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みん
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2004年06月19日(土)
まっちろにっき。(すんません……。

パッションセカンド。時間がなくて見ていないママ上と行ってまいりました。
もう最終が近いので120名会場とかなのね。映画館とは思えない狭さ。
これはアレだ。新宿の……あああんなにお世話になったのに名前忘れてしまった。
えーと目白の萬スタジオみたいな(狭ッ
思い出したシアターブラッツ?あれ、それは郵便局のほう?あれ?まあいいや。

一回目で粗さがしてもいないのに粗ばかり見てしまった私は見てよかった。
前もってわかってるので粗が目に付かなくなっている。
こういう見方もあるのだね。
ええとそこはかとなく反転。念のため。

映像としては最初のほうのシーンは三度目で、
(英語版DVDでちょっとだけ見てるから)
ずーっと私はユダの唇が気になっていたのですよ。
見るに耐えないというか、ひどくて。
ぼろぼろで…はがれてるの。
わたしは彼が唇を噛み締めて傷ついたのだろうか、とか思っていた。
それで、二度目のときに、裁判所で傍の柱に顔をこすり付けているのも
何をしているのかわからなかった。
泣いているのか、涙を拭いているのだろうか、でも手が自由なのに?とか考えていた。
三度目に見て、或いは彼は唇を傷つけているのではないかと思った。
愛する人が裁かれている。唾をかけられ拳に撃たれ、鎖に繋がれて肌が擦り剥けて、侮辱の雨の降り注ぐ中それを甘んじて受けている。そして彼をそこに連れて行ったのは自分の唇だ。

彼にくちづけた。そして言った。
師よ、お元気ですか。
そのくちづけが、言葉が。彼を売ったのだ。

それでユダは、自分の唇を何か穢れのように思ったのではないだろうか。
それが罪のように思えて、それを剥がしてしまおうとしたのではないだろうか。
そう思った。

父の涙は、見る用意が出来ていたのでかえって感動できた。
一回目は興醒めでしたけどね。母もアレはちょっと、と言っていた。

一度目でも辛かったのが、シモンの「もう少しだ」という言葉。
彼は慰めているのだ、イエスを奮い立たせようとしているのだろう。
けれど言いながら気がついていなかっただろうか。
十字架を運び終えた、貴方に待っているのは家路であって、
彼に待っているのは更なる苦難だということを。
もう少しでそこにたどり着くから。
それが終わりの始まりだということを。


アレを見たあとで聖画を見るとどうにも。きれいなからだをしているもので。
けれど残虐といわれるあの絵ですら、私には甘く感じられる。
今までに無い描写だけれど事実は。
事実は?

皮膚が、どれだけ残っていただろう。きっともっと、ずっと。ずっと。

*

何度見てもちょっとやじゃなー、と思うのが、ユダの死に至るシーンはやりすぎ、ということ。
彼の死は、きっと違うと思う、というか。イエスを売ったのは――罪、と一概に言えるものではないのではない?
あと、囚人の一人がイエスを罵って烏に突付かれるのも。イエスを貶めた罪がああいうふうに即座に帰ってくるのは疑問。
マグダラのマリアの出会い。やっぱり何が起こってるのかわからん。
亀裂の走る聖所。メルさん多分旧約(=十戒の石版…の模写?)を壊したかったんでしょうね。でもあれは聖所と至聖所の隔ての幕が裂けることに意味があるのであって神殿壊すのとは違うなりよ。
あ、旧約を壊すのではなくて「神殿が壊れても三日で立て直す」=この身体が壊れても三日後に蘇る、でイエスの身体が朽ちるのと同時に神殿を壊して見せたのだろうか。そういう考え方もあり。
あとは、夫人よ、そこに貴方の息子がいます。兄弟よ、それがあなたの母です。
英語だと、ヨハネがマリアをmotherと読んでいるのに日本語字幕はそれを「マリヤ、こちらです」とか言ってるので、あれだとヨハネとマリヤが他人なのにイエスの弟子なので任せた、と見れんこともない。ヨハネはマリヤとヨセフの息子なのよ……。

*

事実として忠実であるのは――というか、視覚的にリアルなのはパッション。(事実か否かを見るなら、パッションは寧ろ絵画に忠実なので)でも聖書が書いてあることを忠実に伝えるのは多分ナザレのイエス。(ユダ、prodigal sonなんか。)映画として鑑賞に堪えるのもナザレのほうかと思う。順番的に、パッションを見てナザレを見て、それからトランスフォーメーション?(笑)
つうかほんとにナザレのイエスは見て損ない。かなりいい映画なので是非。
見たい見たい。くはー。DVD買おうかな!ドライブ修理してからね!(爆

見てる最中にこれどうしても書きたくなっちゃったの。



↑画像は出るわコメント変わるわしかも投票までされちゃう。


自分を低くするものは高くされる。

ジェイドさんってサンダルじゃないですか。彼が外を歩くと足って汚れますよね。
BCとADの境とかあの辺りは、足を洗うことは奴隷の仕事であって、旅人への最初のもてなしだったのだそうで。
旅人をうちに寄せるときは、あるきどおしで砂まみれの足を洗うのだそうです。
王というのは人の上に立つものであって、同時に国民の僕であると思う。
いい王というのはいいしもべだと思う。
そうあって欲しい。

パッションばっかですんません。(苦笑)