のところに住んでいますが、さっき仕事を終えて自宅に戻ると、貴重品などが全部消えているんですよっ!!。これは全部、妻の仕業です。なので、盗難の手続きをお願いします。妻は盗人なんですよっ!!!!。」

と、チカラいっぱい語っていた。このような訴えを聞いていると、“ヨッパラっていい気になってたら、お財布タクシーに置いてきちゃいました”等と訴えている自分が、妙に恥ずかしくなった。


 盗難届を書いている警察官が、私にその書類に住所や、署名などをするようにその紙とボールペンを渡してきた。言われたとおり、しょんぼりと空欄を埋める作業を黙々としていると、その警官が、そこを偶然通りかかった同僚の警官に突然、「ボールペン返せっ!!、泥棒っ」と怒鳴り始めた。同僚警官は、「ぼくじゃないよ」と、すっとぼけている。

でも、私の担当警官は「朝には5本あったボールペンが、君がここをココを通りかかるたびに、一本ずつ消えていくのを、ぼくは知っているんだぞ!!」

すると、同僚警官「あ、そんなの気のせいなんじゃないの?」
担当警官「違う、おまけが盗んだんだ!。返せ、ぼくのボールペン、この泥棒ヤロウっ!!」


 こんなやり取りを聞いているうちに、財布を酔っ払ってなくしたことに対する羞恥心は消えてしまった(笑)。

 


2003年06月19日(木) はしご

昼は、ベルビルにて友人Y嬢&E嬢と久々のランチ。私たちは、ほぼ同じ頃に結婚した同世代で、Parisおよびその近郊に住み、それぞれの夫は非日本人、ということもあり、こうして時々会って、あーだこーだとおしゃべりに花を咲かせる。

 本日は、夫婦で暮らしていてイライラすることおよび、喧嘩になった時などにどうやっているか?、ということで盛り上がった。きっとどこの家庭でもあることで、夫が片付けない、鍵などの置き場所をキチンと決めずに出かける間際に慌てて探す、服を脱ぎっぱなし、なんてことから、ついつい妻らがカチンと来るってパターンが、時には喧嘩に発展する。殊に、私たち3人のそれぞれの夫連中は、モノがなくなると無意識に妻に「ねえ、あれどこ?」って聞いてくるタイプなので、話すことが尽きない。ああ、主婦の昼下がり(笑)。

 アッと言う間に時間が過ぎてしまい、その後急いでメトロに乗り、インタビュー相手のところへ駆け込む。本日のお相手は、空手家T氏。在仏ほどなく20年になるT氏は、空手着に身を包み技を決めている写真の印象とは打って違い、物凄く面白く話しやすい人だった。午後4時半からのインタビューが、最後には仕事そっちのけで二人でビール飲みまくって、政治や社会全般の話になっていき、気がついたら午後9時になっていた。膨大な資料まで持参してくれたT氏には、本当に感謝している。やはり、物事を妙に悲観的に考える人よりは、T氏のように前を見てひたすら進んでいく人に、どうも魅力を感じてしまう。

 すでに次の待ち合わせの時間が大幅に過ぎていたので、慌ててT氏とお別れして、次の場所へ。遅れると一報しようと思ったが、携帯のバッテリーが切れていて果せず。冷や冷やしながら、待ち合わせ場所に行くと、ありがたいことにK氏は待ってきてくれたっ!!。お詫びのシルシで、ビールをおごらせてもらい、許してもらった・・・・。

 K氏とも久しぶりのご対面。暑い日だったので、ついついまたここでビールを何杯ものみ、もう少しで午後11時になると言う頃に、とあるクラブへ遊びに行ってみることになった。このテのクラブは行く機会がまったくなかったので、K氏の人脈を使って、案内してもらうのだ。K氏がまず、クラブの従業員の一人に連絡して、指定された場所までメトロで移動。そこに、従業員の一人がクルマでわしらをお迎えにきて、あとはお任せ、という感じ。

 午前0時から始まるショーを見ながら、K氏とシャンパンをどんどん飲んでいき、気がついたら、ボトル3本を開けていた。本日ベルビルでランチして以来、何も食べずにビールとシャンパンだけ・・・、ということにも気付いた。さすがに疲れてきたので、時計を見るともうすでに午前4時だった(汗)。K氏にお礼を行って、タクシーで家路へ。

 グッスリ寝ているだろうと思っていた夫が、いざ寝室に入ると起きてきたので、ざっと本日あったことを伝えて、私も深い眠りについた。

 


2003年06月18日(水) なるほど・・・・・・っ!!

いとこM嬢からメールが来た。




日本滞在中、あらゆるものの写真を、気が触れたように(いつものことだが)撮りまくっていた夫のことを“林家ペー”と形容してあったので、爆笑してしまった。




まったくその通りだと思う(汗)。




でも、なんだかな・・・・・、自分の夫が林家ペーってのもねェ・・・・。


2003年06月16日(月) 母のこと

 実は、今回の里帰りの一番の理由は、母の様子をうかがう事だった。なんとなく電話口でも覇気がないような気がしていたので、それが気になって仕方がなかったのだ。ということで、案ずるより生むが易しとばかりに夫を引き連れての里帰りとなった。

 さて、悪い予感は的中していた。母の変化に薄々気がつき始めたのは今年の初め。とはいえ、その頃、仕事で忙しかったのでなかなか電話なども頻繁にかけられなかった。昨年の11月くらいには里帰りすると、母には伝えてあったが、例の仕事が始まってしまったのと、仕事の予想がまったくつかなかった頃であったので、それを理由に里帰りを延期した。

 私が7歳の時に父が亡くなり、以後、ひとりっこの私と母の二人暮し。私の両親はある意味で非常に変わっているので(特に父)、そういったやり方に知らず知らずのうちに影響されて育つと、なかなか日本社会では生活しにくい性格になってしまうと、思うことが多々ある。

 母と私は35歳違う。もうすぐ私が36歳になるので、母は今年71歳。一年半前まで午後、ずうっとパートをしてきたところを辞めた。それからというもの、だんだんと一人で家に閉じこもり気味になっていったのだろう。彼女が仕事を辞めた頃、同じく私は里帰りしていたが、その時は少し老けたな、という感じこそあったものの、まだカクシャクとしていた。

