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No-Mark Stall *




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彼と娘と白い猫。 | 2008年06月15日(日)
「アーシェ」
呼びかけられ、銀の髪をした小さな娘が振り返る。
葡萄酒によく似た深紅の髪をした彼とは似ても似つかない子供だった。実際血は繋がっていないのだから仕方ない。
とある事情で引き取った子供で、彼としては実の娘と同じくらいに可愛がっているつもりなのだが彼女は一向に彼に懐こうとはしなかった。
呼べば振り返るし、大人しく抱き上げらもするが、自分から彼に近寄ってはこない。よく絵本を抱えた姿を見るが、読んでとせがまれたことは一度もなかった。彼女の世話を任せている少年にはよく読ませているくせに、と彼は密かに口を尖らせる。
今も大きな藍色の瞳でじっと彼を見上げるが、そこにあるのは静かな凪で、見透かすようなその双眸に彼は思わず伸ばしかけた手を引っ込めた。彼の娘とは同じ年であるはずなのに、無邪気で幼い彼女とは違い、随分と大人びた醒めた眼差しをしている。
「……どこへ行く? そっちには何もないぞ」
「あるよ。みえないの?」
彼女は不思議そうに首を傾げて彼を見上げた。笑うことも泣くことも少なく、感情表現に乏しい娘が珍しく表情を見せ、彼は思わず微笑んだ。
「お父さんには見えないんだ、残念ながら。何があるのか教えてくれるか?」
「アニーのおとうさんにはみえないの?」
さりげなく彼がアーシェの父親であると印象づけようとしたがあっさりと否定され、彼は少し落ち込んだ。血の繋がりはなくとも彼女の父親でありたいと思っているのだが、彼自身は意識していない隠れた真意を彼女は見抜いているようだった。その鋭さは一体誰の血を継いだものか。
苦笑しながら、彼は視線の高さを彼女に合わせる。一冊の絵本を彼女は抱いていた。
「何があるんだ?」
「……みえないひとには、いっちゃいけないの」
距離を詰めようとすると、するりと彼女はそこから離れた。ごめんなさい、と呟くと、彼女は暗がりに向かって駆け出す。
慌てて追いかけようとすると視界を白いものが横切り、思わず立ち止まる。
彼の歩みを留めたのは一匹の白い猫だった。艶やかな毛並みは思わず撫でたくなるように美しく、細身の体はしなやかな動きで見るものの心を惹きつけ、黄金の双眸は爛々と輝いて彼を見据える。
敵意に満ちたその瞳に、この猫が彼女の秘密を握っているのだろうと彼は直観した。猫一匹捕まえるのはたやすいが、白猫については彼には苦い思い出がある。それを思い出させるこの猫には、できれば関わりたくはなかった。
「……あの娘に危険はないんだな?」
賢しげな顔をした猫が、呆れたように彼を見遣る。
「これでもアーシェの父親のつもりなんだ、そんな目で見るなよ」
猫は厳しい視線を緩めない。当の本人にも認められていないくせに何を言うかと言いたげに一声鳴くと、猫は悠然と暗がりに消えていく。
「……捻り潰してやろうかあの猫」
独り言に応えるように、にゃあ、とどこからともなく泣き声が聞こえてくる。彼は忌々しげに舌打ちをすると、未練がましく娘と猫が消えていった暗闇を見つめ、静かに踵を返した。

***

床に座り込んで彼女は絵本を開いていた。
毛足の長い赤い絨毯は柔らかく暖かい。どこからともなくやってきた白猫がするりと彼女の腕の中に入り込む。
「どこかいってたの?」
猫は応えない。彼女は気にした様子もなく途中まで読んでいた絵本をめくり、初めから読み上げ始めた。
「ええと、ひがしのくにのちいさなむらに、とてもかしこいおんなのこが、おとうさんとふたりでくらしていました。ふたりはとてもしあわせでしたが、おんなのこにはおかあさんがいる、べき、だ、とかんがえたおとうさんは、きれいなおんなのひとと、けっこん、しました」
ところどころ詰まりながらも、彼女は音読を続ける。
猫は神妙な顔つきでそれを聞き、ときどきぺちりと絵本を前足で叩いて彼女の間違いを知らせる。普通の猫とは思えない賢さに、しかし彼女は不思議がるわけでもなく、その指摘を当然とばかりに受け入れ、物語を読みすすめる。
「おんなのこは、まほう、のとけたおうじさまとけっこんして、しあわせにくらしました。めでたしめでたし」
全部読めたと嬉しそうに言う彼女に、猫は鷹揚に頷いてその頬を舐める。くすぐったそうにきゃあきゃあと笑って猫に頬を寄せる彼女の様子を義理の父が見たらあまりの珍しさに目を剥いただろう。
ぎゅうと猫を抱きしめていた彼女は、笑顔を突然曇らせた。白猫が訝しげに一声鳴くと、彼女はきゅっと唇を結ぶ。
「アニーのおとうさんは、わたしのおとうさんになりたいのかな」
「にゃあ」
「……アニーのおとうさんはきらいじゃないけど、でも、わたしのおとうさんになっちゃったら、わたしのおとうさんはどうなるのかな」
猫は彼女の腕からすり抜けると、絨毯に寝転がって腹を見せた。
撫でろという意味に解釈して彼女は猫を撫でる。柔らかな毛並みは触れていると心地良く、沈んだ彼女の心を癒した。
「わたしのおとうさん、どこにいるんだろ」
猫の隣に寝そべって、アーシェは囁く。
「あなたがわたしのおとうさんだったらいいのに」
賢い猫は何も言わずに、ただその黄金の目を細め、小さな手に撫でられるままだった。

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新米お父さん猫に敗北するの巻。お父さん猫とは相性が悪い。猫は子供に甘い。
written by MitukiHome
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