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それから数日後。慈郎が教室で目を醒ますと、すでに窓の外は暗くなり始めていた。どうやら、また部活をさぼってしまったらしい。誰か起こしてくれてもよさそうなものだが、慈郎の眠りの深さが知れ渡っているせいか、最近では放っておかれる事も珍しくない。それでも一年生の時は、同じクラスだった跡部が根気よく(或いは乱暴に)起こしてくれた。 欠伸をしながらよろよろと荷物を背負った慈郎は、一応テニスコートへと向かう。案の定そこに人の気配はなく、とうに練習は終わってしまったようだ。 また怒られる、と思いつつふと目をやると、正レギュラーの部室には灯がついていた。まだ誰か残っている。もっとも、その「誰か」は高確率で跡部なので、慈郎は部室へ向かった。 扉をあけると、やはりそこに居たのは跡部だった。ただ、予想と違っていたのは、跡部が机に突っ伏して眠っているということだ。 「跡部が机で寝てるなんて、めずらC〜。ソファもあんのによ」 副部長のいない氷帝学園テニス部において、雑事の最終チェックは部長である跡部ひとりで行っている事が多い。普段さほど負担に感じている様子は見られないが、それなりに疲れもあるのだろうか。 (まつげ、なげー) 慈郎はそっと隣に座ると、肩にジャージを羽織って静かに眠っている跡部の顔を覗き込んだ。髪と同様に色素の薄い睫はひたりと閉じられて、白い頬に微かな陰を作っている。慈郎は自らも机に顔を乗せ、滅多に見ることのないその寝顔を黙って眺めた。 どれだけそうしていたか、ふと、跡部がわずかに身じろぎをした。うっすらと開けられた目蓋の奥から、蒼い瞳が覗いて慈郎の上で視線を結ぶ。 「…ジロー?」 「あ、おはよー…っと、おおっ!」 見事な速さで繰り出された拳を、慈郎はすんでのところで回避した。 「な、なになに?なんでパンチ?」 「なんでじゃねえ!また練習さぼりやがって」 「起きてすぐ動けるなんて、すっげーな。血圧高い?」 「だとしたら、お前のせいだな」 渋面で前髪を軽くかきあげ、床に落ちたジャージを拾い上げると、跡部はロッカー室へ移動し、着替えはじめた。後からくっついていった慈郎はテーブルに腰掛けた。跡部の背中を眺めつつ、行儀悪く足をぶらぶらと揺する。 「もう仕事終わってんの?」 「大体な。あとは、明日やる」 「じゃあ、帰ってふとんで寝ればいいのに」 「お前に言われたくねえ」 それもそうだ、と慈郎が納得すると、跡部はあきれたようにちらりと振りかえって、すぐにロッカーの方へ顔を戻した。ついでに、テーブルの上に座るな、という小言も忘れない。だが、慈郎は生返事をしただけで降りようとはしなかった。 「ねー、ひとつ聞いてもいい?」 「なんだ」 「あとべってさー」 揺すり続ける慈郎の足の動きにともなって、テーブルが小さく軋む。 ふいに、その音が止んだ。 「…キスしたことある?」 跡部は、ネクタイを締めかけていた手を止めて慈郎を振り返った。 「なんだよ突然」 「ある?」 テーブルに座っているため、慈郎の目は普段よりも更に低いところにある。その茶色い目が、覗き込むようにして跡部を見ていた。 ふいに跡部は、人の悪い笑みを浮かべた。 「そういうことかよ」 「なに?」 「この間の落書き。やっぱりお前、誰か好きな女、いんじゃねーの?」 「おれのことは、おいといてさ。どうよ?」 答えは至極簡潔だった。 「ある」 「そっか。ならよかった」 「あ?」 ロッカーを閉めた跡部が振り返ると、いつの間にか、音もなく、目の前に慈郎が立っていた。 「なんだ、驚かすなよ」 「うん」 頷くと、慈郎はするりと両腕を跡部の頚にまわしてぐい、と力を込めた。自然下方へ向けられた跡部の顔に、慈郎のそれが近付いた次の瞬間、 ちゅっ、 小さな音と共に、柔らかい物が跡部の唇に触れて、そして離れた。 「…は?」 「ごめん。でも、初めてじゃないなら、許してね」 「ジロー」 「跡部、おれ、」 腕をほどいて跡部を見上げている慈郎は、今まで見た事のない顔をしていた。 「跡部のこと、好きなんだ」 そして、そのまま踵を返して部室を出て行った。
もうちょい続く
hidali
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