楓蔦黄屋
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2021年08月09日(月) |
戊子・涼風至・起きる |
朝に起きられるようになっている。
ある日とつぜん、「あ、そういうことか」みたいに、朝に起きるコツを体感した。 言葉では説明しづらいが、思うにこれは 今年の3月から続けていた生活改善がここのところ実を結んでいることにより 「自分の身体を変える」実績ができたからなんじゃないかと思う。
端的に言えば ダイエットが成功したということになるが、 ダイエット=短期集中で体重を減らす・体型を変える、ということではなくて 食事内容と運動を生活に組み込む、ということ。
体型が以前とくらべてかなり変わった。 ウエストは6cm減ったしお尻も上がったし足も細くなった。 しかし体重と体脂肪はぜんぜん減らない。 でも服を着たラインが前とは違う。とりあえずはそれでいい。
特に食べたいものを何もガマンしていない。 食べたものを把握していると、欲しいときにピンポイントで摂取できるし 2〜3日で調整できるのでガマンする必要がないのだ。 お金と一緒だ。やみくもにガマンして倹約するより使う額を把握するのが大切なのだ。
なるほど私でも自分の身体をコントロールできるんだなという経験がひとつ増えたので、 その意識を睡眠にも当てはめてみたらうまくいった感じ。
まずは眠りが浅いから起きられないのかもと思い ダンナのアップルウォッチを一晩借りて睡眠の質を測ってみたら 6時間睡眠で90点ぐらいたたき出した。ものすごいちゃんと寝られてるのだ。
効果があったのが意外にも「明日は○時に起きる」と頭で決めることだった。
よくネットで見かける睡眠ハック。 そんな優等生みたいなことワシにできるかいと思っていたらできた。 本当に目が覚める。
コツとしては、決意というよりも賭ける感覚。 懸ける、のではない。懸命ではない。起きる時間を賭けるのだ。ベットするのだ。 「この感じだと…7時…いや6時だな」と、今までの人生で脳に蓄積された睡眠経験値を 総動員してこの数字に賭ける感じ。なんとなくしっくりくる時間に賭ける。そして寝る。 この「しっくりくる」が非常に大事だ。
ただし0時には寝ないとこの方法は無効になる。 寝るのが1時過ぎるととたんに9時とかになってしまう。 就寝時間によって睡眠時間は変動するものだと知った。
まあ、今は身体的に一番バッチグーなコンディションのときなので、 よくない時期にはまたそれなりに対策を練る必要がある。 特に私はものすごく夜眠れない時期があるので、 まずは命の母ホワイトと運動で乗り切りたい。
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今日は歳時記カレンダーによれば 「涼風至(りょうふういたる・秋を感じさせる涼しい風が吹く頃)」らしい。 台風の影響でびょうびょう風が吹いているというのもあるが、 おとといぐらいからたしかに、風のおかげでいつもより涼しかった。
2021年07月25日(日) |
甲戌・大潮・役に立つ |
役に立たないと思われるのも、けっこう役に立つかもしれないと思っている。
私は頼りがいがないと思う。 まわりにもそう思われている。だから頼られた経験は少ない。 むしろ自分がしっかりしなきゃ、と思わせたことなら何度もある。
有事の際に誰かを守ったり何かに立ち向かったりもしたことがない。 有事の際は、現場にかけつけたらもう一区切りついていたりしてやることがない。 ヘタに手伝うと状況が悪化することのほうが多い。 でも善意なので怒るに怒れない。
何よりも、人の役に立ちたいという想いが希薄だ。 皆無といってもいいかもしれない。
人の役に立って何かいいことあんの?とかそういう斜に構えたアレでもなく、 純粋に、ただただ純粋に、そう思う機能が欠落している。 自虐ではない。そういう性分なんだと思う。 なぜなら人の役に立てないことで負い目を感じたことはないからだ。
モネちゃんは自分が何もできなかったことが心にいつまでも残っていた。 私はたぶんあんまりそう思わない。 そもそもが、何かできると思っていない。
仕事でもそうだ。役に立っているとは思わない。 周りの人が、役に立たせてくれているのだ。 じゃなきゃこんな商売はとても成り立たない。
それはいかがなものかと思い、ここ数年は人の役に立てるならと思って行動したこともあった。 が。 最近は、もうあまり人の役に立ちたいと思わないほうが いいかもしれないと思いはじめている。
物事はなるようにしかならない。
