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2002年09月11日(水) 9・11とアメリカの宿命

きょうは9/11テロ追悼イベントに参加。
みな、めいめいにあの日の惨劇を思い起こしていたのだろう。

あの日を境に、世界は分かりやすくなったんじゃないかと思う。
アメリカは自らの力を世界に誇示し、その国民は熱狂した。
日本はというと、かなり冷静に世界を眺めていたような気がする。
冷戦構造が崩壊した後、あらわとなった世界の構造を垣間見たのだろう。

アメリカがいかに強大であるか、いかにして、そのパワーを維持・再生産しているのか。
アメリカは世界中の富を吸い込み、吐き出す世界のへそのようなところだ。
それ以上でも、以下でもない。
富=パワーである以上、アメリカはパワーそのもだが、それ以外に、アメリカにはなにもないのだと思う。

アメリカの恐ろしいところは、歴史の積み重ねの上にパワーがあるのではないことだ。
ご存じのように、アメリカという国は人工国家。

歴史の積み重ねのない国であるから、国としての拠り所は建国の理念にしか求められない。
そして、その理念とは、近代合理主義そのものだ。
理性に全幅の信頼を置き、非合理的なものを排除する。

ヨーロッパの近代史をひもとけば分かるが、歴史、古い慣習、王権、王権と結びついた旧教等を否定し尽くしたところに、アメリカがある。まさにNew Worldだ。
それ故に、アメリカは、自身を否定すること、反省することができないのだろう。
なぜなら、アメリカのすることは、常に“合理性的”だからだ。

冷戦崩壊後の世界問題は、そのほとんどがアメリカの一極支配体制を源にしている。

テロ撲滅、とアメリカが言ってみても、それは、自分の影と格闘する哀れな男のようにみえる。
テロという現象は、アメリカ一極支配の副産物、コインの表裏の関係のようなものだからだ。

したがって、諸問題の処方には、アメリカの自身の行っていることへの反省がもっとも有効だと考えるが、アメリカという国の原理上、それは叶いそうにない。
ここに、世界の不幸があるように思う。

合理性によって成り立つ国こそが、もっとも非合理的であるというのは、なんとも皮肉なことだ。

追悼のキャンドル、揺れる炎を見ながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。


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