| 2002年12月21日(土) |
読書「聖母のいない国」 |
「聖母のいない国 The North Amerikan Novel」小谷野 敦 青土社
書店に勤めていた時、熱血文学担当の先輩と当時売れていた流行小説本を並べながら 「こうして判り易い本が売れていくんですよね〜」と呟いたら、「そんなことないよ!」と予想を越えた勢いで否定された。 思わずびびって後ずさりするほどだった。もともと特に反応を期待した言葉でなかった。 「売れる」や「判り易い」という基準が曖昧なので、判断が難しいことではあるがやはり売れ行きベスト10などに居座りつづけるのは、 比較的誰にでも読みやすい読み物(小説のみにあらず)が主流で数年前、非常に難解な小説が芥川賞を 受賞して、その小説は飛ぶように売れたが、それは特別な現象としてメディアを騒がせていたし、 そうした本は冠がつくか、不可価値がないと飛ぶようには売れていなかったと思う。 それなのにこの先輩の猛烈な否定。
この本のトップバッターである『風と共に去りぬ』は何故「大衆小説」なのか? の1行目「外国に純文学、大衆文学の区分けはないんですよね」という浅田次郎さんの発言の引用から始まって、 純文学と大衆小説の分け方の歴史を解説しながら、常に「では『風と共に去りぬ』はどうか」と、 立ち戻り、合間合間に文学批評家にチクチクと棘を刺している。 別に難しい話ではない、文学というジャンルのクエスチョンがよ〜くわかって大変楽しめます。 この話を読みながらなんとなくあの時の先輩の様子を思い出していしまった。 だから、今も少し、その先輩に何が「そんなことないのか」聞いてみたいと思う気持もなきにしもあらずだ。 というか先輩の言いたかったことは私はわかるけど、私の言外の呟きは理解されなかっただけ、今ならわかってもらえるだろうか?
それにしてもこの方の情報量には圧倒される。例えばマーク・トゥエインの「トム・ソーヤ」について解き明かす時も フィードラー「アメリカ小説における愛と死」新潮社から始まり、サザエさんのかつお、 「腕白でもいい逞しく育って欲しい」のハムのCM、ドラマ「ケンちゃん」シリーズ、ノビタ、夕焼け番長、男一匹ガキ大将、 勝手にシロクマ、少年倶楽部、 落語、金平浄瑠璃、「三国志演技」の張飛、水滸伝、山中恒、フィールディング、サッカレー、「風と共に去りぬ」のレット 映画「イージーライダー」「アメリカングラフィティ」「ダーティーハリー」 「赤毛のアン」のギルバート、ディケンズ「オリバー・トゥイスト」、バーネット「小公子」 マルコ、フランダースの犬、飛ぶ教室、ニルスの不思議な旅、長靴下のピッピ、ギュンターグラス「ブリキの太鼓」 永井豪「マジンガーZ」、「グレンダイザー」、ダイターン3、ヤマト、宮崎駿・・しんどいのでこの辺りでやめておく。 とここまでで約5ページ分なのだが、用いている。数も大変なものだけど、ジャンルがねえ。 スノビズムや業界的な特権をこき下ろしながら、これだけの情報量。 「どう?ついてこれるかしら、うふふ」な所が意地悪っぽくて好ましい。あらゆるソフトを引用してスタンダードに棘刺している感じが心地よい。
あまりこうした文学本を読まないのでなんともいえないけど、私はこういうのは好きです。 どうせ本を読むなら、たくさん情報を知ったほうが自分の仕事的にもお得なので。 もちろんお得なだけではない、ここでも「トム・ソーヤ」というアメリカ文学を扱いながら、 日本の文化についても考えるスイッチになっている。 戦後のアメリカ文化の影響や今では古典的な笑い「結構、若い頃は悪かった」という親父の自慢?の派生など。 そしてあらゆる情報が誰かによって操作されたものでしかないとも、 いくつものスタンダードを、スタンダードの作り手の登場と仕組みを思い知らされる。 作品は作者の手を離れ、読む人が、評価する人がその作品を、歴史的役割を変えて行く。 自分なりに楽しみ評価しているつもりでも、誰かの作った読み方に全く影響されずにいられないのねと残念なような、 諦めに似た心境になる。しかしそれはいいか悪いかの問題ではない。 マスメディとは本来そうしたものだし、そういう事実ときちんと向き合ってこそ、自分の読書を楽しめると思うから。
「風と共に・・」の最後に「女性の真実を書いてしまったために大衆扱いされ続けている」で始まり、 「赤毛のアン」については「実現すべき自己などない時」という題で書いてこの本は終わる。 ワザとかな。やはり。 「赤毛のアン」の作者の側面に触れながら、アンの世界がなんであったか、夢も希望もなくステキに評されている。 昔周りにいた赤毛のアン好きな知人には見せられない文章かもしれない。 (今も好きかどうか確かめる術はありませんが、でも今も好きに違いないと信じている) でも著者は「アン」好きな人たちにタニス・リーのファンタジー愛好家や江國香織を愛読するファンよりも好感を持っているらしい。 そうなの?そうかも。 どれもこれもつまみ食い程度しか読んでいない私にはその世界の深さは知るよしもないのですけど。 でもタニス・リーが一番好きかな〜んて聞いちゃいませんね。 「赤毛のアン」という邦題をアンが聞いたら嘆き哀しむだろうと書いている所が一番好きかもしれない。 ファンの人たちもそう思っているのでしょうか?
この作者さんは何か特定人の本や芝居をハマり続けることが出来ないという。 それって愛好家にはなれないけど、冷酷(冷静)な批評家にはもってこいの性質なんではないかと思う。 (実際、そうでらっしゃるし。) どんな作家や舞台でも常に高水準を保っていられるはずもなく、でもそれを愛好家としての目が ゆるく見てしまうと正しい批評にはなりにくいと思うから。 自分の好きなものをけなされるとイヤなくせに、他人の好きなものを平気でけなす人がいる。 普段は冷酷な批評をするのに、自分の好きなものとなるとベタ誉めって人がいる。 そういう人は愛好家でいた方がいいと思う。頼むから。 でもファンがダメにするetcてのもあるよね。モノ作りの大変さだわ。
ああまた長くなってしまった。アメリカ小説のガイドブックと書くにはちょっともったいない刺激になる批評文。 でも硬く書くと読みたくなくなってしまうかもだし。 あまりにも有名な3作品を特に書きましたが、知らない作品も扱った本です。 でも有名な作家ばかり、どれもこれも面白いです。 「もてない男」よりずっと楽しめたよ。あ、でもヘミングウェイについては疑問が残るなあ。
|