今朝、出かける直前にいじめについて特集を組んだニュースバラエティでコメンテーターが語っていた。 「やられたらやりかえす風潮がいじめを失くさない」と・・・
私はなんだかもやもやした。 やられたらやりかえせたなら、いじめられた子は自殺なんてしなかったろうにと。
この問題で、誰が一番悪く思うか、 学校・教師・児童・生徒・保護者と順位をつけることもやっていたが無意味だと思った。 コメンテーターたちもテレビにつきあって、書いているんだろうけど。
「いじめと妬み―戦後民主主義の落とし子」 PHP研究所 (1995-07-06出版)土居 健郎・渡部 昇一 という本を思い出した。 愛知県で起きたいじめによる自殺した少年の事から始まっている。
この本で書かれている事件があってから、きっといくつも幾人も議論をしていたんだろうけど結局、いじめはなくならないし、もっと悪化している。 いじめはなくならないから、なくそうとするよりも、いじめにあったらどう対処するかを考えて指導したほうがいいのではないかと思う。
うちの子に限って、いじめない、いじめられないと、かもしれない運転ではなくて、 事故にあわないように、風邪をひかないように、また事故にあったら、風邪をひいたらどうするか 教えておいたらいいのではないかと思う。 それでも、心配かけたくない子どもはいわないかもしれないけど。
前にも日記に書いたけど、私は中学のときにいじめにあっていた。 それは絵に描いたようないじめで、やはりとても恥ずかしかったのだが親には堂々と話していた。 それはいじめる方が悪いと確信していたのと、いじめられていることを他人の口から耳にする親の方が恥ずかしいのではないかと思ったからだ。
そして自殺はありえなかった。自殺した後のことを想像したら、自殺はできないと思った。 つまり私には自分の事で精一杯という状況にはならないくらいの余裕はあったのだ。
この余裕はどこから来たのか?そこが運命の分かれ目だけど一言ではいえないと思う。 1つあげると、いじめをしていたクラスメイトが大嫌いだったのだ。 嫌いな人から嫌われてもダメージは少ない。 一番辛いのは、好きな友達から嫌われたり、いじめられることだろうと思う。 女友達などは、とくにその豹変いじめがあるから恐ろしいと思う。 そういうのはなくて、親しくしていた友人たちが変わらなかったのが、私の余裕を壊さなかったのだと思う。 だから、いじめる・いじめられる間柄の親密度によって、また緊急度は変わるのだろう。
自殺すること。それはもう精神的に追い込まれて、ある意味普通の状態ではなくなっているらしいと聞いたことがある。 自殺を試みて、運よく助かった人は、我に帰って自分の行動に驚くことがあるそうだから。
自殺を試みるほど追い込まれないように余裕を持つこと。 余裕を持つということは、学校が、いじめをしているクラスメイトが 世界の全てではないということを常に覚えていることではないかと思う。 子どもの頃は、なぜだかずっとこのいじめが続くと思いがちなのですが 卒業してしまったら、同窓生などとは、まずほとんど会うことはない。 学校と家庭の往復ではないどこか別の世界を作るともっといいかもしれない。 それができたら苦労はないかもしれないけど、家と学校以外の行き場があると楽なのではないかと思うのです。 子どもは自分で探せないかもしれない、それなら親がそういう場所を作って・探しておいたらいいのではないかと思う。 難問のようで、簡単なことかもしれないことだと思うけど。
この社会がどんなことになってるか等はこういう本もはっきりかいているしいいかもしれない。 学校や社会の建前だけではもうやっていけないのだと思う。
人生の教科書「ルール」 藤原和博 宮台真司 筑摩書房 コミュニケ−ション不全症候群 / 中島 梓 筑摩書房
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私は今、自分の事を好きで、家族も好きで、こんな私のことを気にかけてくれる友人がいてとても幸せです。 でも、時々、もう20年以上も昔の事なのに 「私なんて、いじめられていたんだしなあ」とどこか自分に自信がもてないところがあります。 付き合う人が出来た時も、「いいのかしら?いじめられていたような女で」とか思っていた。
本当に驚くべきことですが、いじめられた記憶は消して消えないし、どこか傷となって 何かをきっかけによみがえります。 この気の強い、今では自分のことがすっかり好きな私ですらそうなのです。
いじめが無くなることがないのなら。 いじめられることが、恥ずかしくないと思える世の中になればいいのに。
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