 が、今回は、電話で気がついたように、実際の母から覇気が消えていてなんだか拍子抜けしてしまった。強烈に突っ込みの鋭い母だったが、毒舌も吐くことなく、妙にかわいらしくなってしまっていて、おまけに物忘れが激しくなっている・・・・。

 ああ、嫌な予感だ・・・・・・。

 母と一緒に暮らす愛犬マルチンは17歳と半年という高齢。母は、いつ帰ってくるかわからぬ娘を待ちながら、それと同時にいつあの世へ旅立ってしまうかわからない愛犬マルチンのことを心配しながら生活しているということになる。要するに、すべてにおいて“受身”なのだ。これじゃ、どんな人間でも、鬱になるか、ボケるかだ。

 そんなところに、私たちが3週間半の予定で里帰り。帰ってきたと思えば、出たり入ったり。そして、母の前では、娘が母が理解する言語とは違うもので会話を、異国人の夫としている。なんとか私も会話に母を入れようと出来るだけ通訳するが、とはいえ、それは充分でもなく、ついつい母は控え気味になっていく。

 私たちを受け入れる母の側にたってみれば、本当に一瞬たりとも私たちとゆっくりする時間なく、私達の猛スピードなペースに引きずられるような毎日だったかもしれない。それでも、なんとか用事があるときは、なるべく母と夫、そして私の3人でフラッと出かけるようにしていたが、それも、ともすれば母の意思で決めたものではないので、何か夢の中で暮らしているような感じになってしまっていたのかもしれない・・・・。

 実家滞在中、母はボケが始まったのか?、というような発言を何度かした。驚いたが、あまりショックはなかった。それらが、ふと私の耳に入る度に、さてどうやって、彼女の生活を受身じゃなくて、能動的にしていこうか?、という私の試行錯誤が始まった。

 痴呆の初期なのか、それとも、一種の生活の大変化によるショックからの発言なのか?、それは、私は医者じゃないので判断つきかねる。帰り際に母に一度脳の検査を受けるように薦めるが、拒絶される・・・・。その拒絶により、思わず私が激怒して、大喧嘩に発展・・・・。あーあっ。

 そんなこともあり、後ろ髪を強烈に引っ張られるようにしながらパリへ戻ってきたのだが、本日母に朝一番で電話すると、向こうも冷静に考えたのか、業院での検査にOKを出してくれた、ホッ。とにかく、早期発見が第一。それにこれが一時的なことであれ、本当の痴呆の始まりでアレ、いずれにせよ母の生活をもっともっとよりよくすることを二人で色々話し合っていく必要がある。それをしなければ、間違いなく一年後には、検査を受けるまでもなく痴呆になってしまうだろう。

 幸いにも、母は、自分がボケた発言をしても自覚がある。自覚がなくなったら、もうオシマイだ。

 友人Yの母は、まだ60代前半。そんな彼女の発言や挙動にあきらかな変化があったのは昨年末だった。そして、家族中が真っ青になり、嫌がる母親を説得してようやく病院へ連れて行くと、そこでくだされた診断は軽度の脳梗塞だった。友人Yの衝撃はものすごかった。

 ただ、幸いなことに友人Yの母は軽度だったので入院することもなく、今はかなりよくなってきている。ボケに似た症状でも、原因は色々ある。ゆえに、何よりもちょっとした変化に気がついたら、病院へ連れて行くことが肝心なのだと、友人Yから教えておいてもらって本当によかった。

 日本滞在中に知り合ったC神父がいる教会へ、気晴らしに出かけてみないか?、と母にずうっと薦めていたが、「面倒くさい」と言って嫌がっていた母だったが、さすがに、このままじゃヤバイと自分でも感じたのか、これもOKを出してくれた。幸い、母は若い頃に洗礼を受けている“なんちゃってクリスチャン”なので、堂々と教会に復帰できるのだ(笑)。

 母が若い頃に、トチ狂ったように突然洗礼したときは、さんざん色々な人に笑われたそうだ。そんな母に私も“イカレ耶蘇”などと、喧嘩すると罵倒していたものだ。が、今回の里帰りで私たちがC神父に出会い、それが縁で母が何十年ぶりにクリスチャンとして教会に行くという不思議な縁に、今回は賭けてみようと思っている。そして、通っていくうちにC神父と色々を彼女が話して、フランスは決して遠くない国だということも、感覚で判ってもらいたいと切実に思うゼロでした。
 


2003年06月15日(日) 帰国

 早朝、母に最寄駅まで送ってもらい、そこで母とはバイバイ。そこから一路成田へ。夫が「僕たちは、メールでも電話でも、いつでも繋がっています。僕たちは決して遠くにいるわけではありませんよ。そしてこれからもたくさん自分のやりたいことをエンジョイしてくださいね。」と母に言い残す。

 成田では、やけに混んでいて、チェックインするだけでほとんどの時間を費やしてしまった。

 さすがに徹夜だっただけあり、機内食の前に一眠り。そして食事をすべて平らげ、また熟睡。多分夫と話している途中で、私は、完全に逝ってしまったようだ。

 寝るだけ寝たら、パちっと目が覚め、それからはスチュワーデス呼び出しボタンを何回も押し、ワインを調達。6ボトルキープした(笑)。

 そんなことをしているうちに、パリに到着。ああ、戻ってきてしまったっ!!。しかし、天気がよくて、ちと嬉しい。これが冬のパリだと、本当にフランスに戻ってきてガックリするのだが、今回は、この感覚はなし。

 日本の飛行機だったゆえ、パスポートチェックの行列のほとんどは日本人。みんなキレイに整列している。そんなところを、非日本人らが、何食わぬ顔して並ばずに、横は入りしてさっさと出て行く。わしらも、それにくっついていき、横は入り。もちろん日本のパスポートは夫のパスポートの下に隠してっ!!。

 荷物を受け取りゲートを出ると、乗せるべき乗客とはぐれたというタクシーの運転手に遭遇。あっという間に商談成立し、またもや並ばずにタクシーで我が家への帰路につくこととなった。

 タクシーの運転手は、詩人だった。ランボーの詩を運転しながら詠み、詩全般についての講義をはじめる。最近、夫の友人JMが詩についての本を出版したのだが、そのことを尋ねるとタクシーの運転手は、よく知っていた。そして、またベラベラと話が続き・・・・・。