人を変えようと思って働きかけても、人は変わらない。
何よりも私は、人の役に立つことで自分の存在価値を認めるという構造にはなっていないのだ。
私は死ぬのが怖い。 生まれてきたことがそれだけでもう奇跡のように思える。 おかげさまで五体満足で、歩いて呼吸をするとそれだけで満足巻を得られるみたいなところがある。
だからそれ以上の存在価値とか、正直よくわからないのだ。 目覚めたり、眠ったり、それで充分自分の存在している意義を感じられるタイプなのだ。
幸せなんだろうなと思う。いろんな意味で。 恵まれているとも思う。
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どこへ行ってもそれなりに浮く。
心が浮く。 しっくり据わったためしがない。
ここから逃げ出したいと思ったことは数あれど、 しかし自分の居場所はどこにもないとかそういう考え方になったことがない。
居心地の悪さを感じることはあっても、 それを「自分の居場所」という言葉に変換することはなかった。
なんだかんだで自分の中に、独自の世界やイメージがいつでもあった。 漫画を読めばそこが自分の場所だったし、 音楽を聴けばそこが自分の世界だった。 誰も触れない一人だけの国。
どこでも少しだけ浮いていた。 でもそれなりに存在感はあった。 そういうちょっと特殊なポジションかもしれない。
すっかり忘れ去られるでもなく、ふつうに思い出してもらえる感じ。
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頼られないけど忘れ去られもしないという存在が もしかしたらこれから、役に立つかも知れないと思った。 そこにいるだけだけど、周りが何かをするニュートラルな理由になれるかもしれない。
何もしがらみなく、きっかけとして存在できるかもしれないと。
役に立つかは自分が働きかけることではない。 周りが決めることだ。
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私の言葉はまわりに理解されにくい。 だから自分の感覚そのものが嘘だと思っていた。
だけど嘘は嘘として、どう名前をつけられようと、 わりと壊れずに、風化せずに、残っているもんなんだなと思う。
そこまでいくと、もうどう否定されようが相手にされまいが、存在が消えることはない。 自分が「こりゃ嘘なんだろうな」と否定して、否定したままずっと残ってきたのだ。
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ダンナの存在は大きい。
彼に認められてから私の世界は一変した。
言葉は理解されにくいし、嘘は嘘のままだけど、 自分はそれをそのまま持ちつづけているという事実に気づいたからだ。
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自信を持つという概念もない。 もしかしたら自分は自信を持っているのかもしれないが、 自信っていうものの色や形は人によって本当に違うから、 私が持っているものが自信というものなのかは判別のしようがない。
何かをやるときに、成功とか失敗とかそういうことを考えない、というか考えられない この性分が自信と呼べるならまあ自信満々なわけだが、たぶん違うと思う。 何かをやるときにはもう他に何も目に入らない。 そしてやったらやりっぱなしだ。結果を見ない。というか何が結果なのかわからない。
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私は、もし両親が偶然引っ越しをしなければこの世にいなかった人間だ。 それを聞いたときは心の底から「あっぶねーーーーー!」と思ったものだ。
生きていて辛い目に遭うのと、 この世にいないのは、別物だ。 同列に語んなくても別にいいと私は思う。
四十にして惑わず。 これはやったことの結果に対しての心構えなんじゃないかと 最近思う。
これからすることに悩んだり試行錯誤したりしない、という意味ではなく。 逆。 やって結果が出たことにいちいち後悔しない。
「あのときああしていれば…」とかグダグダ思わない。 そこまでの可能性とか岐路とか、たぶんもうないだろっていう。 四十なんだから。 人生折り返し地点、もうとっくに過ぎてるかもしれないんだから。
私の目標「改善はするが反省はしない」から導き出した、私の不惑。
心持ちをラクに生きたいよ。まだまだ人生いろいろあるだろうし。
