池ポエム
ハンス



 あなたのことがきになるの

初めて声を聞いたのは、いつのことだったろう。
あの時から全ては始まっていたのかも知れない。人の一生は重き荷を負うて道を行くがごとし……それがどんな道であろうとも、始まってしまった以上は歩き続けるしかない。
あの時、あの声さえ聞かなければ。

「……今、どの辺にいるんすかねぇ」

星空が眩しい。都会では想像もつかないほど。空は白く大粒の輝き。降り落ちるほどの輝きは、ちっぽけな迷子の都会人を途方に暮れさせる。
星ぐらいしか見るものがない。目標物、他に一切なし。たどりつくはずだった村は何処へか。傍らでヘッドホンをして必死な顔をしていた相棒は、すでに状況打破を投げ出して空を見上げた。星よ、できたら教えてください。今いるここは、どこなんですか。
古いワンボックスカーに、骨董品寸前のラジオを積み込んだだけ。ぱっと見難民にしか見えない。田舎道通り越してただっ広い平原にたたずみ瀕死寸前。風前のともしび。
しかも何より、これが日常であることが最悪極まりないのだ。
いつから……いや、それは十分わかっていた。でも繰り返してしまう。なんで、いつからこうなった?終わりのない自問自答。人生の袋小路。
大抵の人々は知らないが、祈祷省はデスクワーク中心の気楽な高級取りなんかではない。もちろん、うまくいい部署に配属されたり、精神的にのみ最もきつい部署に勤める者などは、一見気楽で豪勢な暮らしをしているように見えた。そこだけを見て、揶揄する者も多い。
が、大部分の祈祷省職員と言えば。
「腹減った……」
「そりゃそうだよね……昨日、水飲んだっきりだもん」
大平原で遭難寸前だったりもする。これも仕事のうち。最も目立たず、最も薄給で、最もうっかり苦労をしやすいと噂されるお祈り課の職員二人は、今殉職の危機に立たされている。
耳に微かな音が聞こえているのが救い。
これが聞こえるうちは、きっと助かる。きっと、望む場所へ……いや、望んでいなくてもそこへたどりつく。声を聞く者、誰のところへもたどりつかないはずだった声を、拾ってしまう。
「早く見つけてくださいよ」
ついに相棒は本気で険のある眼差しでにらみだした。つか、お前一応部下だろうが。なんでそんなに強気なんだ。一応上司に対して。
大体、この果てしなき旅路(出張)の果てにコンビはケンカする。結構本気で。
「アンタがいっつも迷わなきゃ、死にかけることもないんですよ」
「別に、こっちだって好きで迷ってるわけじゃね……いやだったら早く最新機材をそろえたらいいじゃんか」
「会議を5回に3回はさぼる誰かさんのおかげで、うちの予算減りっぱなしなんすけど」
「出たって減るよ、きっと」
目減りする一方の予算に反比例して、忙しくなる仕事。大きくなる声。ひどい雑音の向こうに、一抹の希望を見つける。
「お!」
その声ははっきりと、誰かを呼んでいた。
たとえその誰かが自分たちではないとしても、祈る乙女のためにお祈り課職員は存在する。
「……なんすか、そのへぼいモノローグ」
「南南西だ。行くぞ」



いつも聞こえていた音が、声になった、あの日。

「君のことが、気になるんだ」

誰が誰に向けて発したのかわからない、あの声を聞いた時から、長い道は始まったんだ。

2009年10月24日(土)



 閉鎖する越境

周波数を間違えてはいけないよ

紅茶を片手に、師匠はいつもそう言った。祈りの周波数。聞き違えてはいけない大切な声。祈りの声を聞く者。
師匠とその周りにいる人々はそう呼ばれていた。何人も祈祷省に入ったエリートの巣窟のように噂されている。それは間違いではなかったが、もっと別の存在のようにも思えた。靄がかかった風景の中で、いつも紅茶片手にチューニングをする師匠がいる。

師匠、どうして祈りの声と憎しみの声は似ているのですか

いつだっかた。弟子入りして3年が過ぎた頃だったか。なぜか、その頃は全ての声は似て聞こえた。とりわけ、周波数はお隣同士のこの二つは、気を抜くとすぐ混ざった。隣の国の、訳のわからない言語。でも単語が違うだけで、文法はまるっきり同じだったりする。
解決方法はついに思い出すことができなかった。あるいは教えてくれなかったのかも知れなかった。祈祷省に入る試験では、憎しみの声を聞く力の方が重要視される。今でも、憎悪発見課の連中は、省一番の高級取りだ。
ほんの微かな囁きのようなもの。耳を澄まして、1Hzの狂いも逃さず、聞き間違えず。祈りの声を正確に聞き分ける頃、師匠はいなくなった。この人々は、一人前になると師を失くすようにできていた。代わりにまるでその貧乏と不運を引き受けるかのように、祈祷省に採用されてしまった。
以来、苦労して身につけた割には薄給に甘んじている。世の中が暗いせいだと、嘆くより他にない。ここは楽園ではない。

妙に現実的な思考になったところで目が覚めた。夢だったせいか、それともあの頃に限って思い出すとどうしても靄がかかったような、曖昧な記憶でしかない。
果たしてあの人はそんなことを言っていたのか。
紅茶なんか好きだっただろうか。
笑っていただろうか。怒っていただろうか。
貧乏だったのは間違いない。
どこへ行ったんだろう。本当に、ただいなくなっただけ?
・・・会うことはないんだろう。
残されたのは幾分劣る耳を持つ弟子と、明るくはない未来だけである。窓の外は珍しく朝日が差していた。薄白い光の向こうはいつも世界で、内側ときたら空気の悪い祈祷省お祈り課の仮眠室なのである。





2009年10月20日(火)
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