 こういうやり取りに身を置きつつ、しみじみと“ああ、パリに戻ってきた”と感じたゼロでした。


2003年06月14日(土) 最終日

 事実上、本日が日本滞在最終日。正午すぎにはスーツケースを宅配便で成田空港に送る。とはいえ、まだ手荷物分が全然準備できていない(汗)。この分だと徹夜作業になりそうな予感・・・・・。

 それにしても、3週間とちょっとの日本滞在だったが、本当にあっという間に過ぎてしまった。物凄いスピードだ。常に実家を出たり入ったりしていたような気がする。

 母からは日本語、そして同時に夫からはフランス語で、全然違った話題を話し掛けられる機会に何度もブチ切れていた私。話の筋がすべてわかっているのは私だけとはいえ、私がいずれかの言語で話している間は、それがわからない一方の相手は、少し待つってことができんのかぁっ、という具合。

 結果、私は日本滞在中、自分のお喋り分と、母の分、そして夫の分と、少なくとも3人分は常に話していたので、かなり咽が枯れたように思う。一人でクルマを運転して免許の更新に行った時に、ふとホッとしたのも、当たり前か(笑)?。

 また今回つくづく思ったことだが、ある意味、ここまで従順な夫の姿を見たことないな・・・、ということ。ま、日本において、頼るは妻しかいない、という状況なのだろうが、フランスでの彼の派茶滅茶自分勝手ブリを思い起こすと、妙に笑える。たまには、いいことだっ!!。

 母にも、猛スピードの里帰りとはいえ、夫の姿を生で味わってもらえてよかったと思っている。

 ああ、それでもあと一週間くらいは、日本に残っていたかった・・・・・。


2003年06月13日(金) 13日の金曜日

 午後から、パリへ持ち帰る食料等の買出しと、成田エキスプレスの予約等を済ませて、C神父のところへ向かう。

 教会内にクルマを入れると、さっそくC神父が出てくる。挨拶を済ませ、母にクルマを運転して帰ってもらった。昨日は酒が飲めなくて辛かったので、本日こそはっ!!、というわけだ。。

 さっそく、教会内のC神父の部屋に行き、その後居間でアペリティフ。たくさんテーブルの上に、C神父取って置きの酒瓶をたくさん並べられ、どれにしようか迷う程。酒を飲みながら、神父と会話している夫の顔をみると、あーーら不思議、やっぱり、妻の通訳を必要としない彼の顔は活き活きとしている(笑)。

 アペリティフの後は、C神父に連れられて教会から徒歩5分強のところにある老舗のうなぎ屋へ。一見穏やかな表情の置くに、キラリと光る鋭いC神父の眼光は、生半可は質問等できるのだろうか?、と私をたじろがせたが、とはいえ本来の好奇心がムクムク沸きあがってきたので、徐々に軽いジャブを打っていく。何も質問しないで、人の話を聞くということができない性格なんだと、つくづく痛感。

 C神父は、1954年に中国に赴任するつもりで、渡ったものの、結局共産主義の台頭で日本へ一時的にやってきた、ということは以前の日記にも書いたとおり。私が「本当は日本へは来たくなかったんじゃないの?」と聞くと、ニヤリとするC神父。

 日本へ来てからは、本当はフランスへすぐにでも帰りたくてしょうがなかったそうだ。とはいえ、フランスを去る際に、家族、友人、そして教会の司祭までを含めた、盛大なサヨナラパーティーをあちこちで開催してもらい、そんなことまでされた数ヶ月後に“どんなツラをさげて”帰ればよいのだろうか?、と考えた挙句、意地になって住み続けているうちに、日本に慣れてしまったとのことだった(笑)。

 日本に来た直後に、日本式の信号の仕組みがよく判らず、赤信号にバイクで突っ込み、臨死体験を経験したC神父。事故に合い、飛ばされている間に“ああ、これでフランスに帰るいい理由が見つかったっ!!”と思ったそうだ。実際、誰も助からないと思ったらしく、入院中のC神父の存在があるといのに、あちこちの教会では、彼の追悼ミサの準備がされていたらしい。

 仏教僧の集まりにも参加し、プロテスタント神父の会合にも顔を出す、非常にオープンマインドで、アクティブなC神父。神父の結婚についての議論においては、彼はOK派。ブルターニュ地方の中でも、バリバリに凝り固まったカトリックに慣れた挙句、それに嫌気が差してしまった夫だったが、ここまで思考&行動が狭量ではないC神父の存在に、新鮮に驚いている様子だった。

 うなぎ屋を出て、食後のコーヒーを求め、3人でドトールへ(笑)。まだまだ話は続く。結局閉店になって、店を追い出されるまで話し込んでいた3人だった。神父生活の裏話他、たくさんの面白い逸話が聞けて本当に充実した時間を過ごすことができた。


2003年06月12日(木) 親族会合

 朝から、母と夫と一緒に、まず高尾にある父の墓参り。梅雨入りしたせいで、小雨が終始パラツキ、湿度も高い。ああ、一番日本で私が嫌いな季節に突入してしまったっ!!。

 父の霊園は東京都が管理している、巨大なところ。墓石もすべて同じカタチである意味、ちょっと奇妙だ。絶対、夫はこれを見て驚くだろうなあ、と思っていたら、案の定、感動している。よくぞここまで統一された霊園、ッという感じで、ガイジンから見た整然とした日本のイメージに拍車をかけるのだろう、きっと・・・・・・。そんなわけで、さっそく墓場の写真を取りまくる夫であった。

 その後甲州街道をのんびりと新宿方面へ走っていき、母の妹N宅へ。本日は久々に母方の一族が、ここに集合する。N夫妻の好意によって、私たちが里帰りしていることもあって、こういった会合が催されることになったのだ。私たちは、フランスからわざわざ担いできたシャンパン等をみやげに持っていく。

 私たちが一番乗りだったが、そのうちチラホラとメンバーが集まり始めた。夫は「こんばんは」と真面目に言っていたつもりだったらしいが、彼の口から出た言葉はことごとく「おはようございます」だったので、必然的にみんなの笑いを誘う。そして、気がつくと、全員が喋りたいことを喋るという、いつもの賑やかという言葉をはるかに通り越した、ウルサイ会合になっている(汗)。

