Sports Enthusiast_1

2003年09月30日(火) 寓話

馬を町に売りに行った親子の話。親子が町まで馬を引いていると、それを見た人が、「馬に乗らないで二人とも歩いているなんて、なんとまぁ、愚かな親子だこと」といった。それを聞いた親子は、「それもそうだ、お前、馬に乗りなさい」と子を乗せた。しばらくして、それを見た人が、「親を歩かせて子供が馬に乗るなんて、なんて薄情な子供だろう」といった。それを聞いた親子は、こんどは子供を下ろして、親が馬に乗った。しばらくすると、ある人が、「親が馬に乗って、小さな子供を歩かせるなんて、なんてひどい親だろう」といった。それを聞いた親子はどうしたらいいのかわからなくなって、親子で馬を担いで町までいった。それを見た町の人はみな、大声でこの親子を笑った・・・
こんな話があったと思う。教訓を引き出すまでもない。他人の声に耳を傾けるのもいいが、自分のポリシーがないということが、最も愚かな結果を招く。このことは、どこの世界にも共通している。
「代表はその時点で最高の選手」「固定メンバーの熟成」「新戦力のテスト」・・・代表戦(国際親善マッチ)を終えるごとに、代表選考の基準が変わっていく。もちろん時の経過とともに、試合の位置付けは変わる。だから、方針が変わることはおおいにあり得る。けれども、最終目標から逆算して規定された「現在」があるのであって、それを普通、スケジュールとか計画という。一般に、最終目標に近づくに従って、理想形に近づくものだ。画家が絵を描くときも、デッサンがあり下塗りがあり、仕上げがある。その逆はあり得ない。ジーコ画伯は仕上げをした後に、血迷って、デッサンを描こうとする。絵は永遠に完成しないし、見るに耐えない。
日本代表の欧州遠征の参加メンバーが発表された。それについては前述したので繰り返さない。しかし、「なんで○○なの?、なんで××なの」という代表選手が少なくとも3人にとどまらない。
先日の名古屋vs東京Vを見た人は、名古屋の右サイドのKが東京Vの左サイドのMより上回った動き(スピード、突破力)をみせたことを記憶している。Mに守備の意識はないに等しいし、突破力、スピードに往年の力はない。クロスボールの精度も低い。もちろん、Mはいい選手であり、東京V躍進の中心選手の一人ではあるが、これからW杯予選、本戦で上向きの力を発揮することを期待する人材ではない。スポーツ選手にも、旬というものがあるのだ。それだけではない。代表に選ぶ基準が、現代サッカーのあり方と相反しているように思える。いまの日本代表が世界で通用するためには、運動量・スピード・守備力が不可欠であることは前に書いた。テクニックではないのだ。余談だが、とことこと右サイドを上がっていく浦和のYなど、私の代表基準から最も遠い。
ところで、W杯予選開始までに行われる海外遠征は、今回の欧州遠征が最後だという。ということは、カップ戦を終えたメンバーが合流する、遠征2戦目のルーマニア戦が重要試合という位置付けになるのだろうか。ルーマニア戦の結果次第で、ジーコ監督の去就も決まるということになるのだろうか。
私はルーマニア戦に勝っても、いまの代表監督は更迭すべきだと思うが、それにしても、ルーマニア戦が楽しみである。



2003年09月29日(月) 監督交代

読売の不透明な監督交代に、ファンのみならず、多くの人々が辟易している。読売球団、いわゆる「巨人」というのは奇妙な存在だ。長い間スポーツの枠を越え、信仰(巨人教)の対象に近かった。いまの40歳代以上は、「巨人」の勝利は絶対的であり、「巨人」が勝たなければメシもまずいというほどだ。かつてこの球団はV9(9年連続日本一)という「偉業」を成し遂げた。これは偉業というよりも、異様だ。健全なスポーツという前提に立つならば、1つのチームが9年も勝ち続けることはあり得ない。それを可能にした要因を考えれば、八百長、勝ち続けられる制度の存在、有望選手の一方的なリクルートなどが挙げられるが、いずれも不健全なものだ。
一人の選手が勝ち続ける「スポーツ」に、プロレスがある。プロレスは八百長ではなくショーであるから、演じられるものであり、その地域の「ハンサム」と呼ばれる中心選手が、「ヒール」と呼ばれる悪役に勝ち続ける。最近、バーリーチュ―ド、総合格闘技などと呼ばれる真剣勝負の格闘技が人気があるが、こちらの世界ではチャンピオンはめまぐるしく変わる。
読売のV9を可能にしたものは何かといえば、やはり、選手のリクルートが第一だろう。ドラフト制度などなかったから、資金が潤沢で知名度のある読売球団に有望新人選手が遍在した。さらに、ベテラン選手が自由契約で読売に集中する。資金難の球団が実力ある選手を読売に売り、球団の運営資金に当てたりもしたのだ(当時はFA制度はなかった)。
有望新人、実力あるベテランが読売に集まれば、戦力に勝る読売が勝ち続けることは自明のことだ。さらに、読売には当時、ONという天才選手がいた。Nは天才だったが、Oは並みのプロの才能を努力で補った人だった。Oを育てたのは読売の自前の努力なので、その点は評価しなければいけない。V9はこの二人の存在抜きには実現しなかった。
さて、今回の監督交代に話を戻そう。前監督に代わった新監督は「V9戦士」と呼ばれ、V9時代に活躍した投手の一人だ。前監督より10年前の世代に属す。「V9戦士」を監督に就任させた意図は、読売が「V9」の再現を望んでいるからだ。夢よ、もう一度、といったところだろう。
しかし、この読売の「夢」ほど、スポーツと遠いものはない。いまの若い世代(に限らず、すべての世代かもしれないが)は日本のプロ野球のレベルより高いベースボールを知っている。今シーズン、大リーグに移籍した読売の有力打者の成績は、100数打点、2割8分台、ホームラン15、6本。チームに貢献したことは認めるが、日本での成績より下がった。もちろん来季、成績が上がる可能性もあるが、大幅な飛躍はないと考えたほうが自然だろう。メージャー入りした投手の成績も同様だ。
そういう時代の変化に目をふさぎ、いまさら「V9」の夢を追ってなんになる。海の向こうのレベルに近づくには、完全ドラフト制度を復活させ、各球団がしのぎを削る状況を作り出し、実力を高めるしかない。監督は、監督専門職として確立すべきであって、読売の功労者の中から選出するのはやめたほうがよい。選手、スタッフ、監督・・・の流動化を促進し、南中北米、アジア、豪などから選手が日本にやってくる状況を作り出すしかない。
このような土壌が形成された暁には、「V9」など夢想するだに、愚かだろう。読売のファンは東京周辺にしか存在しないのが自然だろう。大阪や名古屋や広島に行けば、読売の選手はブーイングの対象であることのほうが自然なのだ。一日も早く「プロレス野球」に終止符を打ち、スポーツとして健全なプロ野球を取り戻さなければいけない。それにみごとに逆行する読売球団とは、いかにも無理筋だが、それが好きな人もまだ少なくないのが現実なのだろうか。



