また帰って来たロンドン日記
(めいぐわんしー台湾日記)

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2004年02月27日(金) 換気扇

 実はイギリスの家のキッチンには換気扇がないところが多い。料理をあまりしない、というか、あまりこだわりのないイギリス人にとってはどうでもいいのかもしれない。フランスに住んでいる時は、もっと換気扇がついていた気がするので、やはり料理に対する考え方を多少なりとも反映しているのだろう。

 うちのキッチンはすごく広い。ロンドンで住んだ家の中では一番大きいし、友達の住んでる家に行った中でも一番大きい部類かもしれない。で、コンロの上に取っ手がついている。日本でも取っ手を手前に引くと換気扇が出てくるタイプのものがあるので、もしかして、、、と思ったら、ただのもの入れだった。でも、コンロの真上にもの入れを作るかね? おかげで揚げ物をする気がぜんぜんしない。夜揚げ物をしたら、窓を開けっ放しにしておいても、次の日のあさ油くさくて辟易とする。

 というわけでこのもの入れ、取っ手もすぐにべとべとになるし、どうも構造的にイギリスのキッチンシステムとは相性が悪い。ただ、うちのコンロはガスコンロですごく満足している。というのは、イギリスでは電気コンロが結構普及しているのだが、これがすごく使いにくい。電気なので、コンロに鍋や、フライパンの底が密着しないと熱が通らないので、まず中華鍋を使った炒め物ができない。実際に温度調節がスムーズに行かないとか、俺は完全にアンチ電気コンロ派。どうしたわけか母が、最近日本の実家の台所を電気コンロに変えたようで、俺は猛反対したけど、あまり悪い話は聞いてないので、イギリスほどひどいものではないのかもしれない。


2004年02月26日(木) 二つの爆睡(2)

 ストライキ二日目はレポートを古典の先生のところに提出に行く。昼夜完全逆転しているので、それをただすために日本の彼女に「モーニング・コール」を頼む。9時に電話をもらったが、ちょっとごろごろして10時頃には起きる。何をしていたか2時頃間でごそごそと雑用して、学校へ。先生と話をしたあと図書館で次の日の予習。今日も図書館は5時で追い出される。まぁ、5時まで開いてるだけましか。その後はキングズ・クロス近くのクラスメートのカリストの家の夕食におよばれ。彼女は今日はタイのグリーンカレーを作ってくれた。

 彼女のフラットはなんと11人でシェア。料理を作る間も、入れ替わり立ち替わりフラットメイトが現れる。韓国人、中国人、シンガポール人。ほとんどの住人が中華系。彼女にとっては「すごく勉強に適した環境」。北京からきているというジェニファーという女の子と三人で談笑。

「あなた何人? 香港人? シンガポール人? 台湾人?」

などと聞かれ、とまどう。こっちは日本人だと言ったのに、聞いてなくて

「あら、中国系だと思ったわ」

などといって負けず嫌いのカリストをまた嫉妬させていた。お世辞でもこういうことを言われるとうれしい。カリストと11時半まで話をして帰宅。家に帰るとばたんきゅーで就寝。朝、目が覚めると6時。6時間とはいえ熟睡したらしく昨日とは違った種類の熟睡。何という快適な目覚め。何という自然な健康さ!! ということで朝から日記を書いている。これで11時からの授業の予習もばっちり間に合う。やっぱり朝方にしたい。

 朝、早起きしたときは5チャンネルでやっているミルクシェークmilkshakeという子供向け番組をみるのが楽しみ。「オズワルドOswald」というタコのアニメと「ノディーNoddy」というこれまた伝統的なイギリスアニメをみる。あれ、、気がついたらもう8時半。終わっちゃったかな? テレビをつけてみよう。

 今日の朝食は納豆うどん。天気予報によれば今日は最高気温は4度までしか上がらない。また寒い一日になりそう。


2004年02月25日(水) 二つの爆睡(1)

 昨日はストライキ初日。フィンランド人のペッテリ、イギリス人のジョニーとジェームスと連れだって、半徹夜7時間の授業あけに映画を見に行く。ジェームズはチャイニーズ・ソサイエティー(中国同好会)の世話人をやっていて、今回もその一連の行事と言うこと。どこに行くかと言えばウォータールーだという。ついてみれば、ありゃま、NFT(ナショナル・フィルム・シアター)じゃありませんか。もっと個人的な会合かと思っていた。

