一度だけの人生に
ひろ



 

お酒を飲むと
次の日に必ず高熱を出す。
39度近く出る。そしてすぐにおさまる。

朝、起きたら猛烈に吐き気を催して、吐く。

体調がおかしい。

タバコと酒をやめようと思う。

一日だけ禁煙して、やめた。
「どうなるの?」
誰かが言ったような気がして、
馬鹿馬鹿しくなった。

2004年04月28日(水)



 1+1=

後輩が「これ、後輩の何々です」と言って、
新しくこのコースに入ってきた学生を紹介した。
ジーっと僕の目を見て話をし、
ジーっと僕の目を見ながら、話を聞く子だった。
よく分からない子だった。
何を話しているのかも、
何を話して良いのかも良く、分からなかった。
二年生はまだ、19歳らしい。

自分の「歳」って言うのを少し感じた。



寝る前に思う。
「終わらないかなぁ」

やっぱり、終わらない。

なんだろうなぁ、この息苦しさは。
歩いているのに進んでいない感じ。
「どうせ、どうにもならないんだ」という予感。不安。

「まだまだ、幸せな方だよ」
そんな言葉を思い出すと、泣きたくなってくる。


押すことも引くことも出来ない、
白々しく興醒めな現実。
虚栄も卑屈も、嘆くことも喜ぶことも
少しも許されず、そしてそんなことは
なんの意味も持ち得ない現実

2004年04月26日(月)



 愛しきれない現実

諦めよ、わが心、獣の眠りを眠れかし。(C・B)

チェホフだったか・・・。

「八十八夜」のエピグラムに
太宰が引用したこの言葉。
主題は、だいたい同じような
ものだろうと思うのだけど、
僕は、この言葉は「春の盗賊」に相応しいような
気がしてならない。

僕は、未だに「春の盗賊」の中の太宰に
激しく同情し、溜息をもらしてしまう人間だ。

変わりたくない。
けれども、変わらねばならない。
変わらなければ、とてもいられない。

諦めよ、わが心、獣の眠りを眠れかし。

諦めよ

わが心





「私は、いやになった。それならば、現実というものは、いやだ! 愛し、切れないものがある。あの悪徳の、どろぼうにしても、この世のものは、なんと、白々しく、興覚めのものか。ぬっとはいって来て、お金さらって、ぬっとかえった。それだけのものでは、ないか。この世に、ロマンチックは、無い。私ひとりが、変質者だ。そうして、私も、いまは営々と、小市民生活を修養し、けちな世渡りをはじめている。いやだ。私ひとりでもよい。もういちど、あの野望と献身の、ロマンスの地獄に飛び込んで、くたばりたい! できないことか。いけないことか。」

『春の盗賊』


2004年04月25日(日)



 

自分の感覚に照らして、無理が
あるようなことは(つまり寒気の走るようなことは)
もう、およしなさい。

というようなことを
太宰が言っていたような気がする。

僕は、昔は良く詩を読んだものだった。
今はほとんど読まない。読んだとしても
中也とか賢治とかをちらほら読むくらいで、
それも気が向いたときや、手持ち無沙汰の時が
ほとんどだ。
決して詩が嫌いになったというわけでもないのだが、
新たに誰かの詩集を読もうという気にはならない。

感受性が悪くなったのか、
あるいは逆に研ぎ澄まされたと見るべきなのか、
僕は昔より詩に対して「感覚的無理」を感じることが
多くなったと思う。

2004年04月20日(火)



 言うは易し

傷つくのが嫌なら、
何もしないで死になさい

2004年04月19日(月)



 卒業生

卒業してからも、
教授の好意に甘えてゼミ室を
勉強部屋に使わせてもらっています。

とはいえ、五人いるうちの
一人の教授の許可をもらっていても
他の先生方の許可はもらっていないわけで・・・。
会うたびに「なんでいるの?」とか
「まだいたの?」とか言われて
厳しいものがありました。
もちろん、「来るなよ」とは言いませんし、
むしろ「構わないですよ」と言ってくれるのですが、
それでも、僕はいるのが【不自然】であり、
その権利がないわけですから、
バツの悪いのには変わりありません。

それは後輩たちに対しても同様で、
無権利者の僕がゼミ室に居座っているのは
悪いことのような気がしてきて、
なんだか必要以上に萎縮してしまいます。

それらの人たちよりも、もっと気になるのが
僕が「ふった」後輩の女の子たちで・・・。
自分をふった相手が、
卒業したというのに、まだ学校に来続けるというのは
決して気分の良いものではないでしょう・・・。
「なんでくるんだよ」という気持ちになるのも
理解できることです。
この間、後輩本人からではありませんが、
その後輩と四六時中
一緒にいるといっても過言ではないような、
彼女と仲の良い、これまた後輩から、
イヤミのようなことを言われました。

友人に相談したら、
「気まずいのは分かるけど、
そんなこと気にしてる場合でもないでしょ?
勉強しなきゃ。それにそんなこと気にしてたら、
おちおちふる事も出来やしないだろう?」っと。
それも確かに・・・。

しかし、勉強場所を確保できたとはいえ、
なんだかその分、気苦労が多くなりました。

2004年04月18日(日)



 お約束

プレッシャーによる、
お約束のヤケクソハイテンション発症中。

2004年04月14日(水)



 愛さえあれば??

