のんびりKennyの「きまぐれコラム」
DiaryINDEXpastwill


2005年08月31日(水)  「会社はだれのものかだ〜?」


会社はだれのものか?

日本から送られてくる経済誌がたまってしまったので
ざっと斜め読みをしていたら、中の一冊にそんな特集があった。
今までにも散々繰り返し論じられてきた古臭いテーマだ。

あいも変わらず日本ではまだこんなことをテーマにして
特集記事が組めるのだな〜という感慨と、
そこに寄稿しているいわゆる「進歩的文化人」の方々や
有名大学で経営学を教えている偉い先生方が、
例によってどこかで聞いたような耳ざわりの良い論を
となえておられるのがちょっと心配になった。

いわく、会社は社会的存在であり、会社とは社会のものだ。
いわく、会社はそれを構成する社員全員のものだ。
いわく、会社はその所在地域のコミュニティーのものだ。
いわく、会社は社員とその家族および取引先をも含む関係者全員のものだ。

おいおいちょっと待ってくれよ。

いったい何時から日本はコミュニズム国家になったのだろう?
いや、百歩譲って社会主義国家になってしまったのだろうか?

読むうちにだんだん腹が立ってきた。

会社はだれのものかだ〜?

こたえは明確だ。 

会社は株主のものだ。

これを言うと、すぐに実際には会社所有も会社経営も経験したことの無い
机上の空論専門の進歩人文化人からきまって反論される言葉がある。
「もうそんな時代では無い」という言葉だ。

そんな時代でなければ、どんな時代なのだ?

読んだ人間、聞いた人間が なんとなく傷つかずに済む、
みんな仲良しで、結果平等のなあなあグループが
皆でわたれば怖くない的に納得する論理が正論とされる時代か?

むしずが走るほど私はそのての論理が嫌いである。

自由競争経済における資本主義を前提として設立される法的人格
である株式会社の所有権はその株式を所有する割合によって明確に定義される。

単純明快。 会社は株主のものである。

資本と経営が明確に分離されにくい日本の非上場中小企業においても
論理的にはその整合性は変わらない。
会社はひと株でも多くの株式を合法的に所有するものがその割合に応じて所有しているのだ。

そこで働く社員のものだとか、地域コミュニティーのものだとか、
極めて抽象的に社会のものだとする論をまことしやかに吐く論者のほとんどは、
法人設立の資本金集めに奔走したり、
株主総会前の徹夜連続の苦悩を経験したり、
プロキシーファイトで冷や汗をかいたり、
所有会社の株価の値動きに眠れぬ夜を過ごしたことの無い
頭でっかちの評論家か、真実を冷静に見ることをしない愚集に迎合する
だけの無能なタレント学者である。


アホな論陣をまことしやかに張っているエセジャーナリストが
司会者では討論会形式の記事の結論は知れている。
参加者は全員中華人民共和国か北朝鮮で希望どおり一生幸せに働いてくればよい!

日本は幼稚ではあっても、一応自由競争資本主義経済国家の末席にいるはずだろう。

御願いだからあまりバカなことを言って、本当に会社が誰のものかまだ知らない純粋な若者や、限りない可能性を持つ将来のオーナー経営者の才能の芽をつぶさないで欲しい。

久しぶりに腹が立った。


Kenny |MAILHomePage