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2005年10月31日(月)
CHANGE THE WORLD




昼過ぎからの雨は強さを増し、今は風も出ている。立て付けのいい窓はかたかたと震えるばかりだ。風のうなる声は遠く、室内は静まりかえっている。あるのはエアコンの音。それからときおりペンのこすれる音がすこし。俯いてペンを走らせる男を見ながらぼんやりと、まつげがながいなあ、などと思っていた。


「今何時ですか?」

訊いて突然顔を上げるので目が合った。
「……11時」
「ああ、ちょっと根を詰めすぎましたかね」

ふうと息をつくと肩を回して、それからノートを差し出す。
「はい。もう教えるところないんじゃないですか」
「……間違った部分があるだろう」
「理解はできてるみたいですから、うっかりとかそんなもんですよ」
「だが」
「なんにせよ、今日は終わりです。疲れを押して詰め込んでも実になりませんよ」
「………」
「一息ついてお開きにしましょう?」

伺うように顔を覗き込むと、立ち上がってキッチンへと向かう。そのジェイドの背中を、プラチナはぼんやりと見送った。





勝手知ったる他人の家、などという言葉があるが、実のところこの男のほうがこの部屋の台所を知っている。ここにはティバッグの類はなく、かわりに数種の茶葉がある。それを買い揃えたのはプラチナではなくジェイドだ。プラチナはといえば、茶の銘柄もまともに覚えてはいない。咽喉が渇けば水があれば事足りる。だから茶を飲むのはジェイドがいるときぐらいのものだ。ひとりでいるときに茶を淹れたことがないわけではない。だが、飲んでみると驚くほど味気がなかった。やはり淹れ方というのがあるのだろうと、ジェイドのいるときに見てもらいながら試してみたが、そういうことではなかったらしい。茶葉も手順も一切変えることなく、ただ味だけが変わった。ジェイドがいる。それが自分にどういう意味を持つのか。そのことをプラチナがはっきりと自覚したのはその頃のことだった。





「どうぞ」

ことりと丁寧な音を立てて、目の前に紅茶が置かれた。ちいさく礼を言って口をつける。乾いた唇を濡らし、熱は胸元に溜まった。そこからじわじわと体中に広がり、かたくなった体をゆっくりとほどいていく。ふう、とながい息をつくと、ジェイドが嬉しそうに笑った。





思えば彼との付き合いはもう10年近いのだった。付き合いといっても、そもそもはただ隣に住んでいるというだけの存在だった。家をでると近所でよく姿を見かけた。話をすることもなく、知った顔なので見ればいくらか眺めることもあったがそれだけのことだ。ただ子供心に、どうやら好かれてはいないということは感じていた。目が合うときはいつも冷えた目をしていた。それがどういう弾みか、いつのまにか子供のプラチナはその少年の部屋に入り浸ることが多くなり、やがてそばについて勉強を教えてもらったりするようになっていた。ほかのどんな大人――父や母、また家に仕える幾人か――とも彼は違った。プラチナの質問をはぐらかすことも嘘を言うこともしない、わからないときにははっきりとそう言う。わかることはプラチナの幼い頭にも理解の及ぶまで懇切丁寧に説明する。今になって思えば、いまのプラチナよりずっと幼かった当時の彼は、その年齢を思うとずいぶん忍耐強かった。思い返せば頭を下げたくなるような時間、小さなプラチナはなんの報酬もなく少年を拘束した。やがて両親がその時間に報酬を払うようになり、彼は少年になったプラチナの家庭教師を務めるようになったのだった。





ジェイドが時計に目をやった。見れば日付が変わるまでもう十分少々だ。
「ああ、もう――」
「帰るのか?もう遅いぞ」
「ええ、ですからもう」
「…………」

引き止めるつもりで言った文句だったのだがそうは受け取られなかったようだ。あるいはあえて曲解しているのかもしれない。

「すごい風だ」
「そうですね」
「雨も酷くなっているぞ」
「ほんとうに。大変ですねえ」
「…………」
「…………」
「ぬれるぞ」
「平気ですよ」


だって、となりですから。


そう言ってジェイドはわらった。茶器を片付け荷物をまとめるのをぼんやりと見つめる。ジェイドの言う隣というのは、この部屋と壁一枚を隔てた、同じつくりの部屋のことだ。





プラチナが進学先を定めたその矢先、ジェイドが家を移った。新しい家は遠く、通うことが難しくなり、ジェイドは家庭教師を辞めた。それから数ヶ月で、プラチナの成績はいっそおもしろいほど落ちた。勉強は好きでやっていたことで、成績がよければ褒められはしたがそれもできなければ落胆されるというほどのものではなかった。ただ、ほかに趣味らしい趣味もなく、それで学ぶことに夢中になっていたのだが、まるでおもちゃを買い与えるように両親が手配した家庭教師との時間は実に無駄なものだった。彼らの頭の中にあるのは必要最低限の知識、それも既製のものばかりだったのだ。勉強が好きだというと皆奇妙な顔をしたが、なるほどこれはつまらない。申し訳なく思いながら、けれど遠慮なくくびを切り、そしてプラチナはジェイドに連絡をした。受話器の向こうで、ジェイドはまるで昨日も一昨日も会ったような気安さで語り、住所を告げ、それからあたりまえのように、「では、また明日」と言って電話を切った。まもなくプラチナは家を出てジェイドの隣の部屋に移り住み、今また彼の時間をまったくの無償で手に入れている。