テレビの見すぎ。
と言う感じがする。

「結局は愛で全てが満たされる。
そんな気がしない?
愛がどんなものなのか、
少しは掴んだと思うから、
そう信じたいと思う。思わんの?」

思わない。
愛ってなんだろう。
幸せって何だろう。
よく分からないから信じない。
よく分からないから、信じたいとも思わない。

上の言葉のようなことを言う女の子は多い。
「愛」「幸せ」そんな言葉が溢れていて、
そして彼女らはその言葉に完璧に捕らわれている。

「愛がなければ幸せになれない。」
「愛が全てを解決してくれる。」
そう信じて、「愛がほしい」「幸せになりたい」
と嘆いている。

彼女らに「愛があれば、愛さえあれば、幸せになれる」と
教えたのは一体、どこの誰なのだろうか。

愛も、幸せも、よく分からないのに、
「愛さえあれば幸せ」の信念は
彼女らのなかでとても強固なものとなっている。

僕は、本当に「愛がどんなものか少し掴んだ」のなら、
かえって、「愛さえあれば」などとは言えないと思う。

それは時に、何より閉口なものだと思う。
それは時に、何より苦しいものだと思う。
それは時に、何より辛いものだと思う。

僕は彼女たちに、「愛」とか「幸せ」とか
言う言葉を軽々しく使ってほしくない。
それは決して、ただ単に「甘い」ものではなく、
愛があれば「幸せ」などという単純なことでもないと思う。
そう思う理由は今までにも少し、書いてきたと思う。

結局は、僕も、分かっちゃいない。
けれども、これだけは、今の僕でも言えると思う。

「愛さえあれば」と言う言葉は
呆れるくらい能天気で、幼いものであり、
その言葉を連発して、「愛がほしい」と嘆く人は、
妄想と自己陶酔に浸っているだけである。

2004年04月10日(土)



 結局は自分やろ?

二つ続けて、
最近の若い人たち(特に女の子)への疑問&反論。

タイトルの言葉を
僕は本当に、良く耳にする。

「結局はみんな、他人よりも自分が可愛いだろ?」

そう言って、何もかも
自分のやっていることを正当化しようとする人は多い。

「結局は、自分が可愛い。」
僕も自分が可愛い。
もし、本当に自分が少しも可愛くなかったら、
何も悩むことはない。人生は、人間関係は簡単だ。
けれども、「結局は自分」とは、僕は言い切れない。

彼女らは、
「人間は、結局は自分が可愛いものだ」と言って、
自分の身勝手な行動を正当化するが、
それでいて、決して、
「自分を想う人」が「結局は自分が可愛い人」だとは
思っていない。
相手が自分を後回しにして、身勝手な
行動をすることを彼女たちは許さないし、
相手にとって、自分は大切な人間であると思っている。
矛盾。自家撞着。
彼女らの言葉に従えば、
他人からしてみれば、彼女らは結局は
「自分」以下。どうあがいても、
他人の中で二の次、三の次であるはず。

此処に至って、「結局は自分」という言葉は
彼女らに、ていの良い言い訳としてだけ
使われていることは明らになる。

けれども、「結局は自分」
この言葉を破るのは簡単じゃない。
と言うのも、「情けは人の為ならず」と言うように
どんなことでも、見ようによっては全て
「自分のため」に見得るからである。

思うに、きっと、
何もかも「結局は自分」で思い切れたら、
それは「自分が少しも可愛くない」と思い切れるのと
同様に、人生はもっと楽になるのじゃないかと思う。
分からないけれど、彼女らが
「結局は自分」と思い切れていないように、
人間はそう言う風には思い切れないからこそ、
悩み苦しむのじゃないだろうか。

「誠実とはつまり、自己嫌悪のことである」
これは正確には太宰の言葉ではない。
太宰の言葉をヒントに僕が、思いついて、
酔っ払って方々へメールしまくった言葉だ。

最初は単なる思い付きに過ぎないと、
自分でも思っていたが、最近僕はこの自分の言葉を
案外に単なる思いつきとは言い切れないと思う。

2004年04月05日(月)



