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2005年07月09日(土) 誓約

 アジトの長い廊下を自室へ向かう途中で、ヒートは何度か声をかけられたが、立ち止まらなかった。戦闘後で疲れているし、どうせ、大した用件ではない。トライブ内の重要事項は、すべてサーフかゲイルの元へ直接報告するものと決められている。情報を正しく伝えるためには、なるべく人を介さない方がいいからだ。だから、適当に聞き流してもさほど問題ではないだろう。
 
「ヒート」

 だが、ふいに届いた声に、ヒートはぴたりと足を止めた。否、反射的に止まったと言う方が正しい。
 疲れている。血で汚れたスーツもなんとかしたいし、なによりもまず眠りたい。誰とも話などしたくない。したくないのだが。
 軽い溜息と共に、ゆるゆると顔を向ける。廊下の角の壁にもたれ掛かるようにして、サーフが立っていた。

「お疲れ」
「皮肉か」
「違うよ」
「…何の、用だ」

 身体だけでなく、発した声まで重く感じられる。不得手な敵が多かったためだろうか。一刻も早く、部屋に戻りたい。だが、ヒートの足は動きを止めたままだ。

「別に、取り立てて言うほどの用は…」
「じゃあ、呼ぶな」
「用がなきゃ、呼んじゃいけないのか」

 まるで子供の会話のようだと、重い頭でぼんやりとヒートは思う。尤も、子供がどんな会話をするものか、問われれば答えられないだろう。ただ何となく、そう思っただけだ。
 ヒートは頭を振った。

「生憎、お前の気紛れに付き合ってやるほど暇じゃねえんだ」
「それなら無視すればいい」

 呼び止めておいて随分な言い種ではあるが、確かにその通りなのだろう。普段あえて口にはしないが、実際はサーフはトライブ内のことによく気を遣っている。重要な話なら、こんな所で適当に声をかけたりしない。だから、本当は無視してもよかったのだ。
 だが、それが出来ない事も、ヒートは知っていた。
 

 まだ自分が空っぽだった頃。
 ただ掟に従って戦闘を繰り返すだけの毎日だった頃、ヒートにとって、サーフの声は絶対的な力を持っていた。サーフの唇から紡がれる命令を遂行する事が、自分の存在意義だったのだ。
 

 その声で、名を呼ばれる事が。
 

「何もないなら、行くぜ」
「ああ。探索を頼んだのは俺なのに、疲れているところを悪かった」

 ジャンクヤードを縛っていた掟は、すでに潰え去った。今やニルヴァーナを目指しているのは、掟のためでもトライブのためでもなく、自分の意志だ。もう「ボス」に従う必要はない。ないはずだった。
 佇むサーフの横を無言で通り過ぎて、薄暗い廊下を自室へと急ぐ。今度こそ―。

「…ヒート」

 足が、止まった。
 決して大きくも強くもない、ややもすれば雨の音にさえかき消されてしまいそうな、静かな声。
 
「おやすみ」

 コツコツと小さな足音が遠ざかっても、ヒートはその場から動かなかった。


 かつて、そう遠くない昔、


 その声で名を呼ばれる事だけが、自分の全てだった。

 
END




突然ですが随分前に書いてあったDDSATもの。
ひっそり別サイトでも作って…と思ってたんだけど
結局そのままになっていたのでここに。
わかる人だけ…すいません。
私はゲイサフなんですけど、これはサフヒトです。
書きやすいんだよな。


hidali