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2008年04月22日(火) 岡田は「幸せの青い鳥」を探し続ける

◎岡田ジャパンはJ2型
キリン杯を控えて、日本代表候補の発表があった。そのリストは下記のとおり。
  氏名       生年月日  身長  体重  所属
GK
 川口 能活    1975.08.15 180cm 77kg ジュビロ磐田
 楢崎 正剛    1976.04.15 187cm 80kg 名古屋グランパス
 都築 龍太    1978.04.18 185cm 81kg 浦和レッズ
 川島 永嗣    1983.03.20 185cm 80kg 川崎フロンターレ

DF
 寺田 周平    1975.06.23 189cm 80kg 川崎フロンターレ ※
 田中マルクス   1981.04.24 185cm 82kg 浦和レッズ
     闘莉王
 駒野 友一    1981.07.25 172cm 76kg ジュビロ磐田
 阿部 勇樹    1981.09.06 177cm 77kg 浦和レッズ
 栗原 勇蔵    1983.09.18 183cm 72kg 横浜F・マリノス
 徳永 悠平    1983.09.25 179cm 74kg FC東京
 長友 佑都    1986.09.21 170cm 65kg FC東京 ※
 高木 和道    1980.12.11 188cm 75kg 清水エスパルス※追加招集

MF
 中村 直志    1979.01.27 175cm 70kg 名古屋グランパス
 西  紀寛    1980.05.09 175cm 72kg ジュビロ磐田
 中村 憲剛    1980.10.31 175cm 67kg 川崎フロンターレ
 山瀬 功治    1981.09.22 173cm 70kg 横浜F・マリノス
 茂原 岳人    1981.10.06 180cm 71kg 柏レイソル ※
 今野 泰幸    1983.01.25 178cm 73kg FC東京
 山岸  智    1983.05.03 181cm 77kg 川崎フロンターレ
 香川 真司    1989.03.17 172cm 63kg セレッソ大阪 ※

FW
 永井雄一郎    1979.02.14 184cm 75kg 浦和レッズ
 玉田 圭司    1980.04.11 173cm 67kg 名古屋グランパス
 巻 誠一郎    1980.08.07 184cm 81kg ジェフユナイテッド千葉
 大久保嘉人    1982.06.09 170cm 73kg ヴィッセル神戸
 赤嶺 真吾    1983.12.08 179cm 77kg FC東京 ※ 追加招集

※日本代表候補初選出
※羽生直剛(FC東京)、高松大樹(大分)、中澤佑二(横浜FM)、高原直泰(浦和)はけがのため、鈴木啓太(浦和)は体調不良のため合宿不参加

代表候補選手は合同合宿に呼ばれ、そこで篩(フルイ)にかけられる。候補選手リストは、キリン杯に向けた最終の代表選手を示すものではない。だから、それについてコメントしても仕方がないとは思うものの、代表監督である岡田の苦悩がうかがえるので、まとめておこう。

アジア地区3次予選で湾岸の小国バーレーンに負けた岡田日本代表監督は、前任者への遠慮はもうしない、これからは「岡田流」だと啖呵を切って「オレ流」宣言をした。がしかし、肝心の「オレ流」の軸がないものだから、選手選考にもいろいろなところに保険をかけてしまった。いま調子がいい選手、走れる選手(運動量の豊富な選手)、リーグ上位のチームの選手・・・から選出をしたようだが、なかなかイメージが固まらない。

この選考を受けて、日本代表のコンセプトを記者に尋ねられると岡田は、「そんなことを答える監督は世界に一人もいない」とつっぱねたらしい。しかしこれは岡田監督の勘違いだ。世界の代表監督の多くが自分の目指すサッカーについて語っている。日本代表を率いたオシム、トルシエは極めて饒舌だった。たとえば、トルシエの「フラット3」は懐かしい言葉としていまだに耳元に残っている。オシムの「言葉」は多すぎるので省略する。

某スポーツ紙はDF陣の身長の高さに注目し、「オカダジャパン」ならぬ「オオガタジャパン」だと皮肉った。このスポーツ紙の記者のユーモアのセンスは一流だと思う一方、極めて鋭い洞察力の持ち主だと感服した。DFは身長の高い選手で固め、FWに元代表クラスの外国人選手を起用する――というのは、J2からJ1昇格の常套手段の1つだ。このリストから、高くて固い守りからカウンター攻撃というリアクションサッカーの臭いがする。

