刑法奇行
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2006年04月30日(日) エイプリル=フール

 4月も今日で終わりである。ローの授業(週4コマ)を中心に(その他いっぱい)、「とんでとんでとんで、まわってまわってまわってー」という感じであった。ローは確実に大学を変貌させてしまった。のどかで、のんびりした大学はどこへいったのでしょうか。ほらあの麦わら帽子ですよ、と言いたいのである。のどかな大学でなければ、そこから哲学や思想はけっして生まれないだろう。暇であること、まったりすること、ただこれだけが大学人(学生も含む)の特権だったはずである。みんな急いでいる。一体どこに向かって?

 昨日は、教え子のメンバーで佐々木先生の墓参りをして、中華街でうまいものを食べた。奥様もお元気で何よりである。例によって、青春真っ只中のお喋りが延々と続く。しかし、年齢という客観を前に愕然とすることもある。われわれは、これまで何をして、これから何をしていくのだろうか。おそらく、家族や仕事などを背負って、ガタゴトガタゴト生きていくのだろう。やはり、拓郎は正しかった。「私は今日まで生きてみました。そして今、私は思っています。明日からもこうして生きていくだろうと」いうわけだ。

 すべてから解放されて自由に生きるということを強調しすぎて、個人が孤立化し、幻の共同体、すなわち日本国というものに、幻の連帯をしているのが現代であることは、多くの思想家が指摘している。職場、地域、学校、家族、夫婦、親子などなどの現実的共同体の真っ只中で、ああでもないこうでもないとガタガタすることが最も大事なことであるにもかかわらず、目に見えない幻の共同体、たとえば、インターネットなどの結びつきの方を大事にする傾向は、やはり間違った方向へ確実に進んでいるように思われる。所詮、スマートに生きていくことは誰もできないのである。コミュニティ(人的、物的を含む)の再生は、もはや徐々にではなく、今すぐ構築しなければならない事柄であると思うのだが・・・。 

 新入生にもいろいろな学生がいる。明るい人、暗い人、輪の中心になる人、ひっそり孤独な人などなど・・・、これは昔も今も変わらない。これらすべてを包み込むには、何らかのきっかけと時間が必要である。とくに学生同士のぶつかり合いが必要であるが、最近は、あまり他人を評価しないようである。たとえば、ある学生が「君は何でそんなに暗いの」という素朴な質問をした場合(この質問はタブーなのであろうか)、「暗い」というのがネガティブなことだと思っているわけではない質問であったにもかかわらず、ネガティブに受けとめられてしまい、言われた学生はさらに暗くなっていくというのは不思議なことである。まるで、ラベリング理論である。そういえば、すべてがネガティブに受けとめられることが現代の特徴であるという論者もいる。皆に誉めたたえられて育ったことが原因なのだろうか。所詮、人間はみな駄目人間であることを確認しようではないか。自分を笑える人間にならなくてはいけないのだろう。

 まあ、何でもいいが、風邪が治らないことから、こちらも頭がカオス状態になっている。今日は吉祥寺祭りで娘の所属する西戸山バトントワラーズが出演するというので、それを見に行って風邪がいまだに消え去らない。風邪は誰かにうつせば直るというから、誰かにバトンを渡すしかない。もっとも、息子からはじまって家族全員から風邪のバトンを渡されたわけであるから、ほかの誰かにうつしかないが、この場合にも、やはり次の共同体が必要となるわけである。

ジャスティス for 連休


norio

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