読書日記「父の像」 - 2002年03月29日(金) 「父の像」吉本隆明 ちくまプリマーブックス 筆者が漱石の「夢十夜」の解析のところで用いた 幼少時の「無意識の荒れ」という表現が印象的だった。 「第三夜」の「罪障感」についてはわたしも思うところがある。 高校生向けといってふりがなだけふってあっても 内容はそうとう難しいと思うなぁ。 それに吉本の語り風の文体が さらにわかりづらさを増しているようだ。 ここまで「父と子」にひっかかることについては なにか、「ちがうんだなー」という感じがする。 世代の問題?? 性差の問題? - 読書日記 「クラバート」「ちぐはぐな身体」 - 2002年03月24日(日) 「クラバート」オトフリート・プロイスラー 中村浩三訳 偕成社 ポーランドとドイツの境、ラウジッツ地方の伝承をもとに、 「大どろぼうホッツェンプロッツ」の作者が書き上げた叙事詩のような作品。 宮崎駿推薦の帯を見て、ミーハー心で買ったが、 なんとも重厚、骨太な作品であった。 阿部勤也先生の世界。 これは今のファンタジーブームには乗れないでしょう。 子どもが読むにはかなりの我慢がいると思う。 荒地の水車小屋でたんたんとすぎてゆく時間。 少年の粉ひきと魔法の修業。 労働のリアリティ。 つねにまつわっている死の空気。 不吉な夢の予兆。 あっけない幕切れ。 大きなストーリー性というよりは 時間の蓄積そのものがエッセンスとなっているような物語だった。 「ちぐはぐな身体」鷲田清一 ちくまプリマーブックス93 ちくまのこのシリーズは すごーい人たちが自分たちの世界を高校生むけに わかりやすく書いてくれているので あたまのぼんやりしたわたしにもとてもいい。 養老先生、阿部勤也先生、網野先生などが おもしろい本を書いているのだ。 同じ日に「ちぐはぐな〜」とともに「父の像」吉本隆明も買ってしまった。 自分でもふだんから ファッションとは何かということを 自分なりに考えてみたかったのだが えらい哲学の先生にこれだけまとめられると、 もう何かいう余地はないなあ。 しかしこの本もうだいぶん昔に出ていたのね。 きづかなんだ。 中に中島梓の「コミュニケーション不全症候群」の引用が出てきて 筆者はその指摘の的確さを言っていた。 ただあんなに少年少女の肉体意識を上手に指摘できる中島梓が ああいうひどい化粧法だったのは(特に眉毛!! ああかんちがいコスメ) なぜなんだ。不思議だ。 単なる絵心のなさか?? - 時間泥棒。 - 2002年03月06日(水) エンデの「モモ」を読んではいない。 大島かおりの訳がなじまなかったから。 でも、時間泥棒のことは知っている。 このごろこの時間泥棒のせいで えらく迷惑している。 まるでセンスのない 最悪の「オヤジ」である。 時間を細切れにし ほんとうに意味のある時間を奪う。 無意味に人を縛ることで 人に仕事をさせていると思いたいらしい。 こういうセンスのない人間には だいたい言葉が通じない。 きのうの日記の「壺」の中に 高祖劉邦の話が出てくる。 張良や韓信に知恵や勇において劣ると自ら語る劉邦は 内なる無の大きな人であったという。 それゆえ部下の能力を最大限に生かしたのだと。 仕事はそういう人としたいものだ。 そして美しく時を過ごしたいものだ。 少なくとも自分は人の時間を理不尽に奪わないよう 気をつけなければ。 - 壺。 - 2002年03月05日(火) 「日本の名随筆」、白洲正子編「陶」の中の一編、「壺」。 老子の言葉から、壺の本質はその中の空間、 「無」にあると思い知る筆者。 壺の豊かなふくらみをひとが愛でるのは 内部の無の充実をそこに見るためだと。 現代を偏執的空間恐怖症の時代と呼ぶ。 美しい「無」に見苦しい「有」を充当し、 それをよしとする、悪趣味な輩に辟易している 今日この頃。 ポジティブな「無」を守るためには、 強い覚悟で臨戦体制を取らねばならぬ。 - 何も書くことがない。 - 2002年03月03日(日) きのうはパソコンで仕事一つ仕上げた。 きょうはねぼうした。 ひるにゆざから電話。 先日の芝居の辛口批評する。 役者の動きがかたく、 台詞は一本調子だったという。 イチ観客だから許される。 芝居は難しい。 ひるちらし寿司。 午後たくさん仕事する。 仕事片付く。 文楽のビデオをとっておいたのを見る。 コクセンヤ合戦、近松。 すぐ飽きる。 ドナルド・キーンの本を読んでいる時は おもしろそうだったのに 本物の方が飽きるのはなぜ。 つまらない毎日。 つまらなくない時は ひどいことがおきる時。 - 読み終わったら押してみる。
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