岡田の「オレ流」がJ2監督時代に培った、“守りのサッカー”だったとしたら、日本代表は南アフリカに行けない。

◎ストイコビッチ=(オシム+ベンゲル)÷2

“ストイコビッチイコールオシムプラスベンゲル割る2”というのは筆者の推測にすぎない。ストイコビッチ名古屋監督は、自分がオシム、ベンゲルの2人に影響を受けたとはいっていない。

岡田監督がいま最も影響されていると推測できるのが、J1における名古屋の躍進だろう。ストイコビッチ率いる名古屋はいま絶好調。豊富な運動量、速い攻守の切り替え、SBの上がりによるサイド攻撃、全員守備、全員攻撃が名古屋の特徴だ。ストイコビッチは自らが目指すサッカーについては岡田と違って饒舌で、彼は“モダンサッカー”という言葉を頻繁に使用する。もちろん、このモダンサッカーは、オシムのコンセプトと変わるところがない。大雑把に言えば、いま(モダン)は、世界中が同じようなサッカーを目指していると換言できる。岡田は名古屋のサッカーを見て、運動量のある選手を代表に入れる必要性を感じたようだ。

ところで、筆者は、現役時代のストイコビッチが好きではなかった。ストイコビッチは現役時代ピクシー(妖精)と呼ばれ、1990年W杯イタリア大会に、前日本代表監督だったオシムが指揮をとった旧ユーゴ代表選手の一人として、世界中のサッカーファンを魅了したことも記憶にある。イタリア大会後、ストイコビッチは欧州(フランス/パリ・サンジェルマン等)に移籍したが、ケガも重なり活躍していない。

その後、黎明期のJリーグに来日した数多くの大物外国人選手の一人として、名古屋グランパスエイトに入団。Jリーグ発足当時、日本のサッカーレベルは、旧ユーゴを筆頭に、西欧のリーグからみれば赤子に等しかった。ストイコビッチのプレーぶりは傲慢で、発展途上国サッカーを見下したような感じを受けた。

ストイコビッチは名古屋入団後、ある人物と運命的出会いを果たす。名古屋に監督としてやってきたベンゲル(現アーセナル監督)だ。ベンゲル監督の下、ストイコビッチは実力を発揮し始め、日本のサッカーファンを魅了した。

ストイコビッチは、旧ユーゴ代表選手としてオシム監督の下でプレーをし、Jリーグ名古屋グランパスエイトの選手としてベンゲル監督の下でプレーをした。名将2人の下でプレーをした経験は、ストイコビッチにどのような影響を与えたのだろうか。

以降の記述は筆者の推測にすぎないのだが、現役引退後、ストイコビッチが日本に監督して戻ってきたとき、彼はオシムとベンゲルから学んだものを名古屋の選手に伝導したのではないか。ストイコビッチのコメントの中には、「走る」「運動量」という言葉が頻発する。これらは明らかに、オシムの言葉と重複する。「モダンサッカーにおけるサイド重視」というフレーズもよく出てくる。がしかし、これはオシムやベンゲルに限定すべきものではない。何が言いたいのかといえば、モダンサッカーというのは特別の概念ではなく、ディファクトスタンダードの別名ということだ。重要なのは、モダンサッカー(ディファクトスタンダード)を掲げたならば、そこからぶれないことなのだ。

いま現在、アーセナルがやっているサッカーと名古屋がやろうとしているサッカーは概念上等しい。もちろん、個々の選手の資質は違うが、たとえば、アデバヨール(アーセナル)とヨンセン(名古屋)は等しく、ウォルコット(アーセナル)と杉本(名古屋)は等しい。

岡田はオシム時代の一部の代表選手に絶望し、新しい選手を探そうとしている。でも選手をいくら入れ替えても、代表は強くならない。岡田は選手の集合がチームだと錯覚している。もちろん、物理的にはそのとおりなのだが、サッカーはチームスポーツだから、チームが一定の理念とその理解の下に選手が動かなければ強くならない。規律(Disciplin)とは、選手を枠にはめることとは違う。

岡田はJリーグを見回し、「幸せの青い鳥」を探し続ける、が、いくら探し続けても見つかることはない。探しているうちに、W杯予選は終わり、日本代表の肩書きをもつJリーガーが増え、日本代表は南アフリカに行くことはない。


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