 ついたのは6時30分。が、ジェームズの様子がおかしい。どうも時間を間違っていたらしく、6時10分から上映だったらしい。しかも集まっていたのはうちら4人だけ。しょうがなくテムズ川を渡り、エンバンクメント駅のとかくのパブで一杯引っかけることに。

 ここでペッテリからフィンランド語の手習いを受けることになる。

「ビッセン」=ビール(beer)
「ミッサ〜〜オン?」=〜〜はどこにいますか/ありますか?(where is ~~?)
「ハルワットコ〜〜?」=〜〜が欲しいですか?(do you want ~~?)
「ルオカ」=食べ物(food)

「ミッサ・オン・ハナ?」トイレはどこですか?
「ミッサ・ペッテリ・オン?」ペッテリはどこにいますか?
「ペッテリ・オン・ダッサ」ペッテリはここにいます。
「ハルワット・コ・ルオカ」食べ物が欲しいですか?
 
となる。友達という単語も聞いたのだけど、忘れた。ペッテリは今日、朝リンゴ一個しか食べてないらしくギネスのハーフパイントで超ハイになる。二人して馬鹿話で盛り上がる。じつはジェームズは日本語を結構しゃべるのだが今日はフィンランド語で盛り上がる俺に対して「この言語おたくが、、」というような感じで冷ややか。

 ジェームズとジョニーが帰った後も、二人でチャイナタウンの「みさと」という日本料理屋へ行く。ペッテリはすごく日本好きで、ここ「みさと」も大好き。

「どうしてここが好きなのかよきわからない。ふつうなのに」

という。今日彼が頼んだのは豆腐ステーキ定食。前回はきつねうどん。彼はベジタリアンなのだ。俺はいつも通り大盛りのチキンカツカレー定食を頼む。

 家に帰るとくたくたで、風呂に入ってねる。ねたのは夜一時。気がつけば夕方の6時でなんと17時間も寝てしまった。


2004年02月24日(火) ストライキ

 今日、明日は大学のストライキということで。いきなりお休みになってしまった。大学の職員組合と学生組合の合同ストらしく、なんか変な感じ。ということで、コンピューターの面倒を見てやることに。

 一週間前にマックOS X(10.3 panther=パンサー)をインストールして以来、OS 9.2からの移行を検討していたのだけど、今日の「いきなりスト」とトルコで日本語教師をやっている友達(元ロンドンでうちのマックの面倒を見てくれていた)のおかげでほとんど完全に機能を移すことができた。

 パンサーはいいという噂を聞いていたけれど、実際に使ってみると噂以上にいい。もちろん長年使い慣れたARENAというメーラーからMailというマック付属のソフトに変更したりいろいろ面倒だが、ARENAが開発中止になったので仕方がない。そういえばマイクロソフト社もマック版のIE(インターネット・エキスプローラー)の開発を中止したそうだ。そのせいか、パンサーにはsafariというブラウザーがついていて、びっくりしてしまった。
 


2004年02月19日(木) 「個性」 試案

 今回灰谷健次郎の「兎の眼」や養老孟司の「バカの壁」を読んで思ったことを書いてみる。それは個性についてである。きょうはあまりまとまらないので、思いつくままに書いていく。



1、個性とは

 個性という言葉を特別のものとして扱わないというところからはじめる。また、同時にさまざまな文化、民族などの違いによって生じる、個人というよりは集合的なものとして感じうる特性も、ここでは最終的に個人レベルに還元し個性として扱う。

*日本人は議論が下手だ → この人は議論が下手だ → これはこの人の個性
*西洋人は云々 → この人は云々 → これはこの人の個性
*サラリーマンは云々 → この人は云々 → これはこの人の個性
*子供は云々 → この子は云々 → この人の個性
*30を超えて海外留学なんかしているやつは云々(笑)etc



2、こどもとおとな

 まず、個性といわれて、「個性を伸ばす教育」などに象徴されるいわゆる教育における対象としての個性をここで一般的に扱うのではない。すなわち断らないかぎり、ここで言う「個性」とは一般的に大人も子供も含んだ扱いとする。

