ジンジャーエール湖畔・於
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| 2002年06月02日(日) |
Le enfer aux petit fille(フランス少女地獄) |
「フェリックスとローラ」(監督パトリス・ルコント)を観た。 映画史を彩る数々のローラという名の女性の典型であるファムファタール に系譜をもつシャルロット・ゲンズブール演じるローラであった。 しかし何をまた今更といった感じもあり、新鮮味に欠け、退屈だなあ・・・ と思って観ていた。その宿命の女っぷりは手垢がつきすぎていた。 例えばこんな具合に。(以下、ネタバレ) 皆で談笑してたところを突然血相をかえて席を立ってしまうローラ。 心配になって追い掛けてきたフェリックスに 「私、逃げるわ」と訳のわからぬことをいう。 何処へ?問うと「わからない」と更に謎の発言。 そしてフェリックスに突然のキス!そして逃亡。ひとり残され呆然と佇むフェリックス。 それ以来プッツリ姿を消してしまった彼女へ思いを募らせる。 こんな調子でみすてりあすな女ローラの虜となる。 しかし、彼が彼女の為に殺人を犯そうとした時、彼女は衝撃の告白をする。 私はずっと嘘をついていた、と。 自分が話した不幸な生い立ちや、子供がいるだとか、前の夫がどうだとか、 すべて嘘。作り話だった。 全然普通の家庭に育ち、子供も夫もいない。 劇的なことがなんにもない自分に自信がなく、わざと訳ありな風を装って 貴方の気を惹きたかった。 そうして私は自分を演出していただけなのだ。 (まるで夢野久作の「少女地獄」の姫草ユリ子のように!)と告白する。 ファムファタールの敗北。ともいえる急展開。 実はこの映画、凡百なファムファタール映画をメタ化させたものであったのだ。ファムファタールもポストモダンするのかー。 そうすると前半のベタなファムファタも合点がゆく。 舞台となっている移動遊園地に象徴されるように幻想的だった二人の恋。 それが、彼女の告白で、現実的なリアルなものへと変換される。 謎の女ローラはついにフェリックスの前に正体を晒す。 がしかし、そこにはなんにもなかった。 イミシンな彼女の言動の裏にはなにも意味などなかったのだ。 そんな彼女をフェリックスは怒りもせず、がっかりしたりもせず、 「ずっと歩き続ければいいさ」と全肯定する。 それによってローラはやっと孤独という病から解放されるのだ。 Fin
このことは何もフェリックスとローラに限らず、多くの恋人たちにも言えることなのではないか。相手にもっていた理想や幻想が解けた時、 はじめて二人はまともに向き合えるのだと思う。 最後はハッピイエンドなわけだが、私はいつもこういう恋人達が 手に手をとりあって歩いていくイメージのラストに弱い。 「ハッピーエンドの恋人達」よりも「別れる恋人達」の方ドラマティックで 悲劇的かもしれない。 けれど「別れる恋人達」のそういったせつなさは一瞬のもの。 別れた時点で二人の未来はなく、終わってしまう。 それがせつなさの理由だろう。 逆に「ハッピーエンドの恋人達」は、映画が終わった後も観客の中では 二人の関係は続いている。 映画のなかの恋人達とはいえ永遠なんてものはないんだから映画の後で 二人はきっといつか別れてしまうのだろうと思う。 (なんて勝手で深読みでネガティブな映画の見方) 「ハッピーエンドの恋人達」が内包している別れにグッとくるのです。 例えば、「洲崎パラダイス赤信号」(川島雄三)「小さな恋の物語」「橋の上の娘」とか、ハッピーエンドの二人エトセトラ。 あと、誰も知らないとは思うんだけど、おフランスホラーの監督、ジャン・ローランの「猟奇殺人の夜」(こんなタイトルなのになんにもちっとも猟奇的なことなんてないのよん)という作品。 廃人になった彼女と彼女を救おうとして銃に撃たれ今にも倒れそうな男、その二人が手をつないで彼方へとユラユラ歩いてゆくシーンは、”手に手をとる恋人たち”に私がみるせつなさ、みたいなものをもっともよく体現している気がする。映画自体はやたらめったら耽美だし説得力もないんだけど、このシーンが素敵すぎてちょっと捨てておけない作品で。てゆーか、大好きです! ジャン・ローラン監督の映画は他にも「リビング・デッド・ガール」という ゾンビ物みたけどこれも過剰な耽美主義と遠慮ない鮮血に溢れてました。
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