だから猫が飼いたいのに・・

2005年04月10日(日) エイジング

「ハウル」を見た時は、特に何も思わなかったのだけど、論座5月号に「ハウルの動く城」の批評(キリ通リ作・検索避けです)がを読んで思いついたことがある。
それはソフィーが老婆の姿になってからの方が伸び伸びとして、言いたい事がいえるという部分を読んでなのだが、
映画を見ている時は、ソフィーが老婆の姿に変えられても慌てないことや、その風情をあまり疑問にも思わずなんとなく見ていた。
それはきっと最後にはなんとかなるだろうと、お約束だと決め込んでいたのだし、「ソフィーが元の姿に戻れなくなってしまったらどうしよう」的な感情移入がないからだ。
でもこの批評で指摘している「老人は失うものが少ない」という言葉で合点がいく。

私はこの映画には事前情報などでバリアーを作り意地を張っていたところもあったし。ソフィーには感情移入している事を無視していた。そういうことをあまり考える気もしていなかったけど、時間が経ってこの批評を見て思い出したといっていいかもしれない。

以前、日記に書いた事で高齢出産の年齢があがったことで、またもやあきらめることを伸ばされることになったのだとややブルーになったことを書いたが、その感覚を思い出した。この際、この批評を書いた人の意図とはズレるけど。

当たり前の道があって、それに乗れていない人の場合、本人も周囲もいつかはその道に乗るのだと思われていて、でも乗れる期限が来てしまえば当然それもなくなり楽になれると思う。
自らの意思で期待しない、期待させないことを実行すればいいのだろうけど、それは自殺する時に自らの意思だけで息を止めることと同じくらい難しいと思う。
だから結婚、とくに出産に臨める年齢まではなんとかと頑張る、あるいは頑張らされてしまうのだと思う。

だから老人になってしまえば、もうそんな心配はいらないし先のことを考える、考えなくてはならない事から逃れられて楽だと思う。そして周囲の視線も全く違うだろうと思う。(期待から気の毒になるのかもしれないけど)

視線の意味・威力も大きい。決して自意識過剰でもないと思うのだが、一人であまりに沢山の男性がいるところを歩くのはキツイことだと思う。女性のほとんどがそうなのではないでしょうか。
(ソフィーが兵隊に絡まれていた場面が象徴的。満員電車で周囲が全員男性という状況を想像してもいいし、他にもいくらでもある。)選別される事からの開放ともいえる。
容貌の良し悪しを常に自分以外(いや自分さえも鏡を見れば)から判断されていることから、年をとって顧みられなくなるときっと楽なんじゃないかと思う。
(自分の判別は変わらず、もっと増えるかもしれないが、鏡さえ見なければ平気)
実際、私は身体の線を消し、顔を隠せるくらいの帽子を被って歩いているときは、かなり気が楽だ。正体不明の怪しい人物と思われないといいなくらいは考えるけど。
しかし子どもや老人など弱者に厳しい社会なので、老婆になったらなったで、また恐れることが増えそうだから老婆になることが全部楽になるとは言わないけど。
とりあえず、楽になることもあるというだけ。

映画を見ている私としては、ソフィーはそんなに悲観するほどの容貌でもないのだから、妹のいうようにもう少しなんとかすりゃ、なんとかなるだろう(適当)
とか考えていたのですが、自分をなんとかするのは自分の心でしかなく。
ソフィーは選ばれない恐怖から逃れるために、老婆の姿でいることは心休まることだったのではないかと思う。(ハウルが実際のソフィーをどう見ていようと)
そして自由な心になったからこそ、本来の自分が出せて快活になり、心が柔軟になったからこそ、自分の気持ちに気がつけるし素直になれるのだとすると、凝り固まった心をほぐすにはそれくらいの荒療治が必要なのかと思う。1度死ぬくらいの勢いで。

生きている私達にそういう劇的なことはまず起こらないので、どうにもならないわけなのですが。だからやはりこの映画をみて「癒された〜」とかにはなりません。見も蓋も無いなあ。スマヌ。
それでもとりあえず、アチコチでかけて行ける体力と金力が必要だから、老婆になってしまいたいとは思っていないのですがね。


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