Miyuki's Grimoire
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2005年04月25日(月) インスタント・カルマ

 去年のちょうど今頃、わたしは以前の職場の同僚で、とても仲の良かった男性とばったり電車のなかで会った。それも、電車にのって空いている席に座ったら、真横に座っている彼から声をかけられるという偶然だった。彼とはほんの半年ほどしか一緒に働いたことはなかったけれど、とても気が会って、仕事以外の話もよくしたし、価値観がとても合っていたので、周りの同僚には言えないようなことも話し合うことが出来た。話しているととても楽しく、わたしは彼に好意を持っていたけれど、彼もわたしも当時パートナーがいたので恋愛の対象にはならず、良い友達としておつき合いしていたと思う。しかし、彼はとても才能のある人で、リーダーシップもあり、専門的な知識も豊富だったので、半年ほどして、大手企業からヘッドハンティングがかかり、転職することになってしまった。それからは業種が違ってしまったので、あまり連絡をとらなくなり、ほとんど会わなくなってしまったけれど、長い時間が経っても彼のことは、時々思い出すことがあった。そんな彼と、ばったり電車のなかで会うなんて、なんてことだろう! お互いとても驚いて、懐かしいやら、照れくさいやら。けれど、ほんの3駅ほどの間にいろいろと話をし、家がすぐ側だということがわかり、メールアドレスを交換して、近いうちに一緒に食事をする約束をした。

その日のうちにさっそく彼からメールが来て、次の週にランチをすることになった。彼は待ち合わせ場所と時間だけを伝えて来て、あとは任せてくれ、と言う。わたしはそのとおりにして、当日までの楽しみにしていた。さて、当日、待ち合わせの場所にいくと、すでに彼はその場所で待っていて、ホテルの最上階にある展望レストランを予約していてくれた。エレベーターで最上階にのぼり、レストランに入ると、東京の景色が一望できる。お昼の太陽がまぶしいくらいにレストランのなかに入って来ている。ランチのコースを頼むことになり、わたしが軽いパスタのコースを頼もうとすると、彼はメインとデザートのついているコースにしよう、といい、二人分のオーダーをしてくれる。

おいしい食事を食べながら、昔の懐かしい話をたくさんした。彼は会社を辞めたあとも転職をし、いまは有名な海外の企業の日本支社の社長になっていた。「30代で社長かぁー、昔からすごい人だと思っていたけれど、本当にすごい人だったのね〜」と、わたしは感心してしまった。彼の話し方は、昔と変わらず、頭が良く、ユーモアがあり、洗練されていた。彼の話を聞いているのはとても楽しかった。彼は、より立派になっている以外は、昔となにも変わらなかった。そしてわたしが話す番になって、彼はこう聞いて来た。「君の会社のホームページを見たけど、クリスタルって何? ヒーリングって全然よくわからないな」わたしは、彼のような常識人にはわからないのを承知の上で、「クリスタルを身体にのせて、共鳴する波動で癒しを起こして行くもの」と説明した。「ふーん、なんかあやしいね。僕も若い連中から、よく宗教作ったら教祖になれるとか言われるよ」「ビジネス教?(笑)」なんて笑いながらも、わたしは、少しさみしさを感じた。その他にも、いまわたしが興味あること、趣味で習っていること、スピリチュアルなことについて、あれこれと話をしたけれど、「よくわからない」を連発されてしまった。彼は、変わっていない。変わったのは、わたしの方だった。

彼が会社を辞めて会わなくなってから、10年近くが経っていたと思う。けれど、わたしの心のどこかに、当時彼に対して持っていた憧れのようなものが思い出として残っていた。そうした、いまここにないものに対する想いはすべてエネルギーとして心のなかに蓄積されて、なんらかの形でそのエネルギーは消化されることを待っていることがある。人が前進するとき、成長するときに、これまでに経験したすべてのエネルギー、宿題のようなもの、カルマを人は背負い、そのエネルギーに従ってまた新しい経験をし、過去のカルマをどこかで精算していく。彼に対する憧れに似た気持ちをエネルギーとして持ち続けていたわたしは、彼を引き寄せ、電車のなかでバッタリ会うというシナリオを書き、会って話をし、そして、その思いを終わらせる必要があったのかもしれない。昔は、彼と自分がとても深い接点を持っている気がしていた。でも、それはあくまでも仕事を通してのことであり、仕事という共通点がなくなれば、接点もなくなるということがわからなかった。それは、10年後のわたしなら理解することができるのだった。

