ゼロの視点
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2003年03月30日(日) 餃子・・・・・、それはバカのひとつオボエ

 夜、人を招いている。が、サマータイムで一時間早く進んでしまって、すでに夕方になろうとしているのに、まだ何にも買い物さえしていない私。そして、おまけに本日は日曜日。さーて、どーするか?!?!?!。

 パソコンで確定申告するために、一日中苦手な書類と悪戦苦闘している夫がいるので、日曜日でも夕方まで営業しているマルシェなども、そう簡単に調べられない。が、どうしようもなくなって、夫に気分転換に検索してみてくれと頼んでみた。

 彼が当てにならないのは承知の上だが、期待しないで待っていると、まるで秘書のように、マルシェリストを印刷して私に運んできてくれる。ギョッとしたものの、感謝の意を伝え、渡されたリストを見てみると、すべて午後2時半で終了してしまうマルシェのリストだった。時計を見ると、すでに午後4時を過ぎている・・・・。

 ああ・・・・・、やっぱりね・・・・、期待した私がアホだった・・・・。


 そんなわけで、日曜日でも必ず営業している中華食材店に、I嬢と足を運ぶ。手抜きでシュークルートを用意したかったが、この店ではそんなものは売ってない。ゆえに、餃子を作ることになってしまった。思えば、先週の日曜日は、ロンドンのM嬢宅で餃子を作っていた私達。I嬢は、ロンドンとパリでそれぞれ餃子作りを経験するわけだ。でも、いったい彼女は、こんなことをするためにわざわざヨーロッパまで来たのだろうか?。

 フードプロセッサーであらゆる材料を切り刻み、二人で黙々と餃子作り。そんな様子も気にせず、ひたすら確定申告で苦しみ続ける夫(笑)。

 すべてを順調に用意して一息ついたところで、ロンドンでのライブを成功?、させてパリにやってきたH氏とその彼女KI嬢がやってきた。4人で日本語で話し込んでいるところに、画家のCがやってきた。Cは夫の古くからの友人。日本語ばかりじゃ、夫も飽きるだろうと思いCを招待しておいたのだが、肝心の夫は、パソコンの部屋に篭って、相変わらず確定申告中。

 幸いにも、H氏とKI嬢はフランス語が話せるので、私が司会者のように話を回しながら、場を作っていくことができた。

 時間も時間なので、食事をテーブルに並べはじめると、それに調子よくあわせたかのように、確定申告を無事終わらせた夫が居間に登場。いつも思うが、本当に一人で5人分くらいやかましい存在なので、慣れたつもりの私でも、突然招待客が増えた?、感覚に襲われる。

 話の途中で、本日がH氏の誕生日だったことを知る。その途端、夫が何かをしたくなり、台所へ走っていく。一体何を持ってくるのだろうか?。一抹の不安がよぎる・・・・・。夫はアイスクリームと、火を灯した蝋燭を一緒に持って戻ってきた。その蝋燭は、つい最近まで電球が切れたトイレで使われていたモノ・・・・・。そんなことも知らずに、H氏は半ば義務で、みんなに誕生日を祝われ、蝋燭の火を吹き消していた。

 連日のハードなスケジュールでヘロヘロになったH氏とKI嬢が帰路についた午後11時すぎ、Cの彼女である版画家のMがやってきた。CとMが一緒にいる姿を見るのは久々だ。その後なんだかんだと話が盛り上がり、午前2時過ぎにおひらきとなった。


2003年03月29日(土) GGの誕生パーティー

夜からパーティー。GGの33歳の誕生会と称して、総勢400人を招いての大パーティーとのこと。

 随分前から、招待状が送られてきていた。招待状には、招待客の名前が印刷されている。ある日、暇だったのでその名前を一人一人追って、どのくらい知っている人がいるか確認してみた。そこには、少なくとも、発見した20人ほどの友人・痴人の名前の中に、なんちゃって精神科医GTの名前があった。

 土曜日の朝、偶然GTから電話がかかってきた。夫に意味不明に愚痴るのが好きなGTなのだが、今回も同じ。土曜日だというのに、夜の予定がなくて寂しいとGTが言っていたので、すかさず、夫が本日のパーティーリストに名前が載っているのに、どうして寂しいの?、と聞いてみたらしい。

 GTは、一瞬驚きながらも大喜び。さっそく主催者のGGに確認の電話をしたらしい。すると、それはまったくの同姓同名でしかない、別人だったことが発覚。GTの喜びも束の間のものとなってしまったが、そこで粘りに粘って招待状を勝ち取ったとのこと。その後、私の勘違いがきっかけで、棚からボタモチとなったGTが、感謝の電話を入れてきた。

 さて、出発寸前までヨレヨレの格好をしていた私だが、ビシっ(?)と変身する。いとこI嬢も、夫もヘンシーーーーン。会場につくと、入口に列ができている。ふと私達の後ろに並んでいる人を暇つぶしで眺めていると、昨年の11月末に事故で昏睡状態に陥っていたEの姿があった。

 Eの左顔面は完全に麻痺していたが、ニコッと笑う彼女の右半分の顔は可愛かった。彼女は、結局今回の事故で、左眼の視力、聴覚、そして味覚、嗅覚を失ってしまった。まっすぐ歩くのが難しいとEは言っていたが、傍目ではそんなことまったく気がつかないレベルにまで回復していたので、ホッとする。

 ショウビズ世界の人々がたくさん集い、アル意味では胡散臭く、イタイ雰囲気もあったが、とりあえず知人らがいたので、それらをI嬢に紹介。会場でもデカイ日本人女性2人の存在は、それなりに、目立っていたようだ(笑)。

 飲み物のコーナーでは、すでにたくさんの人だかり。たった一杯の酒をゲットするのに非常に時間がかかり、ムカっとしたものの、友人が気を利かせて、私にワインのボトル1本を丸ごとくれたので、すっかり機嫌がよくなる。ボトルをこっそりと持ち、ゆっくりと座れる場所を見つけてから、二人で人間ウオッチングを開始。

 ヒッソリと座っていたつもりだったが、代わる代わる友人らがわしらの姿をみつけてはやって来る。せっかく日本語で“自分のことは完全に棚に上げての”悪口大会が盛り上がってきているというのにィっ!!。

 友人ら、特に、男性陣がI嬢のことを私に聞いてくるので、そのまま通訳してみる。ま、みんな夫と似たり寄ったりで、フランスの男はいいか?、なんぞとI嬢に質問するのだが、相変わらず、イギリス人のほうが格好いいと答えるツワモノI嬢。訳しながら、ついつい笑ってしまう。

 会場を見渡しながらも、I嬢は「フランス人って全然かっこよくないっ!!」と連発。つくづく、こういったところでの日本語というのは便利だと思った次第。

 日本での生活で黒人を見慣れていないI嬢は、なんとなくこれらの人々を恐れる傾向があるが、会場で、黒くて、2m以上の長身の男性がいた。それを発見するや否や、夫が「I用の♂を発見っ!!」とデカイI嬢をからかうと、I嬢は気分を害していた。I嬢が憎まれ口をたたけば、夫もやり返すという感じ(笑)。

 現在の私のお宝である、おニューのデジカメで友人・知人らをどんどん撮影してみた。調子にのって撮影していると、とあるカップルの♂のほうが、私に闘いを挑むように、自分のデジカメを差し出してくる。奴は不敵な笑いをしているので、“?”と思って彼が手にしているカメラを見てみると、私とまったく同じカメラ・・・・・・。ショックだ。まさかフランス人がこんなニューモデルを持っているとはっ!!!!!!。なんだか、メンコ遊びで負けた感覚に襲われた。

 結局、午後10時に会場に入って、だれかれ構わず喋って、飲んで、踊って、撮影して、途中、数回にわたって催されたスペクタクルを見ているだけであっという間に時間が経ってしまい、会場を後にしたのは午前5時過ぎだった。そして、そんなことをしている間にサマータイムに切り替わっていた。


2003年03月27日(木) パリとロンドン

 いとこI嬢に、何度も何度も“パリとロンドンはどっちがいいか?”と質問し、最終的になんとか彼女に“パリ”と答えさせたい夫。が、I嬢は、すっかりロンドンが気に入ってしまったので、その度に“ロンドン!!”と答え、夫がチカラなく笑っている。

 殊に、I嬢にとっては、イギリス男性のほうが平均身長は高いし、背広などの着こなしもビシっとしていて、フランス男性よりも“小奇麗”な印象なのだそうだ(笑)。街を走るクルマも、ロンドンのほうがパリのそれより、断然ピカピカ磨かれているし、バスや地下鉄の車内もロンドンのほうが明るく、気分的に安心できる・・・・・等を、I嬢が語るままをダイレクトに訳して、夫に伝える。

 懲りない夫は、それでも
「ロンドンのほうが、パリよりも犯罪率が高いのを知っているか?。」とI嬢に畳み掛ける。でも、I嬢は、そんな確率云々でのレベルではなく、気分的にロンドンのほうがいいのだと、ニコニコしながら繰り返す。明るく喧嘩を夫に売るI嬢は、なんとも頼もしい。

 漢字を教えれば、すべて中国語の発音で読み、日本を語ったつもりでも、すぐ中国万歳になってしまう夫に、いささかウンザリすることもあった私だが、今回は夫の番のようだ。

 私は個人的に、ロンドンよりもパリのほうが楽。もちろん慣れもあるのだろうが、例えば横断歩道のところに"Look Left"などとイチイチ書かれているのが鬱陶しい。日本も止まれだのなんだのイチイチ指示してくるが、そんなことをする必要があるんだろうか?!?!?!、と考えてしまいがちな私。

 それじゃなくても、私のイメージでは、ロンドンに数日滞在しているだけでも、規律だの、そういったルールというものがあちらこちらに感じられ、妙に居心地が悪い。

 おまけに、ロンドンでは午後11時以降に酒が飲めなくなるのもつまらない。こうやって規制しないと、歯止めなく酔って暴力的になるからか?、と思われるが実際のところどうなんだろうか?。

 さて、実際にロンドンからパリに戻ってきて即座に感じたこと・・・・。それはロンドンにくらべ、街全体の動きがノロイということだ。まるで都会から田舎町に戻ってきたようだった(笑)。


2003年03月26日(水) おにぎり

 4泊5日のロンドン滞在もあっという間に終了になり、夕方ユーロスターに乗り込む。

 発車するや否や、あらかじめ作ってきたオニギリとゆで卵をほおばる。ウマイっ!!。隣の座席の西洋人は、“黒い球体”を食べている東洋人二人を不思議そうに見ている。

 18時半のユーロスターだったせいか、車内にはビジネス客が多い。それぞれが英または、仏新聞を読んでいる。その姿を見て、はっと我に返る・・・・。ロンドン滞在中、イラクで起こっている事態を完全に忘れていた、ということ。あらゆる新聞は、その惨状を伝えている。

 オニギリはあまりにも美味しかったが、そのささやかで、非常に個人的な至福の時間にも爆撃は続いているという現実を、どう受け止めていいのかよくわからない。たとえ連日テレビを見ていても、それを現実のこととして、どうやって感じることができるというのか?!?!?!。

 また、仮に現実として戦争を把握できたところで、一体何ができるのか?。ああ、よくわからん・・・・・。

 そんなことを考えつつ、自宅に帰還。ロンドンでライブしたHからみやげとしてもらった『犯罪地獄変』という、“津山30人殺し”“三菱銀行立て篭もり事件”“酒鬼薔薇聖斗”など、たくさんの日本での犯罪史をシニカルな切り口で解説した本を、寝る前に読み耽ったゼロでした。