 もう、こうなるとわたしゃ、全然通訳することが不可能だ。話が飛ぶ、誰も人の話を聞かず喋りつづける、そして、突然みんながゲラゲラ笑い出すということが、物凄いスピードで繰り広げられる。私もついつい参加してしまい、あ、これ面白いから夫に通訳してあげようと思うのだが、すでに話題が変わっていて、結局次の話題にまたクビを突っ込んでしまうアリ様。

 フランスで、初めて夫の親族の会合に出席したとき、全然彼らの話題がわからず、夫の通訳だけを頼りにしていた時の記憶が蘇る。ひどく、長く、退屈に感じたものだったが、こうやって自分が通訳する立場に改めてなってみると、その不可能性を感じざるをえない。

 掘り炬燵式(もちろん電気はついてないが)になっているところじゃないと座れない夫。しかし、一番賑やかな女性陣の席は、夫から一番遠いところで掘り炬燵ではなく、ただの座布団。仲間に入りたいけれど、入れないジレンマ(笑)。

 母の妹Nの夫Mと、いとこのH嬢の夫H、そして夫の3人だけの夫に対して、女性は8人。もちろんウルサイのは女性陣。夫は以前、日本語で四苦八苦して書いた私の悪口の紙をみんなに見せて、突然男性陣、殊にH嬢の夫Hの共感を得ていた。夫H曰く「これはゼロじゃなくて、ボクの妻のことだっ!!」と。

 ま、きっとミナ、似たり寄ったりなのだろう?!?!?!。

 しかし、ミナが美味しそうに酒を飲んでいるのを目の前に、クルマの運転を考慮して、ただの一滴すら酒が飲めなかったのは辛かった・・・・。ゆえに帰宅した途端、一人で酒盛りしたのは言うまでもない。

 法律が改正されたおかげで、飲酒運転したら、そこに居合わせた人間までも莫大な罰金を取られるようになってしまった日本・・・・。もしこんなことをフランスでやったら、ほとんどの人が破産するころだろう。

 


2003年06月11日(水) 超人ハルク

 本日は、本当はたくさんやることがあった・・・・・。


 が・・・・、起きたら昼だった。やっぱり疲れてるのか?。それとも、翌日早いとわかっていながらも、午前3時過ぎまでダラダラしている私達がいけないのか?。ああ、計画がすっかりオジャンだっ!!。


 そんわけで、意図に反して本日は休息日になってしまった(苦笑)。先週の中国近畿地方旅行でたくさん撮影した写真を、アルバムに入れている作業をしていると、庭から凄い音がしてきた。

 母と顔を見合わせ「何事?!?!?!」と思い、物音がしたところを見てみると、そこには芝生に横たわっている雨戸と、“どーしよう・・”と戸惑っている夫の姿があった。一方、玄関には愛犬マルチンが「私のせいじゃないよっ!!」という感じで、シラッと伏せしていた。



 どうやら、夫は気を利かせて雨戸を開けてみようと思ったらしかった。が、戸袋の仕組みがよく理解できていなかったらしく、一枚目を無事開けた後、二枚目を戸袋のほうに持っていったら、一枚目があってツッかえてしまった。どうしいいかわからなくなり、そこで力をちょっと入れて押してみたら、戸袋の留め具が、1枚目の雨戸と一緒に吹っ飛んでしまったのだ・・・・・・・・・・・・・・・。

 超人ハルクですな・・・・・、あなたは・・・・・(汗)。じゃなかったら蛮族ですね。


2003年06月10日(火) 免許更新

 本日は早起きして、免許の更新。日本に里帰りしてすぐに免許更新手続きにトライしたが、電車を間違えてしまって全然違うと事へいってしまったおかげで、本日まで、里帰りの本当の目的を果たせないでいた。

 もう電車は嫌なので、クルマで行くことにした。夫を同行してもただ待ち時間が長いだけで、彼もつまらないだろうと思って、夫には本日、一人で実家からバスに乗って出かけてもらって、観光してもらうことにした。そして私の大学からの友人H氏が合流して、夫と一緒に観光をすることになった。

 あらかじめ、バスのシステムを教え、時刻表も渡し、実家の最寄のバス停と下車するべきバス停の名前などをメモに書く。ま、平気だろう・・・・?。

 9時前に私は出発。実際に指定された更新場所に行って、収入印紙を購入したりして、どんどん手続きを進めていくと、突然とある質問をされた。実は私、3年前の更新時に、更新期間を過ぎてしまい、そのあと海外にいたので更新できなかったという理由で、更新期間を大幅にすぎてから手続きをしていたのだ。

 とはいえ、その当時の状況では、違反もない私は今回の更新で5年のゴールド免許がもらえるはずだったのに対し、法律が昨年に改正されたため、3年モノしかもらえないと言われていたのだ。

 なのに実際に手続きしていくと、前回の更新が遅れた理由を問われ、海外にいたことを話すと、パスポートを持ってきて、その期間、確かに海外にいたことが証明できれば、5年モノのゴールド免許を発行できるかもしれない・・・、と係員がのたまってくる・・・・・。

 「てめえ、なんでそういう但し書きってやつを、あらかじめ更新案内のハガキに書いてこねぇんだよっ!!」と怒りが全身を走ったが、ここはぐっと我慢・・・・(涙)。おまけに、私の場合だったら、パスポートを持っていけば地元の警察で簡単に更新できるとまで言ってくる・・・・・。

 所詮パスポート等持っているはずもなく・・・・、ムカムカしながらクルマで再び実家に戻る。途中、時計をみるとちょうど夫と友人H氏の待ち合わせ時間近く。夫がちゃんと待ち合わせ場所についているか、心配するというよりも、好奇心だけでフラッと実家に戻る前に、そこに立ち寄ってみた。

 クルマをそこに近づけていって、眼を凝らしてみると確かに一人だけ怪しい外人がいる。クルマを降りていったら駐禁取られそうな場所だったので、クルマの中から夫のフルネームを、一か八か絶叫してみた。すると、驚いた怪しい外人がこっちに走ってきた・・・・・。ああ、やっぱり夫だった
(笑)。

 まさか、そんなところで自分のフルネームを叫ばれるとは思ってもいなかった夫は、本当に驚いたそうである。その後そこに、予定通りH氏がやってきて、しばらく3人で喫茶店でお喋りした後、私は2人を置いて実家にパスポートを取りに戻った。