「今日は寒いぞ」


玄関で靴をはきながら、ジェイドが目を丸くした。それはそうだろう。今の今まで無言だったのだ。
「……そうですね。はい」
「帰ったら、エアコンをつけるだろう」
「はあ」
「無駄だと思わないか。ここはもうついているのに」
「…………………………」
ジェイドが瞬きをする。めちゃくちゃだ、とプラチナは思った。支離滅裂とはこういうことか。いったいどこの誰がエアコンで家に帰るのをやめると言うのだ。
「ええと」
あきれている。
「……寒いじゃないか」
言ってしまった手前、なんでもないとは言えない。プラチナは自分の顔が不機嫌そうになっているのを感じた。
「暖まるまで時間がかかるぞ」
「…………ええと、そうですね」
「寒い」
馬鹿の一つ覚えだ。と、突然ジェイドの頬が緩んだ。
「そうですね」
「え」

言ってしゃがみこむと、ジェイドは履きかけた靴を脱いで隅のほうに寄せる。それから部屋に上がりこむと、笑った。
「お気遣いありがとうございます。泊めていただけるんでしょう?」





ジェイド・デイヴィスという男は負け知らずといっていい。それに気がついたのは、ジェイドが家庭教師として家に出入りするようになってからすぐのことだ。時折見かけるようになった誰かとの会話で、ジェイドはいつも相手より上にいた。二面性という言葉を使うとジェイドは笑った。そうですね、確かにそうです。裏も表もないような顔で笑って、ジェイドはそれを認めた。彼は強いてプラチナを負かそうとはしなかった。だからプラチナは、ジェイドに勝ちを許された、自分の知る限りでは唯一の人間だった。
ジェイドがただただ自分に勝ちを許さなくなったのはいつからだったか、はっきりとは覚えていない。ただ、ジェイドが――おそらくは自分でも思いがけず――プラチナの上に立つとき、彼はいつも、自分の勝ちにもかかわらず、ひどく気まずげな表情をした。世界の側から見たときの、ジェイドの「裏」にいた自分が、「表」側に連れて行かれようとしている。そんな気がして、そのせいかプラチナはすこしばかり言葉数が減った。もともとそう多弁ではないプラチナの変化に気がついたものは稀だったけれど、彼がそれに気づかないわけはなかった。ジェイドは、今思えばまるで逃げるように姿を消した。それから次に会ったときには、プラチナがジェイドに勝つことはもう殆どなくなっていた。それはけれど、時折プラチナが垣間見たような、上から見下ろすような勝ちではなかった。打ちのめされることはけしてなかった。それから傷つくことも。






「そろそろ引っ越そうかと思ってるんですよ」

その台詞はあまり唐突で、プラチナは驚いて指先で葡萄をひとつぶ潰した。

「あ」
「ああっ。なにしてるんですか!」
「す、すまない……。……え、ひっこすのか?また?」
「また。ほら、拭いて」
「だって、どうして。ここでは不都合があるのか」
「そうですねえ、まあ。少しばかり」
「…………どうして」
「うーん。なんといいますか、こう。距離がね」
「通勤か?」
「いえ、そういうことではなく」
「………もう決めたのか?」
「いや、まだ。まあ、ちょっと離れたところをね、狙ってるんですけど」
「はなれた………………」

なんということだろう。実際、こうしてプラチナがここにいるのは殆どジェイドを追いかけてきたようなものなのだ。そのつもりがあったわけではなかったけれど、結局はそれが理由だった。それがまた。プラチナはすっかり言葉を失ってしまった。ぼんやりしていると、紅茶をひとくち飲んでからジェイドがおもむろに口を開いた。

「まあ、遠くにいく以外にも方法がないわけではないんですが」
「――――え」
「あなたがね、さっき。もう遅いって仰ったでしょう」
「ああ……ああ」
「それから雨が降っているとか、風がとかね」
「ああ」
「結局ね、隣だとそれがどうしたってことになるんですよ」
「………………」
「もう遅いからかえるのつらいな、とかがね。言えないじゃないですか」
「…………………………な」
「だからまあ。ああ、運転したくないなー。くらい言えるような」
「それで」
「そういうところがね」
「おまえ…………めちゃくちゃだぞ」
「そうですか?」

ジェイドがにやりとわらった。拙い言葉にめずらしく負けてきたと思ったらなんのことはない。この布石だったのだ。

「だからね、別にわざわざ遠く離れなくても。――――帰らなくていいようにしてしまうと言うテもあるんですよ」



プラチナは。

今度こそ本当に言葉をなくした。



「勿論それについては俺一人で決められることではないんですが。相手がいいと言わない限りは、俺が勝手に押しかけるわけにも行かないですし。そもそもひとりで占領された空間にもうひとり割り込むとなると、いくらかは処分しないといけないものも出てくるでしょうからね。こればっかりは独断でどうこうできることではないので――――」
「ジェイド」
「はい?」
「本気か?」

問いかけた声は驚きを隠しきれずに(それに大きな疑念と、すこしばかりの浮かれた気持ちも)、ジェイドの笑いを誘う。

「まあ。……そろそろ次の段階にすすみたいところなんですよ、正直」
「つぎの」
「だってねえ――――――――」









いつまでも、隣のお兄さんではいられないでしょう?
















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