2003年09月28日(日) 見応えあり、だが

土日のJリーグは熱戦が多かったようだ。土曜日の清水vs市原、日曜日の東京Vvs名古屋を見た。
サッカーとは不思議なものだ。どんなに美しいサッカーをしても勝てないときは勝てない。市原は前節の浦和戦、みごとなプレッシングサッカーを見せながら、守りのミスからドローに終わった。今節の清水戦は、それなりに押し込んでリードしたものの、後半、清水の猛攻に受けにまわりながら、清水のシュートが数度もバーに当たるという幸運に恵まれ2−1で勝った。
市原では、チェがいかに重要な選手かがわかる。チェが攻撃の柱というよりチームの柱。チームの精神的な柱になっているようだ。彼がいれば勝ちきることができる。
東京Vは名古屋に4点もとられながら、後半、名古屋に退場者が出たこともあり、4−4のドロー。どちらも勝てたゲームといえばそれまでだが、両チームの監督が頭脳戦を展開。前半はネルシーニョが、後半はアルディレスが勝利した。
それにしても、市原(オシム)、名古屋(ネルシーニョ)、東京V(アルディレス)はレベルの高いサッカーを志向している。この3チームのゲームのほうが日本代表のゲームよりもおもしろい。代表監督の「控え」が充実してきたので、フラフラ日本代表の将来も安心だ。現代表監督が辞めても、この3人から選べばいい。
ドローが多いJリーグだが、これは当然のこと。いかに90分で勝ちきることが難しいかが、日本のサポーター諸氏にもわかったのではないか。もう少し早くVゴール制度を廃止していれば、サッカーレベルは上がったのに・・・サッカーは難しいのだ。Vゴール勝ちで熱狂していたサポーター諸氏も、サッカーの深さを知って、あの「熱狂」を恥かしく思うことだろう。
ただ、制度云々は別として、面白いゲームを展開する市原が勝ちきれないことは大きな課題だ。これまでオシム監督を誉めてきたが、すんなり勝ちきれないところは、オシム監督の課題といえる。
W杯で日本代表が負けたトルコ戦、最近ではセネガル戦、古くは、フランス大会の予選2試合(クロアチア、アルゼンチン)。この4試合は、日本が0−1で負けている。得点差は言うまでもなく1点。でも内容は完敗なのだ。トルコ、セネガル、クロアチア、アルゼンチンは得点を取った後、けしてバタバタすることがない。冷静に日本の反撃を押さえ込む。このあたり、日本に守りのノウハウがない。日本人選手のメンタルな面も問題がある。勝ちきる訓練をJリーグでしてほしい。リードを守るノウハウを確立しないと、日本サッカーは世界で通用しない。オシムの攻撃サッカーは魅力的だが、しっかり守ることも教えて欲しい。



2003年09月25日(木) チャンスを逸した

先日、アウエーで日本代表に完勝したセネガル代表のステファン監督は試合後、この時期、代表メンバーが長期間外国(日本)で合宿できたことはなによりの収穫であった、と語った。不慣れな外国で長期間、寝起きをともにしながら練習し、試合当日まで調整することは、代表チームにとって、かけがえのない貴重な経験である。アウエーでの厳しい体験を通じて、各選手は相互に理解を深め、人間関係を築いていく。選手間のコンビネーションは、練習、試合だけで育まれるわけではない。
さて、日本代表は10月、欧州遠征をするという。その代表メンバーの一部を知って、わが目を疑った。これまで、日本でプレーしていたときにはまったく無視されていた藤田が入り、さらに、広山らの海外組が召集されていたのだ。二人が選ばれたのは悪いことではないが、第一戦には、これまで主力とされてきたDF4人が一人も参加しないらしい(宮本はケガ)。最も相互理解を必要とするDF陣が・・・
ジーコ代表監督は、「固定メンバー」による試合経験の必要性を力説し、そのことが代表強化の要諦であるかのような発言を繰り返してきた。であるならば、貴重なアウエー戦こそ、「固定メンバー」とやらが、コンビネーションを醸成する絶好の機会ではないのか。「固定メンバー」が代表招集されなかった理由は、国内大会のためだという。そんなに大事な時期に、なにも代表戦など海外でやる必要はない。わたしはジーコ監督が、「固定メンバー」にこだわったとき、それは間違いであることを指摘した。いまごろの時期、「固定メンバー」にこだわったところで、代表強化につながるわけがないことは明白。
サッカーではリーグ、代表を問わず、「固定メンバー」でいつも戦えるわけではない。だから、今回の海外遠征で新しいメンバーをテストすることに異論はない。しかし、ここまで代表をガラガラポンで選ぶとなると、ド素人、その場その場の状況主義、ご都合主義。強化ビジョンなど、まるでないことの証明だ。これでは、海外遠征は、日本代表強化ではなく弱化につながりかねない。「ジーコジャパン」に対する不安はいよいよ、増すばかりだ。
いまの日本代表に欠けているのは、主力海外組と新戦力のギャップだろう。それは精神的なもの、技術的なもの、経験、相互理解など、サッカーに必要な要素のすべてだ。それらを埋める絶好の機会が海外遠征=アウエー戦だ。
06年W杯アジア予選の開始時期はいまだ不透明だが、代表が海外遠征する機会はどれだけ残されているのだろうか。ガラガラポンで選ばれた代表選手が親善試合をこなしても、成果に結びつくものは少ない。代表の海外遠征は、海外でレギュラーをとれない選手の慰労会か。