*「子供の個性 / おとなの個性」という考え → 「個性一般」という考え

 もちろん「個性を伸ばす教育」などというものが、今の日本で実際に求められている訳はない。産業界のニーズを考えれば、現実的には「個性を伸ばす教育」の「個性」というのは、国際競争力をつけうる「実用的なひらめき」を持った人間であろう。または、政府の人間でさえ、そんなビジョンすら持たずに言葉に躍らされている人が多いかも知れない。まぁ、それでもいい。さて、もし本当に「個性を伸ばす教育→個性を認める教育」を実行するとすると、学校だけでなく社会全体として「個性を認める環境」を整備しなくてはいけなくなる。そして、もしそうなるとしよう。そう考えていくと「個性を認める環境」が一般化してしまった社会では、人は学校教育が終わっておとなになってもどんどん成長していくという発想が発展していく可能性がある。日本において「個性」という発想がはじめて教育の範疇から解放される。どこかで何かが大きく変わるはずだ。



3、他人(ひと)と自分

 「他人(ひと)の個性」から「自分の個性」を見る発想。そしてそう至る発展性について考える。個性を外側に追及してくと、必ず内側のベクトル、すなわち自分にたいして同じ質問が帰ってくることになる。人を認めていくことは自分を認めていくことでもある。

 「兎の眼」の中に出て来る登場人物に感じる違和感は、すなわち自分の中にある違和感に等しいのかもしれない。「大阪的な」力強さ(笑)にたいする違和感(その無前提なナショナリズム的地域主義)と、その力強さから何かを得たいという葛藤は、俺個人的には10年以上に及んでいる。大阪の強烈な雑多さ田舎っぽさと、その無前提な自己肯定感が、18年間広島で育ち、その後名実ともに急激に現代化(都市化・東京化)された俺の心を揺さぶるのかもしれない。



4、環境をめぐる考察

 灰谷健次郎の「兎の眼」の世界は、まず関西弁が話され、処理所に暮らす子供たち、その家族たち、熱血教師、知的障害児というエレメントがインパクトとしてドーンと出て来る。ここにすなわち非常に分かりやすい形での「私とは違う世界」の表出がある。しかし同時に他の先生たち、教頭、校長、他の子供の親、役所の官吏など、彼らが「こちら側」(または「あちら側」(笑)かといえば、一体どうだろう。これはリアリティーによる問題で、一般化は出来ないが、俺にとっては、彼らも自分とはまったく違う世界の住人である。今回「個性」というものを考えるに際して、「兎の眼」の世界に関して、俺はあえて「こっち側」「あっち側」という視点を排除したい。それは個性の追及というものが最終的にはそういう方向性を模索していかざるを得ないのではないかと思うからだ。

 まず「こっち側」「あっち側」とはなにか? この考えかたは自分の属性やそれとの相性、位置、折り合い等を表現する。同時に他の属性とのそれも表現する。

☆自分は「自分の属する世界」の中で本当に認められているか?
☆自分と同じ世界を共有していないと安心できないのか? 
☆「自分と違う世界」が「当たり前」であるのかどうか。

自分のまわりの人が持つ、いろいろな環境そして、世界・世界観
日本において、例えば
*お金持ち・貧乏人
*サラリーマンの世界・それ以外の世界
*お寺さんの世界・それ以外の世界
*「正しい」と「正しくない」
*「普通(=まっとう)」であること
*「自由人」

海外において(極端な事例)
*ドイツ人は日本人と気が合う
*イギリス人は英語を話さない人が苦手
*台湾人は親日 / 中国人は反日
*北朝鮮は拉致する
*Are you with us or against us?(「お前はどっち側につくのか??」イラク戦争時のブッシュの発言)

 もちろん、ある程度の情報(先入観)というのは、とくに海外で違う文化の人と付きあううえで、異なる文化を知る取っ掛かりとなるうえでも、無用なトラブルを避ける意味でも現実的に必要なこと。(これを無前提に「ステレオタイプ化はよくない」として避けようとする日本人はいささかナイーブであると思う)。ただ、この際には、そういう情報はあくまで「参考にとどめ」それを用いて深く判断しないということにしておきたい。


 このように世界は「あっち側」「こっち側」に分割されているように見える。その上で、現実においてそういうふうに判断していかないというのはどういうことだろうか? なにを導きだしていくだろうか?



