| 2008年01月29日(火) |
サッカーでは集合離散は無理 |
日本のサッカー・マスコミは、岡田ジャパンの対チリ戦に対して、厳しい評価を加えなかった。初戦の1試合だけで評価はできないという客観的な立場は間違っていないとは思うが、代表を強くしたいのならば、あえて鬼になって、新任監督を叱咤激励するくらいの姿勢がほしい。
繰り返すが、相手はチリ代表といっても、若手(24歳以下)中心。日本の五輪代表に近い。親善試合だが、チリからすれば力試し。ただ、これまでの親善試合と異なる点は、“ヤング・チリ”が20日に来日し十分なコンディション調整をして試合に臨んだことだ。さすがアルゼンチン代表監督を務めたビエルサ、就任した以上真剣に代表チームの近未来について考えている。その一方、試合後の日本代表監督は、誠にのんびりとした緊張感のない凡庸なコメントを発したので、こちらの緊張感までが失せてしまった。
何度も書くことだけれど、代表監督は一戦一戦を無駄にしてはならない。このたびの親善試合2試合(チリ・ボスニア)はW杯アジア地区第3次予選の調整という目的が第一、そして、長期間の予選を戦い抜く上で、戦力の補強が第二の目的だ。もちろん、第一、第二は関連しあっていて、新戦力の抜擢はレギュラークラスに刺激と緊迫感を与える。その意味で、右SB内田の起用は評価できる。レギュラー組に緊張感を与える一方で、控え組や代表に呼ばれなかったJリーガーに希望を与えた。
試合内容は省略するが、岡田の「集合・離散」の攻撃概念や、狭いところでのパス交換という「岡田流」はうかがえなかった。その理由は選手がその技術を習得していないからではなく、そもそも「集合・離散」の概念を実践すると、選手がボールに集まりすぎるというリスクをもっているため、選手が危険を察知して、「岡田流」を回避したからではないか。プレスの強いチリ相手では「岡田流」は得策ではないのだ。
狭いスペースのパス回しも疑問の多い戦術だ。甲府を率いた大木をコーチに招聘したことに筆者は素朴な疑問を抱いている。弱小クラブ・甲府をJ1に押し上げた原動力は大木の手腕よりも、FWバレーの存在が大きかった。その証拠に、J1昇格後、バレーがG大阪に移籍してしまった途端、降格してしまった。昨シーズン、すでに「大木神話」崩壊していたのだ。ワールドクラスの試合において、狭いところでのパス回しで勝負できる代表チームといえば、ブラジル代表くらい。もちろんそれもゴール前での話であって、中盤〜自陣でボールを奪われれば、カウンター攻撃の餌食となる。
まずもって、守備の基本はブロックであって、DFと中盤の縦関係は開きすぎず近づきすぎずだ。スペースを埋めるという横関係の定位置における選手間のそれぞれの距離は平均して等距離を保たなければならない。
その一方、攻撃――とりわけカウンター攻撃では、選手の距離は意識して近づく必要はなく、ゴールまでを結ぶラインが距離を問わず描けていることが重要だ。岡田がいう「集合」は、相手からボールを奪うためにプレスを強めることをいうのだと思う。だが、ラグビーの場合、ボールに応対する前線はボールに向かうが、バックスは、ボールを奪った瞬間、パスを展開する必要な距離を保っている。サッカーの場合、ボール奪った地点から見方にパスを送る距離が必要で、狭い距離で速いパスを出せば受けてのミスを誘う。サッカーではモールはまさかあり得ないから、ボールを展開するためのスペースを広げる動きが重要だ。その動きを「離散」と岡田はいうのだろうが、人間が走るスピードはボールより遅いから、「離散」という概念では対応できない。岡田の「集合・離散」理論は、選手がスクランブル状態でボールを奪ったり、ゴールに向かったりという、無秩序のイメージを与える。
その場合の選手とボールの動きは、無秩序の団子状態が思い浮かばれ、サッカーに必要な、幾何学的なボールと人間の位置関係がイメージできない。美しいエレガントなサッカーというのは、ボールの動きとピッチ上の選手の動きが流動性の中で、一瞬、幾何学的に結ばれたパスによって生じる。そのような瞬間が1試合の中で何度かある。その回数を増やせれば、ボールはゴールに向かった美しい軌道を描く。
日本代表には――というよりも、どこの国の代表にも――十分な時間はない。代表チームとクラブが有力選手を取り合うのも、日本代表だけの悩みではない。代表チームにはいろいろな制約があり、その中でやりくりをしながら、予選を戦わなければならない。岡田の「集合・離散」理論は、こじつけに近いし、大木のコーチ招聘も筋が悪い。そのことは、選手が一番理解しているはずだ。
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