 家に戻りパスポートを準備して、いざ再出陣と思ったが、今度は地元警察へのアクセスがよくわからなくなったので、母に同乗してもらって行くことにした。が、しばらく警察などへ行かなかった間に、どうやら警察署が引越ししていたらしく、全然たどり着けない・・・・・・・(涙)。そんなイライラもあり、クルマの中で母と喧嘩。

 結局難行苦行の末、警察を見つけ、とうとうゴールド免許をゲット。1989年に免許を取得して以来、はじめてのことだった。日本にいたら毎日運転していただろうし、しょっちゅう違反していただろうから、決して手に入れられなかったであろうゴールド免許。海外在住のメリットですな、これは。

 その後、夫と待ち合わせていたとある寺に到着。遠くを見るとやっぱり変な外人が写真取り捲っている。ああ、夫だ・・・・・。ただ「お待たせっ!!」と夫に再会するのはつまらなかったので、写真撮影に熱中している夫の背後に、そうーっと忍び寄って、耳元で「Do you speak English?」と囁いてみた。

 するとどうだろう、効果は私の想像以上で、夫は絶叫して驚いて、怒り狂っていた。うーーん、作戦成功。


2003年06月08日(日) C神父

 朝9時に、ロンドン在住の友人Mの母親がクルマで私達を迎えにくる。教会へ連れて行ってもらうのだ。何度もここで書いているように、私は無心論者、そして夫はアンチ・カトリックだが、そこの教会にフランス人神父がいるということを聞きつけて、是非会ってみたいと思ったからだ。

 実はすでに、私はこのフランス人神父のことをネットで下調べしていた(笑)。1926年生まれで、もと貴族。神父になるためにすべての財産と爵位などを放棄して、1954年にマルセイユを船で出て、33日間かけて日本にやってきたのだ。最初の目的は中国だったが、共産主義が強くなってきた関係で入国すらできず、そのかわりに日本に来日、現在に至るというわけだ。

 フランスに住んでみて、同じカトリックという言葉では括りきれない差異というのが、各ジェネレーションだけにも見て取れる。特に戦前に生まれた世代のカトリック信者というのだけでも、かなり興味深い存在なのだ、私にとって。そう・・・・・、私の姑のように(1923年生まれ)。

 教会に到着すると、そこには噂のC神父(こう書くと、まるでバタイユみたいだが)がいた。友人Mの両親が「本日はフランス人を一人連れてきた」と神父に伝えると、見る見ると神父Cの顔が笑みに包まれていき、夫に向かってフランス語で「本当にフランス人なの?」と話しかける。もうそこからは、日本なのに、まるでフランスにいるような雰囲気に早変わり。あーだこーだと二人とも典型的なフランス人オトコに変身。

 ミサの時間になったので、とりあえず教会内へ。神父Cは日本語で説法をよどみなく行う。ミサの後、またC神父とお喋り。本当に面白い神父なのだ、彼はっ!!。全然真面目じゃない。彼曰く「日本の信者は本当に真面目だけれど、神父を神のように度が過ぎる尊敬で崇めてくれるので、それがちょっと重い」と告白。その告白につられて、私達も爆笑。

 またC神父は、夫にもし日本語が話せないなら、どうやって会話が分かったフリをするか?、という方法を伝授。おまけに、日本のレストランはメニューを大変凝って作っているから、何枚か失敬してくれば?、等とも夫に
アドバイス。思わず、また爆笑してしまっている私達に追い討ちをかけるように、「だって私の母親はイタリア人だからねっ!!」と悪戯そうに言ってくる。

 こんな会話が1時間くらい続いた。あいにくC神父はたくさんやることがあったので、本日はこれでおしまい。そのかわりC神父は、私達がフランスに戻る前に一緒に食事をしようと誘ってくれた。もし、彼が言い出さなければ私が誘おうと思っていたので、もちろんOK。C神父との晩餐は、6月13日の金曜日となった(笑)。


 そのあとのんびりと浅草へ向かう。午後は私の4人のいとこ達(全員女でほぼ同世代)たちと、浅草寺をはじめ、この界隈の観光。まだ待ち合わせまで時間があったので、上野で暇つぶし。ああ、上野など、何年ぶりのことだろうか?!?!?!。色々なところをザッと見てみようと思っていたが、すぐに古本屋をみつけてしまい、結局そこ一軒だけで時間を使いきってしまった。

 そして雷門前で待ち合わせ。たくさんの観光客の中には、たくさんの外人。そこで人間ウオッチングをしているうちに、一人、また一人といとこ達が集い始め、全員集合。夫は、5人の美女(?)に囲まれ、終始笑顔。美しい花には毒があるというが、わしらが本当に美しいか否かは別として、含有毒の量は自慢できる。ま、夫にとっては知らぬが仏かっ?。

 もう、それからは爆笑三昧だったので、ここで書くことができない。なぜならあまりにも内輪ネタなので。いとこのH嬢オススメの焼肉屋では、本当に強烈にうるさかった私達だったことだろう。その後の隅田川クルーズでも、待合室であまりにも騒々しかったのは、私達です。そこに居合わせた方々・・・・、本当にすみません。



 今日の収穫は、浅草のポルノ映画館で購入した、ポルノ映画ポスター(1枚100円)を8枚。

 

 

 

 


2003年06月07日(土) お宅訪問

 高校時代からの友人M宅へ。彼女は昨年の末に、とうとう購入したマンションへ引越し、夫と二人の可愛い息子とそこで暮らしている。

 彼女がそれまで暮らしていた世田谷の家は、よーーく知っていた。今回彼女の家を訪れる時、もう前の家じゃないのを、ふとさびしく思い、それと同時に彼女が着々と人生を構築していく様子に、嬉しく思ったりする。

 彼女の新しいマンションはO線Yランド前から徒歩5分という所。クルマで行ったわしらだったが、簡単に駅前まではアクセスできた。が、そこから一軒のマンションを見つけるのは、至難の業だった。おまけにこのあたりは、山を切り崩しているので、ものすごいアップダウン、プラス、道がクニャクニャと曲がりくねり・・・・・・。

 通りにいちいち名前のない日本。夫は常日頃、どうやって日本人は住所を確認して、お宅訪問ができるのか?、と首をかしげていたが、今回、私がすっかり道に迷ったせいで、ますます“日本人は変わっている”というイメージを強めたようだ。