やり残していること、やりたかったけれど出来なかったこと、諦めたこと、その他なんでも、心の中に終わっていない想いがあるとすれば、その想いはカルマとなって表出し、ある日、思いも寄らない形でそれを終わらせるエネルギ−がやってくる。いま経験していることの意味はなんなのか、なぜ、こういう経験をするのか。ある人との間で終わっていないエネルギーがあると、別の人との間で同じエネルギーを繰り返したりする場合がある。それは完了するまで続いていく。なにが自分にこの経験をさせるのか。本当に理解できるまで、何度も同じ経験をさせられることもある。わたしの場合は、シナリオに同じ人物が登場してくれたのでわかりやすかったけれど、多くの場合、登場人物は変わり、本人も気づきにくいことが多いのではないだろうか。

この世に偶然はない。すべては見えざる計画のなかにあり、そしてそのからくりは自分の心が創り出す現実を通して映し出される。わたしは、彼に会えて話が出来たことで、自分の心に留められた古いエネルギーが解放されたのを感じた。とても有り難かった。

食事が終わって、デザートは窓際の席に移動した。おいしいケーキとお茶を飲みながらいろんな話をしたけれど、それはただ楽しい瞬間があっただけで、それ以上のものではなかった。片手でわたしを制し、無言で会計してくれた彼は、ヤングエグゼクティヴとして世界を羽ばたくスマートな男性そのものだった。彼には心から感謝して別れ、そして、それ以来二度と会うことはなかった。我ながら、完璧なシナリオだったなぁと、いま思い出しても宇宙の法則に感心してしまう出来事だった。


2005年04月20日(水) フェスティバル・エキスプレス

ドキュメンタリー映画『フェスティバル・エキスプレス』を観に行った。ninoさんのダイヤリーにも書いてあったけれど、『フェスティバル・エキスプレス』というのは1970年のミュージック・フェスティバルの名前で、当時人気のあったいくつものバンドが列車を借り切って東から西へカナダを横断しながら町から町へコンサートを行なったもので、その時の様子を収めたフィルムがつい最近発見されて映画化となった。冒頭にグレイトフル・デッドの「ケーシージョーンズ」がかかっていて、すぐにコンサートの様子が映し出されるが、ライブの映像は全体の半分くらいで、そのほかは列車のなかでのミュージシャン達のジャムセッションや裏方の様子、当時を振り返る関係者のインタビューなどで構成されている。見ているだけで、その当時の空気をじかに感じ、それぞれのミュージシャン達がいかに希望に燃えて、パッションを持っていたかを知ることができる。

80年代、90年代と、夏になるとアメリカやイギリスではたくさんのミュージック・フェスティバルが行なわれ、ビッグネームが名を連ねる豪華キャストのコンサートをよく観に行った。どれも広大な野外の会場で、観客動員が5万から時には10万人を超すような規模のものもあった。当時はそうしたコンサートはウッドストックが原点だと思っていたけれど、『フェスティバル・エキスプレス』を観て、わたしが観て来たもののエッセンスはこれだったんじゃないかと思えた。ツアーが長くなると、ミュージシャン達はたいてい家が恋しいと言う。彼らも人間だから、時には良い演奏が出来ないときもある。裏では人を避けて疲れた顔をしていることもあった。ビッグになればなるほど、自分の名前と自分自身とのギャップにストレスを感じ、音楽を楽しむことを忘れてしまうミュージシャンも多かった。

そんななかでわたしが大好きだったのは、悩みながらもいつも音楽については純粋なパッションを語ることができる人だった。音楽は音そのものの中に、それを演奏している人の人生が表れる。わたしは常に、音のなかにその人のパッションを感じ取ろうとしていた。けれど、本当に音のなかのパッションに感動できることは正直言って少なかった。『フェスティバル・エキスプレス』の、輝くような音楽への喜びのエッセンスと比べたら、90年代のコンサートは同じものを求めながらもずいぶんと商業的かつお約束的になり、一部のミュージシャンを除いては、ちっともパッションなんか感じられなかったように思ってしまう。90年代後半に入って、わたしは音楽の仕事に対してある種の疲れを感じ、音楽に関してなにかを語ることができなくなっている自分に気づいた。とても空虚感を感じていた。

