| 2002年09月26日(木) |
引き続き読書の話とちょっとトラウマな話 |
実は昨日お勧めした本はまだ熟読はしていない、斜め読みで書いてしまった。 でもザっと読んでも、ツボな事柄がたくさん載っていたので間違いなし!と思って書いてしまった。 でも著者の斎藤さんもこの本の中で「読んだという規準を多少ゆるめに設定する」こともありだと 書いてくれているし。いいのさ。 とくにこの本はあちこちどこから読んでもいいかんじなので、開いたとこから読んで、また別なところと ちびちび読みをしている。じっくり最初から読むことも多いけど、こうした新書やエッセイは結構 出たと勝負で読むことも多い。肉食獣の子どもが獲物を狩るレッスンでなぶっているような感覚かもしれません。 じわじわあっちこっち噛んだり、舐めたりしてだんだん食っていく。そんなかんじ。 なんだかおどろおどろしい表現になってしまったわ。
そんな私が今日、読んだ部分は「12.経験を確認する」要するに読書よりも体験が大切という意見に対して 読書と体験というものをそんな風にわけて考えないほうがいいよ〜という話。 私もそう思う。それと同時にいくつか懐かしいことを思い出す。 私の読書好きというのは、もともと体が丈夫でなかったので、小さい頃は寝ていることが多く 暇なので、手当たり次第にその辺の本を読んでいたことが習慣になったのがキッカケかもしれない。 読書は確かに私に重要なものを与えてくれた。でも10代の後半でとても心配になったことがあった。 「私って本でなんでも知った気になって、頭でっかちで薄っぺらな人間かも」と・・ 周囲の同年代の友人があまり本の話題などせずに、流行りものにまっしぐらなのを見てそう思ったと思う。 外見からしてなんとなく幼い私には、周囲の同年代の子たちの姿のほうが大人に見えた。 そして少し本ではなく、自分の体で何かを得ようとあがいた。のかな。
結果的にそれは私の為にさらに重要な体験となって、今こうして読書も安心してやっていられる。 相変わらず、頭でっかちで薄っぺらな人間かもしれないけど、あがいただけは筋肉がついていると自信がついたのだ。 だから読書と体験を別物として扱うのはやっぱり勿体ないというか、全く考え違いだと思う。
さらに「15.読書自体が体験となる読書」でも駄目押しで、体験と読書を対立させる考え方を忌避している。 そして読書をしていたというその記憶、体験自体が貴重で意味のあるものだと、著者の体験から書かれているけど 全くその通りだと私も思う。 昨夜も友人と電話をしていた時に、もったいなくて読めなくなる本の話題が出た。 その世界に浸り、楽しみ、遊んでいると、その本を読み終えることが寂しくて、先延ばししたくなり 最後の方ではペースが落ちて、読めなくなってしまったことがあるという話なのだが その時の気持とか状況というものは、忘れられない体験になる。 そんな体験を伴う本を読んだ空間や小道具も、あとで貴重な思い出になることも同感。 以前、有名な翻訳家も、本を読むときは落ちついた喫茶店などを利用することがあると書いていた。 私も1人旅に出たときの、お供の本や、その時飲んでいたものなど、懐かしく思い出せるものがある。 本の中に出てきたグレープフルーツジュースを飲んでみたくなったり、掻揚げ丼を食べて見たり そして後で友人と同じ事をしていたことが判明して楽しかったりしたこもある。 だから確かに読書が体験になることがあり、そのまま誰かと共有も出来たりするのです。
そんな私ですが以前、とても苦労した人の話を引用して、その人の考え方や行動について 「実際体験してみないとわからない事もある」という話をとある掲示板でしたらしたたか反論されたことがある。 これは対立とは違う意味合いで書いたつもりなのですが、私の書き方悪いのかもしれいし その人の読み方が甘いのかもしれない。体験至上主義と勘違いしたのかな? とにかく「体験などしなくても、読書や情報だけでも充分」と反論したわけです。 まぁ、考え方は人それぞれなので構わないんですけどね。 でも、そんなに読書をしているわりに、私のいわんとしていることを全然読んでくれていないので結構唖然とした。 体験が不足しているということはそういう事にもなるかもしれないとも思えたし それだけ読書をしていても(いやどれだけ読書してるかしらんが)、自分に余裕がないんだなあと感じられた。
人の気持をわかる。という事はほとんど不可能です。 どんなに相手のことを思いやっても、その人の変わりには絶対になれない。 作れる状況で体験できることなら、読書や情報で、知ることは出来るけど わかるとはまた意味が違ってくると思うのですが・・・ たとえば、先日私があった事故で、私がどんな気持になったかとか、 しばらく自転車に乗れなくて、車が怖かったこと等は、同じ目にあった人なら、わかるだろうけど。 本当には実感できるわけない。想像して、慮ることはできてもだ。 「そういう事もあるかも」と理解できても、そういう気持にはなれないのだから・・・ わかる。という言葉にはいろんな意味がかくされているという事かもしれない。 その辺を勘違いしている人が多いからややこしいのかもしれないなあ。
やっぱり読書と体験は2輪車です。1輪よりずっと安定して遠くまで楽に運んでくれます。 自分だけで体験することは限られているし、狭いからこそ、読書で補えるし 読書して得た知識で、体験することや誰が体験していることをより深く理解できることになる。
もちろん、本を読まなくても、人の気持や物事を思慮深く考えて 理解している人もいるから、読書してない人がダメとは思わない。 でも、読書をすることで変われる事も絶対にあるとも思っています。
蛇足、昨日約1か月ぶりに自転車に乗ってみました。 車がくると、キモが冷える感じで恐ろしかったけど これならボチボチいけそうです。
|