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新しいことが始まって、その準備をなんとか終えた。
終えてからあらためてその大変さを考えてみたら なんといつもの3倍も仕事をしていた。 よかった考えたの終わったあとで。やる前に考えてたらもっと大変だったかもしれん。精神的に。
「面白そうっすねー」だけで どんどんどんどん大変なほうへ大変なほうへ行っている。 でも面白い。
誰かが寝っ転がりながら楽しんでくれたら、と切に願う。
2021年07月07日(水) |
丙辰・小暑・七夕・映画について |
シンエヴァラストラン。レストランに非ず。
エヴァにはたくさん思い出をもらった。 中学生のときにエヴァの漫画を貸してもらったけど全然わからなかったこと。 大学のときに一人きりで地下の図書館で観たこと。 そのあとの屋上の夜景。 新劇場版を友達みんなで観に行ったこと。 破のバージョンのBeautifulWorld私もすごいよかったと思うって、友達につい言いそびれたこと。 Qでヴンダーを観たときに度肝を抜かれたこと。空の青がきれいだった。
シンを初めてみたあとの卒業式みたいな晴れた日と桜。
そのあと2回もシンを観ている。
観るたびに私の中のエヴァが少しずつ終わっていく。
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YUKIちゃんのインタビューだかエッセイだかで、 JUDY AND MARYが解散したときのファンの女の子の手紙の話がずっと忘れられない。 「JUDY AND MARYはなくなるけど、あたしはずっとJUDY AND MARYの一部だよね」。
その考え方にびっくりした。 「JUDY AND MARYはずっとあたしの一部」じゃなくて 「あたしはずっとJUDY AND MARYの一部」なんだ。 でもすごい素敵だと思った。
今、エヴァに対して同じことを思う。
恋の終わりに似ていると思った。
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映画「ファーザー」も観た。観てよかった、そう思った。
そりゃあ混乱するよなあ、ということをわかりやすく伝えてくれた。
横に座っていた人がすごく泣いている音がきこえた。 あの人はきっと当事者だったんだと思う。
私は認知症の人がそばにいた経験に乏しい。 介護の経験もない。 きっとすごく当事者にしかわからないことなんだと思う。 子どもに戻ってしまうというが、育児とは別物なんだろう。
ラストシーンでアンソニーが「ママに迎えにきてほしい」と泣く。 この歳になっても男の子はお母さんを欲するものなのか、と思った。 そして最近の自分を少し反省した。 少しずつでいいから変わりたいと思った。
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祖母が晩年、認知症だった。 ほんの少しふれあった。
認知症の人のあの瞳。 アンソニーホプキンスも同じ瞳をしていた。すごかった。 映画だということを忘れてアンソニーに腹を立てたりした。 腹を立てたあとで違う違うこれは映画だと思い直したりした。
認知症じゃないのにあの瞳ができるなんて、俳優さんはすごいなあ。
あの瞳は何を映しているんだろう。 惚けているというよりも、何かをじっと考え続けているようなあの瞳。 見つめ続けているような瞳。
どんな瞳ともちがう瞳。
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アンソニーホプキンスはインスタもやっている。すごいな。
あー。 ずっと好きだったweb日記が趣旨を変えてしまったー。
web日記って言い方も今時どうかと思うけども。
昔から、楽しいこと、嬉しいこと、面白おかしいことだけを描いたものが好きで、 それは主にギャグ漫画のことなんだけども、 だからギャグ漫画かいてた人が急に泥臭いのかきはじめると勘弁してくれよと思うタイプ。
それは漫画よまなくたって知ってるからいいよ。
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セラピーとはいえ人に子どもの頃の傷をほじくり返して喋らせるのは危険なんだそうだ。 とある社会福祉法人にて購入したメンタルクリニック的な冊子にそう書いてあった。 へー、と思った。
