ジョージ北峰の日記
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2016年10月06日(木) 原子力発電所

   
 しばらくエッセイを書くのを休んでいました。ようやく物を書きたくなってきました。

 最近原子炉の廃炉が取りざたされ始めました。しかし 国は原子力発電(原発)をあきらめたわけではなく、将来の実用化に向けての姿勢に変更はないという。

 私は原子力工学についてはあまり詳しくないので、原発の安全性について科学的な観点からではなく、人間の示す習性という観点から、原発利用の合理性ついて考えてみたいと思う。

 鹿児島県の知事が同県の原発について、強い地震があった場合、安全かどうか不安が払拭しきれないので、県民が納得出来るまでは原発再稼働をとり止めてほしいと九電に要請した。
一方九電側は、問題の原子力発電所は、原子力委員会の厳しい規制に鑑みても充分基準を満たしているので絶対に安全だと、県側の要請を一蹴した。 

 これはどちらが正しいかの議論ではなく、立場の違いを明確に述べただけのように(私には)思える。つまりこの手の議論は今後もかみ合うことなく、新たな事態が起こるまで延々と続くだろう。

 立場の違いとは、原子力が今後人間にとって1)必要か否か、かまたは2) 危険か危険でないか、の議論だからだ。

 少し詳しくは1)は我々の生活、経済を維持するための必要性についての議論、2)は原子力の人間を含む自然に対する危険性についての議論だからだ。
お互いに議論の立場が異なっているのだ。

  前者の議論は現代の人類が必要とする電力を安く安定に供給するには、今後も原発は絶対に欠かせない。照明システムは勿論、エアコン、テレビ、デジタル機器、・・・・掃除機、洗濯機、さらに進化しつつある実用的ロボットや自動車など現代生活関連する機器やシステすべてを動かしているのは電気で、その需要はますます増加しているというのだ。

 先進国であり多量のエネルギーを消費している日本のような化石燃料に乏しい国にとって原子力は夢のエネルギーと言っても過言ではない。
これは原子力発電の人類にもたらす経済的恩恵についての議論だ。


 一方後者の議論は、原子力の危険性について広島・長崎の原爆やチェリノブイリの原発の事故で経験した通り、人のみならず自然界に甚大な物理的(外傷)被害を及ぼすばかりでなく、生物に重大な遺伝的障害を引き起こし、自然界全体に及ぼす被害は今後計り知れないという。

  日本の福島の原発の事故も、今後どの方向へ終息が向かうのか予想がつかない。収拾に幾らお金が掛かるかさえも分からないという。
今後、もし人に原子力に対する関心が薄れ、この発電所で働く人がいなくなった場合どうなるだろう?
  発電所は放置されたままで、もっと恐ろしいことが起こるかもしれないと危惧されている。


  オバマ大統領の広島訪問と核兵器廃絶へ向けての演説があり、原子力兵器がもたらす人類への取り返しのつかない甚大な被害について、世界の人々の間で一層議論されるようになったが、それでも、今後核兵器が廃絶されるかどうかは予断を許さない状況だ。

  一方原発は原子力の平和利用という観点から夢のエネルギーと唄われ、当初から積極的に開発が進められてきたが、本当に安全性が確保出来る技術なのだろうか?が今問題なのだ。
スリーマイル島、チェルノブイリ発電所の事故が起こるまで、原子力発電所は絶対に安全と誰もが信じてきた。

  さらに福島原子力発電所で自然災害による事故が発生したが、あの程度の自然災害には原発は当然耐えられるだろうと信じていた。が、結果は自然災害にも意外に脆いことを露呈した。

  いずれの事故も、先進国でこんなひどい事故が起こるとは誰も予測もしていなかったと思う。

  本来原発では事故は絶対に起こる筈がないと信じていたのだ。
事故は全く偶発的な人為的又は自然災害によるもので、いずれの事故も、当事者にとっては想定外のことだったとされている。

  しかし原発肯定論者が主張するように、原発運用の基準を厳しくすれば、このような事故は今後絶対に起こらないと言えるのだろうか?
戦争でミサイルが原電に撃ち込まれたらどうなのか? 
 疑問は尽きない。
 
 以上のように後者は原発の危険性についての議論なのだ。

  原子力の危険性について、人間の示す信頼性の限界という観点から、もう少し考えてみたい。

  これまで、原子力関連施設の事故は絶対に起こらないと信じられてきた。
にも、関わらず3件も起こったのだ。それもアメリカ、ソ連、日本のような原子力先進国においだ。

  自然災害も、人為的ミスも「一度あることは二度ある」「二度あることは三度ある」とよく言われる。
  これは経験のあり方を述べただけのように聞こえるが実は統計学に基づく法則を述べたものとも言える。

  これを証明することは出来ないが「真理」と考えられるのだ。
つまり、これは人の信頼性を示す重要な指標なのだ。

  だすれば、原発が世界中に建設され続けたとすると、統計学的には事故は時間の経過とともに、今後増え続けると断言できるだろう。

  原子力による事故は、局所に限定、短期間に修復できる類のものはなく、長期間にわたり地球規模の広がりを示し修復不能の被害をもたらす。

  つまり事故が一次関数的に増えたとしても、その被害は指数関数的に広がると考えられるのだ。

  原子力発電所が現在のペースでもし無制限に建設され続ければ、いずれ地球上での許容限界(核エネルギーの巨大さを考慮すれば)を早い段階で超えてしまうだろう。


  とすれば次の問題として、原発事故は地球の存続にとって何回ぐらいまでなら許されるのだろうか?

  つまり原発建設は、何か所ぐらい迄が許容範囲なのだろうか?を考えておく必要がある(私には分からないが)。

  更に使用済み核燃料の処理施設となると、もっと深刻で、当然地球規模の観点から考えられるべきだろう。

  最終的には核燃料処理施設は人間の住んでいない島か深海の何処かに世界共通施設として建設し核廃棄物は一括して集中的に処理・管理されるべきだろう。

  原発建設は核兵器だけでなく国家レベルではなく国際レベルの許可に基づかなければならなくなるだろう。

  国ごとに勝手に建設していくと、殊に小さな国が密集する地域では、早い段階で隣国とのトラブルが発生するに違いないからだ。

  人間の経済活動の豊かさを保とうとすれば、原発があった方がよいが、危険性を考えると、人類はどこまで原発の保有を許容できるのか?が問題になるのだ。

  人間の信頼性には限界があり、原発の事故をゼロにすることが不可能と考えてくると、その適正配置を考えることもさらに必要になるだろう。
  しかしそれには国家間の利益も絡んできて、ずいぶん複雑な問題になるだろう。

  国家間のトラブルが起こさない一番よい方法は、宇宙空間に原発を建設し、使用燃料を廃棄するシステムを開発することではないだろうか。さらに核廃棄物を貯蔵する宇宙ステーションの建設か、廃棄物を宇宙の何処かへ、まとめて送り出すロケットの開発だ。

  宇宙まで拡張して考えることが可能なら、わざわざ原発を考えなくても、ソーラー発電所の建設の方が速くて安全かもしれない。

   しかし、何れにしても、気の遠くなる面倒な話だ。


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