KENの日記
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2017年12月10日(日) 生麦事件参考館訪問

横浜市鶴見区生麦に行くことになったので、これまで訪問を先延ばししていた「生麦事件参考館」と「生麦事件事件碑」を訪問してきました。文久2年(1862年)8月21日に発生した生麦事件の現場は旧東海道の川崎宿と神奈川宿の間にある「生麦村」でした。「生麦事件碑」は第一京浜・旧東海道・キリンビール生麦工場が交錯する場所にあり、キリンビール工場整備・高速横浜北線の工事のために移設を繰り返してきました。今年横浜北線が完成して最終的に高速高架下に移設されました。以前は第一京浜沿いであったの少し東側奥にずれました。生麦事件参考館は生麦の郷土史家が収集した資料を展示している場所だということで、「生麦事件碑」からも近いのでこの二つの場所をセットで訪問することにしました。(参考館は前日に電話で訪問予約しました。)



この石碑明治16年に建立されました。文久2年の事件から21年後のことです。この碑には以下の歌が刻まれています。

君此の海壖(かいぜん)に流血す。我邦の変進も亦其れを源とす。
強藩起って王室振るう。耳目新たに民権を唱う。
擾々たる生死疇(たれ)か聞いて知る。万国に史(ふひと)有り君が名を伝う。

この事件を契機として薩英戦争が勃発し、薩英戦争において列強の近代的技術の水準に目を開かれた薩摩藩等が日本の近代化推進に大きく舵を切っていくことになりました。この事件での「リチャードソンの死」が日本の近代化に与えた影響を明治16年時点においてキチンと把握されています。なおこの碑は事件現場近くでリチャードソンが亡くなった場所近辺の土地所有者「黒川荘三氏」(鶴見の篤志家)が建てたものです。

この後生麦駅の方に戻り「生麦事件参考館」を見学しました。ここは淺海武夫さんが私費を投じて収集した事件に関する資料・文献、10年間早稲田大学に通って研究された成果が展示されています。1時間の講演録画を見て所狭しに展示されている資料・文献を見ることができようになっています。講演ビデオは驚くべきものでした。淺海さんは原稿を見ることなく、年号とか関係者氏名・地名などすべて暗記していて生麦事件の歴史を語られました。時々混じるウィットは淺海さんの人柄から出ているようで大変感心するものでした。淺海は全てを語るには2時間必要だと仰っていましたが、2時間聞いてみたい講演です。

淺海さんは今年87歳になられます。淺海さんの頭の中には文久2年の事件の状況からその後の賠償問題・薩英戦争などが、登場人物・場所などを含めて実際に立ち会ったかのように記憶されているのだと思いました。小さな事でもとことん究明するからこそ、歴史が生き生きと語られるのだと思いました。世間にはとんでもない「偉人」が居ることが分かりました。奥様を既に亡くされた淺海さんは私達が夫婦揃って興味をもって見学に来たことを羨ましがられていました。(下は研究室の淺海さんです)





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