本日行って参りましたデストラップ(実はこの日記三十日に書いてるから微妙に過去話、でも無視)
フォーティンブラスのせいで芝居はじめてから一年、自分がどんなふうに観るのか楽しみでもあった今日。 結果から言えば、ほとんど変わってない(笑) 多少、照明(舞台奥シーリング落ちてるけど多分わざとだろうな)を気にするくらいで、全然。ポジション取りとかたまーに「やっぱプロ…」とか思ったけど、九割舞台に引き込まれてた。 っていうか、気を取られるというならば長野さんのカラダに!! 上半身ハダカで出てきた元死体(その表現どうよ?)クリフがシドニィさんに襲い掛かる場面、Mに吃驚させられて心臓バクバクいってんのに口元凄いゆるんでんの。 「博さんほそ…、きれー、かっこいい(はあと)」 あったまわるいな自分!でもそれが本心だ!!(開き直るな) 個人的に、まったくもってミーハー心、自分の趣味のみであの舞台のベストスリィをあげるなら。 1.シドニィ×クリフのちう(きゃは) 2.全身泥に汚れたクリフの姿(ワイルドなのに危うげで妖しいの) 3.奥さん死亡以降のシドクリのイチャイチャ(愛、だなあ) なんていうか、この話を私は「愛と肉欲を野心と名誉欲が相克する物語」と解釈しまして。 長野さんはクリフは計算と芝居への情熱だけで動いてるっぽいこと言ってましたが、私は毎度毎度制作サイドの意図とは違う解釈をするのでそれは無視して初見の感想を語ります。 クリフもね、シドニィさん好きだと思うの。ちゃんと、愛してる気持ちで。 愛してない男に身体許せないと思うの、彼は。プライドどうこうじゃなくて(肉体関係結ぶくらいで消滅するほど安いプライドはないと思うからそっちは論外で)、彼自身のもつ潔癖さがそんなことは生理レベルで拒否しちゃうと思う。 だけど、愛してるっていう気持ちだけで満足できるほど器が小さくないんだよクリフは。もちろんシドニィも。
んと、この作品を私は自分が大好きな「太陽と月に背いて」に似ていると考えます。 今回長野さんに吃驚したのは。 「太陽〜」を観たとき私はレオナルド・ディカプリオを天才だと思った。 少なくともあの作品の彼は、観るものを完膚なきまでに叩きのめす力があった。若き詩人の餓えて孤独な魂を、その眼差しは完璧にあらわしてた。 そういう、眼をしてたから。 長野さんが今回演じたクリフォードも、淋しくて哀しいのに餓えた心でぎらぎらしてて触れたら切れてしまいそうな、そういう眼をしてたから吃驚した。 十代の無謀さがなきゃできない眼だと思ったのに。
話を戻して。 デストラ、気持ちを詳細にトレースできる(気がする)のはシドニィさんです。見落としただけかもしれませんが、初見ではクリフのシドニィさんへの気持ちはちょっと分かりにくかった。ので、クリフもシドニィさんが好きなはず!というのは考察の結果(そもそも長野さんはそんなつもりでやったのではないのかもしれないから、永遠に見て取ることは不可能かもしれないけど/笑) シドニィさんねえ。 自分を偽って生きるのにはもう苦しくてできなくて、そこに現れた年下の美しい恋人にのめりこんで奥さん殺して、一時はそれで満足できたけどそれだけじゃ足りない貪欲な自分に、ひとを殺す手伝いをしても綺麗なままで優しいクリフを抱きしめて気付いたんだろうなって思う。 冒頭で言ってた、才能云々のあれは全部本音だと思う。 抱えてる絶望と虚無の大きさを一人では消化できなくて、それでも、不倫状態のときはクリフと抱き合うだけで全部が癒されていく夢を見れたんだろうって思う。 好きだった。 愛している。 だけど。
…このお話でキィになったのは多分、この「だけど」という接続詞。 だから、しあわせにはなれなかった。
自分の若いころに似たクリフ。 「だけど」シドニィ自身だって、劇作家としての魂は費えてはいない。心に燃える火が消えているなら、クリフをそれこそ恋人の暖かい瞳で見守ることもできたはず。 「だけど」そんな乾いた老人にクリフが惹かれるわけもないから、そんな仮定は全部無意味。
死の罠?
死に至る罠はゆるゆると、真綿で首を絞めるようにその触れ合いはいっそ優しく。
双つの炎は互いを燃え立たせ、限界まで火焔を噴いて同時に尽きた。 クリフがシドニィを殺さなければ、結構安穏と暮らしたと思うの。や、警察に逮捕されるか逃げ切れたかは微妙だけど、逃げ切れば過剰に罪悪感とかは抱かずにいったと思う。 ばら色の未来、やったね!と喜んだと思う。
「それでも」 クリフを殺して殺されて、シドニィさんはほっとしたんじゃないかって。 一番ぎりぎりのラインで、奥さんを死の罠にかけてでもと、本来の心が望むがままに愛したいと思ったひとを愛して誰よりも慈しんだ心を残したまま死ねたんじゃないかって思う。 言葉にはしにくいし、だから芝居なんだけど、私はそういうふうに思います。
なんか。 自分も芝居にかかわってるけど、自分たちの公演でペンが芝居に負けると感じることなんて、かろうじで今年の三月公演のときに味わったくらいで。 あとはずっと、ペンはどんな表現法よりも強く、生身の強みを持ってる芝居にでも負けない。 そう思う気持ちをなくせなくて、今回の六月公演とか役者参加(しかもけっこう格好良い役どころ)にもかかわらずつらかったけど。 もう、凄いね。 観る前は期待が大きすぎて怖くもあったけど、今回もやられた。 毎年毎年、博さんたちの舞台を見るたびに心が震えて何かを得るの。無形の、だからこそ貴重だと思える何かを。 役者のちから。 今目の前に、そこで息づいている生命が訴えるもの。
ペンは勝てないと思いました。 あと二回(うまくいけば三回) その間にどう感想が変わるのか、それよりなにより向こうがどういう芝居を見せてくれるのかとても楽しみです。
あ。 ちなみにこのひは興奮のあまり、観劇直後に仲良しの先輩M子さんにメール。 「今夜これからあいてますか?(←おまえは彼氏か)」 デストラのチラシ渡して布教がてら、お泊りしちゃいました。M子さんち(笑) テンション高いままで繰り返し「長野さんカラダいいっ」とか連呼して申し訳なかったなあ(おーい)
|