2003年09月23日(火) オシムを日本代表監督に

浦和vs市原。前半の市原のサッカーは素晴らしかった。美しいとも言える。それぞれの選手が一つの意志となり、相手にプレスを与える。自陣ゴールまで戻って守ったかと思えば、反転して猛スピードで相手ゴールに向かう。市原の動きは、まるで有機体の細胞分裂のようだ。ワンタッチでの早いボール回し、オープンスペースへの走り込み、GKとDFラインの間への早いクロス、相手の裏を狙うスルーパス、ロングボール、自陣からのカウンター攻撃もあれば、中盤で相手のゴールを奪い、ゴールに向かうこともある。市原の攻撃の基盤は、そして市原の最大の魅力は、中盤でのポゼッションに競り勝つ強いプレスだ。勝負は時の運、勝つことも負けることもあるけれど、市原が目指すサッカースタイルが、現代サッカーの主流だろう。
実況アナ氏の解説によると、市原では、先発メンバーは前日までわからないという。練習においても、コンビネーションの相手はいつも、変わるという。選手はいかなる状況においても、自分の最大の力が発揮できるよう訓練されている。全選手がいつでも試合に出られるよう準備している。長いリーグ戦、常にベストメンバーが組めるわけがないし、選手が競争意識を失わないためだ。
市原が目指すサッカーと正反対なのが「ジーコジャパン」。ジーコ監督は固定メンバーにこだわり、固定メンバーの「熟成」を力説する。「黄金の中盤」はワンタッチの早いボール回しというイメージがない。試合を通じて相手にプレスをかける体力、気力を持った選手を代表に選んでいない。二列目、三列目からの飛び出し、走りこみという、直線的攻撃パターンを見たことがない。
合宿でスピードある攻撃パターンを練習しなければ、試合でできるわけがない。監督が選手に求めなければ、選手が試合で実践できるわけがない。
日本代表は決定力がないといわれるが、チームとして得点するプロセスができていないからであって、選手のシュートが下手だからではない。
もちろん、日本代表が得点をとる練習をしていないはずがない。肝心なのは、サッカーには相手があるということだ。「ジーコジャパン」は相手の陣形、相手の弱点をついて、いかなる攻撃を選択すべきかの形を持っていない。
攻撃を選択する頭脳(ビジョン)は、スピードと運動量によって、表現される。いまの日本選手のレベルで世界の強豪に勝つためには、相手を上回るスピードと運動量を必要としている。この2つを搾り出すのが精神力。人間は意志をもたなければ、身体をコントロールできない。サッカーでは、テクニックに依存していたのでは、不振に陥った時、そこから脱け出せない。早くも始まった、06年W杯南米予選、強豪アルゼンチンとアウエーで戦い、0−2からドローに持ち込んだチリの戦い振りを見ただろうか。精神力とは、相手とやりあったり、激しいファウルをすることではない。戦いに勝つという強い意志――チームとして統一したビジョンの下に、それを運動に変換した時、奇跡が起きる。
不調の日本代表が活路を開くには、とにかく、汗をかくことだ。チームにスピードと運動量と戦う意志が戻れば、チームの再建が可能となる。オシムが日本代表監督になれば、そのことはすぐ実現する。



2003年09月21日(日) 熱戦Jリーグ

21日のJリーグは熱戦が多かった。柏―市原、磐田―鹿島、ガ大阪―神戸、仙台―FC東京がドロー。特に、市原、仙台は勝利を目の前にして、相手に引き分けに持ち込まれた。いわゆる負けにも等しいドローだが、このなんともいえないカタルシスがサッカーの真髄だ。
磐田vs鹿島は、アウエーの鹿島の老獪な引き分け狙いの試合運びに、磐田が勝ち切れなかった。後期の鹿島は「本気モード」。鹿島の前期は調整、後期は本気の前後期の戦い方が見て取れる。はやいとこ、前後期制度を廃止しないと、鹿島の後期優勝、チャンピオン決定戦優勝のパターンが定着してしまう。ほかのクラブがなぜ、この戦い方ができないのかといえば、選手層の薄さ故だ。鹿島は新人、ブラジル人、他クラブからの選手供給が実にうまくいっている。スカウト陣・資金面を含め、いまのところ鹿島は、Jリーグのなかで群を抜いた存在。だからこそ、1年間を通して、このクラブがどのような戦い方をするのか確認してみたい。
選手層でいえば、前期優勝の横浜Fマリノスが鹿島に続く。横浜は後期を捨てていると書いたが、このところ、控えの若手選手が台頭し、チーム力を上げてきた。横浜は、日本代表クラスの選手補強に成功した。
後期好調のV東京は、エムボマ、ラモンといったワールドクラスのベテラン2人がチームを引っ張り、それに乗って成長期の若手が爆発、加えて、三浦、山田、米山、林といった中堅が堅実な仕事をしている。企業でいえば、人材のバランスがいい。
市原は代表クラスが1人(チェヨンス)しかいないのにもかかわらず、猛練習による運動量とチーム戦術で上位に食い込んでいる。だから、チェが不在だと勝ちきれない。スポーツで勝ち続けるには、選手層の厚さがものをいう。
期待の、というか、優勝候補に挙げたセレッソ大阪は、現在13位と低迷。まず優勝は不可能に近い位置。エースの大久保が慢心から、先の韓国戦の戦犯扱いされた。大久保のゲーム中の態度、試合への取り組み姿勢に、サッカー協会幹部から、批判が集中したらしい。こういう選手は早いとこ、海外リーグでもまれたほうがいい。自分よりうまい選手が沢山いるリーグにいってレギュラーをとる努力をすることによって、人間性も自然に変わるだろう。契約する欧州のクラブがあればの話だが。