5、日本人が英語を話すときの諸問題

 強調しておきたいのは、いかにイギリスに住み、日常生活の英語に問題がない日本人であっても、英語を話すときにプレッシャーを感じないのはやはり少数派であるということだ。ネイティブじゃないのだから完璧には出来ないと思いつつ、どこかでまだ自信がないという人は多いと思う。

英語を話すときのプレッシャー。
*心理的なことーー何が圧迫しているのか?
*個性?? 個性の埋没
*「ちゃんとしゃべる」=「何者かでなければならないという」魔法。集団催眠。
*英語を話す相手(とくにネイティブ・スピーカー)が個性(個人)として認識されているか? 
*英語で話す自分に違和感がないか?
*英語で話している自分の個性が、自分によって尊重されているか?
*表出した言語(英語)と自分の中身に矛盾がないか?



6、「自己評価」の問題

 自己評価が高くなければ他人を認めることが出来ないのではないか。基本的に無前提に自分を受け入れられるという下地があれば、他人も受け入れやすいのではないか。自分に満足していて、自分の行動、考え等々に自己で責任を負うことが当たり前であると考え、またそれに自分自身がおりあっているならば、人を攻撃したりコントロールしたりする必要がない。つまり相手の個性を基本として無前提に受け入れるということになる。


2004年02月17日(火) 【ほん】灰谷健次郎 兎の眼

 この本は、実は子供の時にうちの母親からいい本だから読むようにと言われて、何度も読もうと努力した本だ。結局何回もトライしたが、絵が暗い感じであまり好きでなかったのと、字がいっぱいでいやな感じがしたので途中で挫折していた。ただ、どこかで心にひっかかっていたらしく、友達のホームページで紹介されていたのを機に、実家に頼んでロンドンまで送ってもらい、20年越しで読むこととなった。




 写真は理論社刊の本。俺が読んだのは同じ表紙の本で1980年の59刷版。現在は理論社以外にも角川文庫、新潮文庫など文庫版もでている。


【紀伊国屋BOOK WEBより】

灰谷健次郎;長谷川知子
理論社 1980/00出版
23cm 317p
[A6 判] NDC分類:K913

 大学を出たばかりの新任教師・小谷芙美先生が受け持ったのは、学校では一言も口をきこうとしない一年生・鉄三。決して心を開かない鉄三に打ちのめされる小谷先生だったが、鉄三の祖父・バクじいさんや同僚の「教員ヤクザ」足立先生、そして学校の子どもたちとのふれ合いの中で、苦しみながらも鉄三と向き合おうと決意する。そして小谷先生は次第に、鉄三の中に隠された可能性の豊かさに気付いていくのだった…。
学校と家庭の荒廃が叫ばれる現在、真の教育の意味を改めて問いかける。すべての人の魂に、生涯消えない圧倒的な感動を刻みつける、灰谷健次郎の代表作。


【感想】

 読み進めていくにしたがって「複雑な気持ち」が増していく。平等な教育、教職員組合、戦争問題などなど、もはや歴史になりつつある当時の教育現場をめぐる葛藤が、同盟休校、ビラまき、ハンストというこれまた、いまから見ると歴史的となりつつある運動形態で展開していく。校長が一年生の生徒を一方的に殴ったり、熱血漢な先生が年上の先生たちと殴り合ったりする、今ではあまり考えられない「昭和」な世界。多分俺が、そういうコンテキストを多少なりとも共有し、そしてまたそういう運動のネガティブな部分を見てきているためにどうしても複雑な気持ちがしてしまうのだろう。

 しかし、以上は形式の話である。それを除けば、やはりいい本ではないかと思う。いろんな示唆を与えてくれる本であることには違いない。俺も読み進めるうちに何度も泣いたし、読み終わったあとにはいろんな思いが脳裏をよぎった。もう亡くなってしまったが、知り合いで、先の大戦、ビルマの部隊の中で一人だけ生き残って帰国した日本兵、彼は当時まだ十代だった。今は刑務所に入っている友達、原発の増設に反対して北海道電力前でハンストした友人、怒るとすぐに殴ってしまう友達。高校の時、学校に来なくなった友達。高校中退した友達に、自分は何も出来ずにただ送りだしてしまったと振り返る友人。


 それで「個性」ということを考えた。養老孟司も著書「バカの壁」のなかで触れているが、個性というものは特別なものではない。自分が持っているものそのままが個性である。個性を伸ばす教育がいいとされ「個性を伸ばせ」という。そうすると、多くの人はもともとひとりひとりが持っている「そのままの個性」を認めていこうなんて思ってもいないので、次には「求められる個性」というものが出てきて「持ってもいない個性を伸ばせ」と無理を言うことになる。個性とは何か、個性を伸ばすとはどういうことか。現代社会の中、自分も子供の親になっていく一人として子供や教育を考えたりするのにいい。そして子供だけではなく、大人の個性もこの物語の中で浮き彫りにされているさまざまな登場人物を通して多いにに考えが広がっていく。この兎の眼という本はそういう意味でやはり面白いのではないかと思った。

