こころの大地に種をまこう 春名尚子の言霊日記

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2003年09月12日(金)  オノレの道を振り返るのは 前に歩くため ただそれだけだ

最近、熱いことばっかり日記に書きすぎ。
でもあたしのいいとこは、この熱いところ、暑苦しいところだと、認めることにした。

あたしは死ぬまで未完成。
でも、今生でイチ抜けると決めた。 ちゅうか抜ける。
輪廻から。

だから、上を上を求めつづけている。
やれることをやれるときにやれるだけ やる。
歩きつづける。自分の道を。信じたこの道を。


15才のとき。
ホンモノの音楽に出会った。 山ほどのバンドに影響を与えられた。
はじめて、自分が息をしていると思えた。
モノクロだった私の世界が、誕生以来はじめて色を取り戻した。

16才のとき。
高校を辞めて、年をごまかしてバナナホールでバイトをはじめた。
スピッツに出会った。エレファントカシマシに衝撃を受けた。
文字を書いて生きていきたいと漠然と思いはじめ、ミニコミをつくりはじめた。

18才のとき。
はじめてみた喜納昌吉&チャンプルーズにがつんとやられてこの人と一緒に仕事をしたいと思った。
喜納昌吉という稀有な、世界にとって必要なアーティストを私だけができる方法で表現しようと思った。

移住を決めたとき、ソウルフラワーユニオンの中川敬に
「なんでお前は大阪で生まれ育ったくせに、沖縄にいくんや。
 大阪でやれることをやれ。沖縄に行くな」といわれた。
その言葉がずっとこころに刺さっていた。

「惑星のかけら」を出したばかりのスピッツと朝まで酒を飲んだ。
「表現は違うけれど日本ですごいと思うのは、喜納昌吉とニューエストとエレファントカシマシだ」
といったのはマサムネ。
男気というか生きる道について真剣に考えている人間じゃないとこの3バンドはあがらないはずだ。

19才のとき。
沖縄に移住した。それから9年、喜納さんと一緒に仕事をした。
たくさんのコンサートや祭りを創った。たくさんのアーティストと仕事をした。
どんとや永井さんゼルダメンバーも一緒にインドに行った
ライクーダーとのアメリカツアー。
出発直前に東京・高円寺でマサムネとばったり会った。
スピッツはまだ全然売れてなくて、それでも前を見ている姿勢が愛しいと思った。
ネイティブ文化やツアーの話をして、それぞれに歩いてゆくのだなあと思った。
アメリカ横断しながら23ヶ所でコンサートをやった。デヴィッド・バーンも見に来てくれた。

たくさんの場所に行って、いろんなことをしたよ。

沖縄という地に立って、
自分の生きている大地は地球すべてだと知った時、
中川敬にいわれた言葉を、自分の中で消化する事ができた。


2000年には、夢だった喜納昌吉の本を書いた。
ネイティブマインド、ローリングサンダーといった素晴らしい本を世に出した北山耕平さんは、
その本「流れるままに」を、ご自身の集大成「ネイティブタイム」で参考図書としてあげてくれた。

18才のときに書いたインド旅行記を読んで、吉本ばななさんは、初インド旅行へと旅立ったという。


いろんなことをしてきたなあ。いろんなひとに出会ってきたなあ。
私は、なにをくすぶってんだろうかと思う。



生きることは アート そのものだ。

すべての瞬間を ロックで パンクでいよう。
アーティストでありながらプレイヤーでありながら。
24時間が祈りであることを ハラ に置きながら。


今は、充電。
たっぷりたっぷり吸い込んで

ふわーーーー ってすんごいのを 世界にばらまくの。

いつか


だから、焦らない。
ゆったり のんびり 


さて、あと数ヶ月の20代をどのように生きてくか?

次の10年、まだまだ走るぜ!


死ぬまで、熱いよ。 きっと。


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