2003年09月20日(土) 監督稼業

東京ヴェルディがきょう、セレッソ大阪に勝って2位に立った。ヴェルディといえば、かつてはラモス、カズ、武田、北澤らを擁し、Jリーグの強豪だった時代も短くはなかった。いまのヴェルディを率いているのはアルディレス。彼はJリーグの複数のクラブの監督を歴任したことがある。確か、最初は清水エスパリスだったと記憶している。この人は世界中のクラブを渡り歩く監督稼業が生業。資本も設備も要しない、おのれの指導力とサッカーの知識だけで勝負に生きる人生。結果が出なければすぐ、くびという厳しい職業だ。
言語の違い、習慣の違いを越え、選手を鍛えクラブを強くする。私には想像できない仕事の1つである。そういえば、降格の危機に瀕している仙台が名古屋を解雇されたベルデニックを就任させるらしい。その名古屋はヴェルディの監督経験のあるネルシーニョだ。市原のオシム(ユーゴスラビア代表監督)も含め、このあたりの監督は、実績・経験から見て、ジーコの後任として日本代表監督に就任してもおかしくない人材だ。前期優勝の横浜の岡田監督も、そういえば、日本代表監督経験者。あ、浦和のオフトもそうだった。予選で負けたけれど。鹿島のトニーニョセレ―ゾはジーコの盟友。選手としての実績からいえば、ジーコの次くらいの人。
サッカーの監督は過酷だ。いや、スポーツの監督すべてがそう。プロ野球も数チームで監督交代があるらしい。話題は、読売の原監督の去就だという。昨年優勝して、今年Bクラスなら、辞任したほうがいい。3年契約で1回優勝できたら立派なもの。1年目で優勝したのだから責任は果たした。またしばらくして、どこかの監督をやればいいと思うのだが、日本のプロ野球は事情が違う不思議な世界。そう簡単ではないらしい。もちろん、サッカーのほうが世界標準である。



2003年09月19日(金) 朗報?

報道によると、サッカー日本代表監督のジーコ氏は、川淵キャプテン(日本サッカー協会会長)との会談のなかで、「今は自信をもってやっている。それがなくなったら自分の口から辞めると言う」と語ったらしい。ジーコ氏の言葉には、このまま代表監督を続けても、日本代表をドイツに連れて行く見通しがたたない苛立ちと、自信喪失が現れている。自分自身に自信のある人間は、「今は自信を持ってやっているが・・・」なんて、間違っても言わない。ジーコ氏の辞任は予想外に早いかもしれない。そうなれば、うれしいのだが。
私の知る限り、ジーコ氏の監督就任を推し進めたのは川淵氏だった。更に、就任から数試合、日本代表が連敗を続けジーコ氏の監督手腕を疑う声が出始めたころ、川淵氏がドイツ大会が終わるまでジーコ監督でいくと明言し、「ジーコ解任」の声を封じたといわれている。ジーコ&川淵は、一体のものといえる。
しかし、川淵氏は(私の推測では)、かなり政治的な人物。明確なポリシーを語っているように見えるが、それは理念的、一般的領域な事象に限られている。川淵氏の現実の行動パターンはノンポリシー、つまり、自分に責任が及ぶことを回避する傾向にある。もちろん、それは川淵氏に限ったことではないけれど。だから、川淵氏のジーコ監督擁護の言葉は、永続的とはいえない。
実は、ジーコ氏の去就を決めるのは、川淵氏を筆頭とするサッカー関係者ではなく、マスコミなのだ。決定権は大新聞Aが持っている。もちろん、このことは推測に過ぎないけれど、近々、A新聞の論調次第でジーコ氏の解任(続投)が決まる。
ところで、日本のプロスポーツ界をリードしてきたのはA新聞ではなく、Y新聞。Y新聞は野球を日本のメジャースポーツに育成したのだが、その育成の仕方は独特なものだった。自分のところで球団をもち、Y新聞(テレビ)で積極的に自分のチームを宣伝したのだ。その実態と結果についてはよく知られていることなので、ここでは省略する。そんなY新聞がプロサッカー界においても、自らプロサッカーチームをもち、野球と同じ手法で、プロサッカーの覇権を握ろうと試みた。そんなY新聞の行く手を阻んだのが、Jリーグ初代チェアマンの川淵氏だった。
Y新聞とは商売上のライバル、しかも発行部数で劣るA新聞は、プロ野球よりもプロサッカーに思い入れを持っている。一方のY新聞は、Jリーグがチーム名に企業名を入れないというポリシーを貫いた時、猛然と反発した。激しい対立があったようだが、川淵氏は屈しなかった。川淵氏を支えたのは、Y新聞と対立するA新聞のプレゼンスだった。ことほどさように、日本のプロサッカー界には、A新聞とY新聞の対立構造が持ち込まれており、Jリーグ設立からいままでは、A新聞主導で動いてきた。だから、前々回W杯フランス大会では、カズと北澤は土壇場で代表から外されたし、前回日韓大会では、中沢がその座を秋田(鹿島)に奪われた。日本はW杯に二度出場しながら、Y系の東京ヴェルディ(ヴェルディ川崎の時代を含め)からは代表選手が出ていない。その現実に気づいた中沢は、横浜に移籍した。
いまのところ、A新聞は「ジーコ継続」の論調で一貫している。が、いまの日本サッカー界の状況を冷静に見てみると、海外で活躍する選手数は増え続けており、先の大会ではベスト16の実績を持っている。かりに、来年から始まるアジア予選で負ければ、その責任は選手にではなく、監督・コーチ・スタッフ・協会幹部に向けられる。
選手が実力を上げているのに負けたとなれば、悪いのは監督、あるいは、そんな監督を続投させた協会となる。ジーコ⇒川淵⇒A新聞は一蓮托生、世間から血祭りに上げられるだろう。ジーコ監督で負ければ、擁護した川淵氏に責任が及ぶのは当然。そうなれば、サッカー界でY新聞の巻き返しもあり得る。プロサッカーの立ち上げから今日まで築いてきた川淵・A新聞のシステムが崩壊する可能性もあり得る。でも、ジーコ氏を早めに更迭しておけば、たとえアジアで負けても、その責任は新しい監督に及び、協会に及ばない。代表監督人事とは、そういうもの(ではないはずだが)。