 結局迷った私は、通りかかったところでバイクの整備をしていた一人の長髪の青年に、道を尋ねてみた。私が行きたい所からおそらく5分くらいのところだったのだが、実際に地図を見せて案内を請うと、彼もよくわからないと答える。あーーーー、困った・・・・・・。

 とはいえ、その青年はだいたいの予想はつくものの、言葉では伝えられないと言った。じゃ、ま、しょうがないか・・・、とお礼を言って立ち去ろうとしたら、青年がスクーターでその近くまで先導してくれると申し出てくれたっ!!。ああ、なんと心優しい青年。

 坂を上ったり、下ったり、右にも、左にもグネグネ曲がっていくスクーターの後を追いながら、どうやら友人Mのマンション近辺に到着したようだ。青年は、ここまではわかるが、さすがにこれから先はよくわからないと申し出た。わしらにとっては、ここまでしてれるだけでもう大感激。パリに旅行に来ることがあったら、絶対我が家に来て欲しいと、わが夫婦の名刺を渡して別れた。

 さて、これからどうしようか?、一息いれると、どうもそこから目の前にあるマンションが、友人Mから見せてもらった写真のソレを似ていることが判明・・・・。もしかしたら????、という淡い期待を抱えつつ、徒歩でとりあえず偵察してみると、ビンゴっ!!。そこは、友人Mのマンションだった。

 すっかりマイホームパパに変身してまい、幸せそうな顔を隠そうともしないMの夫と、そんな幸な家庭で、両親からのタップリな愛情を受けてスクスク育っているMの息子2人の姿に、ほのぼのしてしまった(笑)。

 さて、先日までの旅行以来、スタンプラリーと、御朱印にはまってしまっている我が夫だが、今回もそのノートを持ってきて、友人M夫妻に御朱印ならぬ、筆ペンでのサインを頼んでいた。Mは神社おより寺などで用意されているスタンプの代わりに、実印やらシャチハタなどの判子を、出血大サービスでたくさん夫に押してくれた。ああ、メルシー。


2003年06月06日(金) 休息日

 本日は、休息。さすがにあちこち動き回って疲れたので、昼過ぎまでグッスリ寝る。ダラダラとワイドショーをつけっぱなしで、見るでもなし、聞くでもなし、という感じ。

 つくづく思うが、日本という国は便利ですみやすいところだと思う。夫もそれをつくづく再認識。日本に住めたら良いねぇ・・・、などともつい思ってしまう。

 が・・・・・・、ただひとつ条件がある。そう、フランス人並の勤務態度で、日本のような暮らしやすさがほしい、ということだ。ほとんど不可能だな(笑)?!?!?!?。


2003年06月05日(木) 東京駅

 午前6時半過ぎに、東京駅に到着。旅行もこれで、おしまい・・・・・。まだ通勤ラッシュもはじまらぬ早朝の東京駅周辺は、妙に閑散としていて奇妙だ。
 
 朝食でも食べようと思い、駅構内のコーヒーショップに立ち寄る。寝ぼけたまま、適当に注文して、黙々と食事をしているうちに、大分時間が経っていたようで、だんだん客層が出社直前のサラリーマンに変わってくる。食事も取らずに家を出て、会社近くに到着してから一息入れるように、コーヒーショップにて朝食を取る彼ら達。

 一方、そんな客層の変化を見ているうちに、だんだんと眼が覚めてきた私達。夫が「だんだんとPDG(社長さん)が増えてきた」と言う。以前にも書いたが、きちんとスーツを着ている日本人サラリーマンの姿が、夫にはすべてPDGに見えてしまう。

 実家に戻るために、東京駅のホームに立つと、たくさんの“PDG”のラッシュアワーが始まりだした。自らの会社に向かって一直線に進んでいくサラリーマンの姿を見て、呆気に取られている夫。夫にとっては今回は5回目の日本訪問だし、日本社会のことも平均的なフランス人よりも知っているのだが、それでも、この光景には驚くらしい(笑)。

 この群集の中に、ほとんど外国人の姿がないことも、夫にとってはビックリする点とのこと。まあ、確かにパリの国鉄駅で、あるいはメトロの駅で、フランス人ばかり(または白人ばかり)しか乗客がいないなどという状況は想像すらできない。そこには、黒人もいれば、アラブ人もいて、そしてアジア人もいる。そう・・・、色々な人種が混ざり合っているのが当たり前になっているからだ。

 これらの光景をボーッと眺めながら、二人で「これって、もしかしてル・ペン、もしくは、サルコジの理想国家なんだろうね」と思わず笑ってしまった。日本人ばかりで、みんな秩序を守っているように見える日本っ!!。途切れなく無賃乗車をする乗客らが、改札を飛び越えている光景もない。

 ホームの喫煙がダメになり、端に設けられた喫煙コーナーだけで、きちんとタバコを吸ってる日本人を見て、またまた夫が驚いている。用意された灰皿の前で、喫煙者の人だかり。しかしそれ以外の場所には、吸殻がほとんど落ちていないという状況。きっとそれでもタバコ嫌いな日本人の目には、あちこちに落ちているかもしれないタバコの吸殻が見えるのだろうが、フランス人である夫、もしくはフランスでの光景になれてしまった私の目には、なにも吸殻が見当たらないのだ。

 “規則”というものに対する考え方、そして態度の歴然とした違いに、早朝から圧倒された。



 さて、夜は、ロンドンの幼馴染Mの両親宅で夕食。我が家から徒歩5分。夫と私の母で、友人M不在のままの両親宅へ向かう。Mの父親が全部料理を用意していてくれて、それがまたとても美味しくて感動。Mの家族、特に、父親は敬虔なカトリック信者。先祖をたどれば、隠れ切支丹に繋がるほど。

 あいにく誰もフランス語乃至英語を話さないが、そんな時、アンチ・クリスチャンでありながらも、バリバリの神父だけしか存在しない学校で教育を受けてきた夫が、コミュニケーションの一環として賛美歌をラテン語で歌いだすと、Mの父もそれに反応し、二人でラテン語でアカペラ大会になっていく(笑)。賛美歌を聴きながら、ここまで爆笑したのは、おそらく生まれて始めての経験・・・・、だと思う。