2003年03月25日(火) ライブ

 私がロンドンに来た、本当の目的・・・・・、それは本日の晩のライブ。大学時代の友人Hが日本からわざわざロンドンにやってきて、ライブをするということを聞きつけ、なんとしても見たいと思ったのが今回のロンドン行きの理由だ。

 さて、午後いとこI嬢ととりあえずショッピングをしようと街中に進出。しかし、もう買い物も観光も飽きてしまったわしらは、とあるデパートのトイレ兼休憩室にあったソファーを見つけるやいなや、座り込んでしまう。そして座り込んだまま、動く気にすらならない私達。あまりにも心地よく、このままずうっと座りつづけ、眠ってしまいたいという強い誘惑に何度も襲われる。

 しかし、だ。幼なじみMが製作に加わった映画の上映会があるので、とりあえず彼女の学校へヘロヘロと向かう。Mは、映画の勉強のために日本から国費留学して、現在さまざまな立場で映画製作をロンドンでやっているのだ。

 短編映画3本の上映会で、Mが参加した映画は3本目。ただ英語の会話がなかなかすんなりと耳に入ってこなくて、やっと耳になれた頃に、映画が終わってしまった・・・・・(汗)。ゆえに、映像としては楽しめたが、見終わった後に、Mにあらためてあらずじを聞きなおさなくてはならなかった。

 さて、その次は、ライブ。Hからとうの昔にライブ会場のリンクをメールで送ってもらっていた私。とはいえ、ロンドンの街はよくわからないので、確認もせずMにメールを転送していた。Mはちゃんとその地図などを印刷しておいてくれたのだが、その地図をてっきりMが持っているだろうと思い、他人まかせで、何も確認せずに来てしまった私・・・・。

 Mに本日のライブ会場のことを尋ねると、
「ゼロに家を出るときに地図を持ってきてって言ったじゃないっ!!」と突っ込まれる・・・・。えぇっ、そうだったけ?!!?!、と思うも、もう遅い。Mのほうも私が地図を持ってくるものだと思っていたので、完全にライブ会場の名前や住所を覚えていない・・・・・。

 さて、どうしよう・・・・・・。きっと後に合流するはずの友人Sが知っているだろうと思っている楽観的な私達。が、現実は違った・・・・。Sもライブ会場の住所はうろ覚えだった。きっとあの辺だ、いや、もっと向こうだとうろ覚えのまま、カーナビーストリート周辺をうろつくものの、まったくたどり着けず・・・・・。

 そうやって彷徨うこと1時間以上・・・・。どうしようもなくなって、ふとひとつの解決策を見出した。パリにいる夫に電話して、私の受信メールにアクセスしてもらい、以前Hから送ってもらったメールを探し当ててもらうという案だ。その時、ロンドン時間で午後10時すぎ、ゆえにパリでは午後11時過ぎになる。果たして夫は帰宅しているだろうか?!?!?!?。

 一抹の不安を抱えつつ、藁をも掴む感じで夫に電話すると、反応があった。さっそくメールを探してもらう。幸いなことに、英語のメールだったので夫も理解でき、住所を探し当てることができた。

 こうして疲れきったあとに、ようやくライブ会場に到着。ラッキーなことにライブは始まっていなかった。おまけに、まだ全然客が入ってなかった(笑)。

 久しぶりに会うHらと長々と話をしていると、ようやく人が入り始めてきたところで、Hのバンドの演奏が始まった。奇妙なドラムのパフォーマンスに始まり、二重人格のように演奏が始まると性格が変わるHのヴォーカルとギターなどに、爆笑しつつ、高い演奏技術についつい惹かれてしまった。

 観客のイギリス人らも、爆笑しつつ、最後にはかなりノリノリになっていて、物凄く楽しめて大満足。いとこI嬢も、Hを始め、バンドのノリにすっかりハマッテ、妙にハイテンションになっていた(笑)。

 ということで、難行苦行の末、最終的に本来の目的を予想以上に楽しむことができて非常に満足なゼロでした。


2003年03月24日(月) 観光

 ロンドンは物価が高い。ゆえに、一ポンドも無駄に使いたいないと過度に考える傾向にある私達。なので、外出前には、必ずサンドイッチを作るのだが、これに妙にはまっている。マイブームだ。昨日の残り物を調子よく集めて、パンをフライパンで温め(モスバーガー方式)、チキンをはさむ。調味料も自分の好みで色々と加え、オリジナルサンドイッチの出来上がりっ!!。

 M嬢はとうに学校へ行ってしまっている家での作業。ああ、すべてはM嬢の残り物のおかげであります。


 本日のメインはテムズ川クルーズ。なぜなら、歩かず、のんびりと観光気分を味わえるから、という単純な理由。が、なかなか船着場が発見できないので、いきなりサンドイッチを食べ初めてみた。そう、わしらは観光客!!。予定の狂いもすべて旅の土産話という感じ。

 特製サンドイッチは、今回も美味しかった。なぜもうひとつ作ってこなかったのだろう・・・・、と激しく悔やまれる。

 M嬢から、クルーズでは色々な船の種類があるから、一番いい奴を選んで乗るといいよ、と忠告されていた私達。ようやく見つけた船着場で、チケットを購入して、あとは乗船するだけだった。きっとあの船だろうと、とある船を待ち遠しく見つめていると、係員から召集の声がかかった。

 やった、とうとう乗船できるっ!!、と思い、今まで散々見つめてきた船のほうに自然と身体が動き出す。が・・・・・・、係員は今まで見向きもしなかった船のほうに、私達を案内するではないかっ!!。どういうことだ・・・?。

 動揺と共に、しぶしぶ乗船。外で座ったまま、のんびりと景観を味わうためのクルーズだからこそ、金を払ったのに、この船は外には座席がない。船内は昭和40年代初頭の場末喫茶のようなテーブルと椅子が並んでいるだけ・・・・(汗)。その衝撃に、しばし無言の私達。

 むなしく動き出した船の甲板で“立ったまま”景観をみていると、途中、貨物船とすれ違った。貨物船と、わしらの船のどこが違うのか?!?!?!、と思ってしまった。

 お決まりのビックベンやウエストミンスター寺院などの周辺をウロツキ、トイレ目当てに、一番安そうな喫茶店に入る。こういったものを発見する才能にだけは恵まれている私達。思ったとおり安かった。紅茶一杯、0,70ポンド。どうせトイレに行くからいいやと思い、まず飲み物を飲んで、店主にトイレの場所を尋ねると、トイレはありませんとのつれない返事・・・・・・。

 トイレがないと言われると、ますます膀胱に言われもないプレッシャーを感じるのが人の常。いそいでバスに飛び乗って、繁華街に向かう。車窓からトイレがありそうな大型店舗を見つけるや否や飛び降り、トイレに全力疾走。ああ、間に合った。

 気分も膀胱も軽くなったところで、ふとM嬢の学校の近所まで来ていることに気付き、電話してみる。ちょうど彼女が休憩しているところだったので、そのまま待ち合わせて、これまた激安の中国人喫茶に行ってみた。M嬢の行きつけの喫茶店らしいが、菓子パンとコーヒーが美味い。

 M嬢と別れて、ふたたび二人でブラブラとウインドーショッピングをしながら、あてもなく歩いていたが、とうとう疲れ果てたので、オックスフォードストリートからM嬢宅まで直通のバス73に乗る。

 あとはバスにただ長いこと乗っていれば家ということから、二人であーだこーだと毒舌お喋り大会が自然発生。もう、これでもかというぐらい、ヒドイことばかりをベラベラと喋っていた。どーせ向こうにみえるアジア人も、きっと中国人だろうと思っていたら、バス降り際に互いに挨拶している言葉が、思いっきり日本人が喋る日本語だったのに気付き、ちょっと青ざめる私達。

I嬢が
「私達のヤバイ会話聞かれてなかったよね?!?!?!」と不安そうに聞いてくるので、ふと可笑しくなって下を向きながら爆笑していたら、プスっという音と共にバスのエンジンが完全に止まり、車内の電気も消えてしまった・・・・・・・・。

 現時点で2階席に残されている人は、前方のアラブ人女性二人と、わしら二人、そして背後に誰かいそうだったので、ふと振り向くと、アジア人女性・・・。チラッと彼女が読んでいる本を覗いてみると、縦書き・・・・。ええっ、もしかして背後にもずうっと日本人が座ってたのか?!?!?!?!。

 会話を全部、彼女に聞かれていたという軽いジャブと、バスが止まってしまったというジャブで、あたまがクラクラしてきて、意味不明に可笑しくなってきて笑うと、何故か前方のアラブ人女性もそれにつられて笑い出す。おもしろくなってきて、もう一度笑ってみると、やっぱり彼女らはわしらにつられて笑い出す。

 ただ笑いあっていても意味がないなと、ふと冷静に思って、何が起こったんだ等質問しあってみるが、全然ラチがあかず・・・・。背後の日本人女性はそれらの会話に参加もせず、とはいえ情報を知りたいのか、耳をそばだてているのがよく判る。あんなに散々わしらの日本語会話を聞いていたのなら、参加してきてもよさそうなのに、きっとわしらのことが怖かったんだろうか?!?!?!。わからん・・・・。

 私が先陣を切ってバスを降りると、みんなが着いてきた(笑)。運転手の所へ行って事情を聞いてみると、このバスはここで終わりだと、優しい口調で非常な答えを提示してきた。じゃ、どうすればいいのか?、と聞いているときに、73番と書いたバスがやってきた。ああ、これか?!?!?!、と疑問を持ちつつ行き先を読むと、Victoria Stationと書いてある。乗るか否かを逡巡しているうちに、無言の日本人女性はまるで“自分だけは助かってやる”というような意気込みで乗車していった。

 少し歩いて、違う番号のバスでも家に帰れることを発見したので、それに乗ってみた。が、気がついたら、再び街中に向かっていることに気付き、慌てて降りる。無言の日本人女性もこの方向に乗っていったが、果たして彼女はどこまで行ってしまったのだろうか?。知りたいっ!!。わしらは幸いなことに乗ってすぐ気付いたので降りたが、そのバス停までは、彼女の姿はなかった・・・・・。

 とうことで、やっぱり街中からM嬢の家までの道のりは長かったのであった・・・。
 


2003年03月23日(日) Safe way

 私らにとっての朝一番であった、午前10時に、夫からの電話でたたき起こされた。夫にとっては、午前11時。人の時差なんて考えない“お方”だ・・・。

 昨日は、クソっと思っていたが、ついつい昨日のスリ事件を奴に話してみた。ただ、簡単に話すのは嫌だったので、買ったばっかりのデジカメをやられたと言ってみた。すると、どうだろう・・・・・・、猛烈に騙される夫。電話口でギャーギャーわめいている。奴が相当熱くなったところで、“うっそだよーーん”と伝え、相手を落ち着かせ、結局盗まれたのは20ポンドで、なおかつ財布とその中身のカード類は無事だったことを述べる。

 作戦は成功して、夫はデジカメじゃなくて、たかが20ポンドでよかった、と笑っている。本当に単純な人でよかった(笑)。

 S氏の作ってくれた朝食をぺロリと平らげ、バスで街中に出陣。2階建てバスの一番先頭に陣取り、車窓からロンドン見物。トラファルガー広場にあるライオンを見て、いとこI嬢が“ライオンだーーーっ!!。三越みたいだね!!”と訳のわからない感想を無邪気に述べる・・・・(汗)。

 今晩から世話になる、幼なじみのM嬢から、夕食用の餃子の材料を頼まれているので、中華街で白菜、にら、餃子の皮、豚のひき肉等を購入。その後ブラブラ歩いてみるものの、本日は昨晩とうってかわって、暑い。バスの二階席なぞに乗っていると、温室効果で、蒸し風呂のよう・・・・。ひき肉が心配になり、さっさと家に戻って、ちょっとだけ冷凍する。