2003年09月18日(木) 鍛え直さないと、

きのうの日韓戦(五輪代表=U22)はホーム韓国の勝利。この世代の韓国はA代表より強い、ともいわれていたし、加えてまた、以前、書いたことだけれど、五輪日本代表監督はJリーグの監督経験すらない人物。経験のない指揮官に率いられた若い選手達は気の毒というほかない。そんなこんなで、勝利への期待はこれっぽっちもなかったので、結果にはもちろん驚いていない。日本が1点返したことがせめてもの収穫。ホームで点が入らないA代表よりは、根性がある。でも、この日本の得点をどう評価すかだが、手放しでは喜べない。韓国は後半、テストで選手交代を頻繁に繰り返し、バランスを崩していた。親善試合の緩みというか、韓国側がこのチーム(日本)に負けることは100%ない、と判断したためだと思われる。
セットプレーからの2失点は、日本のA代表にも言えることだけれど、日本サッカーに厳しさが足りないことの証明。Jリーグの甘さだ。マークが甘い、競り合いに弱い、寄せに厳しさがない。
この試合、韓国は試合開始とともに驚異的なプレスをかけてきた。ホームでの戦い方の基本だ。精神的にも肉体的にもまず、主導権を取ること――当たり前の作戦だ。一般に、圧力に耐える訓練を積まなければ、チームは強くならない。Jリーグではホームとアウエーのメリハリが稀薄なため、アウエーで厳しい圧力を経験することが少ない。それが甘さの根本にある。日本の若い選手達は技術は高くても、肉弾戦で主導権をとれない。そのため、ボールコントロールがままならず、ゲームを支配できない。このあたり、若いうちから鍛えておかないと、韓国との差は時間を追って開いていくだろう。
タイムアップ間近、韓国選手が足をつるシーンが続出した。時間稼ぎかそれとも、本当に痙攣したのかわからないが、もし後者なら、韓国選手は相当な闘志を持ってこの試合に臨んだことがわかる。日本で行われたA代表の親善試合で日本代表がこんなシーンを見せたことがない。何度も繰り返すことだけれど、ホームの親善試合を漫然と繰り返しても、チームは強くならない。海外にいる代表選手は、親善試合では日本に戻る必要がない。むしろ、海外リーグのアウエーの試合を経験したほうがいい。そのほうが有効な経験になる。
日本の新システム(3−6−1)も、おかしなものだった。相変わらずの「中盤重視」で、厚い中盤でまず、守ろうという意図らしい。ところが、厚いはずの中盤が韓国のプレスに屈して簡単にボールを奪われたり、パスミスを繰り返していた。A代表が、大敗したアルゼンチン戦で3ボランチをとったケースがあった。厚ければ・・・という考え方はやめたほうがいい。サッカーはバランスが大切なのだ。失点後、4バックに戻してバランスを回復した。皮肉なものだ。
日本のエースと期待された大久保、世界レベルのテクニシャンといわれた阿部、松井らだが、同世代の韓国選手のパワーに粉砕されてしまった。A代表を含め、日本代表は指導者(「ジーコ〜山本」体制)を代えて、一から鍛え直すほかない。もう間に合わないか、いや、まだ間に合う、間にあってほしい。



2003年09月17日(水) 甘い

セリーグは阪神が優勝。シーズン前の私の予想はヤクルト優勝、阪神5位。まったく当たらなかった。でも弁解するわけではないが、阪神優勝は2、3年後と書いた。その根拠としたのが、目を見張る補強と才能のある若手の2点。
ことほどさように、今シーズンの阪神の補強は的確であった。FAの金本、元大リーガーの伊良部、ベテラン投手の下柳、ストッパーの外国人投手・・・さらに2年目の片岡、アリアスの活躍。絵に描いたように補強選手が活躍した。そして、若手選手の台頭。この2つの力が、一気に「今シーズン」に結集した。なぜ今シーズンなのか。その理由はわからない。説明できない<流れ>が生じたことだけは事実。こうまで、選手が思い通りに活躍してくれたら、監督とすれば、いわゆる「監督冥利に尽きる」というものだろう。<流れ>とは恐ろしいものだ。
一方、補強の量と金銭では、読売も阪神に劣らなかったが、結果は悲惨。押さえのぺトラザはまるで戦力にならなかったし、松井の代わりを期待されたペタジーニは勝負どころで登録抹消、数人の外国人投手もたいした戦力にならなかった。今年は大物FAの入団はなかったが、清原を筆頭に大物FA勢は不振だった。
阪神と読売の結果の違いは、おそらく、情報収集力の差であろう。実績をみて机上で選手をリクルートするのか、選手の実績はもちろん、環境面、身体面、モチベーション等を含め、選手の実像にせまってリクルートするのか――方法論に差があったのではないか。
けがなのか持病なのか――その判断は、まさに情報力で決まるのではないか。また、パリーグで活躍した外国人投手が読売に入団した途端、けがでいなくなる、というパターンがしばしば発生しているような気がする。意図的な職場放棄の疑いも消えない。ならば、読売は法的対策を講じたほうがよい。
さはさりながら、小生の阪神に関する予想が大幅に外れたことは事実。まだまだ甘いと、大いに自己反省している。



2003年09月15日(月) まだ辞めないの、ジーコさん(続々)

フランス人であるセネガル代表監督のステファンは試合後、日本代表のことは親交のあるトルシエ前日本代表監督から情報を得た、とコメントした。このコメントは多分、ステファンのジョークだろう。彼が言いたかったのは、ジーコよりトルシエのほうが監督の能力は上だよ、ということを言いたかったのではないか。それは穿った見方だろうと思われるかもしれないが、フランスとブラジルは、世界を二分する世界のサッカーの実力国。互いにライバル意識があるに違いない。セネガルは先の日韓W杯でフランスを奈落の底につき落とした国。監督はフランス人だったから、優勝者がブラジルであったことは皮肉というほかない。一方のブラジルは、その前のフランス大会でホームのフランスに苦杯をなめた。ライバル意識がないはずがない。
世界の代表監督市場においては、フランス人監督はけっこう活躍している。フランス人はロジカルだと言われている(実際どうかしらないが)し、実際、W杯でもアフリカ勢を中心にフランス人監督は実績をあげている。日韓大会における、セネガルの躍進は、フランス人監督のメソの手腕という評価が定着しているし、日本のベスト16はトルシエの実績。
その日本代表のポストトルシエはブラジル人のジーコ。ジーコはかつて、トルシエを批判し続けていたが、実際監督に就任してからというもの、実績が上がらない。そこで、ステファンは、フランス人として、ライバルブラジルのジーコの鼻を折ってやろう、と茶目っ気を働かせたのではないか。
ま、そんなこじつけはともかくとして、ステファンが日本の中盤の中心選手からボールを奪う、という作戦を立てたことは、理にかなっていた。日本の戦力の基盤は、ジーコが誇る「黄金の中盤」。ところが、この中盤へのこだわりが、世界のトップクラスから見れば、大いに時代遅れ。中盤で繋ぐことは大事だが、無駄に回していれば、相手にチャンスを与える。しかもビッグチャンスを。
いま世界のトップレベルで得点を上げることができる形のほとんどは、速攻。中盤でつないでスルーパスでシュート、という形ではほとんど得点にならない。セネガル戦で日本が見せたスルーパスがチャンスに結びつかなかったことは、すでに書いた。
セネガルはもちろん、個人個人がすぐれた身体能力をもっているし、得点もセットプレーからのスーパージャンプからのヘッディングだから、「あの得点は仕方がない」という声が日本のスポーツマスコミにあるようだ。得点シーンにだけに注目すれば、そういう面しか見えないが、サッカー(試合)全体を見通せば、いま日本代表が陥っている大問題が見えてくる。ジーコが「黄金の中盤」を捨てることができるなら、日本代表復活のチャンスがある。(文中敬称略)