2003年06月04日(水) 中国・近畿旅行 PART7

 またまたちゃんと10時にチェックアウト。ホテルの前で、Y嬢&M氏カップルのお迎えを待つ。Y嬢は10時の開店とともに、なんと大阪にある"Paul"にてフランス仕込みのパンを購入してきてくれたっ!!。それと夫のリクエストだった牛乳1リットルまでっ。もう感激。

 クルマの中で4人でこうして朝食をとりながら、京都へ向かった。渋滞もせず、サクッと京都に到着することができた。そしてそのまま大徳寺へ。大徳寺内の大仙院に向かい、昔ミヤコ蝶々とテレビに出ていたという尾関和尚がいるところに行った。すると、本日は和尚がいるということ。果たしてどんな和尚なのか?!?!?!。

 この旅行以来、まるで小学生のようにあらゆる駅や、観光地でスタンプを押さないではいられない病に罹っている夫であったが、ここでは300円払って御朱印をお願いする。そして御朱印を書いてもらっている間に、ガイドについてもらって院内を巡る。

 このガイドがまた商売上手。色々とツボをえた案内をしながら、色々な掛け軸だの、お札だのを進めてくる(笑)。それらをこちらものらりくらりとかわし、聞きたいことだけを聞いていくという、攻防戦。

 院内を見終わり、土産売り場に行くと、なんと今度は尾関和尚本人が販売しているっ!!。もう信じられない程営業上手な坊主だった。夫がフランス人だと知ると、いきなり知っている限りのフランス語を話し出し、中国に夫が住んでいたといえば、中国の歌を歌いだし、武道に興味があると話せば、自分が少林寺拳法している写真を持ち出してくる・・・・・・。

 そう・・・・・、すべて用意されているのだ。挙句の果てにはテレビの画面を彷彿させるモノを持ち出して、まるで今自分がマナ中継でテレビに映っているかのような演技も始める。和尚が自ら書いたという格言のお札の値段は1万円。それよりはるかに安い格言を書いた1500円という代物を購入して、その裏に、和尚直々のサインをしてもらう。

 そんな時、せこいフランス人の夫もなかなかやる。ついつい和尚を乗せながら、1万円もするお札の一文字を、和尚に有無も言わせず書かせることに成功してしまった。他のお客を前に、和尚のほうもなかなか断れなかったのだと思われるが、一瞬、夫が彼に頼んだ時には、和尚がムッとしたようなしたのは気のせいか。

 茶室では、お茶をたててもらい味わうのだが、係りの人が説明しているのにもかかわらず、全然そんなことを聞かずに、私達にポーズをとらせ、写真を撮り続ける夫・・・・(汗)。

 次は金閣寺。昔夫が日本にやってきて、なんとかバスに乗って金閣寺に来た時は、修繕中だったらしく、金閣寺前面が覆われていて何も見えなかったとのことで、その恨みを果たすためだ。幸いなことに、今回は下品なほどに輝く金閣寺を見ることができたが、そのかわり物凄い数の修学旅行生がたくさんいて、騒々しかった。もちろん、ここでも御朱印をしてもらう、夫。

 さて、そろそろ腹も空いてくる頃。京都ときいて、私はどうしても“餃子の王将”に行きたくて仕方がなかった。Y嬢&M氏カップルはもっといいところへ案内したかったようだったが、私のわがままに付き合ってくれた。有難うっ!!。“餃子の王将”では、4人のところに6人分の餃子を注文。うーーん満足(笑)。

 その後鴨川沿いで一休みして、一路祇園へ。夫はまるでストーカーのように舞妓さんをパパラッチ状態。でも舞妓さんはただ写真を撮るだけで、商売にならないような貧乏外人なんて、鬱陶しいだけ。ゆえに、夫に眼もくれずに早足で去っていく。

 そうこうしているうちに、実家に戻るための新幹線の時間が迫ってくる。そう、本日がジャパンレールパスの最終日なのだ。でも、もう少し4人で京都を楽しみたくてならない私達。そこで考えたのが、京都から東京まで深夜高速バスで帰る方法だった。ジャパンレールパスの有効期限は本日いっぱい。ということはたとえ午後11時のバスでも、ちゃんと乗れてしまうのだから、これを使わない手はない。

 というわけで、さっそく駅に行き、座席してをしてから、再び4人で京都をクルマでブラブラ。最後は、韓国居酒屋にてメシを食べて、バスの時間が迫ってきたので、急いでクルマに戻ることになった。さすがに、もう時間を変更できないので、物凄い早足で駐車場に向かっていた私だったが、後ろを振り返ると夫がいない・・・・・・・・・・・。

 すると、夫はまたまた女子高生などにピースサインをしてもらって、それを写真撮影していた。今回ばかりはあまりにも時間に対して緊張感のない夫に私がブチ切れて、遠くにいる夫に向かってフランス語で罵倒っ!!。さすがに周りの人も、腹から声を出して、訳のわからない言葉で叫んでいる女を見て、ちょっとひいていたようだった。

 さすがに、焦りだした夫は、今度は信号が赤になったのも気づかず大通りを渡りだす。一方、信号が青になったので走り出すクルマ・・・・。ここでほとんどの人は予想がつくと思うが、夫は本当に轢かれそうになったのだ。その後、夫は「赤信号だと、日本じゃ轢かれちゃうんだね」だ・と・さ・・・・・。

 こうしてバタバタしながら、無事京都駅に到着。Y嬢&M氏がいなければ決してここまで楽しく、過ごすことができなかった大阪&京都の観光。別れをおしみつつ、それぞれの帰路へ・・・・・。ああ、もっと彼らと一緒にいたかったぁ。

 そして私達のバスは、定刻どおり午後11時に出発、あとは東京駅に着くだけとなった。


2003年06月03日(火) 中国・近畿旅行 PART6

 本日はきちんと10時にチェックアウトして、宮島へ向かう。宮島へは、高校の修学旅行の時に訪れて以来。その時は、ひどくつまらねーー、と思ったものだったが、今回はどうか?。

 宮島口に到着すると、ジャパンレールパス片手の外国人観光客がウヨウヨ(笑)。さすが世界遺産だけある。宮島までの船のJRだから、ジャパンレールパスでOK。

 さて、相変わらず面倒くさいことが嫌いな私達。宮島に到着すると同時にカタカナで“レンタサイクル”と書いてある看板を発見。さっそくゲット。厳島神社までスーイスィ。しかし、そのカタカナが読めなかった多くの外国人観光客らは、一生懸命歩いている。そんな横を、ビュンビュン追い抜いていく感覚に、酔いしれている夫。ガキだな、こいつ。