それにしても、70年代というのは、なんて純粋で、熱い時代だったんだろう。どんな時でも音楽がある限りミュージシャン達は心から幸せで、心から楽しみ、自由で、そして音楽に感動していた。リアルタイムでは経験していないけれど、この映画を観ると、本当にいい時代だったな、と思う。

ジェリー・ガルシアはまだ28歳で、すでにものすごいカリスマ性を放っている。観客の間に暴動が起きても、彼がステージに上がって一言呼びかけるだけで、ピタッと空気が静まってしまう。ジャニス・ジョプリンも27歳で、酒もタバコもガンガンだけど、その笑顔は本当に天使のように天真爛漫で、可愛くて、歌い出せば世界が震えるような愛を滲み出させる。映画をみながら、彼らが本当は愛し合っていたんじゃないかと思ってしまった。ふたりが列車のなかでジャムをしているシーンには至福の時が流れ、この時は永遠に止まり、やがてどこかの楽園に行くつくんじゃないかとさえ思える。ジャムをしながら「はじめて会ったときからお前を愛してたよ」というジェリーに、大笑いしながら「ウソばっかり!」というジャニス。この酔った勢いの会話に、わたしはふたりの天才の間に存在しているお互いへの絶対的受容、つまり愛、の波動を感じずにはいられなかった。

若い頃は、ジャニスの歌はよくわからなかった。でも、いま聴くと、彼女の歌いたかった愛が伝わってくる。彼女の心の温かさや、包み込むような母性に心がふるえて、涙が出てしまう。ジャニスがステージに出た途端に、その場の空気が変わり、人々はみな歌に聴き入る。このフェスティバルは彼女のためにあったような気もする。すべての瞬間を楽しみ、輝き尽くして生きた彼女は、いつ死んでも後悔はなかっただろう。彼女はある時地上に降り立ち、生きる喜びと愛を歌って、そして希望だけを残してパッと去った天使、だったのかもしれない。『フェスティバル・エキスプレス』の2ヶ月後にジャニスは他界し、そしてジェリーの顔から笑顔が消えた。そのジェリーもいまは亡き人となり、時代はもうとっくに21世紀を迎えているけれど、あの時のパッションを封じ込めた音楽とフィルムは残り、永遠のいまに生き続けている。切ないような気持ちもするが、これでいいような気もする。きっと、ジャニスもジェリーも、いまは別の次元でふたりで生きているんだろうな、なんて想像して。。


2005年04月15日(金) Honesty

むかし、音楽雑誌の記者をやっている頃「正直であること」がどれほど大切かを思い知らされた出来事があった。

わたしはあるバンドの番記者をしていた。才能のあるバンドで、デビューから2枚目のアルバムでビッグヒットを放ち、スターとなってワールドツアーを行なうようになったが、アルバムを出すごとにバンド内の確執が深刻化し、とうとう4枚目のアルバムをリリース後、解散してしまった。

バンド内の確執というのはよくある話だけれど、このバンドの場合はちょっと特殊で、確執の原因というのが、アルバムはバンド全員の合作と公表していたが、実はそのすべてをギタリストひとりで行なっており、バンド対ギタリストの間に大きな溝があったことが原因となっていた。作曲どころか、プロデュースもプレスも録音の大部分もパブリシティも、ほとんどなにもかもがそのギタリストひとりでこなしていたにもかかわらず、そのことについて彼自身あまり話したがらなかった。というよりも、自分ひとりが注目を浴びることを極度に避けていた。なぜなら、あくまでもバンドとして成功することが彼のゴールであり、ひとりではライブもツアーもできないことがわかっていたからだった。彼はライブをとても愛しており、ライブをやらないことなど考えられなかったのだろう。しかし、その努力もとうとう限界に来て、彼はバンドを抜けてソロになる道を選び、重要なメンバーを失ったバンドは解散を余儀なくされた。約10年間続き、その間に全米ナンバー1を何曲も飛ばしたバンドにしては、あまりにも簡単な幕切れだった。

