
以下、書籍
『不道徳教育講座』三島由紀夫著(角川文庫)の中の“恋人は交換すべし”というエッセイより引用。
言ってみれば、三島の浮気論のようなもの(→正しくは「恋人交換」について。)が書かれている箇所であります、はい。ちなみに、このエッセイ集を読んで、なぜ山田詠美氏が三島を好きなのかがよくわかったし、それと同時に、三島の小説も再読していきたいと思いました、はい♪
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“恋人は交換すべし”
昔、谷崎潤一郎氏と佐藤春夫氏が、夫人を交換したという事件が、世間をワッと言わせたことがあった。あのころに比べると、今はもっともっと乱雑な時代だが、あまりこの種の事件を耳にしないところを見ると、現代は表皮だけは乱雑でも、日数のたった最中(もなか)みたいに、中身はちんまりと固まった餡子(あんこ)よろしく、ひたすら常識的に当たらずさわらず生きている時代なのでしょうか?
(略)純粋なエロティシズムの本質は、孤独を前提にするものらしい。
その極致がドン・ファンであり、その過渡的な形が恋人交換だと思うのです。
日本でいわゆる「浮気」という概念と、これほど遠いものはありません。浮気というのは、いつも、根拠地、港が、前提となっております。帰ってゆくべきところがちゃんとあって、それとこれとは区別して、その上で、新しいものへちょっと手を出す。それが「浮気」で、浮気の持っているエロティシズムは、不透明で、不健全なものです。
(略)フランスのヌーヴェル・ヴォーグのはしりであった「いとこ同士」という映画で、自分の好きだった男の“いとこ”と出来て、その男と“いとこ”が二人で住んでいる家へ、さっさと住み替えた末、恋が終わると、又さっさと引き揚げて行き、そのあとでパーティーに招かれると、又ノコノコ出かけて行く、まことに割り切った女性が面白く描かれていました。
精神的に好きな男と、肉体的に好きな男と、二人並べておいて、その家へ平気で住みついてしまう彼女は、エロティシズムの原則に対して完全に忠実であり、自分の孤独をよく承知しています。絶対に孤独が出発点であり終点でもあるその情事は、まことにスッキリしたもので、感心しました。(p330− 331)
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