大人になるにつれ、そういう出来事も自分を構築する部品になっている。 子どもの自分と大人の自分がすっかり癒着して、たとえいびつでもバランスを取り合って トラウマ込みで自分を形作っているのだから そこを解体してしまうと、今の自分ごと壊れてしまう恐れがある、みたいなことらしい。
私は子どもの頃の傷をわざわざ見つめ直したくはないタイプだ。 否応なしにフラッシュバックするときがあるがそれはメンタル強度の問題ではない。 たいていフィジカルが疲れてるだけだと最近気づく。
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そのweb日記はそれはたいそう面白くて文章もうまいもんだから、 急に趣旨を変えられても面白くてうまい。 だから読んじゃう。
でも非常にしんどい。面白いから。 情景がありありと浮かぶ。世代が近いから。
作者さんの心はたぶん淡々としているんだろうと思う。 自分の子どもの頃を見つめ直せる状態なんだろうと思う。 だから別に、読む人を不快にしてやろうと思って書いてるんでもないと思う。
何より、タダで書いてるもんなんだし、そこは自由でいいと思う。
でも私も、もう人生も折り返し地点に到達しようという年齢になって、 わざわざ自分の心をしんどい位置に置きにいくのはもう面倒だ。
なのでフォローをはずした。 はずさないと読んじゃうからさ。面白いから。
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そういえば子どもというもんは 砂をポッケにつめて帰ってきたり、だんご虫をポッケにつめて帰ってきたり するもんだと思ってたがどうも別にそうじゃないらしい。
うちの子どもは虫が嫌いだそうだ。 砂がポッケに入っていたこともない。 だからいい子、といいたいわけでは別にない。
うちの子どもは苺も嫌いだからだ。 果物全般好きではない。唯一好きなのはチョコバナナだ。 だから苺のショートケーキも好きではない。 そんな子どもがこの世に存在するのかと衝撃だった。 私は苺が大好きだ。果物も大好きだ。
私の好きな食べ物は、我が子は大抵そんなに好きではない。 「食べる?」と聞いてもいつも「いい」と言われる。 おかげで、子どもができたにも関わらず好きなものを譲った、という経験がない。
親はいつも、親の分まで子どもに食べ物を譲ってくれて、 私も親になったら自然とそういう気持ちになるのだろうかと思っていたが、 そういうわけでそういう気持ちにいまだなったことがない。 きょうだいがいればまたタイプの違う子どもができたかもしれないんだが あいにくうちの子どもは一人っ子なので確認しようがない。
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うちの子どもだけでなく、どうやらその友達も、とくに虫好きな子はいないと こないだ聞いた。へー。
そうか、じゃあ子どもが虫を家に持ち込んでギャーみたいなことは私は経験できないんだな、と思ったところで そもそも私は虫がそこまで苦手じゃないことに気づく。
別に好きでもないんだが、なんというか、ゾワゾワくるギリギリの一歩手前で我慢できるというか。
私は子どもの頃、ダンゴムシでよく遊んでいた。アリも眺めていた。
カブトムシの幼虫なんかも触れる。毛虫も大丈夫。 カマキリにはあの表情にちょっと意志を感じて怖いがまあつまめる程度には平気。 チョウチョが苦手な人もいると聞いたときには驚いた。蛾も好きじゃないが嫌いでもない。
うちにはよく小さい蜘蛛が出没するが、私はなぜか蜘蛛は家を守ってくれるものだと思っているので 「目立つところに現れたらうっかり掃除機で吸っちゃうかもしれないでしょ。 家具の裏か、玄関にいなさい」と話しかけたりしている。
タランチュラだとちょっとビビるだろうなあ。 でも火を通してカニみたいに赤くなればたぶん食べられる。 (逆にシャコは火を通しても赤くならないのでちょっとウッとなったことがある)
Gだけはちょっと怖い。 が、たとえば黒や茶色の半透明のサプリなんかを 「Gのちっちゃいのにソックリだなー」とか思いながら平気で飲めたりはする。
こないだはちょっと熟れすぎたバナナをトーストの上にまるごと乗せたとき、 「うわーカブトムシの幼虫の超でかいのみたい」と思いながらムシャムシャ食べた。
今まで意識したことなかったんだが、私は少なくとも子どもよりは虫が苦手ではないのかもしれない。 何より今気づいたが、私の本名も虫に由来するものだ。 ひらがな表記なんだが、漢字で書くとバッチリ虫の字が入っている。
楓蔦きなり
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