わたしは、何度かバンドのツアーを密着取材する中で、ギタリストの彼がすべてをこなしていることに気づいた。彼はいつも音楽とともにあったが、他のメンバーは不真面目だった。レコーディング・スタジオでは、ギターだけでなくバックヴォーカルもベースも、キーボードも、時にはドラムまでもギタリストの彼がプレイし、他のメンバーが帰ったあともひとり残ってもくもくと録音を続けていた。これは、なんなんだろう? まるでソロ・プロジェクトではないか。こんな状態でバンドといえるのだろうか。当初、わたしは表向きのバンド像とのあまりのギャップに驚き、彼にそのことについて聞いたことがあったけれども、彼は始終、インタビューには神経質で、質問しても答えたがらなかった。釈然としない思いを感じながらも、結局わたしは、そのことについては突っ込んで聞くことはできず、記事に書くこともしなかった。他のメディアと同じく、バンドとしての彼らを取り上げ、フィーチュアした。

さて、バンドが解散してほどなくして、ギタリストの彼はソロ・アーティストとして再出発することになり、アルバムを携えて日本にプロモーションにやってきた。ビッグ・アーティスト扱いで、レコード会社から厳重に、前のバンドについては絶対に質問しないようにと事前に強いプレッシャーがかかる。とにかく、新しいアルバムの話、新しい出発の話に重点を置いて記事を書いてくれといわれてしまった。わたしは、どうしたものか迷ったが、とりあえず、新しいアルバムの話を聞いて、様子を見ながら話を切り替え、聞きたかったことを聞いてみようと思っていた。

取材が始まって、1、2問、新しい質問をするが、相変わらず彼は口が重く、口数も少ない。わたしは焦りを感じた。すると突然、彼は怒りだした。

「君の質問は何だよ! 君はずっと以前から僕たちのことを取材してきて、いろいろなことを見て来たのに、聞くことといったら、レコード会社の資料に書いてありそうなことばかりじゃないか。ハンバーガー屋のメニューみたいなことばかり聞かないで、もっとマシなことを聞けよ!」

この一言にわたしはグサリと胸を刺された思いがした。彼は真剣だった。

そうだ、わたしは、これまでの彼の努力や忍耐を見て来たのに、いったい何を聞いているんだろう、彼の視点からものを見ることもせず、本音で接することもなかったばかりか、表面ばかりをなぞって真実を追求しようともしない自分は、完全にジャーナリスト失格だ。わたしは、この仕事を辞めよう、そう思った。しばらく沈黙が漂った。わたしは目に涙がにじんで来た。

わたしは、深々と彼にお詫びをし、実は、本当はたくさん質問したいことがあったが、聞けずにいたこと、これまでの彼がしてきたことを見てきて、実は大変共感していたが、どうやってあなたに口を開いてもらえるのか測りかねていたことをとても恥ずかしく思っていると告げた。わたしはこの時ほど自分の態度を情けなく思ったことはなかった。

すると、彼はこう言った。

「食事に行こうか」

ふと見ると、彼はいままでに見たことのない、緊張感の抜けた優しい顔をしていた。

食事が終わってからまた取材をやり直そうということになり、六本木のしゃぶしゃぶに皆で出かけることになった。その移動の車の中、そして食事中も、彼は、これまでにどんな気持ちでバンドをやっていたのか、デビュー当初からあったバンドのメンバーとの軋轢のことや、だんだんと孤立していく孤独感、すべてを自分ひとりでやりながら、決してそう言えなかったこと、そして、「ねぇ、知ってる? これも、あれも全部僕がやったんだよ」と、どんなに言いたかったかなど、せきを切ったように一気に話し続けた。食事が終わって、取材部屋に戻ってからも彼は話し続け、結局インタビュ−が終わったのは、夜中の2時だった。わたしは彼に、心からの感謝を述べて、いま語ってくれたことを一字一句、残らず真実として伝えることを約束し、取材場所をあとにした。

そして、この記事は、彼が本当の自分と、真実ありのままのを語った初めての記事となり、わたしにとってはこれが10年間の雑誌記者としての最後の仕事となった。わたしは、この出来事を、いまでも忘れる事ができない。そしてたぶん、一生忘れないだろう。

正直でありのままであることは、時に恐ろしく、自分の足下が揺らいでしまうように感じることがある。けれども、不正直であることはそれ以上に人を深く傷つけ、時に、取り返しのつかないほどの溝を創ってしまうことがある。自分が傷つくことを恐れて人を傷つけるよりも、心を開き、苦しくても正直であり続けることのほうが、どれほど尊いかを、わたしはひとりのギタリストから学んだ。