 適当に厳島神社を観光したものの、やっぱり、修学旅行の時と同じ感想だった私。夫もそれなりに、観光したが、同じ意見だった。どうも二人とも、ひなびた物や、廃墟などが好みのようだ。

 その後は、レンタサイクルを大いに利用して、観光客が少ない場所を攻める。大聖院にてマッタリして、その後は、ロープウエーで弥山に行き、放し飼いの猿と戯れているうちに、あっという間に時間が経ってしまった。

 急いで広島に戻り、荷物をゲットして、一路新幹線で大阪へ。新大阪では、友人Y嬢&M氏カップルがお出迎えしてくれた。わーーいっ!!。あとは、彼らのクルマでレストランに直行。旨い料理を堪能した後は、新世界巡り。クルマでサファリパークを観光する感じだった。

 明日は、彼らと京都巡りで早起きなので、早々にホテルに戻った私達だった。


2003年06月02日(月) 中国・近畿旅行 PART5

 旅館側の好意で、10時にチェックアウトしなくてよくなり、ついつい調子にのり、正午過ぎまで部屋でダラダラ。朝食後に、二度寝までしてしまった。

 下関行きのバスが来るまで、もう一度俵山温泉街を散策して、男根オブジェのおみやげもたくさん購入っ!!。木彫りの男根まで買った。すべてが手作りなので、色具合、カタチなどそれぞれ違う。店中にある男根木彫りオブジェを全部出してもらって、そのうち一番お気に入りのタイプをようやく選んでのことだった(笑)。

 バス停の待合室は、おじいさん、おばあさんで満杯だった。そんな姿を写真に撮りたいと夫が言う・・・・。なので私が「もしあんたが皺皺になって、そんな姿を面白がって、写真に撮らせてくださいと言ったら、嬉しい?」と聞いてみたら、嫌だという。ああ、自分勝手野郎。それでも写真が撮りたいなら、自分で交渉してみろと言ってみた。

 すると夫は、交渉をはじめた。何人かのおばあさんは、喜んでOKを出してくれ、何人かのおばあさんらは、走って逃げていった。さて、どんな写真が撮れたのか?。

 その後、俵山温泉から下関までバスに揺られること2時間。壇ノ浦などは、全部車窓から見学できてしまった。また現在放映されている大河ドラマ「武蔵」の影響で、巌流島ツアーというのが流行っているようだったが、島の写真を見て、ただの中洲みたいな島だったので、行かないでよろしっ!!、という決断を下し、新下関から一路、新幹線で広島へ向かった。山陰から山陽へ・・・・。

 広島に着くと、さすがに世界のヒロシマなのか、たくさんの外国人観光客に遭遇。みんなロンリープラネットのガイドを持っていて、なんか可笑しかった。お決まりの原爆ドームを見学して、お好み村へ。たらふくお好み焼きを食べ過ぎたのか、夫はあとで胃腸薬を購入せざるをえなかった。

 食べ過ぎた腹を抱えつつ、その後は中新地をはじめ、ホステスさんがウヨウヨを客引きしている界隈を練り歩く。不景気だからこそ、女性みずから客引きをしているのか?、とはいえソノ割には、楽しそうに遊んでいるサラリーマンの姿があり、日本経済が一体どうなっているのかサッパリわからなくなった(笑)。

 こういったサラリーマンの姿を見て、夫曰く、ある意味はじめて、楽しそうにしている日本男児の顔を見た、ということだった。でも、楽しむためには、そこまで金を払わなくてはならない、というシステムがどうも彼には理解し難いようだった。


2003年06月01日(日) 中国・近畿旅行 PART4

 朝、ボウッとホテルで朝食をとっていた。まだ二人とも寝ぼけているのだ。窓から行きかうクルマなどを眺めているうちに、一台の霊柩車が通った時に、それが霊柩車であることを夫に説明すると、感動したのか、突然、夫が眼が覚めたようだった。キンキラ光ったクルマが、あまりにもキッチュで、喜んでいた。ああ、こんなことで外人ってのは喜ぶのねぇ・・・、と改めて思った私。

 ところで夫はあることが大いに不服だった。それは、日本の多くのホテルが10時にチェックアウトしなくてはいけないことだった。そんなわけで、本日も10時に追い立てられるようにして、チェックアウトして、町をうろつく。萩は面白いが、歩くと想像するだけで死にたくなってくる。

 そんなところに、レンタサイクルを発見。即、ゲット。それからの観光は瞬く間に心地よいものになった。萩の町を縦横無尽に走り回り、萩城跡にもチャリンコで乗り入れ、ああラクチン。海岸では台風が去った後の好天下、ひと時の昼寝を楽しみ、本当に楽しかった。

 結局、あまり楽しみすぎて、乗るはずだった電車を乗り過ごしてしまったほどだった。そして大急ぎで、今晩宿泊予定の俵山温泉の旅館に電話して、長門市駅までクルマで迎えに来てもらうことになった。

 旅館の大将のクルマで旅館に向かう途中、さりげなく色々な観光地を通る際に、興味を示してみたら、親切なことに、彼はあちこちの観光案内をしてくれた。ああ、感動っ!!。私達の旅の目的だった、麻羅観音もクルマで連れて行ってくれた。

 境内に所狭しをならぶ、無数の男根のオブジェに強烈に感動した夫は、何度も何もシャッターを切ったことは、想像するに容易い。キリスト教文化では、決して考えられないオブジェ・・・・。等身大の男根やら、なにやら、もうなんでもありだ。しまいには、小さな男根のオブジェを絵馬のように使用して、色々な人が自分の名前を書いて、願い事を書いているのを、訳していくと、夫の理解を超えたようで、しきりに「日本人ってのは、本当にスゴイっ!!」と何度も言っていた。

 小さな俵山温泉街は、本当に風情あるところで、まるでつげ義春の「ゲンセンカン主人」の世界のようだった。10年前に一度フラッと立ち寄って、非常に印象に残った場所だったが、こうして戻ってくることができて、とっても幸福なゼロでした。


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