 そして、夕方荷物をまとめ、PaddintonからVictoria Station経由で、Manor Houseという地下鉄駅界隈に近いM嬢の家までの旅路に出る。せっかくのロンドン、地下鉄なんぞに乗っても、車窓もへったくれもなく、つまらないので、すべてバスで移動したのだが、キョーレツに長い&遠い・・・・・・・。 
 フランス人よりも、平均身長が絶対高いし、デブ率も高いと思われるイギリス人だが、バスの座席は非常に狭い。ロンドンを歩いていると、自分達が小さく感じられて嬉しい私達だったが、この狭い座席に座り、たくさんの荷物を膝の上に置くと、足が長旅で完全に逝ってしまう。おまけに、さっき購入したニラが車内でぷんぷんと臭う・・・・。

 そして、ヘロヘロになってM嬢の家に到着。すっかり日も落ち、暗くなったユダヤ人界隈に住む彼女の家の周りには、イスラエルの嘆きの壁の前で、アタマ振っているユダヤ原理主義者のおきまりのイデタチをした人々が、ウロウロしている。暗闇に、黒い服装が、よそ者には異様に見える。ま、きっと向こうにもデカイアジア女性2人の姿が異様に見えているのだろうが。

 フラットシェアという形式が多いロンドン。ゆえにM嬢の大家Aの不在時を狙って、まるで“間男”のようにパリからやってくるのが常な私であるが、毎回ここに来るたびに、このユダヤ人コミュニティーを目にすると疑問になることがある。

 なぜなら、彼らをこの界隈でしか見ないからだ。決して街中では見ない。近所のスーパー"Safe way"では、買い物篭を持って楽しそうに買い物している彼らだが、いったいいつ、どこで、どうやって生活(買い物、仕事などを含めて)過ごしているのか知りたいのだ。いつも物憂げそうに歩道を歩き、彼ははどこから沸いてきて、どこへ行くのか?。

 今のご時勢、ロンドンでもテロがあるとかなんとか色々と出発前に忠告を受けたものだったが、考え方によっては、彼らに混じって"Safe way"で買い物しているわしらは、果たして"Safe"なのか?、と・・・・・。

 到着後は、3人でひたすら餃子を作って、S氏もそこに合流してきて、4人の日本人での餃子大会となった。


2003年03月22日(土) おのぼりさん

 昼13時すぎのユーロスターにのり、いとこI嬢とロンドン入り。

 北駅に予想以上に早く到着したので、そこで互いにデジカメで写真を取り合う。夫が見送りに一緒に来たのだが、何故か小うるさい母親のように、色々とトンチンカンなアドバイスをしてくる。

「イギリス人は、なんでも盗むんだ。もともと海賊だったし、スリには気をつけろ」などとほざいてくる。夫自身、長いこと英国で暮らしていたこともあるのに。

 そんな小姑化してしまった夫をよそに、ふたりでさっさとチェックイン。はじめてのユーロスター体験にワクワクしているI嬢。それに夫と離れて、妙にワクワクしている私(笑)。

 ユーロスターが発車したらすぐに、自宅であらかじめ作っておいた特製サンドイッチを二人で頬張る。ちゃんと冷やしてきたビール、それにデザートにパパイヤなども持ち込んだので、周りの人が食べている、駅で販売されているショボイランチに大幅に差をつけ、妙に気分がいい。

 Waterloo駅について、久しぶりに例の黒塗りンドンタクシーに乗って待ち合わせ場所に行くことにした。ちょっと出費だが、でも、たまには乗ってみよう・・・、という感じだ。

 待ち合わせのPaddington駅から、本日宿泊させてもらうS氏に連絡しようと、電話ボックスを探す・・・・、が、ない・・・・。昨年ロンドンへ来た時に購入しておいたブリティッシュテレコムのテレフォンカードが使用できる電話ボックスが見当たらないのだ。日本も、フランスも、そしてイギリスも、携帯電話の普及で、どんどん公衆電話が街から消えていく。不便だっ!!。しょうがないので、ホテルのラウンジに入って、やっとのこと公衆電話を発見したものの、自分のカードは使えず、コイン使用となる・・・。

 ようやくS氏と会い、駅からちょっと歩いて彼の家に到着。しばらく話をしたあと、仕事があるS氏を残し、二人で近所を散策することにした。外に出てしばらく歩いているうちに、どう誤魔化しても、頑張っても“異様に寒い”ことに気付く。I嬢は、それでもちゃんと厚手のジャケットを着込んでいたが、私は、すっかり暖かくなってしまっていたパリのままの姿で、ユーロスターに乗り込んできてしまったので、強烈に寒い。手がかじかみそうな寒さ。

 公園を歩いていても、寒い。太陽が地平線に隠れていく姿を見ると、気分的に“お日様までに見捨てられた”ような感じがして、もっと寒くなってくる。おまけにロンドンの公園はバカでかい。寒いが、いったん入ってしまった公園を着たきりスズメの私が、惨めそうな顔して歩いていくのを想像しておくんなまし。

 トイレも兼ねて、暖を取るために喫茶店に入る。ああ、暖かい。アツアツのコーヒーカップを必要以上に両手で必死に握り、凍ってしまった手を解凍していく。このままずうっとこの店に座っていたい衝動に何度も襲われる。とはいえ今まで歩いた分を、もういちど歩かないと家に戻れないので、意を決して店を出る。

 S氏にざっと教えてもらったコスモポリタンなストリートに入ると店がたくさんあったので、ちょっと寒くなると、ショッピングもかねて、あらゆる店に入って、完全に身体が冷えるのを避ける。すると、渡りに船とばかり、洋服のバーゲンがあった。激安っ!!。店中のコートというコートを試着して、とうとう今の自分が求めているものを発見、即購入。10ポンド。値札を取ってもらって、その場から来て外に出ると、あーら不思議、もう寒くないっ!!。

 その後一度家に戻り、S氏の案内で、近所の安くて美味しいというイランレストランへ連れて行ってもらった。バスに乗ると非常に混んでいる。降りるときに、I嬢が変な男がピッタリとくっついてきて気持ち悪かったと言っていた。そんなことも気にせず歩いていると、一人の黒人が私を呼び止める。

??????????。

 振り向くと、彼が私の財布を手にしている・・・・・・。どういうことっ?!?!?!?!。状況がよく読めん・・・・・・・・。そこにS氏がやってきて、英語のままならぬ私らに代わり、やり取りをしてくれているのをボーっと見ながら、やっと何が起こったか?、ということがわかりはじめてきた。

 どうやら、この黒人の説明では、私が財布を落としたらしく、それを拾ってきてくれたらしいとのこと。なのでそれを受け取り、メルシーだの、サンキューだの、英語とフランス語交じりにお礼を行ってみた。そして、彼は去っていった。

 その後、ちょっと気になったので財布の中を見てみると・・・・・・、いつものように、カードだのなんだのがグチャグチャと入っているのでひと安心するものの、もう一度よく見てみると、現金が消えていたっ!!。

 ゲっ!!。スラレタ・・・・・・・・。

 S氏が「ロンドンに長いこと住んでいるけれど、俺の周りでスラレタって言う人、本当にはじめてだっ!!」と言う。わしだって、スリの多いと言われているパリに住んでいて、まったくその危険すら感じず、さりげなく注意を払っていたので、そんなこと聞いたことなかったのにィ・・・・。

 しかし、よくわからん・・・・。いったいどこでだれが私の財布をスッタのか?。そして、どうやって現金だけが抜かれた財布が、ちゃんと私の手元に戻ってきたのか?。財布を戻した黒人がスッタ上に、財布をちゃんと戻すか?。まったくわからん。

 スラレタ金は20ポンド。それだけ。だから、あんまりショックじゃない。おまけに、愛用の財布と共に、10年カードだの、クレジットカードだの、カルトヴィタルだの、重要なものは全部手元に戻ってきたのだし、ね。

 I嬢が「私がスラれるならわかるけれど、なんでゼロが?!?!?!」なんとほざいてくるので、思わず笑ってしまった。ま、それだけおのぼりさんだったのかもしれないし、フランスを一歩出れば、わしのただの観光客でしかなく、全くあてにならないということを、彼女も学んだことだと思う(笑)。 

 そして、ふと思った。北駅で口うるさい小姑になっていた夫が、この話をしたら、“ほーら見たことかっ!!”と得意げになることだろう、と。クそっ!!。


2003年03月21日(金) Salon du livre

 フランス時間で、21日になったばかりで、すでに日記更新(笑)。

 夕方から、年に一度開催される"Salon du livre"に行ってきた。日本語で説明するとしたら、どう伝えたらいいんだろうか?!?!?!。出版社をメインに、マスメディアの展覧会と言えばおわかりになるだろうか?。

 明日の金曜日からの一般公開を前に、関係者だけのオープニングに招待されたので、出向いたというわけだ。本来なら夫も喜んで出陣しそうなものなのに、なぜか今年は夫には招待状が来ず、私だけ、現在執筆中の本の版元からの招待状が来た。夫は、ちょっとすねていたが、ま、そうとはいえ、私も夫なしに自分の世界をフランスで着々と築いていることには満足している模様。

 先月は、"EXPO LANGUE"というのがあった。言語関係に関わるすべての関係機関の博覧会なのだが、この時は、夫がらみで招待状が来て、関係者だけのオープニングセレモニーに参加してきた。その際、ちゃっかり自分の本の宣伝(取材協力願い)もしてきた(笑)。

 こういった関係者だけの博覧会は、各ブースでシャンパンやワイン、食べ物のサービスが充実しているのが常。なので本日も空腹のまま、出陣。仕事なのか、ただ、無料で飲み食いしたいだけなのか?!?!?!。

 メトロ12番線は非常に混んでいた。普段あまり使わない路線&地域だったので、きっとラッシュアワーなのだと思っていたら、ほとんどの人が、"Salon du livre"会場に向かっていく・・・・。会場に着くと、溢れんばかりの人、人、人・・・・・・。

 おまけに会場に入ると、私だけじゃなく、多くの人が食い物目当てだったりすることが判明。なぜかというと、美味そうなツマミを用意しているスタンドには、溢れんばかりの人が群がっているからだ!!。さすが、フランス人・・・、侮れないっ!!。

 それにしても、巨大な会場に、本、本、本・・・・。非常に興奮してくる。だが、同時にあまりにも危険・・・・。なぜなら、調子にのって何冊も買ってしまいそうな誘惑があるからだ。本を見つつ、シャンパン飲んで、また本をみて、次はワインを飲む・・・・。

 冒頭から、すっかりアタマ・クラクラモード。

 
 とはいえ、完全に酔っ払う前に自分の版元のブースを訪れておく必要があるので、それを探すがなかなか見つからない。我が版元のブースが小さいのか、それとも、会場が大きすぎるのか?!?!?!。30分を要してようやく私の版元を見つけると、意外に大きかった。でも、食い物のレベルはそんなでもなかった(笑)。そのかわり、わしの版元は、アコーディオン弾きと女性歌手をわざわざ招いて、一種飛びぬけた雰囲気を醸し出していた。

 ホストとして、忙しく働いている版元の社長(兼モノ書き)を見つけたので、招待状のお礼と、仕事の現状などを伝える。向こうも、いちおう、自分の会社が現在抱えているもの書きが来たので、バンバンとシャンパンを注いでくれて、マジでアタマがクラクラ。でも、最低限の営業はしたつもり?!?!?!。

