みちる草紙

2005年04月19日(火) ペットブームのその陰で

今日、紋次郎のために新しいゴザを買ってきた。
この前敷いてやったものは、思ったとおり最後のひと房までバラバラに解体されて
みごとに陰も形も残らなかった。これもうさぎのサガだからしょうがないのだが。
そう言えば、人参があとひとかけらしか残っていない。よっしゃ、すぐに買ってきてやるぞ。

この頃、もんがかわいくてしょうがない。世話の焼き方も尋常でない。
相手にも少しは伝わるのか、しきりに撫でて欲しがり、ムダ暴れをあまりしなくなった。
そんなの今に始まったことじゃない?いいえ、そういうことではありません。

先日、動物保護団体のホームページを色々と見ていて、非常にショッキングな報告を
目にしたばかりなのである。何度思い出しても、胸がキリキリ締め付けられるような。

非道なペットショップがあり、売られている動物たちはどれも糞尿に塗れ、飢え乾き、
痩せ衰えている。衛生管理は殊に杜撰で、餌や水さえまともに与えられていない。
そこの店員は、中でも弱って死にかけたうさぎを、生きながら処分したという。
客の制止も聞かず、その見ている前で、息をしているのも構わず新聞紙にくるんで…。
仕入れた店がここでさえなかったら、うさぎはもっとましな一生を送れたかも知れない。
保護団体は署名を募ってそのペットショップを糾弾したが、法の壁が立ちはだかり
遂に起訴には至らなかったという。これは一例で、同様の店は国内でも枚挙に暇がない。

生きたまま毛皮を剥がれるたぬきの映像があった。場所は中国。
数分後の自分の運命を悟ったかのように、遠くを向いて寂しげに瞬くふたつの瞳。
後ろ足を掴んで何度も地面に叩きつけられたあと、四肢を鉈で打たれ、高く吊るされる。
弱々しく空を掻くたぬき。人間は情け容赦なく、引きむしるようにバリバリと生皮を剥ぐ。
それは、言語に絶するむごい光景であった。
皮を全て剥ぎ取られ打ち捨てられてなお、血みどろのたぬきはまだ息がある。
最後にあの悲しい瞳を微かにしばたたいて、果てた。
続きがあったが、そこで止めた。とても動画の終いまで見てはいられなかった。
まして、うさぎの犠牲が多いと聞く動物実験の模様など、何としても見る度胸がなかった。

賢人たちの言葉が追い討つように、そこここに引用されている。
『人は幼い時に動物と触れ合うことで、優しさや思いやりを学ぶ』
『動物にしたことは人間に返ってくる』
その日は、あのたぬきの目が始終頭にちらついて、何ともやり切れない気持ちであった。
アタシがバーゲンで買ったレッキスラビットの毛皮は、中国で生産されたものだった。
死体から採るのでもなく、我々が想像するような、コストのかかる薬殺でもなかった。
果してレッキスがどのような最期を迎えたかも、推して知るべしであろう。
こともあろうに、もんを飼っていながら…。アタシが同じ鬼でなくて何だというのか。

世に言う生類憐みの令は天下の悪法。動物は好きだが、愛護団体と聞くとそれだけでもう
ヒステリカルに喧しい人権団体と地続きの感覚で受け止め、これまで斜に眺めていた。
すぐに思い浮かぶのは、我が国の捕鯨問題、そして、豪奢な毛皮を着て乱獲反対を訴え
非難を浴びた(これは当たり前だろう…)歌手のオリビア・ニュートン・ジョン。
極寒の日にも革製品を纏わず、病気になっても薬を飲まず、滋養のための肉も口にせずに
人間は生きてゆけるのか。アタシもそれら圧倒的な要求に抗うことは今もって出来ない。
が、程度の差こそあれ、彼らは生きものを不要な殺生から救うことに大真面目である。
それは、有閑婦人が金に飽かせてペットを人形のように飾り立てるあの愛情とは
自ずと意味が異なる気がする。動物も人間同様、容姿や血統が明暗を大きく分けるものだ。
荒川河川敷の負傷し汚れたうさぎを全て保護したのは、非営利の彼らではなかったか。

真新しいゴザの上で、もんが人参にむしゃぶりつく様子をじっと見ていると
またしても、哀れな動物たちの姿が繰り返し目に浮かび、深々と溜息が漏れる。
ようやく生えそろったフサフサの毛並みが、いやでもあのたぬきとだぶってしまうのだ。
ころころ太っているかに思われたたぬきの身体は、実は意外なほど華奢だった。
皮ごと持っていかれて既に耳もない、血でぬらぬら光る哀れな坊主頭の
それがかつてたぬきだったと知れる僅かな名残は、あの悲しい目だけ!!
アタシに引き取られたばっかりに、もんが不幸な生涯を終えるようなことがあってはならない。
もん、人間は酷いね。今は食べるものも着るものも、他にいくらでもあるのにね…。

動物を媒介する疫病は、或いはせめてもの祟りと言えるかも知れないが
それでも動物たちが人間を恨んで反乱を企て、罰することは事実ない。
住処を追われ、飢えて人里に姿を現しても、彼らを待ち受ける運命はただ一つである。
人々は形ばかりの贖罪にと、その衣食や医薬の犠牲となり、罪なくして死んでいった
生きとし生けるものたちの慰霊祭を行うことがある。己の罪悪感を和らげるために。

ここに、一片の罪滅ぼしとの言い訳に、今日も微笑んでうさぎの●を片付ける罪びとがいる。


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