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JIROの独断的日記
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2006年05月23日(火) 「馬鹿」になれない者は、「秀才」になれぬ。

◆本当は転載してはいけないのだろうが、敢えて実行させていただく。

かの有名な糸井重里氏のウェブサイト、「ほぼ日」(ほぼ日刊イトイ新聞)で1948年生まれの糸井氏と、1970年生まれの東大の薬理学者、池谷裕二氏が

「脳」に関して対談した記録が海馬―脳は疲れないというタイトルで単行本として出版されたのは2002年7月である(リンクを貼ったのは昨年新潮社から出た文庫版)。

この本を読んでも良いが、概略(というか、殆ど全て)を知りたければ、ほぼ日刊イトイ新聞 - 海馬。で読むことが出来る。


◆本が出版された後の、続編の対談で、面白い会話が収録されている。

個人的には、海馬―脳は疲れないは、興味をそそられることはあるが、本としてはあまり感心しなかった。糸井氏が喋りすぎなのである。

糸井重里氏は頭の回転が速く、勘が良い人なので、学問的基礎が無くても、専門家の池谷氏が面白いことを話している途中で、言いたいことが分かってしまう。

そこで我慢しきれずに、ワーッと話し始めるのだが、もう少し専門家に喋らせるべきだと思った。素人の感想(糸井重里氏だから、普通のひとより面白い反応を示してはいるが)ばかり読んでも仕方がない。


◆ところが、今ウェブサイトに載っている対談の中で良いことを言っている(二人とも)のを見つけた。

新しい対談は、文庫版「海馬」出版された後、におこなわれたものである。

対談には明記していないが、「脳を鍛える大人のDSトレーニング」 ほぼ日刊イトイ新聞 - 樹の上の秘密基地。 を見ると以下の対談の背景が推測出来る。


◆NINTENDO DS「脳を鍛える大人のDSトレーニング」で基礎訓練の面白さと重要性に気づいた糸井重里氏。

糸井重里氏は頭は良いけれども、ほぼ間違いなく「優等生」ではなく、「勉強」ということ、特に、「計算練習」など、「愚直な」行為を長いこと馬鹿にしていたらしい。

ところが、「脳を鍛える大人のDSトレーニング」をやってみたら、計算練習をやればやるほど成績が上がる。

今までやってみないで、「つまらない」と 決めつけていた「基礎を固めるトレーニング」の面白さと重要性がやっと分かったというのである。

本当は、知的財産権の侵害だが、私が要約したのでは面白さが伝わらないので、敢えて転載させていただく。

糸井:計算とか暗記とか、そんなの、苦手だしつまらない、と決めつけすぎていたおかげで、ぼくはもしかしたら、

「何に困っているか知らず、 ぜんぶに困っている状態」に陥っていたのかもしれない、と最近思うようになりました。

イヤなことから逃げすぎていたというか、それで、今までやれていたものですから。

だけど、筋力があればできることがあるように、基礎体力をナメてはいけないというか。

暗算も、できないよりはできるほうが、次の問題をサッと探しにいけるはずです。何でも最初から困ってしまっていては、

「筋力のない、しかし遺伝的には速く走れる人」みたいな状態で夢を語る人になっちゃう。

暗記や計算をこわがらない力を身につけなければと、ぼくは五十六歳にして思ったところなんです。

池谷 なるほどなぁ。糸井さんはおそらく、ちいさいころから先のことを考える人だったんじゃないですか。

「こんなのを覚えて何になるんだろう?」確かに、直接には役に立たないような作業が、勉強の大半を占めますよね。

ただ、一方で、暗記や計算から逃げることすら思いつかない人がいますよね。

ぼくはおそらく優等生的な子供だったと思うのですが、優等生は、言ってみれば馬鹿なんです。

与えられたから、やらなければいけないとか、最初は、まず、言われたとおりに覚えるとか、そういうのは明らかに「馬鹿」だと思います。

その「馬鹿」という言葉を、今、ぼくは、とてもいい意味で使っているんです。


◆何かを習得するときに必要なことの「核心」を捉えている。

本稿の標題は

「馬鹿にならなければ秀才になれぬ」

であるが、これは、修辞上、効果を上げるために「馬鹿」に対立する言葉として「秀才」を用いたのだが、本当は、

「馬鹿にならなければ、何事もモノにすることはできない」


と言いたいのである。

私がかねて考えていたことを、池谷氏があまりにも的確に代弁してくれているので、引用させていただいた。
池谷氏が述べているとおり、あまりにも子供の頃から頭が良くて、「こんな事をしても意味がない」と先を読む子は結局モノにならない。

それは、「馬鹿」になりきれないからである。



計算練習(算数)でも、語学でも、楽器の演奏でも、スポーツでも、書道でも、タッチタイピングでも、人間が何かの知識、技術、を会得できるかどうかは、初期の段階で「馬鹿」になれるかどうかによる。

「こんな事をして何の得があるのさ」という発想は、一見賢しげ(さかしげ。「利口そうだ」という意味)だが、それを言ったらお仕舞いである。

馬鹿になれるかどうかの境目は、
「打算的・功利的な計算を排除出来るかどうか」

である。

計算が上手くても、英語が話せても、楽器が上手くても、速く走ること、泳ぐことが出来ても、字が上手くても、タッチタイピングが速くても、上には上がいる。

習得した知識・技術により直ちに即物的利益がもたらされるわけではない。

知識・技術を習得する過程自体を目的化できるか。

何が何でも続けてやるという意志を保持できるか?

これが「馬鹿になる」ということだ。


◆「無思考」ではありませんよ。

約一ヶ月前に、「無思考をプラス思考と称する欺瞞」という一文を載せたところ、エンピツココログ共に、私のサイトとしては、ものすごいアクセス数となり、誠に有難かった。

いささか遅きに失するが、読者諸氏に御礼申し上げます。



お分かり頂けると思うが、誤解を避けるために記す。

本稿で言う、「馬鹿になる」ということは、「無思考」とは全く別の心的態度である。

あの稿で書いた「無思考」とは、都合の悪い現実を意識的、無意識的にかんがえないようにすること、を意味していた。

本稿でいうところの「馬鹿になること」とは、打算を排して、目の前の「課題」に取りくみ続ける。その先は考えない、ということである。



但し、その過程で何も考えないのではない。

楽器演奏の習得を例にとるなら、どうしても弾けない箇所がある場合、闇雲に練習しても弾けるようにはならない。

弾けない箇所を取り出し、どうして弾けないのかを分析し、それを克服するためには、どういう手順で練習すればよいか、という試行錯誤を繰り返す「思考」が不可欠である。



繰り返すが、「馬鹿になる」ことは「無思考」とは全然次元の異なる話である。


◆愚直の一念

私の文章は、いつもこのように徒(いたずら)に長い。冗漫である。

誠に申し訳ないが、頭が悪い奴だと思って、ご容赦いただきたい。

これまでに述べたことを一言で表現するなら、

「愚直の一念」

ということだ。

「愚かしいほど実直に、一念を貫く」

私はこの言葉が好きだ。


2005年05月23日(月) <銀行決算>不良債権半減、目標達成へ 大手4グループ←不良債権が減ればデフレを克服できる、と竹中平蔵は言っていた。
2004年05月23日(日) 「拉致再調査、日本に主導権があるはずもない=山崎副長官」どうして、人の神経を逆撫でするかね。
2003年05月23日(金) 正しい日本語。「とんでもございません」は誤り。

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