 とりあえず、自分に課された最低限の義務を果したので、あとはオノレの好みになすがまま各ブースをまわる。もちろん、そのたびに食い物を見つけ、口に頬張っていくから、どんどん腹がいっぱいになる。こんなことをしているうちに、すきっ腹問題も解消され、あらたにシャンパンを飲み歩く私・・・・。

 ほろ酔い加減でフラフラ歩いていると、なんだか見知った顔を発見。それはたまにわしの日記にも登場する、精神科医のGだった。そういえば、彼もすでに10冊近く本を出版しているから、招かれていて当たり前といえば当たり前だが、それにしても、奇遇で笑ってしまった。

 彼は、相変わらず今見知った女性をナンパしている最中だったので、そこに割って入り、最近入手したばかりのデジカメで記念撮影。無念にも本日凝られなかった夫のために、一枚、ナンパされていた女性に、Gとの写真を撮ってもらう。うーん、なかなかいい出来だ。そして、ナンパされていた女性とお礼をかねて、お喋り。絶対この行為はGの目的をさらに困難にさせたと思うが、ま、それはご愛嬌。許せ、Gよっ!!。

 集中して各ブースをのぞけば、すべての本が欲しくなる。とはいえ、集中しないと全然おもしろくない・・・・。そんなわけで、知人も非知人も含め適当に社交したあとで、早々と会場を後にした。我慢した甲斐あって、本日購入した本は、たったの一冊。うーーーーん、私もズイブン大人になったものだ。それに対して、たくさんの見本誌をゲットできて嬉しい。

 会場を出て、そのまままっすぐ家に戻るのもつまらないと思ったので、いとこI嬢が自活している1区のStudioを訪問してみる。日暮れと共に、メトロに乗りたくない彼女は、外出を控えているが、今回は夜に見知った顔が突然やってきたこともあり、徒歩でいけるカフェに行くことに賛成してくれた。

 そんなわけで、カフェで延々とお喋り&週末のロンドン旅行の打ち合わせ。


 午前0時近くに帰宅すると、アパルトマンの管理会社との会議に出席して疲れきった夫がいた(笑)。




※半日前に更新した日記がありますので、お時間があったら一日分過去に遡ってみてくださいませ。
 


2003年03月20日(木) 歌っているのはだれ?

 水曜日の晩、戦争が始まりそうな感じがして、ずうっとテレビを見ていた。ARTEでやっていた、アメリカの気狂いじみたエヴァンジェリストのドキュメンタリーを見ているうちに、ああ、あと数時間で本当に戦争はじまるな・・・・、なんてノンキに思いながら。開戦直前に、シニカルにこんな特集をやってくれるARTE。

 その後、なにもやる気がしないので、まだダラダラとリモコン片手にテレビをザッピングしていると、全然有名じゃないスプラッターホラー映画が始まったところだったので、そのまま見つづける。

 後頭部からザックリ刺された包丁が、口から飛び出したり、ショーウインドウのマネキンの首が突如吹っ飛んで、そこから血がドクドク流れ出したり、ポルターガイストが発生したり・・・、と、ついつい最後まで見てしまった。タイトルはハッキリ覚えてないが、確か「墓場近くの家」という感じのものだった。でも、墓場近くの薄気味悪い家なんか喜んで主人公買うから、こんな目にあうんだよなぁ・・・、と思いつつ、ここで主人公が“胡散臭い家なので購入取りやめます”って冒頭で言ってしまったら、映画にならんし・・・、とも思ったりする。

 よく、中学・高校の頃、家族が寝静まった家で深夜にホラー映画を見てたことを思い出し、ついつい懐かしくなって日本の親友Mに電話する。現時点では戦争も始まってないし。パリ時間午前1時、日本時間朝9時。

 「戦争始まりそうだよね」などという言葉で始まった電話だったが、散々喋っているうちに、戦争の、せの字すら忘れてしまっていた。結局、わしらはどのくらい話したのだろうか?。

 開戦をダイレクトで見ようとして、テレビの前に陣取っていたのに、電話を切って、寝ようとした頃の午前4時には、テレビをもう一度つけてチェックすることすら忘れて、熟睡してしまっていた。そして、起床したら、やっぱり、始まっていた・・・。

 そんな時、ふと、ある映画を思い出した。『歌っているのはだれ?』(1980年ユーゴスラビア)だ。1941年ドイツ軍のベオグラード侵攻前日の話。高校時代に岩波ホールで観た作品だ。今でも、この映画でジプシーが始終歌っていたをソラで歌えるほど、私にとって印象深い映画。

 終始、ふざけた雰囲気で、すっとぼけていて、それでいて妙に覚めた視点も欠かさない、ロードムービー。結末は、ドイツ軍の侵攻により悲惨なカタチをとるが、このリズムが人間の定めをクローズアップする。お涙頂戴でもなく、教訓的なストーリーでもない。ちょっとブニュエル的な要素もあったりして・・・。

 正義という言葉を振りかざし、調子よく、神と悪魔という言葉を利用し、のさばっているブッシュと、その取り巻き。星条旗を掲げ、単純だからこそ、妙に単純な国民を洗脳しやすい効果がある演説。旗のガラをハーケンクロイツにして、ブッシュにちょび髭つけたら、ヒトラー真っ青のファシスト政権だよな・・・、と。おまけに、迫害する相手はユダヤ人から、アラブ人に代わっただけ。石油がたくさんある土地にたまたま住んでしまっていた悲劇か?!?!?!。

 爆撃してフセイン政権を倒す前に、戦争が泥沼になって、ブッシュが大統領の座から消える日を祈るばかりだ。


2003年03月18日(火) 予定外の毎日

 昨日、このままだと駄目になりそうな程大量に買い込んでおいた鶏肉で親子丼を作ったので、ランチにいとこI嬢に助っ人として来てもらうことにした。名づけて、残飯整理部隊!!。

 私達夫婦は、前もって予定を立てることがどうも苦手。予定に縛られるのが嫌なだけなのだが、何でもかんでも、最後の最後に慌てるタイプ。さて、慌てるかどうかは別にしても、そんなわしらのリズムを知っている人たちが、夜によくやってくる。夜の部は、今のところ95%の確率でフランス語圏のお方たち。

 ゆえに、何か今晩は作ろうと思って買い物を発作的にしても、友人・知人が突然やってくるので、なかなか思ったとおりに食事を用意できない。誰も来ないだろうと、何も買い物してないと、突然人がやっきたり、またその逆しかり・・・。

 昨日の夕方、ふと気晴らしに冷蔵庫の整理もかねて、親子丼を大量に作り始めた。そこにI嬢から電話が入り、とりあえず本日の約束。おまけに日没前までに夕食の支度を早々としてしまったので、妙に自由な感じを一人で味わっていた。

 そして、予定より早く夫が帰宅。いつものように腹をすかせて帰宅したか?、と思ったら、家の門を開けるところで携帯に友人からの連絡が入ったそうだ。そして、友人JYがあと20分でやってくるという・・・・。

 明日のI嬢とのランチ分を考えたら、いくら大量の親子丼とはいえ、今晩も♂2人&私(夫は大飯喰らいの胃下垂)に出してしまったら、残りは保証できない。おまけにちょっと私も疲れていたので、突然の友人の来訪にフクレ面をしていた私。

「あんたの友達が来ても、相手しないからねっ!!」と強気に夫に出ていた私だが、そんな小競り合いをしているうちに、JY登場。悲しいかな変な芸者根性を発揮して、気がついたら場を盛り上げている私・・・(汗)。

 今世界中で持ちきりの話題である対イラン戦争の話から、経済、そして薔薇十字団や、フリーメーソンの話まで、議論。なんで、わしが討論番組の司会者の役割をしているのかっ?!?!?!?!。これですっかり気持ちよくなったJYがワシらをレストランに連れて行ってくれて、奢ってくれた・・・・・、ラッキー!!。おかげで、嘔吐寸前まで寿司をたらふく食べてきた。

 さて、本日は予定通りにI嬢がやってきて、その時間をめがけてI嬢の姉U嬢が日本から電話してきた。I嬢も私も、それぞれの視点で我々のパリでの日々を彼女に語り、笑い転げる。I嬢の母親と、わしの母親は姉妹なのだが、いずれの家庭も判別不可能なほど口が悪い。いわゆるウルトラ毒舌家族。こうやって電話をしていると、つくづく“突っ込まれてナンボ”の家庭で育ってきたおかげで、皮肉屋フランス人社会で何も傷を負わず、楽しく生きている私、というのがあらためて納得できた。絶対ヤワな人だったら、即死してしまいそうなほど、強烈な突っ込みが毎秒ごとにあると言っても過言ではない。

 さて、つい先ほど、ロンドンの友人S氏に連絡を取った。彼はわしら貧乏日本人を初日に宿泊させてくれるのだっ!!。日曜日からは幼なじみMの家に宿泊するが、S氏の申し出は、ものすごくありがたいっ!!。彼と電話で話しているうちに、突然ロンドン行きの予定が本当の意味で楽しくなってきた。やっと本当にロンドンに行きたいと思えてきたのだ。4泊5日の短い日程だが、楽しめそうな予感だけは確かに感じた。

 なんだか妙に興奮している、ゼロでした。
 


2003年03月17日(月) 不適合

 ひょんなキッカケから、夫の転勤に伴い海外にやってきて、現地での生活になかなか適合出来ずに、どんどん精神を病んでいってしまった方のHPを見つけた。かなりキツカッタと思われる心境が綴られてある。

 私は、語学の苦労等人並みにして現在に至っていると思っていたが、これらを読んでいると、楽にここでの生活に適合していたのかもしれない。

 と同時に、昔、阪神大震災から2年後で、まだまだ街が完全に機能していないとある関西の街に住んだ数ヶ月間の記憶が蘇ってきた。当時、一緒に住んでいた相手がいて、その相手の転勤に伴って、私も関西に移った。

 関西には、古くからの友人らもいたし、何しろ関西弁とはいえ、みな日本語を喋るので、外国に移住するほどは問題がないと思っていたが、私には、とんでもない効果をもたらした。そう、要するに現地にまったく適合できなかったのだ・・・・。

 引越し当初はまったく気がつかなかった。きっと引越し等でかなり疲れているんだと思っていた。相手に伴って行った自分には馴染みのない場所で、家を一日でも早く快適に住めるようにし、そして、相手の帰りを待つ生活・・・・。一歩家を出ると、地震の後遺症があちらこちらにある歪んだ町並み。おまけに貧富の差が一目瞭然。頑張っても家を再建できない人の存在が何故か非常に私を滅入らせる。

 そんなことにはじまり、どんどんネガティブになっていき、それまで出来ていたことが、まったく出来なくなっていってしまった。運転するのも怖い、外出しても楽しくない・・・・・、等。生まれて初めての経験!!。

 ましてや、それまでの仕事で、人がみつからないときは、自分で簡単なカースタントや、テストドライバーをやって、スピード狂と自他共に認める私が、怖くて、怖くて、街中を時速30キロでしか走行できなくなっていたのだからっ!!。

 友人宅を訪れるために、旅行として関西地方に来ていたときは、関西は大好きな土地のひとつだった。今でも、関西は好きだけれど、どうして、当時の私は、こんなにも不適合症状を発してしまったのだろうか?。

 もちろん、色々と問題が残っていた私と相手との関係も、これらを引き金にして、どんどん悪化してったのは言うまでもない。関係を解消して、東京に戻ってきた私。するとどうだろう、運転もできるし、なんでも出来る。今まで何にでも感じていた恐怖感というものが、吹き飛んでしまった・・・・。

 この一年後に、私は旅行者としてイランの帰りにパリに立ち寄り、現在まで住み続けているのだが、どう考えてみても、関西で体験したような、不適合の症状は発していないことを再確認。

