ゆれるゆれる
てんのー



 父のこと

父はいつでも、父らしくあろうとする人だった。
けれど、その前にまず、人間らしくあろうとしつづけた人だったのではないか、と今、思う。

だった、というからには、俺の中で父が「過去」として処理されてしまったということを、認めないといけない。

――父の居場所が分からなくなって、ほぼ1年半が経った。

昔から酒を飲むことも、酒を飲む場所もその雰囲気も、大好きだった。
トランプもウノも将棋も花札も百人一首も、およそ家族でやりそうなゲームはめっぽう強かった。マージャンも囲碁も強くて、結局まぐれ以外で彼に勝てたことは一度もなかった。

ふと思い立ってドライブに出かけたり小粋な蕎麦屋やレストランの予約を取ったりする行動力というか足の軽さは、俺にも同じ血が流れているのかもしれない。
俺が行く店はまだまだ、まるで小粋なんかではないけれど。

基本的に理系で、自分が言い聞かせたり説得するときには、その理論や言い分に絶対の自信を持っていた。
ほんとうの営業のプロで、しかもベテランだった。
たくさんの部下がうちを訪れ、よく庭でバーベキューをしたりした。
ある時期までは。

東京本社勤務から離れられないと知るや、家庭のために長年勤めた会社をあっさりと辞め、さっさと転職先をみつけて広島に帰ってきた。世間に吹き荒れるリストラの嵐のなかで、彼は「人と人のつながりは宝だ」とかみしめるように言っていた。

ある時期を境に、それまでほとんどしなかった仕事での成功譚や、自慢のような話をさかんにするようになった。
それが不安や焦りのサインだということに、家族の誰も気づけなかった。

父の飲む焼酎の量は日を追って月を追って増え続け、そのうちに夕方家に帰るなり酒、土日は朝から酒、という光景があたりまえになった。

仕事の成功譚はしばらくして昔話の方が多くなり、週刊誌の記事の受け売りがしょっちゅう混ざるようになった。
「どうして『ビンラディン氏』なんだ。あんなの『容疑者』じゃいかんのか」
自分の頭で考えるという習慣を、やめてしまったかのようだった。

今思うと、うすうすは俺も気づいていたのだ。
父は酒がおいしくて、あるいは飲みたくて飲んでいたのではなかった。
それどころか、できれば飲みたくない、本気でやめたいのにどうしてもやめられないようだった。父はまるで不味そうに、毎日飲むのだった。
母は言葉を代え口調を変え、酒をやめるように言っていたが、それはひょっとしたら、寝不足の人に「寝るな」と命令するようなものだったかもしれない。

そのうちに俺はマレーシアへ引っ越し(つまり、あまり父のことを真剣に心配していなかったのだけれど)、母は父をアルコール依存症の治療プログラムに参加させる、言葉を代えれば病院へ送り込むことを考えていたようだった。

父はいなくなった。

その少し前には、酒臭いままで会社に出たり、考えられないようなミスを仕事で繰り返したりしていたらしい。
無断欠勤した日から携帯はつながらず、心当たりのあらゆる場所にも痕跡はなかったという。

俺がそれを聞いたのは、連絡が取れなくなってからほとんど1ヶ月が過ぎたころ、休暇で一時帰国したときだった。

警察は捜索願を受け付けて「まァいわゆる行方不明というのは、年間10万件の届出がありますから」とだけ言ったらしかった。
言葉にいちいち腹を立ててもしょうがないし、親切からの言葉といえなくもなかった。

2台止められる駐車スペースの1台分は必ず空けて、いつ父が帰ってきてもいいように車を入れていた母だが、この間実家に帰ったとき見ると車はゆったりと入れられ、空いたスペースでは物干しにバスタオルが風にゆられていた。



父は、立派な父と現実の自分のギャップをとうとう、認められないままだったのではないかと思う。
そして、その気持ちを結局誰にも打ち明けず、適当なガス抜きもできないままだったのではないかと思う。

かちんこちんの、へんな観念に取り付かれていたように思う。

俺たちは、誰も立派な父親なんか求めていない、世界中のどこに行ったって見つからない、俺たちだけの父親であるだけでいいんだと、言うことはできたんだけれども。そしてそれは、本心なんだけれども。

なにがいいことかなんてまるでわからない。
でも、今までの恩返しをするのはやっと、これから、というところだったのに、という思いばかりが残る。



こんなことをwebに書くのはある覚悟を決めた上でのことだ。
繰り返しているようにこの日記を、俺は残していくものとして書いている。
はっきり言って、どうして実名で書いてはいけないのか自分でもよく分かっていないくらい。

強調したいのは、俺は両親をこの上もなく尊敬しているということ。
同じようになれるとは思っていないし、なる気もないけれど、その尊敬の気持ちが揺らぐことはこれから先もきっと、ない。

こうしてみると変なもので、息苦しいように見える日本でも、身を隠そうとすればけっこうしっかりと隠れてしまえるものなんだなと思う。

去年祖父の三回忌で親戚が集まったとき、葬式のとき泣いていた母が自分の父親を静かに弔っている姿を見て、ああ、俺は自分の親父の葬式も出せないのか、と強烈に感傷を覚えたことを思い出した。

ああ、やっと書けました。



父の日。
たった一度だけプレゼントを贈ったことがある。
小学校のとき、弟と一緒に買った「ウイスキーのミニボトル」。
ほんとうにちっちゃい、飾りにするようなやつだ。
父は今でもはっきり覚えているぐらい喜んで、テレビの横に飾ってくれた。
しかしなんちゅうものを贈ったものだろう。

2004年06月20日(日)
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