
雨が降っている。こういう日は外にはなるべく出ずに、なるべく有意義なことをしたいものである。なので、彼と話し合いの末、今日は出かけずに読書日となった。というか、読み始めた
『思考と行動における言語』が、ひじょーーーーーーにおもしろい♪
ずっと不思議に思っていたことの答えがきちんと書いてあって、なおかつ、名言も満載で、私がたまに使用する「低脳」という単語を著者も文中で使用していて、「あ、この人、昔の人なのに通じるものあるなw」と妙な親近感を覚えたりした(笑)。
ということで、以下、
『思考と行動における言語』より、とりあえず1箇所だけ引用し、短くほざき。
自分で気づいているかいないかはともかく、ミッツ氏は、聞いたり話したりするコドバによって、四六時中影響を受けているだけでなく、“言語についての無意識の仮想"からも影響を受けている。
たとえば、彼がアルバートという名前が好きで、その名を子供につけたいとは思うのだが、前に知っていたアルバートという男が自殺したので縁起をかついでそれを避けているという時には、彼が自分で気がついているかいないかは別として、言語と現実との関係についてある仮想を持って事を行っているのだ。
このよう無意識の仮想は、コトバが彼に及ぼす影響を決定する、そしてその影響は良かれ悪しかれ、彼の行動を決めてしまう。コトバは彼の使い方と他の人が話した時の受け取り方で、彼の信念・先入観・理想・抱負を大体において形作る。それらは彼の生活する道徳的・知的雰囲気を構成する、すなわち、彼の “意味論的環境”を。
『思考と行動における言語』.p19より。
ちなみに私は、上でいうところの、自分自身が持つ“言語についての無意識の仮想"と自分自身の言動が醸し出す“意味論的環境”をある程度自覚しているし、自覚した上でこうして日記を公開しているワケである。で、実験的楽しみとして、それが他の人にとって「どう見えているのか?」を観察するのが好きなのである。
短くいえば、分析された自分を分析し、と同時に、私を分析することでその人の中で何らかの内在的判断を下したであろう分析者を分析することが、好きなのである、うふw
(★観察の例:たとえば、私が「短小」「低脳」という言葉を“書いた”り“発した”りする時、読み手&聞き手はそれを“どう解釈しどう感じどう反応するのか?”。その人の“解釈”または返答・反応を含む“行動”を観察すればその人の“意味論的環境”もよくわかるものである。)
注:主に自分が他者からどのような人であるとみなされているのか、また、どのような記号によって私はそうみなされているのか、を分析しているだけであって、常に“人様の文章を分析しているわけではない”ので、みなさん、文体とか内容とか変えない手くださいませw
ということで、そろそろ次の本に取り掛かるので、中途半端だけどこれにて勝手に終了。。