 海外生活になかなか適合できずに、時にウツ状態になったり、そこまでいかなくても、弱気になっている人に時々出会う。今までは、自分が関西で経験したことをまったく忘れていたが、今度はこのことを話してみようと思った。海外、国内を問わず、こういったことは起こる時には、起こるのだ、と。

 誰か(夫など)に伴いどこかへ転勤する、ということが、自分のアイデンティティを脆くさせる一因なのかもしれない。自分で思うように動けない、というフラストレーションが、人によっては、過剰な結果となって出現するのだろう。人に頼っているうちに、頼らないと駄目な自分を無意識に作り上げてしまう、という感じ。

 パリというコスモポリタンな街に住んでいること・・・・。これだけでも、自由を感じる日々。パリ嫌いな人が多いのは知っているが、私には、この小さな都心で、自分の足で動き、感じ、働き、コミュニケーションを取ることが日々の活力となっていることは確かだ。
 


2003年03月16日(日) ユーロスター

 ユーロスターは、週末をはさんでチケットを購入するほうが断然安いということは、知っていた。でも、予定としたら、月曜日の昼過ぎにパリを発って、土曜日の昼過ぎにパリに戻ってくるという感じで、チケットが欲しかった私。

 駅にいちいちチケットを買いに行くのが面倒なので、とりあえずネットで予約してみようとトライ。が、週末をはさんでないと、予約すらできないことを発見!!!。どういうことだっ?!?!?!?!?!。おまけに、値段もわからない。非常に腹が立つ。

 で、次に、しょうがないので北駅に出向く。近代的な駅舎に、近代的なチケット売り場。しかし、働く公務員は、膨大な窓口の数に対して、ごくわずか。ま、これがフランスといえど・・・・。

 ユーロスター専門の窓口はとっくに閉まっていたが、普通の窓口に並んでなんとか、値段だけでも出してもらおうと思った。窓口の人が♂だったので、ニコッと笑って話し掛ければ、なんとかしてくれると思ったが、結果その通り。

 とりあえず、希望の日付でチケット状況を見てもらい、値段を出してもらった。窓口のにーちゃんが、

「高いよ・・・」と言って薄笑いを浮かべる。
私「高いって、いくらになるの?」
にーちゃん「本当に高いんだよ・・・・」
私「でも、いーから教えてよ、払うかどうかはわからないけれどっ!!」
にーちゃん「往復2人で、840ユーロ」
私「は、は、はっぴゃくよんじゅーーーーぅっ?!?!?!」
 
 私があまりにも大げさに驚いたようで、窓口のにーちゃんが爆笑している。でも、笑い事ではないっ。なんなんだ、この値段は?!?!?!。ちなみに、土曜日に戻ってくるところを、日曜日にたった一日延ばしたとして、もう一度計算してもらったら、今度は、二人で200ユーロにも満たなくなる。

 さんざん、色々と計算してもらった挙句、ここでの購入を辞めた。後ろを振り返るとたった一つの窓口に、まだかまだかと不満そうに並んでいる客がたくさんいた。

 一度家に帰り、もう一度ロンドンでの予定を考え直し、予定より、早めに出発することにして(土日を入れるために)、再びネットで予約作業をしてみた。すると、今回は、ちゃんと土日をはさんでいたために、きちんと作業ができる。今週末のチケットなので、大幅ディスカウントにはならなかったが、それでも、一人129ユーロでなんとかなった。

 土日をはさまなかったら一人420ユーロになっていた代物だと思うと、何でも安く感じる(苦笑)。しかし、ウイークデーにユーロスターを使いたい人は一体どうしているんだろうか?!?!?!。会社払いならいいだろうが、それが自腹だったら、たまらん・・・・・・。

 あまりにも理不尽な値段設定に、たいそう不満なゼロでした。


2003年03月14日(金) 現実

 本日、夫の心の姉のような存在であり、いつもいつも可愛い57歳のMJから電話が入った。

 彼女はちょっと前までバルセロナに滞在していた。何故か?。というのも、彼女の1968年生まれの娘Aが、今から10年近く前にバルセロナで謎の死を遂げたからだ。MJには、娘Aと、その弟Bがいた。弟Bは、つい最近までバリバリのトップモデル。今は俳優業それと共に、シナリオライターなどをしている。弟Bは、本当に惚れ惚れするほどかっこいいし、美しい。

 私が夫を知り合った頃には、すでにMJの娘Aは他界していた。1968年生まれといえば、私とたった一歳違い。なんとなく、噂で彼女の娘が自殺したのかもしれない、ということは聞いていたが、こういったことは全く触れないできていた。また、私からは触れるべきではないとも思っていた。彼女が語るように娘Aのことを語ってもらっていたという感じ。

 あらゆる喪失体験というものには、残された者がそれを本当の意味で受け入れていくまでには、果てしない時間がかかると思う。謎の死となればいっそうのこと。とはいえ、友人には、死ではなくて、夫や家族が忽然と蒸発したっきりで何十年も音沙汰のない人達もいる。

 病死で家族と納得が行く上で亡くなった場合でも、色々を遺族には後悔や悲しみがつきまとう。また、空きの巣症候群というように、子供達が巣立った瞬間に、埋めようのない喪失感に悩む母達もいる・・・・。

 さて、MJは、長いこと娘は酔っ払って、調子にのってクスリもやってあやまって窓から落ちて死んだと信じていたし、そう皆に語ってきたいた。しかし、娘の没10年を前に、娘の友人らに支えられて、娘が亡くなった土地=バルセロナに旅立っていったのだった。

 ただバルセロナの街を彷徨っただけではない。娘が亡くなったアパルトマン、そして、落ちたと思われる彼女の部屋の窓、その上、当時娘を検死した医者まで訪れて、すべてを知る覚悟のうえでの旅行だった。

 MJが当時の検死官に尋ねて、資料を見せてもらう・・・・。そこには、亡くなった当時の彼女の身体に、アルコール、およびクスリなど、一滴も見つからなかったと記されていた。そう・・・、彼女は全くその時、ハメをはずしていた訳ではなかったのだ。むしろ、完全に素面でタナトスに魅入り、黄泉の世界へと旅立っていったのだと、MJは納得した。

 彼女曰く、ここまでくるには、本当に長い時間がかかったし、苦しかった・・・。でも、逆に、とうとう現実を自分で確かめたことで、ある意味、気が楽になったと言った。

 さて、そんな彼女がバルセロナからパリに戻ってくると、駅で息子Bが酔っ払ったまま母を待っていた。彼は、母親の言い分を聞くまでもなく、

「ママが見聞したことは、すべて嘘だ。おねえちゃんは、事故で亡くなったんだ!!。こんなこと、絶対に人に話しては駄目だーーーっ!!」と物凄い勢いで母に語ったそうである。

 Bは、物凄いマザコンであり、シスコン。MJの家に家族同然として出入りして以来、もう日本では信じられないくらい、親子で仲のいい写真が山ほどあるのを知っている。Bの目は、いつもママを追い、同時に姉を追っている。

 MJがとうとう現実に対して目を向けた瞬間、逆に息子Bはある種のパニックに陥ってしまったのかもしれない。

 

 そんな今、MJの言葉が物凄く印象に残る・・・。



「長いこと、私がいけなかったのか?、教育が悪かったのか?、果ては、娘のことに気がつかなかった私が母として失格だったのか?、と悩みすぎるくらい悩んで、暗闇の世界にいたけれど、現実を見ることによって、ようやく、一歩自分の足元が見えてきたのよ・・・・」と。

また、彼女はこうも言っていた。

「結局、彼女のそばいても、すでに死ぬと決めていた彼女を止められなかったと思うわ。逆に、これで彼女が楽になったのなら、今は、よかったね、という気持ちを素直に持てるようになったわ」ということだった。

 明日は、彼女の家で大規模はパーティー。彼女の“一歩完全に踏み出した”顔がきっと美しいことだろう。


2003年03月13日(木) 朗報!!!

 3月25日に、ロンドンで私の大学時代の友人がライブをする。彼らのグループはそのライブのために、わざわざ日本からやってくるのだ。それにあわせて、なんとかロンドンに行きたかった私。おまけに、現在パリに滞在中のいとこI嬢も、せっかくパリにいるのだから、初めてのユーロスターでロンドンに行きたいと言っていた・・・・。

 おまけに、ロンドンには現在、私の小学校からの幼なじみで親友の一人M嬢が国費留学中。しかし彼女は、今年の夏で任期を終え日本へ帰ってしまう。それプラス、彼女のコネクションで知り合ったとってもナイスなS氏などにも久しぶりに対面したーーーい、と思っていたところ。

 とはいえ、ロンドンはパリよりも物価が高い・・・・。そんなことを考えると、結構今月は散財したし、どうしようかと思案している最中だった。ネットで格安のユーロスターで行く、ロンドン2泊3日などというツアーを見つけて、数々の旅行会社にメールを送ってみたものの、未だ連絡なし・・・・。そんな状況だった。

 

 正直いって、本当に途方にくれていた・・・・。




 そんな時、突然電話がなったっ!!。誰か?、と思ったら、ロンドン在住の私の幼なじみM嬢からだった。ロンドンでは“貸し部屋”制度が多いが、彼女もそのひとりで、ついさっき、その大家が私がロンドンに行きたかった日に、NYへ仕事で出かけることになったから、大家不在中に、好きなだけ彼女の家を利用させてくれるという提案だったっ!!。うおおおおおおおおおーーーーーーーーーーっ。

 その時まで全然違ったことで、ちょっとだけ凹んでいた私だったが、あっという間にウキウキしてしまう。予算の関係でうまくいけば2泊3日と考えていたが、これだと4泊5日は楽に出来そうになってきたっ!!。嬉しすぎる。

 ということで、3月末はロンドンでどうやらマジで楽しめそうになって、妙に嬉しい私。

 ちなみに、今回のロンドン旅行には、あまりにも私の個人的楽しみが集中しているので、夫は結局同行をやめた。私としても、一緒に来てくれてもいいが、まったくキミのことは相手にできん・・・、という態度だったので、恐らくそれを敏感に感じ取ったのだと思われる(笑)。

 仕事はどうするんだ?!?!?!、という疑問はあるが、こういった稀なことがあると、やる気が増すので、それまでに集中して取り組むことも出来そうだ。一石二鳥とは、まさにこのこと?!?!?!。


2003年03月12日(水) 阿波踊り

 夜9時に、北駅裏にあるインド人街のレストランへ行った。わしらはよくここを馴染みの定食屋のように利用している。今晩は、いとこI嬢とわしの夫、そして友人カップル、そして男性2人が混じってのディナーだった。

 今回はI嬢の通訳として参加した私だが、彼女も彼女なりに、奇妙な英語でコミュニケートしている。友人らも、彼女の存在がものめずらしいのか、なんとか話し掛けようとしていて、面白い。

 さて、いつもボケ&ピエロ部隊の彼女、日本のお祭りについての質問を受けた途端、なんの説明もなく、突然“阿波踊り”と発言。傍にいたフランス人らは、それが何を意味するかまったくわからずに、とりあえず彼女の言った言葉“阿波踊り”を“アワオドリ”とリピートする。

 そこで、私も、そのあまりの唐突さにビックリして、フランス人らに、“アワオドリ”という別の意味を伝えることをすっかり忘れてしまった、ちくちょーーー。お祭りとしての阿波踊りと、ソープランドでの泡踊り。ああ、絶妙なチャンスを逃してしまった・・・・・。これだって、ある意味日本の伝統だというのにィ・・・・。