ハートを開きつづけることは初めは苦しい。けれども一度ハートを開き、自分の内側から流れ出る波動を人に伝えることができたら、それは素晴らしいクリエーションのパワーを生み出す。そして、いつしか自分が最も楽で自然な生き方をしていることに気づくだろう。たとえ人から白い目で見られても、嫌われることなんか、恐れてちゃいけない。Honesty is only my excuse! 正直ってことが、わたしの唯一の言い訳、そう言えばいいのだ。


2005年04月14日(木) 日本人のDNA

今年に入って、古武道・忍術の道場に通っている。
日本古来の、口伝による秘術で1000年近くもの間、免許皆伝という形でしか伝わることのなかった武術が、1990年に現在の宗家が一般の人にも習えるようにと体系立てて教え始めたもので、道場には世界中から弟子が集まってきている。むしろ、外国人のほうに有名で、日本古来の忍術道場が存在することは、近所の人をのぞいては、日本人にはほとんど知られていない。

天井の高い畳敷きの道場には、壁一面に刀や長刀、その他の忍者の武器がびっしり置かれて(飾っているわけではない)、高い窓から際込む朝日は北側の祭壇の中央にまっすぐに入ってくる。先生が祭壇の前に座ると、生徒はみな並んで先生に向き合って座り、神に礼拝をしてから祈りの言葉をとなえ、深々とお辞儀をして柏手を打ち、それから稽古が始まる。

わたしは、この空気が大好きだ。塵ひとつない道場の、静寂のなかで、全身からめいっぱい気を広げて動く瞬間、わたしは自分の内に地水風火空のすべてを掌握し、コントロールしている感じがする。雨だろうが雪の中だろうが、困難な状況だろうが、不可能だと思えるような事態に見舞われようが、わたしは自分の気を動かし、そのポジティヴな気のなかに入って行き、必ずベストな状態で生きていけるという気がする。不動、というものを本当に身体で感じることができる。

去年くらいから、わたしは自分のなかにある日本人の血、日本人としてのDNAを強く意識している。「自分は何者なのか」という問いを繰り返し問うとき、わたしの中に流れている血のなかに日本人の血が流れていることをどうしても無視することができなくなってきた。瞑想するたびに、そのことについて繰り返し感じて、結論として、魂やスピリットは国籍や性別などいっさい関係ない普遍的な存在として有るけれど、その魂やスピリットが活動するのはこの肉体を通してでしかなく、魂やスピリットがそのエッセンスに日本人の血を選んでいるのだと思うようになった。

わたしは日本という国をとても愛している。美しく、繊細で、柔らかいハーモニーのような波動がある。物事を個人的な捉え方をせず、調和的な、言い換えれば集合意識的な捉え方をするのが、他の国と比べてとくに秀でた特徴だと感じる。もちろん、他のどの国とも同じように嘘や偽り、ひどい暴力も差別もあり、決して全部が素晴らしい国だとは言えないけれど、日本という国、日本人というスピリチュアリティに秘められた可能性は、かなりシャンバラに近いものがあると思う。

映画『ラストサムライ』は、史実とは違うけれど、わたしはいつ見ても涙が出てしまうシーンがある(ネタバレ注意)。

それは、最後のシーンでオルグレン大尉が天皇に勝元の刀を手渡す場面。天皇は、勝元の刀を手に取り、しみじみ見つめた後、まっすぐ前を向いてこう言う。

「鉄道も大砲も西洋の衣服も手に入れたが、我々は、自分達が何者であるかを忘れることはできない。我々が、どこから来たのかということも」

そして、アメリカとの武器交易の条約をすんでのところで破棄する。わたしは、この天皇の姿に、「人間の完璧性」を見る。

実際は、歴史ではそうなならず、日本は益々西洋化が進み、長い泥沼戦争の歴史へと突入していく。歴史が、この映画のとおりであればどんなに良かったか、と思う。

「我々は何者なのか?」「我々はどこから来たのか?」そして「どこへ行くのか?」

この問いの答は、自分の中にしか見いだすことが出来ない。アダムとイブが楽園を追われて以降、わたしたちは、すべての問いを自分の内側にしか見いだすことができない宿命を背負っている。わたしは少しずつだけれど、この問いに答えを見いだしつつある。けれども、まだ完全ではない。もっとはっきり、もっと完全なるものを手につかむまで、内なる問いかけは続いて行く。


miyuki