2003年09月12日(金) まだ辞めないの、ジーコさん(続)

セネガル戦の後、ヒデがインタビューに答えている映像を見た。その表情からは、悔しさが滲み出ていた。この試合、セネガルに「軽くあしらわれた」、そんな、無念さがうかがえた。彼らは持っている力の何パーセントしか出していない、にもかかわらず、ドローにさえ持ち込めなかったと。
さて、セネガル戦の前のナイジェリア戦に勝った後、ジーコ監督は、「ファンに感動を与えられた」というコメントを発した。私はそれを聞いて、ああこれはだめだ、早くこの監督が代わらないと、と心底思ったものだ。
親善試合の勝敗はどうでもいい。問題はその目的と内容である。たとえば、日本が南米に遠征して、いま南米でいちばん弱いとされているボリビアと戦ったとしよう。結果、おそらく日本は勝てない。高地という自然条件で日本代表は負けてしまう。それほどひどくはないが、強豪ナイジェリアが日本に負けた理由も、それに近いものがある。自然条件、コンディションなどで、試合結果は変わってしまう。
さて、ジーコ監督が発した「感動」は、いまの日本のスポーツマスコミで流行している言葉だが、しばしば「誤用」されている言葉でもある。しばらく前、貴乃花と武蔵丸の優勝決定戦をご記憶の方も多いだろう。そのとき貴乃花はかなりの怪我を押して決定戦に出場したのだが、軍配が上がると、有利と思われた武蔵丸は転がって負けた。優勝した貴乃花に賜杯を渡した総理大臣が大声で、「感動した」と叫んだことは記憶に新しい。総理大臣は怪我をしながら勝った貴乃花に「感動」したらしいが、私は転がってみせた武蔵丸に感動した。このあたりから、私のスポーツに対する美学と、日本のスポーツマスコミのそれとのズレを感じていた。武士道精神では、手負いのものに勝つことは不名誉なことである。準備の整っていない相手に勝つのも、同様に好まない。もちろん、プロなのだから、いったん試合に臨めば、怪我も時差も関係ない、負けは負けである。だから、負けた相手に同情はできない。けれど、勝負(結果)はそうなのだが、コンディションの悪い相手に勝つことは、感動というカテゴリーにはなじまない。なお私はそれ以来、武蔵丸にシンパシーを感じている。
そんなジーコ監督を支持するスポーツマスコミの根拠は、前監督のトルシエ氏の戦績とジーコ監督の現在の成績の比較である。彼らの論理を要約すると、「トルシエの選ん対戦相手は、いまのジーコのそれより弱い。なのにいまのジーコの成績はトルシエとほぼ同じ。格上に負けているのだから、ジーコは悪くない」というもの。これこそ形式的思考であって、スポーツ批評とは遠い。核心はいまの日本代表の選手選考、システム、ポジション、戦術、試合内容(選手交代、指示等々)の是非であって、戦績ではない。あるいは、代表チームのコンセプトの是非といえるかもしれない。それを吟味した上で、監督としてのジーコ氏の手腕に疑問を呈しているのである。
さらに言えば、02年は予選なしのホームのW杯。本番までゆっくりとチームづくりができた。しかし、06年は予選があり、真剣勝負を戦いながら、チームづくりをしていかなければいけない。条件がまったく、違うのだ。しかも、トルシエ前監督就任当時の日本代表の実力は低かった。だから、それ相応の相手を選びながら、代表チームに親善試合という国際試合を経験させたのだ。
蛇足でいえば、トルシエ氏とジーコ氏の仕事の難易度を比較すれば、トルシエ氏のほうがやさしい。ホーム、予選なし、しかも、W杯予選リーグでの抽選の幸運などを含めれば、ベスト16は、結果論でいえば、条件として整いすぎていた。トルシエ氏の残したのは、遺産というよりも、重圧である。もしかすると、日本がW杯でベスト16に再び入るのは、日本単独開催が実現するはるか遠い未来の出来事になるかもしれない。