 なおかつ、強気な彼女は、阿波踊りをはじめ、フランス人にその音楽を歌わせている。パリのインド人街で、阿波踊りっていうシチュエーションは本当に奇妙だった。

 高円寺の阿波踊りで技術を磨いてきた彼女・・・・。みんなの前で阿波踊りの男踊りを披露している。みんなが真似して、手のひらをひるがえし、ひるがえし・・・・・。

 I嬢の阿波踊りと聞いて、少なくとも特定の人が腹をかかえて笑える仕組みとなっている、本日の日記でした。

 


2003年03月11日(火) 写真

夕方、行きつけの写真屋が閉まる直前に、現像に出すフィルムを見つけたので、急いで走っていく。もう完全に店員達に顔を覚えられているので、フィルムを渡すだけで、勝手に向こうが処理してくれる。

 顔なじみの店員が
「さっき店の掃除をしていたら、ゼロさん家庭の写真がでてきたけれど、どうする?」と言って来た。ビックリしながらも、その写真を見てみると、なんと昨年の2月のモノだった・・・・・・・。一年前まで頻繁にあっていた友人で現在はあまりコンタクトがなくなってしまった友人らの姿もある。

 急いで会計して、歩道のベンチにゆっくりと腰掛けて写真を見始める。なぜか、どうも店で写真を見ることがいたたまれない私。とはいえ家に戻る前に写真を全部チェックしたい。そんなわけで、店を出たところにあるベンチに腰掛けるのが習慣になっている。例え、そのベンチに浮浪者が座っていようと、“写真を見たい”という欲求にはかえられない。

 写真は昨年の2月のとある一日の出来事だった。その日は朝から、パリ郊外であった友人の結婚式に出かけていった。友人カップルで、ものすごい若い頃にホメイニ革命の寸前にイランから亡命して、現在はフランス国籍のA♂と、南仏出身のC♀。Cのほうは今すぐにでもAと結婚したい・・・、が、Aのほうは全然したくない、という形態でずうっと同棲生活を過ごしてきた二人。

 そこに、イランでの生活にウンザリしてパリにやってきたAの弟F。Aも相当自分の弟にパリでの生活はいいぞ、と言っていた模様。そんな兄の説得でFはフランスにやってきたのだが、さて次の難関はビザ。

 なんとかAと繋がっていたいCは、Aの弟Fと偽造結婚して、フランスに合法的に滞在できるという案を提示した。Aは相当迷ったものの(なぜなら、それでCに借りを作ってしまうのが嫌だった)最終的に偽装結婚を承諾した。

 写真は、その時の結婚式模様だった・・・・・。そして、一年後の本日は、AとCはとうとう同棲生活を解消した日でもあった。なんという奇遇なことか?!?!?!。

 結婚式の後、郊外のアパルトマンで奇妙な3人での共同生活を始めた彼ら。フランス女性の悪い典型で異常に嫉妬深いCは、兄弟がペルシャ語で話すだけでも許せなかった。そして、小姑として、さんざんAの弟Fをいじめ、またそれを完全にストップ出来ないAがいた。想像以上に3人の関係はあっという間に悪化していった。

 それと同時に、すべてのことにネガティブになってきたAが、私達の夫婦関係までに変な影響を及ばせてきた。私には夫の悪口を言い、夫には私の悪口を言うという感じ。自分達がうまくいかないこともあって、恐らく潜在的に他のカップルも仲たがいさせたくなってしまったのだと、私は確信している。

 彼のせいで、意味もなく何度が夫婦喧嘩をしたすえ、ふとこの“妙なAのからくり”に気がついた私は、それらすべてを夫に語ってみた。すると、夫もすごく納得して、それ以後A&Cカップルとの関係を意図的に絶ってみた。するとどうだろう、何もわしらの間では問題がなくなってしまったのだ。

 それとは逆に、A&Cの間ではどんどん問題が増えていった模様。年末ぐらいから、再び彼らとコンタクトを取り始めた頃には、完全に二人の間は冷え切っていた。そして、本日、完全に同棲を解消して、CがAの家を出て行ったところだった。

 そんな日に、偶然みつけた写真。あまりにもタイミングが良すぎて、ちょっと鳥肌が立ったほどだ。その時の写真には、とある仏雑誌の結構名の知れたジャーナリストHの姿もあったが、彼とも、諸事情で現在わしら夫婦はかなり距離を取っている最中。あまりにもセコイ私生活を送っているHに嫌気がさした私が、勝手に距離を取り出して、現在に至っている。

 たかが一年、されど一年、というものをつくづく感じた一日だった・・・。

 ちなみに、CとAの弟Fとの偽装結婚も近々解消される模様。あわよくばフランス国籍取得と考えていたA兄弟だったが、その考えもすべて放棄した上での別離となった。

 やはり、簡単に物事が思うようにいかないのが人生ということをAも悟るべき、いい機会だったのではないだろうか?。


2003年03月10日(月) 言語

 本日は、メトロの駅で待ち合わせして、いとこI嬢を夫の会社の社員食堂に連れて行った。12時15分に某駅で待ち合わせとさんざん打ち合わせしたのにも関わらず、電話だのなんだので遅れてしまった私。そんな私に代わって、夫が駅に迎えに行った。

 てっきり私が迎えにくるものだと思って、駅のホームのベンチで座っていたI嬢。突然我が夫が陽気に現れて、ビックリしたそうだ。彼女は英語なども日本でたくさんやってきたけれど、いざという時に、混乱してしまう。そりゃ、そうだ、だって、私だって昔はそうだったのだからっ!!。

 「私を待っているからここを動けない」と夫になんとか伝えたが、予定の変更を自ら確認していないI嬢は、不安ながらに夫と別の待ち合わせ場所にいた。そこに時間に遅れた私が登場して、やっとI嬢はホッとした模様(笑)。

 夫は夫で、同僚に本日、社食でのランチに妻が日本から来ている“かわいいいとこ”を連れてくると吹聴していたようで、大勢の同僚が彼女を待ち構えていた。フランス人の日本人女性に対するイメージは、小さくて人形のよう、というのが多いが、I嬢は1m75cm、で私は1m71cm、そんな二人がやってきて、みんなとても興味津々。

 さっそく、大学の第二学国語で習ったフランス語で挨拶を試みるI嬢。が、なにをパニクったか、男性しかいないメンバーにむかって、

“Bonjour madame” (ボンジュール・マダム)とかまして、一発目ですでに全員の笑いを誘った。さすがボケ専門部隊。間違えてもニタニタしていられるI嬢は頼もしい存在。人によっては、間違えたことで物凄いコンプレックスを感じて、それ以後なかなか喋れなくなってしまうこともあるのだから・・・・。

 さて、夫の同僚は、会社で夫から英語を習っている人達ばかり。ゆえに、彼らも英語の初心者。I嬢も今まで英語でコミュニケーションする機会がなかったゆえ、お互い“英語会話の学習者”として、交流していた。彼女にとっても本当にフランス人が、苦しそうに英語を話している姿をみて、なにかホッとした様子。そう・・・・、日本人だけが英語が苦手というわけではないのだ!!。

 フランス語と英語のスペルは似ていても、発音は全く違うし、形容詞の順序や動詞変化などまったく違ったシステム。それに対して、中国語と日本語は漢字では同じような標記はあるが、発音は全く違う。

 フランス人も英語の文章は努力しなくてもある程度推測ができるように、日本人もある程度は努力無しに中国語を文章では推測できる。それらが、逆に会話力への発展を妨げていると考えていると理解し易いと思うよ、と、I嬢に伝えると妙に納得してくれた(笑)。

 なんで私がこういう例えをしたかというと、実はいつか私も中国語(とりあえず北京語)を日常会話程度くらいマスターしたいと思っているから。ペラペラ中国語を話す夫を横目に、しばしばムカツクことがあるからだ。ボキャブラリーとしての漢字はもちろん日本人である私のほうが豊富。だけれど、話そうと思うと、まったくアウト・・・・(涙)。

 妙なところで負けず嫌いな私は、いつか夫をギャフンと言わせたいだけという理由もあるが、これだけ漢字を知っていれば、なんとかなるんじゃないか?!?!?! という甘い期待もあったりする。

 そんな自分を投影するだけでも、英語をスラスラと話すことに四苦八苦しているフランス人に妙な親近感を覚える今日この頃。

 すっかり自分の生徒の前で教師面をしていい気になっていた夫がI嬢に、
「どうしてパリに来る前にフランス語じゃなくても、せめて英語くらい集中ヒアリングで勉強してこなかったのか?。」とイヤミモードに突入。

 ま、確かにそれはそれで当たっているが、とはいえあまりにもイヤミだったので、答えに困っているI嬢に代わって、
「ということは、5月中旬に日本へ行くまでに日本語をある程度マスターできるんでしょうねぇ?」と突っ込んでみた。すると、ハッと我にかえる夫。ザマーミロ。

 語学マスターの道は険しいっ?!?!。


2003年03月09日(日) 仮装パーティー

 土曜日の晩は、久々の仮装パーティーだった。パーティーがあるのは知っていたが、まさかそれが仮装だったとは、直前まで知らなかったので、焦る・・・・。"mardi gras"(告解火曜日)は3月4日だったが、それにちなんで仮装パーティーに変更しようと誰かが言い出したらしい・・。そして、ない知恵を絞ったら、意外と簡単に解決策がみつかった。

 2000年に中国の武漢を訪れ、とある寺に行った。そこでは僧侶用の衣装が売られていたのだが、かなり安く感じたので、発作的にたくさんそれを購入しておいたのだ。いつかこれらが役に立つ日が来るだろうと思って・・・。

 しかし、月日が経つに連れて、そんなモノを購入したことをすっかり忘れていた。以前、城を借り切っての仮装パーティーでは、ベルサイユ宮殿の衣装部に勤務する友人のこねで、映画でも実際に使われたものスゴイ衣装を無料で借りてパーティーに挑んだものだった。

 今回は、そんな準備の時間もなかったゆえ、急遽、中国人僧侶のイデタチとなった。たまたまいとこのI嬢が日本から草履を夫にみやげとして持ってきてくれたこともあり、それを夫にあてがい、また以前に母親が私にくれた桐下駄を自分用にしてみた。

 会場につくと、急遽変更になったため、仮装が完全にできてない人らも多く、それを見越していた夫がたくさん持ち込んだカツラ(なんでこんなものをコレクションしているのかわからんが・・・)を貸してあげたりもした。

 そして、仮装パーティーといえば、P&F夫妻。今回もバリバリの伯爵ファッションでやってきた。彼らがくると、一瞬にして雰囲気が盛り上がるのが嬉しい。夫のPのほうの今回のテーマは、18世紀のおかまな伯爵だったので、化粧もかなり凝っていて、面白い。

 仮装の準備するのが面倒くさい人は、普段自分たちが仕事で使用している制服で出現したりもした。パイロットの格好だったり、消防員の格好だったり、と社会階級も色々で見てるだけでも笑える。

 どうしても衣装が見つからなかったGは、直前になって我が家に慌てて電話してきて、「着ていくものがないよ・・・・、どうしよう・・・・。」と半泣き状態だった。そして、ふと私が彼が趣味で合気道をやっていることを思い出して、その格好でくることを薦めてみたら、実際に合気道の衣装でやってきた。

 特殊なパーティーなので、どうしてもこれに来たい人がたくさんいる。が、今回は仮装という別の意味で難関が増えたので、困った人が続出。友人のEは、大の仮装嫌い。でも、行きたい・・・・・、どうしよう・・・・、というわけで、急遽、夫の仮装コレクションの一つであった伯爵ブラウスを貸してみた。とまどいながらも、年貢の納め時と観念したEがそのブラウスを着る・・・。いつもどっか固い彼が、だんだんとピエロモードに突入していく瞬間だった。