 自分を持つ

「自分を持つ」
「自分を持っている人」

いつの間にか、
こんな不思議な言葉が
僕らの周りに氾濫している。

僕はこの言葉が好きじゃない。
いや、この言葉を使う人が好きではない

この言葉はどういう意味なのだろう。

推測するに
「自分一流の信念がある人」
「自分一流のこだわりを持つ人」
「流されない人」
こんなところだろうと思う。

信念、こだわりならどんな人だって、
少なからず、必ず持っている。

では、なぜ彼らは魅力的に映るのかといえば、
それは彼らの「自分」に魅力があるからである。
つまり彼らの「信念」が魅力的だからである。

「自分を持っていること」が魅力的なのではない。

そして、もう一つ。
彼らの信念が、得てして「常識」や「道徳」と
言われる考え方に矛盾しているのは、
それは単に偶然に過ぎない。
彼らは決して「世間の考え方に抗うため」に
その考え方に至ったわけではないのである。
良い意味で「常識など眼中にない」のである。

なぜ、こんなことを言うのかというと、
僕の周りに、やたらと「自分を持つ」と言うことを
目指し、それがこれ以上無い、格好の良いことだと
思っている人がいるからである。

その人は、
「常識」や「道徳」と
いわれる考え方をやたらに否定し、
世間的に「ダメ」「すべきではない」
(具体的には不倫、援交(売春)、二股、暴力)
と言われることを行って平然を装い、
そしてそれが自分で、
格好の良いことだと思っているのである。

恐るべきお馬鹿さんたちである。

ある女の子は言う
「私、援交でも売春でも、
本人が信念に基づいてやっていることなら良いと思う。」
それは良いかもしれない。
しかし、その信念が、
「体を売っても、物が欲しい」では
決して魅力的な人間とは言えないと思うのだ。

今一度言うが、
「自分を持っていること」
「信念に基づいて行動すること」
は決して魅力的な事ではない。
ある意味、それは当たり前のことですらある。
魅力的か否か、かっこいいか否かは、
その「自分」「信念」次第である。
そしてまた、「常識」や「道徳」に
抗っていることは、それは何も格好の良いことでは無い。
もしそうだとするならば、
殺人こそが最も格好の良いことと言うことになる。

次の言葉はある後輩から届いたメールです。

「私は、あばずれみたいになりたい。
体とか全部汚れても、心の中に曲げれんものがあって、
それがあるから、汚いけど綺麗に見えるような、
生きて行けているみたいな。」

まさに呆れるばかり・・・。

僕はこのメールにも、
また、「自分を持つ」と言う言葉を
何かしらすごく価値のあることのように捉えて、
使う人にも、軽蔑感を禁じ得ません。
凄く馬鹿な人に見えてしまいます。

太宰風に言うならば
「世にもけがらわしく無内容なくせに、
それでいて、いかにも何やら意味ありそうに
乙に澄ましている」人や言葉
っという感じがします。


2004年04月04日(日)



 女尊男卑→男卑女卑

この頃・・・と言っても
この日記を読んでも
読み取れるかもしれないけれど、結構前から、
僕は少しずつ女卑傾向が強くなって来た。
結果、男尊女卑と言うよりも男卑女卑・・・。

つまり人卑?

なぜ、そのように傾きつつあるのかと言うのは
この日記にも何度も書いたように、
僕の周りには、尊敬できるような、
尊敬まではいかなくとも、感心できるような、
感心までいかなくても、好感の持てるような、
そんな女性がほとんどいないからです。

特に後輩。年齢が若くなればなるほど、
無智、無内容、お馬鹿さん。
それはもちろん、学問的な知識とか、
そんな馬鹿な、そんな意味ではなくて。

彼女らが連発する言葉。
「みたいな」「のような感じ」「〜っぽい」
期せずして、それが彼女らの頭脳の中の
実態を表しているのです。

イメージでしかない。何もかも。
自分の恋愛観も、人生観も、倫理観(つまり価値観)すらも
全部、「〜みたいな」のイメージでしかなくて、
ちっとも考えがない。考えたことがない。
考えようとしない。いや、あるいは、考えられない。
だから訊いても、イメージでしか受け答えが出来ない。
「良くない?」
どこが、どうして、なぜ良いのか彼女たちは答えられない。
「なんとなく」「全体的に」良いのである。
そして、それは彼女たちの中で、なぜか
確信的な真実であり、何の具体的根拠も言えないのに
頑固にそれを主張する。

どうして、悩まないのだろうか。
どうして、苦しくないのだろうか。

と言うようなことを友人に話したら、
「そんな子達ばかりでもないだろう。
きっと、世の中には頭の良い女の子だっているさ。
お前の場合、後輩があんなのばっかりだから、
分からなくもないけれど、世の中の女全部が
そうだと思うのは早計だろう。
あの子達に、毒されすぎじゃないか?」

確かに、僕の後輩が特殊なのかもしれないが・・・。

2004年04月03日(土)
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