2003年09月11日(木) まだ辞めないの、ジーコさん

セネガル戦は完敗だ。一部の新聞報道では、「惜敗」の見出しもあったようだが、力の差は歴然としていた。確かにボール支配率で日本が高く、決定的チャンスも日本に数度(私の記憶では3度)あったけれど、それはセネガルにも同じ数ほどあったわけで、いっても仕方がないことだ。
セネガルの強さは、完全にゲームコントロールしたこと。これだけ完璧にコントロールできたということは、力の差がそれだけあった証左である。再三、実況アナ氏も指摘していたように、前半、CKから1点リードした後のセネガルは、7人で守って3人で攻めるという形。日本代表は愚弄されたといっていい。セネガルに余裕が感じられた。この試合は先のW杯のときのトルコ戦に似ている。あのときも得点差は1点、日本は「惜敗」したのかというと、そうではない。完全な力負けである。
日本代表の前半のねらいは、セネガルの浅いバックラインを見てのスルーパス。だが、これが成功しない。裏を取れるスペースがあるように見えて、セネガルDFは帰れる自信があるスペースなのだ。スルーパスは、私の見た限り、一本もとおらなかった。オフサイドをとられるか、カットされるかのどちらかだった。
ねらいが封じられると、次の手がないのがいまの日本代表である。センターライン付近ではセネガルがそれほどプレッシャーをかけないので、「黄金の中盤」が機能しているかのように見えるが、無駄回しである。ゴール近くになれば、セネガルのプレスが強まり、それに対抗できるのはヒデただ一人。一対一で勝てる相手ではないが、もう少し食い下がらないと、勝利は見えてこない。
あいかわらずの、ジーコ監督の無策ぶりである。終了間際、ボランチの稲本が積極的に上がってチャンスをつくったが、ときすでに遅し。稲本を上げなかったのは、セネガルのカウンターを恐れたためだろうが、リードされているのだから、ワンボランチで稲本を前に出すべきだった。彼はW杯で得点を上げ、プレミアでも得点を上げている選手なのだ。負けているのだから、彼の守備力よりも攻撃力を生かすべきだろう。なぜワンボランチができないかといえば、控えのMFに守備の専門家がいないからだ。攻撃的ボランチの遠藤が退いて出てきたのは小野だった。小野もいい選手だが、稲本、小野が2ボランチで攻撃的に出るならば、以前書いたように、3バックでしっかり守るべきなのだ。同じようなタイプの選手を中盤に集めたいまの日本代表は、攻撃のバリエーションがないし、状況に応じた有効なシステム変更ができない。
売り物の三都主の左サイドバックも機能しなかった。三都主が活きる場所は、やはり、ゴール付近、サイドライン沿いを駆け上がって得点にからむタイプではない。守備の不安がある分、このコンバートは失敗である。韓国のように強くて速い攻撃に会うと、対処できないだろう。
いまの日本代表は不自然、ちぐはぐで、よそいきのサッカーをしている。結果、攻撃にリズムがないから、満員のサポーターと一体となったサッカーができていない。監督が選んだ選手の適性と監督がイメージしているシステムに齟齬があるのではないか。あるいは、監督に攻撃のイメージがないのではないか。
選手の精神力に問題があると、監督はコメントしているらしいが、監督が監督の能力を持たないことが、いまの日本代表の最大の問題なのである。
セネガルは、アウエーでドローで十分、という戦い方なのに、攻めきれないのがいまの日本代表だ。真剣勝負だったら、点差はもっと開いただろう。惨敗しなければ許す、というのでは、アジア予選という真剣勝負では勝てない。
ジーコ監督は勝負師としての的確性に欠ける。適性に欠ける人物をそのポストにおき続けるというのは、企業ならば経営者責任を問われる問題だ。イベントに客が入れば満足、というのでは・・・



2003年09月09日(火) アレクサンドロス

明日は日本代表のセネガル戦である。セネガルは早くから来日し時差調整をし、それなりの準備をして試合に臨むという。先のアルジェリア戦とは違うというわけだ。ところが、報道陣をシャットアウトした市原との練習試合(9.07)では、後半息が上がって、逆転負けしたらしい。強いといわれるセネガルだが、コンディション、モチベーションとも、アルジェリアよりはやや、ましといったところか。サッカーは何があるかわからないから、試合結果については、まだ無視できる段階。ま、ホームだから勝たなければいけないけれど。
それよりもなによりも、いまの代表チームの可能性を見たい。セネガルに対する事前の情報収集力、それに基づいて組み立てられた戦術・意思統一など、監督が相手をどのように分析し、選手をどう動かすかといった面である。
ピッチに立てば試合をするのは選手だといわれるが、選手が相手のすべてを見ることができるのかといえば、実は違う。一対一の格闘技であっても、選手は相手の動きを見通すことができない。それがスポーツ(戦争)の不思議なところだ。
アレクサンドロス(マケドニア王)はダリウス三世(ペルシア王)との戦いに勝ってアジアからヨーロッパを救ったといわれる。この戦いに勝って、アレクサンドロスはインドに至る大帝国建設の一歩を進めることができたのだが、勝因はペルシア軍の一瞬の乱れをアレクサンドロスがついたことによると伝えられている。ことほどさように、勝負は指揮官の一瞬の判断によって決まるものなのだ。
アレクサンドロスは勝利の後、世界最大級のペルシャ帝国の首都ペルセポリスに火を放って破壊した。自分がペルシア帝国の後継者ではなく、新しい世界の王であることを知らせるためだったという。
新しい王は、古い遺産を受け継がない。サッカーの代表監督にもその傾向がある。だが、真の王にしてその選択が可能なのであって、平凡な指揮官がアレクサンドロスのまねをすれば、結果は悲惨なものとなる。現在の日本代表監督は前監督の遺産を受け継がないつもりらしいが、指揮官としての才能に恵まれないため、世界征服はもちろんのこと、最低目標のアジア征服すらできないだろう。このまま代表監督が代わらなければ、日本代表がドイツで活躍する姿を見ることはない。06年は日本のサッカーファンにとって寂しい年で終わるだろう。



2003年09月08日(月) サッカーはわからない

06W杯ドイツ大会南米予選が始まった。結果はご承知のとおり、最強を伝えられたアルゼンチンがホームでチリとドロー。欧州で活躍する選手を揃えたスター軍団といわれるアルゼンチンが、予想を覆す手痛いドロー発進となった。一方、昨年の覇者ブラジルはコンフェデ大会で日本を下したコロンビアにアウエーで勝利。こちらは順当な発進となった。それにしても、サッカーはわからない。スター選手、理論家監督を擁したアルゼンチンがまさかホームでチリに勝てないとは。これがサッカーの恐ろしさ、面白さということになるのだろうが、いったいアルゼンチン代表に何が起きたのだろうか。
試合を見ていないのでなんとも言えないのだが、想像するに、海外で活躍する選手を多数抱えたアルゼンチン代表は、チームとしてのまとまりを欠いたのではないか。いくら優秀な選手を揃えても、選手間のコミュニケーション、バランスを欠いていればサッカーでは勝てない。さらに、地元開催といっても、選手の多くが欧州での生活に慣れ親しんでしまった。大西洋を渡って本国に帰るということが、調整を難しくしているのではないか。
サッカーW杯の価値をどう考えるのか。これについてはまったくの想像で、選手の本音を聞いたことがないので、的外れかもしれないが・・・
アルゼンチンやブラジルといったサッカー大国は、自分達が一番サッカーがうまいんだ、というプライドがすべてに優先するという見方がある。あの国にだけは負けたくない、という思いもある。それが、W杯のモチベーションだと。
W杯のモチベーションは複合的なものである。たとえば、地域予選は本大会より面白い。隣国同士、政治的衝突を抱えた国同士、過去にいろいろあった国と国、サッカーの本家同士・・・因縁の量も質も事欠かないのが世界の実情である。予選でここぞと、それぞれの国民が熱狂するわけだ。異常な緊張がみなぎる。だから、W杯予選はおもしろい。だから、選手は燃えることができる。
一方、クールな見方として、発展途上の選手はW杯出場により、ビッグクラブへの道が開ける。ただただ、自分のために戦うというものだ。だから、ビッグクラブとの契約を済ましてしまった選手は、W杯で活躍しないこともある。
選手にとっては、カネもプライドも愛国心も、ともに大切なものなのだろう。国を代表して戦う陶酔は、何者にも換えがたい(ものなのだろうか)。それとも、巨額の富を築いてしまった選手にとって、国のための思いなどない(ものなのだろうか)。



