覚書

 スーツ着用という指定を受けて、自分が持っている中では上等だがどうしても野暮ったいとしか思えない着こなしになるそれを纏って男に同道した。
 やめておけばよかった。
 会場のドアが開いた瞬間に、後悔に襲われる。このままここで回れ右してしまえば、まだ一瞬の恥で済むんじゃないかと思い浮かんだ。しかしその時にはもう、自分の後ろで足を止めた俺の腕を取って、男が慣れた足取りで厚い絨毯を踏んで進んでいるところだった。「引っ張るなよ」という俺の声を無視して、男は人波の中を進んでいく。煌びやかな人々の中を引き摺られるように歩くのは余りに格好悪くて、諦めて歩調を合わせた。歩きながら、腕にかかった男の手をやんわりと外す。自分の手に添えられた手に、男はゆるく指を絡めてなぞり、薄く笑ってから俺の手を離した。体の奥で鈍く走った感覚に焦る。そんな俺に頓着せずに、男は周囲からかかる挨拶に外向けの笑顔で答え始めていた。
 居心地が悪いながらも、もうその場から離れることは出来なかった。主催者に挨拶をしてくるという男が自分から離れても、落着きなくその場にとどまっていた。男からそれを強要されたわけではないが、「ここら辺で待ってろ」と軽く言い置かれた言葉に、刷り込まれたように従ってしまう。
 手持ち無沙汰に男の姿を目で追ってみる。自分には向けられたことの無い人当たりのいい笑顔を浮かべた男がそこに居て、微かに自分の顔が歪んだのがわかった。
 卒の無い男だ、ということは知っている。端正な顔に浮かべられたその笑みがそれは魅力的に見えるのだということも。だが、それが男の何を隠しているかをを知ってしまっている今は、自分の顔を歪ませるだけのものだった。かつてそれに、調子よく騙されていた自分を思ってしまうから。
 知らなければよかった。知りたいなどと、思わなければよかった。今の俺は、男からあの笑顔を向けられることはない。代わりのように与えられるのは酷薄な笑み。そして、ただ一人に向けて、アレに似て非なるものを与えるあの男を見て、俺は胸を軋ませることになった。違いを見極められる自分が、煩わしくてならない。
 愚かしさになど気が付かずに、作り物の笑顔一つで舞い上がっていられたら、温い幸せに浸かっていられたのに。


2007年10月06日(土)

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