 今回は中規模のパーティーだったので、人数はおよそ80人ぐらい。残念なことに招待客に限りがあったので、いとこのI嬢を連れて行くことができなかった。そのかわり、土曜日、彼女はひとりでモンサンミッシェルを日帰り旅行して、彼女なりにとても楽しんでいた様子。よかった、よかった。

 まだまだI嬢のパリ滞在期間中にはパーティーの予定があるので、いずれかのパーティーには彼女を連れて行こうと思っている私。雰囲気は面白いが、延々と続くパーティーに、フランス語が不自由な彼女がどこまでついてこられるか?!?!?!、という問題はあるにしても、是非、観光では味わえない雰囲気を経験してもらいたく思う私でもあった。

 ちなみに、今回のパーティーは夜9時半に始まって、明け方の午前6時半まで続いた。家に戻り、色々とパーティーであったことを夫と話し(なぜなら、わしら夫婦はパーティーではほとんど別行動ゆえ、それぞれの視点を後になって語りあうのが常)、実際に床についたのは、朝の8時前。ゆえに起床したのが午後3時過ぎになった・・・・(汗)。
 


2003年03月07日(金) 東駅界隈

 いとこI嬢のホテルに午後1時頃迎えにいくことになっていたが、色々と仕事が重なって、遅くなってしまった。外線がまったくアウトなホテルに宿泊しているI嬢は、私に公衆電話から電話をかけようと外に出た模様。

 しかし、彼女のホテルの界隈、つまりは東駅のはずれは、昼前からブラブラしている人が多く、彼女にはそれらが異様に恐ろしく見え、怖気づいてホテルに引き返してしまったそうだ・・・・。

 東駅の周りといっても、色々ある。が、特に彼女のホテルの周りはちょっと人通りが途絶えると、確かにあんまりいい印象を旅行者には与え難いところなのかもしれない。

 確かに、マグレブ系や、アフリカ系、インド・パキスタン系と、先日の日記にも書いた通り、いわゆる“日に焼けた”方々が、その国の習慣もあるのだろうが、路上にたむろしている。それも男ばっかり。ナニをするというわけでもなくブラブラとしていて、たまに通る日本人旅行客、つまりはI嬢のようなのをジロジロと見る。

 たむろっているのが習慣だし、ジロジロ見るのも習慣だとI嬢に言うが、もう彼女はかなりショックを受けていて、完全にビクビクモードに突入している。そんなに怖いと感じるのか?!?!?!。じゃ、どうしてわしは怖いと感じられないのか?。ここに相当なギャップを感じる。やっぱり慣れの問題なのだろうか??????。

 彼女も、私と一緒だと怖くないと言ってくれるが、一人だとどうも駄目だとも言う。さて、どうしようか。とはいえ、待ち合わせの後、全品5ユーロのカレー屋にI嬢を連れて行ったら、それを美味しそうに食べていた。

 パッサージュ・ブラディは観光向けなので、そこではない、もっと定食屋じみたカレー屋だったが、そこで満腹になって少しだけ落ち着いてきた彼女が、窓から外を通り過ぎる人を眺めてポツリ・・・・。

I嬢「全然、日本人観光客なんていないね・・・・、この界隈」
私「ガイドブックには載ってないものね」
I嬢「ここは安くておいしいけれど、一人で来る気にはなかなかなれないよ」
私「そうなのかなぁ・・・・?!?!?!」

 やっぱ、私は観光の順番を間違ったのか?。最初にもっと日本の雑誌で紹介されているような“おしゃれなパリ”を見せておいて(そんなのあるのかどうか知らんが)、徐々にディープなパリを見せていけばよかったのかも・・・。

 というわけで、東駅を基点にして北上するつもりの予定を変更して、南下して、レピュブリック、マレ地区、シャトレなどをほっつき歩いた。

 とはいえ、来週からルーブルに歩いて5分もかからないところに宿泊を始める彼女。きっとパリに対する怖い印象も吹っ飛ぶことだろう。またそう思いたい。
 


2003年03月06日(木) 地域

 午後、いとこのI嬢とメトロ2番線のJaurèsのホームにて待ち合わせしてみた。彼女はそこまで5番線できて、乗り換えのために結構歩くハメになるはず。また、ちょっと“日に焼けた”人達がたくさんいるので、人によってはこの辺の雰囲気を怖いと思うかもしれない。

 私が待ち合わせの時間にちょっと遅れていくと、すでにI嬢がいた。到着するや否や、“はじめてのおつかい”みたいだったよ・・・、という(笑)。もう、私のネライ通りっ!!。ここ連日彼女に付き添ってパリを観光しているが、こうやって、どんどん一人で緊張する機会を増やしていき、来週からは完全に自立してもらうつもり。

 さて、2番線はJaurésから乗車して、Etoile方面に向かうと、途中駅Romeあたりから乗客の顔がガラッと変化して非常に面白い路線。Romeあたりから、“日に焼けた”人々の率がグーーーンと減って、“色の白い”人々が増えてくる。来ている服や、雰囲気もかなり違ってくる。

 Etoileで乗り換えさらに6番線で、Bir-Hakeimに向かうが、ご存知の通り、EtoileからBir-Hakeim間は、Passyなどもありブルジョワ地区ゆえに、やはり“色の白い”人々が大多数。短時間でこうも人種が変化する様を目の当たりにして、I嬢も非常に面白がっていた。

 私はパリ日仏会館で用事を済ませ、その足でエッフェル塔やシャイヨー宮などを観光。エッフェル塔の下にやってきたのは何年ぶりか?!?!?!。

 凱旋門も見たいというI嬢だったが、そ知らぬフリをして、とりあえずTrocadéroからオペラ方面のバスに乗ってみる。左の窓側にI嬢を何気に座らせておいた。そしてふと、凱旋門が彼女の目の前に出現したので、彼女は非常にビックリ。その様を見て、まわりの人もついつい笑っていた。

 オペラ界隈にくると、今度はたくさんの日本人や日本レストランを目にして、それはそれで新鮮に驚いているI嬢。こうやって観光客の視点でパリを歩くのは、私にとっても妙に新鮮。きっと仕事のヒントになってくれることだろう。

 ということで、明日は、Strasbourg St-Denisの裏界隈からChâteau d'Eau、その後にBarbesからChâteau Rougeの“日に焼けた”方々のコミュニティーなどを案内する予定。


2003年03月05日(水) 習慣

 朝8時半から仕事してきた。本当に早起きはツライ・・・。毎日朝から、定時に出勤している人のことを思うと、エライなあ・・・。

 担当編集者Sは、週に一度、大学で講義をしている。その彼女の講義に混ざって、その後、何人かにインタビュー&その後のコンタクトを取ってきた。久々に味わう大学という雰囲気は、なんとも奇妙で、一種の旅行者気分を堪能できたかもしれない。

 しかし、編集者Sは、私にさらに翻訳の仕事をまわそうとしているのを知って、ちょっと恐ろしくなっている私。やっと締め切りが延びたことを知り、のんびりしていたところに、雑誌の翻訳は・・・・・・(滝汗)。夫に話せば、絶対引き受けろ!!、と言うに決まっているので、現時点では、まだ内緒(笑)。

 さて、もう一人の旅行者、我がいとこI嬢。彼女の宿泊しているホテルの電話の外線が完全に止まっているので、まったく連絡がとれない。スゴイぞ、フランス!、っていうことを味わうには、ちょうどいいのかもしれん(笑)。

 夜、二人でくつろいで喋っているところに夫が帰ってきた。我々を見た瞬間、「ああ、同じ家系ってのがよくわかるよ」と言う・・・・。「雰囲気が似てるとも」・・・。どういうこと?!?!?!。

 確かに、わしらのことを似ているという人は多いけれど、ね・・・・・。おまけに、I嬢はわしよりもさらにデカイし。でも、わしら二人ともこの言葉「なんか似ている」って言われるの、好きじゃないのにぃっ(お互い自分のほうがマシだと思っている)!!。

夫までが同じことを言い出すとは・・・・・。

 来客を迎えて、その客と一緒にソファーの上にゴロっと寝転がり、話をしている姿というのは、あまりフランス人家庭には見受けられないのだろうが、ついついI嬢の顔を見ると、昔の習慣が蘇ってきて、気がつくと寝転がり(幸いなことに我が家のソファーはデカイし、長い)、ダラダラとお喋りをしてしまう。

 そんな二人を目の前に、椅子文化の夫が、ちゃんと椅子に座っている光景は、なんとも和洋折衷で不思議だった。


2003年03月04日(火) 空港までの道のり

いとこのI嬢が到着する時間を見計らい、少し早めに家を出た。RERのB線に乗り、あとは空港に到着するだけ・・・・・・、と安心していたら、車内アナウンスが入る。

「どこどこの駅まではノンストップですのでご注意ください」というものだったが、もちろんわたしゃ、空港までなので問題なし。ゆえに聞き流していた。すると、少しアナウンスの声の調子が変わったので、無意識のうちに少しだけ注意して聞いていると、

「某駅で火災が発生したので、手前の某駅で降りてください。そこから代行交通機関に乗り換えてください」とのこと・・・・・。

?????????????。

って感じで、いままでノンキに座席に座っていた人達の間で、“今なんて言った?”などを慌てて問い直す姿があちこちで始まる。結局、そんな大事なアナウンスなら、もう一度言うに決まっているとみんなが言い出し、2度めのアナウンスを待つ。そしてしばらくして待望の2度目がはじまったが、今度は火災のことなど触れず、“某駅までノンストップ”だけ・・・・。

 キツネにつままれたまま、ほとんどの人は降りぬまま、電車は出発した。そして某駅の寸前になったら、再び火災のために、電車はここで停車するので、全員降りろとのアナウンスが入る・・・・・・。

 駅に降り、改札を出ても、まったく代行交通機関などなし。イライラして駅員に質問してみると、「今、代行用のバスの手配をしたので、少なくとも30分以上は待っていてください」とのこと・・・・。私はまだ迎えだけだからいいが、状況によっては飛行機に乗り遅れる人もたくさんいて、現場はにわかにパニックの様相を呈してくる。

 もちろん、タクシー乗り場はものすごい行列。それに対して、信じられないくらい少ないタクシーの数。代行バスなんて、まったくの嘘で、そんなものはまったく来ない。

 アタマにきてもう一度駅員に尋ねに行くと、「代行バス?!?!?!、そんなもんあるわけないでしょ、ハハハ(笑)」という態度。もうここまでで相当血管が切れかかってきている私。おまけに駅員は「お急ぎなら、タクシー会社に電話すればいいんじゃないの?」っていう感じ。この会話を私の周りで聞いている人達も、みんな怒り狂っている。

 絶望的なまま、小一時間が経過した頃、突然、RERが復旧した。そして火災があったはずの某駅を通過するが、一体どこで火災があったの?!?!?!、というくらいのどかな風景・・・・。なんでこんな些細なことで平気でとまったりするのだ、RERっ!!。火災が、願わくば駅員の事務所で起こっていたことを祈るのみ。

 ようやく駅に着き、ターミナルまでのシャトルバスに急ぐ。これから飛行機に乗る予定の人々の顔は、本当に青ざめていて、イライラしている。そりゃ、そうだっ。その中の一人に、知っている顔を発見。それは友人Y嬢の夫だった。結局、彼は飛行機に間に合ったんだろうか?。

 私も一応慌てて到着ゲートに駆けつけたものの、まだダレも出てきていなかった。一服してゲートの前に戻ると、ちょうど人が出てき始め、久しぶりに顔を見るいとこのI嬢が、ニタニタと笑って歩いてきた。

 