2003年09月07日(日) 同志発見

きのうのA新聞を見て驚いた。スポーツジャーナリストのG氏が、ジーコ監督批判およびジーコ批判をしないスポーツマスコミ批判を展開されていたのだ。論調は小生がここで再三くりかえしてきたものと全く同じ。G氏のスポーツジャーナリストとしての健全な批判精神が、ジーコ氏の代表監督不適格を結論付けていた。いやはや、同志を発見したような喜びである。ジャーナリストを職業とするG氏は、ジーコ氏が代表監督として不適格であることを結論づけるのに慎重であったようだ。G氏は先のアルジェリア戦の勝利を、ジーコ監督の意に反する選手の独断による――選手の判断による組織プレーの復活によるもの――と分析。それをもって、今回の持論発表に至ったようだ。
選手がなんでもかんでもやってしまうのなら、監督などいらない。ジーコ氏を監督として押す協会幹部が、キックバックでももらっているのであろうか。監督の仕事をしない「監督」に多額の報酬を支払うとは、協会幹部に背任の疑いがある。
問題は、いまの日本代表の現状なのだ。日本代表のいまの実力は、コンフェデ杯で予選落ちしたとおり、フランスの三軍、コロンビアの一軍半より劣る。もちろん、韓国より数段落ちる。最大の弱点は、守備を含めたシステムの問題である。日本代表は、極めて不自然な戦い方を強いられている。
要するに、4バックの問題。4バックがいいか3バックがいいかを考えるとき、世界の趨勢がどうの、イングランドがどうの、ブラジルが・・・ということは関係ない。いまの日本が抱えているタレントからすると、日本は3バックに戻すべきだろう。まず3人で守る。そして2ボランチ、両サイド、トップ下1、FW2人。代表選出は、以前にも書いたとおり、各ポジション2名(GKは3人)と簡潔に考えたい。これが最もわかりやすい。
ところで、ジーコ氏の祖国ブラジル代表は4バックで、左にロベルトカルロス、右にカフーという世界で1、2のプレイヤーがいる(今後はわからない)ので、4バック。ま、ブラジルは伝統的に4バックだが。それに反して、サイドバックにタレントを擁しない日本に4バックは無理。三都主の左サイドへのコンバートなど、邪道である。ジーコ監督の選択は、いずれ破綻するだろう。
具体的に見てみよう。俊輔と三都主と小野は左サイドで競合する。ただし、俊輔、小野は欧州リーグでやっているボランチにまわる可能性が残る。ヒデのトップ下は、同様に、俊輔、小野と競合する。2ボランチは稲本、遠藤そして、俊輔、小野と競合する。さらに市川、明神、山田(東京V)らが競争に加わる。中盤に人材の豊富な日本は、3−5−2のシステムによって、選手起用の選択肢が一段と広がるのである。もちろん、落とさなければいけない選手も出てくる。その中にヒデが含まれない保証はない。先の俊輔のように。
現在の4−4−2では、左右のサイドバックに人材がいないため、三都主をコンバートして、穴を補充しようとする。はじめにシステムありきというのは、観念的である。観念に選手を無理矢理当てはめているわけだ。前監督のトルシエが選択した3−5−2をジーコが意地でも選択しないというのならば、それは、代表監督としての次元を越えた個人の確執の問題だ。3−5−2ならば、バックスも坪井、中沢、松田、宮本、中田(浩)、森岡らで固まる。
代表選考の難しさは、限られたポジションに優秀な選手が集中することだ。ファンには納得できないことが多かろう。イタリアでは先のW杯のとき、R.バッチョを代表に、という国民的運動が起きたが、トラバットーニは選ばなかった。あたりまえである。代表監督は人気に左右された人選はできない。勝つための選択をするだけである。代表監督稼業には、勝つことが義務付けられている。ジーコ氏は代表監督稼業で食っているわけではいから、自分自身に厳しがない。いまの日本代表に最も欠けているのは、厳しさと緊張感である。ジーコ氏が「神聖不可侵」の存在なら、選手の責任は問われても、監督の地位は安泰だ。そんな代表チームは世界のどこにも存在しない。もっとも、カダフィやフセインやKが代表監督ならば、負ければ選手は鞭打ちの刑だが、監督の座は安泰だ。監督だけが安泰な代表チームなど、見たくもない。



2003年09月04日(木) 大塚、救援に失敗

帰宅が早かった昨日は、読売vs中日の消化試合を観戦。外は雷雨だが大阪ドームなので、天候は関係なし。読売先発の林は調子が悪いものの、中日も元気がなく序盤は読売リード。林が交代した後、どうやら中日が逆転(この間は見ていない)したらしく、最終回、中日のマウンドに大好きな大塚が上がった。高速スライダーが見られかなと思っていたところ、読売の後藤が主審のミスジャッジで出塁。あれがボールとは・・・ここで読売はレイサムの打席。レイサムは来日当初はまるで打てなかったが、ここのところ、控え(ヤンキ―ス)とはいえメジャーらしさを取り戻してきた選手。
さて、大塚が何を投げるかと注視していたら、ストレート。コントロールはよくない。次はと思いきや、低めのストレート、やや外側か真中か?まさに、クリーンヒットのホームラン。スピード表示は145キロ前後。
うーむ、だめか大塚。ストレートに自信があったのか、レイサムをなめたのか、スライダーの切れが悪かったのか、フォークはいやだったのか・・・
ストレートの選択が悪いわけではない。が、レイサムにはインサイド高めのストレートでしょう。レイサムはかぶせるほうの片手をバットから早く離す癖がある。高めのボールは飛ばないはずなのだ。逆に低めは残ったほうの手の力で持っていける。だからスイッチができる打者なのだ・・・
ま、結果論はいくらでも言えるけれど、この勝負、打者・レイサムの勝ち。仕方がない、勝負なのだから。


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