| 2015年01月22日(木) |
チャイコフスキー「フィレンツェの思い出(Souvenir de Florence)」について |
昨年秋にフィレンツェを旅する機会を得たのですが、それをきっかけにしてチャイコフスキー作曲の弦楽六重奏曲作品70「フィレンツェの思い出」が気になっていました。楽曲はボロディン四重奏団(チェロパートはベルリンスキー)にヴィオラとチェロが参加したCDを借りてきて何回も聞きました。一楽章冒頭から非常に濃密に書かれた音楽で演奏も素晴らしいです。チャイコフスキーがどんな気持ちでこの曲を書いたのか興味が湧いて少し調べてみました。
チャイコフスキー(1840〜1893)のイタリアに纏わる曲としてはブラスバンドでも良く演奏される「イタリア奇想曲」が有名です。イタリア奇想曲は作品45で1880年の作品であり「フィレンツェの思い出」は1890年作曲の作品番号は70番です。「悲愴」交響曲が作品74番です。チャイコフスキーは「悲愴」を作曲した後数か月後に亡くなりますので、「フィレンツェの思い出」はチャイコフスキーの晩年(死の3年前)の作品ということになります。非常に明るい「イタリア奇想曲」とは時代が違います。
チャイコフスキーの音楽生活を語るとき「ナジェジダ・フィラレートヴナ・フォン・メック(1831〜1894)(メック夫人)」の存在は避けて通れません。メック夫人は夫の鉄道事業成功で大金持ちになりました。彼女は非常に権威主義的で自分の子供達の結婚にも口を出したという封建主義的な方のようですが、音楽家を育てることには非常に思いれがあり多くの音楽家を助けました。チャイコフスキーはメック夫人お気に入りNo1だったようです。チャイコフスキーには1877年から1890年まで13年間に渡って毎年多額の援助をしまし、そのお蔭でチャイコフスキーは作曲に専念することができました。この間チャイコフスキーの多くの名曲が作曲されました。有名な所では交響曲第4番(作品36)がメック夫人に捧げられています。チャイコフスキーが数々の名作を後世に残すことができたのはメック夫人のサポートのお蔭でした。
しかしメック夫人とチャイコフスキーの関係は非常に風変りな関係でした。10数年間大金を送り続けたメック夫人はチャイコフスキーと会おうとはしなっかのでした。その代わり二人の間では1200通を超える手紙の遣り取りがありました。メック夫人は自分が死んだ後には手紙の全てを廃棄することを言い残したようですが、膨大な手紙は子孫の手元に保管され現在はネット上でもチャイコフスキー愛好家が読めるようになっています。手紙に中ではチャイコフスキーの作品のこと、恋愛めいた話等非常に緊密な交信がなされているようです。メック夫人はチャイコフスキーに対してどんな感情を抱いていたのか。愛情もあったと思われます。
メック夫人とチャイコフスキーは記録ではロシアで一回だけ会っているようです。しかしイタリアのフィレンツェにあるメック夫人の別荘にチャイコフスキーは何回も滞在したことがあるので、その別荘であるいはフィレンツェの音楽会で二人が顔を合わせていたことは十分に在り得ることです。もっと言うとロシアではなく外国のフィレンツェならばもっと大胆に会えたのではないかと想像できます。チャイコフスキーの作品45のイタリア奇想曲はチャイコフスキーが一回目の結婚が破綻して心に傷を負ったときに滞在したイタリア・フィレンツェで構想されたのでした。このフィレンツェ滞在もメック夫人の計らいのようです。
チャイコフスキーは1886年サンクトペテルスブルグ室内楽教会会員に選ばれたお礼に室内楽作品を作曲しようと考えたようです。そして1887年に弦楽6重奏曲の作曲を開始しますがチャイコフスキーの筆はなかなか進みませんでした。しかし1890年フレンツェでスペードの女王の作曲に没頭しているころから急にこの弦楽6重奏曲の作曲が進展し1890年に完成しています。
時期的にピッタリ合致するかどうか詳しく分かりませんが、チャイコフスキーは13年間支援してくれた「メック夫人」の破産を、そして彼女は病気で床に臥せっていることを知って、メック夫人のために「弦楽6重奏曲」を作曲したのではないかと想像されます。チャイコフスキーとしては大きな交響曲ではなく病室に奏者を招けばベッドでも聞くことが出来る室内楽を選んだのでした。お世話になったメック夫人の別荘で今度はメック夫人を慰める為に「フィレンツェの思い出」を書いたのでした。
日本語では「思い出」と訳していますが単語は「Souvenir」です。多分メック夫人が二度とフィレンツェを訪れることがないだろうと考えたチャイコフスキーが「フィレンツェ」を音楽に託したのだと思います。更に言うと手紙の遣り取りとは別に「チャイコフスキーとメック夫人」が同じ時を過ごすことができた「フィレンツェでの時間」が「Souvenir」なのかもしれません。これはチャイコフスキーとメック夫人の二人にしか意味が分からない題名なのかもしれません。
因みにメック夫人の別荘はフィレンツェ市を流れるアルノ川の南の丘の上「Florence via di San Leonardo 64」にあったのだそうです。現在はグーグルマップで付近の様子を知ることができますが、大きな屋敷が点在する保養地のような場所です。フィレンツェ中心街へのそれほど遠くはありません。メック夫人は売れっ子作曲家となったチャイコフスキーの「お土産」を聴いてさぞ嬉しかったことと思います。そのメック夫人は交響曲6番「悲愴」を作曲した後数か月後に亡くなったチャイコフスキーを追いかけるようにして亡くなったのでした。
「フィレンツェの思い出(6重奏曲)」は必ずしもイタリア風とは言えません。むしろ3・4楽章はロシア風の旋律だと思います。しかしこの曲が「メック夫人の思い出」を描いた曲だと考えると納得できる点が多く在ります。最初にメック夫人に捧げられた交響曲第4番に似ている部分が多々あるように思えるのです。第一楽章の唐突なな濃密さ、ロシア風の旋律、印象的なピチカート等・・・。「フィレンツェの思い出」をこのように聞いてみるのも良いのではないかと・・・思います。
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