2003年03月03日(月) アエロフロート

 明日の夕方頃、いとこのI嬢がパリに到着して、4月1日までここに滞在する予定になっている。彼女にとっては初フランス。来仏する準備から不安などの相談にのっているうちに、ふと自分がはじめてパリに来たときの記憶が蘇ってきた。

 私の初パリは、1989年2月。当時大学生だった私は、安く旅したい一心でアエロフロートを選んだ。まだソ連時代(笑)。親友のMとの旅行だったが、一人娘の海外旅行を必要以上に心配した我が母親は、成田まで見送りに来た。

 チェックインなどを済まし、母親と別れ出国手続きをして、あとは飛行機にのるだけだった。しかし、いつまでたっても搭乗手続きが行われない。とはいえ初海外旅行で浮かれている私達は、そんなことも気にならず。さんざん待たされた挙句に、乗り込んだアエロフロート機は、荷物置き場が網棚だった。しかし、初心者というのは、タクマシイ。飛行機のことに詳しくないので、網棚もそれほど気にならなかった(笑)。

 しかし、定刻を過ぎても依然出発せず、いつまでたっても点検作業と称して、ボロボロの機体を修繕している様子を、我が母親は見送りデッキから一部始終観察していた。眩暈がして、飛び立った後、アエロフロートの実態はウルトラ無心論者の我が母を、成田山にお参りに行かせてしまったほどだ(笑)。

 さて、やっと軍用機並の急角度で離陸したアエロフロート機。ドロドロしたフルーツジュースもどきのサービスが終わり、ひとまずホッとしたところでアナウンスが入る。どうやらどこかに着陸するようだった・・・・・。

 あまりにも機体がボロく、成田を飛び立って2時間弱で、すでにハバロフスクに緊急着陸した。ソビエト・・・・・・・・っ!!。掘っ立て小屋のような待合室で延々と待たされる私達。その間、一切の飲み物サービスはなし。そのおかげで、咽はカラカラ。外を眺めれば、無限大にありそうな凍えた大地があるばかり。そんな状況に、私達は妙に興奮していた。

 何時間待たされたのか・・・・・?。ハッキリとは覚えていないが、少なくとも5時間以上はそこにいたと思う。その後、すこしだけマシになった機体に乗り換え、モスクワへ向かう。なんとも陰気臭い空港から、アウシュビッツに送り込むのか?、というようなバスに乗せられてモスクワの監禁ホテルで一泊した。

 早朝、ブリュッセルへ向かうために、また空港へ戻り機内へ入ると、日本〜ハバロフスク間の機体とはまったく違う、かなりアエロフロートとしては新しいモノであることに、さすがの私達でも気付く(笑)。私達の隣に同席したのはベルギー在住のピアニストの日本人女性だった。

 彼女は非常に親切で、海外初心者オーラを私達から感じ取った彼女は、ブリュッセルについてからも色々とガイドをしてくれた。恐らく、彼女は私達のことを放って置けなかったのだろう。ありがたいことだ。

 結局私達は、ベルギー、フランス、イタリアの3カ国に一ヵ月半くらいかけて滞在したのだが、アエロフロートのショックとは違って、行き先々で親切な人に出会い、物凄いよい旅ができてしまった。怖いと感じる一瞬すらなかった。

 出発前には、さんざん知人らにヨーロッパは怖いと脅され続け、そんなに怖いなら、自己防衛をしなければと、わざわざ上野のアメ横にジャックナイフまで買いに行ったほど(笑)。このジャックナイフは、モスクワの空港チェックにひっかかってしまった以外、出番はなかった。

 

 一緒に旅行した親友Mは、今じゃ2男の母親業を、日本で立派にこなしている。旅行当時、まさかその10年後に、自分がパリに住むようになるとは夢にも思っていなかったが、それぞれが自分だけにしかできない人生を歩み、そして時々ふっと思い出す、みっともない過去の思い出を今でも共有できるということは、本当に嬉しいことだとつくづく思う今日この頃。

 明日からパリ滞在のいとこI嬢にも、自分だけにしかできないオリジナルな思い出をここで作っていって欲しいものだ。

 


2003年03月02日(日) 偶然という名の必然

 金曜日、夫は重要な書類を作成して、それを添え付けてメールで送ろうとしたら、突然PCがフリーズしたと同時に、書類も消えてしまったとのこと。そこで怒り狂ってわめいていただろう夫の姿が目に浮かぶ。そして、それでもあきらめず、もう一度きちんと書類を作成して、送ろうとしたら同じアクシデントに見舞われて、また彼の労作が吹っ飛んでしまったとのこと。

 翌日、夫は「結局、今考えてみると、あの書類はあの時点で送らなかったほうがよかったのかもしれない」ということだった。

 さて、土曜日の朝、ネットで調べ物をしようとPCを立ち上げたら、またモデムが作動していないことに気がついた。今度は私が怒り狂ってわめく番。プロバイダーの会社に怒りの電話を入れても、結局ラチがあかず、というか、ま、いつものことで暖簾に腕押し。もうこれ以上怒ってもエネルギーの無駄なので、気分転換に夫と外出した。

 リュクサンブール公園の隣に住むJYの家を訪れた。JYは前から“ボクのアパルトマンを見に来い!!”と誘ってくれていたが、毎回、夫だけを派遣していたので、今回は私も一緒なことを知ると、本当に喜んでいた様子だった。そんな彼にPCで調べ物ができないから、暇つぶしに遊びに来ただけとは、さすがに言えなかったが・・・・(笑)。

 彼の家でさんざんアペリティフをすすめられ、ポルトーでだいぶ出来上がってきたところで、雨の中レストランに繰り出す。そこで議論が3人の間で異様に盛り上がったので、その勢いでカルチェラタンの本屋巡りが始まった。実はさっき話した説は、この本からだ!!とか、いや、実はこの本のほうがいい説を説いている!!だとか、そんなことがしたいがための本屋巡り。

 そしてとある古本屋に立ち寄った。世界中の国に関しての古本がある書店で、仕事のことも兼ねて、私は日本関係をとりあえず閲覧。店主に色々と質問しているうちに、店主と打ち解けてきたところを見計らって、自分の仕事のことを語ってみたら、なんと私が一番コンタクトを取りたかった人と店主が友人だったことが発覚!!!。先週、この“私の会いたい人”は店に来ていたらしい。さっそくお願いして、彼の連絡先数箇所を全部教えてもらった。

 もう、この時点でかなり興奮している私(笑)。夫と友人のJYもそれぞれ欲しい本を見つけて、また違った意味で興奮していた。その勢いで、ラム専門店に行き、カクテルを楽しみ、気がつくと日が暮れる前にずいぶんと飲んだり、興奮している。

 さて、それでもひとつやり残したことがあったので、カルチェラタンでJYと別れて、わしらはとある店へ。ここに入った瞬間、また妙にピンと来た。もしかして今振り向いたら、誰かコンタクト取るべき人がいそうな予感とでもいったらわかるだろうか?!?!?!。

 そして、振り向くと著作とか、パンフレットで何回が見た顔が本当いにそこにあった。二次元媒体でしか知らなかった人の顔が、現実に私の目の前にあり、本当にその人かどうなのか知るために、夫に“変な外人”を装ってもらってその人に話し掛けてもらった。

 答えはまさしくビンゴ!!。正真正銘の私がコンタクトを取るべき人だった。写真の印象では怖そうだったが、とても親切で礼儀正しい人で、インタビューの話も快く受けてくれ、さっそくスケジュール調整までしてくれた!!!!。ああ、感動。

 さて、本日の日曜日、夕方からクラブに出かけていった私達だが、時間を間違えていて、ちょうど入店ができない時に到着してしまい、アウト。ガックリしたまま、キオスクでパリスコープを購入。レストランで食事しながら、友人らに電話してクラブ情報を仰ぐが、どうもピンと来るものがない。

 結局、クラブ行きは諦めて、突如映画に行くことにした。最近はのんびりと映画館に足を運ぶなんてことをしていなかったので、いざ映画に行こうと思っても、見たい映画リストがアタマの中に作成されていない。パリスコープを慌てて読んでも、やっぱりピンとこない・・・・・。

 そんなわけで、年貢の納め時とばかり、"Le Pianiste"(邦題では戦場のピアニスト)を21時半から観ることにした。さすがに話題作であるだけあり、非常に面白かった。感想はここではあげないが、この映画のなかに、今、考えておく、またはやっておく必要のあることのヒントが私に、そして夫にそれぞれの立場においてたくさんあった。

 長くなってしまったが、金曜日の夫の書類消失にはじまり、ついさっきまで、やりたいことができない、というアクシデントに見舞われ続けた週末だった。しかしその結果、やりたいこと以上に、思わぬ収穫がたくさんあった週末でもあった。時に、物事は偶然というカタチをとって、何かを提示してくることがあるが、まさにそんな感じのものをヒシヒシと感じた週末。

 アクシデントに見舞われる度に怒り狂ったりもしたが、とはいえさっさと執着を捨て、違った方法を取ってきたことも幸いしたのだと思う。見えない力が私達を導いたような気がする。

 本日見た映画も、主人公の奇妙にも運命に流されていく様が、なんともいえなかった。“一瞬一瞬が積み重なり人生を築く”という印象。翻弄されているように見えても、ただ受身でいるだけに見えても、そこには積極的か、消極的かの差こそもあるが、結局は個人の選択の結果で形成されていく人生・・・。

 今から10数年も前のこと。夫の友人がパイロットで、プライベート飛行に親しい友人だけを誘ったそうだ。もちろん“お子ちゃま”な夫は大喜びで翌日のフライトを楽しみにしながら、一緒に旅立つ友人らとパーティーをしていたとのこと。そして、フライト当日の早朝に、突然夫にだけ仕事が入ってしまったそうだ。夫はすごくショックだったらしいが、でも気を取り直して、フライトをキャンセルして、仕事に取り掛かった。

 夫が仕事に取り掛かって数時間後、悲報が飛び込んだ。まさに夫が乗るはずだった飛行機が墜落したとのこと。前日にパーティーを楽しんだ友人らは全員死亡・・・・・。

 本日の日記の題名は、『偶然という名の必然』。飛行機事故で亡くなってしまった夫の友人らの死が、必然だったとは言えないし、言いたくもない。が、しかし、夫に起こったことは、実に偶然であり、またそれと同時に必然だったような気がしてならない。

 いずれにせよ、瞬間瞬間が人生の岐路だと思うと、非常に面白いと思うのと同時に、なかなかツライもんだな・・・と思えてならない。

 ナニをどうすればOKというノウハウが一切通用しないのが人生ともいえる。これは、映画"Le Pianiste"を見てますます思った。生き延びようとしてナチの手下になっても、死ぬ人は死ぬ。反抗したままでも生きている人は生きている。おまけに体勢が変われば、ナチは戦犯。そして、ユダヤ人は今までの不幸を逆に売り物にさえできる(しかし、本当に悲惨だったことはあえてここで付け加えておく)。

 何かの社会、宗教、体勢、企業、家族形態に所属して、真面目にオノレの義務を果すとする・・・。しかし、真面目だからといって、死ぬときは死ぬ。では不真面目でいようとしても、死ぬ人は死ぬ。まったく予測がつかぬ人生。不平等だの、差別だの、叫ぶことができても、それが役に立たない事態というものが確かに存在する・・・・、というより、とりあえず存在した、とあえて書いておく。

 モデルというものがない、というのは、非常に私に生きるエネルギーを与える瞬間だ。素晴らしい、美しい、みっともない、悲惨、等に代表される言葉は、結局のところ、相対的なものでしかないと、あらためて痛感する瞬間でもある。

 30半ばになって、ますます原始的なモノにだけ魅力を感じていく自分を再発見した。


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