今日はお彼岸の前の日、 「ひのいり」だね。 ぱんなは両親が共働きだったので、 ママ方の祖父母に子どもの頃は 育てられていた。
おじいちゃんが亡くなったのは 小学校5年か6年の頃だった。 胃癌から食道癌へ・・・。 既に物がつっかえて食べれなくなっていた。 おじいちゃんは傍に付いている家族すら 気がつかないうちに息を引き取った。 本当に眠るように逝った。 叔母が振り向いた時に亡くなっていた。 だから医師も看護婦も間に合わなかった。 おじいちゃんの病状を知らなかったぱんなは 後悔していることが3つある。 1つは病室で一度、カップラーメンを食べた事。 2つめはおじいちゃんが亡くなった日、 朝の「道徳」(現在の小学校では 名称が変っていると思う)の時間に窓の外を見、 雲の間から光が差しているのを見て 「誰か死んだな・・・」と思ったこと。 よもや自分のおじいちゃんが死んだと 思いもしなかった。 3つめは、ぱんながまだ小さかったから 病室に寝ずに付いて看病する事が出来なかったこと。 これはぱんなが悪いんでもないし、 両親が悪いのでもない。 仕方が無いのだけれど、親以上に慕い、 子ども以上に可愛がって貰ったおじいちゃんの 世話をしてあげられなかったのは 凄く哀しかった事を良く覚えている。
おばあちゃんの時は、胃癌の後、 転移じゃないけれど結腸癌だった。 最後は肺に転移していたようだ。 検診で引っかかって病院へ。 結果を長男のお嫁さんが聞いてしまい、 隠したかったおばあちゃんは 皆に諭されて病院へ。 入院して2ヶ月ほどで亡くなった。 この時ぱんなは22歳だった。 昼間は幼稚園、夜は夜間の専門学校へ 通っていて大変だったけれども おじいちゃんのように後悔したくなかったから 土日、月曜は寝ないで付いた。 亡くなる2週間前だったろうか・・・。 大人になって、人を観察する事が上手くなった ぱんな初めて研修医の医師を「ロボット」だと思った。 判で押したように「どうですか?」と 夜中にゾロゾロと3人も来て、 家族と話す事も無く、患者を触るでもなく、 部屋から出て大声で笑って帰って行った。 今でも忘れない。 石をぶつけてやろうかと思ったことを・・・。
ママや叔母たちに混じって おばあちゃんの傍に付いた事を後悔はしていない。 していないけれども、自問自答している。 時間的にキツかったあの頃。 仕事と学校の両立で毎日がキツかった。 それでも 「まだ他にやれることがあっただろう」と 今でも思う。
そして。 ぱんなのパパも治らない病に侵された今、 やっぱりぱんなは「まだやれる事がある筈だ」と 思っている。 絶対「やれるだけの事は精一杯やったから後悔していない」 なんて思わないだろう。
そんな祖父母たちは富士の富士霊園に眠っている。 遠いから中々行かれないので、困っている。 「富士が見えるから」 と本人たちは買ったようだが、 お墓へ行くのは生きている人間なのだから 余り遠いところにお墓を買うもんじゃない。
だから2〜3年に1度しか行かれない。 ぱんなのパパも車を運転して行ける状態ではない。 車に2〜3時間乗ること自体が疲れる。
そういう訳だから・・・なのか、 3年前になろうか。 ぱんなの夢に祖父母が出た事がある。 ぱんなとママと祖父母で歩いているとお墓のある所へ出て、 おばあちゃんがイキナリ他所様のお供え物を食べてしまう。 おじいちゃんが諌めると、おばあちゃんは 「だって、墓に入っている人は食べれないんだよ。 勿体無いよ」 と言ってムシャムシャと食べてしまうのだった。
ああ、おばあちゃんが呼んでいる。 寂しがっている。
そう思って慌ててお墓へ行ったっけ。 今はパパが大変だから「おばあちゃんも判ってくれているわよ」 と叔母は言う。 でも、ぱんな、おばあちゃんの夢を見た。 流石に人のお供え物は食べてなかったけど・・・。
明日、お天気が良ければノンビリと お墓参りに一人で行ってこようと思う。 パパを一人にしておけない。 だからママはお留守番。 どうせ親戚と一緒に行く時はぱんなが残るのだから(^^)
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