 ただ、個人的には、これが「子供の本」とされていることには宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」など同様に違和感を感じる(笑。宮沢賢治はともかく、「兎の眼」は、例えばどんな子供が読むのだろう? こういう話はまったく擦れていない健全な子供(笑)か、年齢を問わず現実社会と一定の距離をとることの出来る「おとな」でなければ読んでも面白くないのではないかと思う。ちゃんと「個性を伸ばされない」子供、すなわち「無前提に『そのままの自分であること』が出来ずに」育ってきている子供たちはあまりこういう本を読んでもわくわくしないだろうなぁと思った。そのかわりそういう子供たちは、日々を現実的に生き抜くために「正論」や「夢」を追いかけるのかなぁ、日本にいるパートナーと電話で話をしてそんなふうに思ったりした。


2004年02月14日(土) 日本人の祖先は中国人である!?

 昨日は友達の台湾人のパーティーによばれた。彼はケンジントン・オリンピアKensington Olympiaというところに住んでいる。ここ、実はアールズ・コートEarl's Courtの駅から緑色で表示されるディストリクト線District Lineの枝線に乗り換え、次の駅。この駅は一駅だけの盲腸線的な路線で、オリンピアの駅は終着駅ということになる。むかしノーザン線Northern Lineの北の終点に降り立ったことがあるが、オリンピアの駅はそんな風情。しかもこの駅ゾーン2なのに改札もなく駅員もいない。

 さてさて、友達は台湾名物の新竹米粉(ビーフン)と魯肉(るーろー)、空心菜(コンシンツァイ)の炒め物、そして、日本人の友達に教わったという茄子の田楽でもてなしてくれた。なかなか楽しかった。

 気がつくと、俺はそこに来ているある台湾人とわけのわからない議論を始めてしまった。彼によると「日本は、秦の時代の皇族が不老長寿の薬を探す途中『はじめて』見つけた場所」であり「その当時そこには誰も住んでいなかった」らしい。(彼曰く、この記載が「呂氏春秋」という文献の中にあるというのだが、時間があればチェックしてみよう。)というわけで「日本人の祖先は中国人であり、その証拠は日本人がいまだに漢字を使っているということだ」という。ふーん、なんかむかしにもこういう話を聞いたことがあるが、こういうことをいう人と話していて面白い議論に発展したことは、残念ながらいまだかつてない。彼が良く使う「歴史」や「民族」などという言葉が、あまりにも無前提に使われてまったく話にならない。ちなみに「中国人はどこから来たのか」と半分冗談で聞いてみたら、あっさりと「北京だ」と答えてきた。意味不明なので、詳しく聞いてみるとどうも「中国人の祖先は『北京原人』だ」ということらしい。きわめてシンプルだ。次回からはこういうプリミティブな話には「日本は何と言われようと『神の国』で、悪いがあなた方とは関係がない」と言い切ってしまいたい。どうせ酒の席などそんなもんだろう。

 俺個人としては、いまの日本人の祖先というのはいろんなところからやって来た人々の混合だと思っている。言葉の方面では日本語は「系統不明」といわれつつも、文法構造的には動詞のあとに目的語を取る中国語よりも、ハングル(韓国・朝鮮語)に近いのは事実だし、モンゴル語にも近いという話も聞いたことがある。



大野晋は著書「日本語はどこからきたのか」の中で、日本語とタミル語との関連を指摘する。なんとも壮大な話だが、非常に面白い。そう言えば、近年一般化してきているいわゆる「縄文人」と「弥生人」の話も面白い。もちろん中国大陸から来た人もいるだろうと当然のように思う。遣隋使派遣以前にはもう、アリューシャンから中国大陸、琉球、東南アジア、大洋州(オセアニア)に到る一大海洋ネットワークがあったという話を思い出す。これは、むかし教育テレビの「NHK市民大学」で講義していた網野善彦の話で、非常に興味深い。


 酒の席とは言え、たいして日本の歴史も知らないくせに日本の歴史を中国の歴史の延長として語り、勝手に包みこんでしまうようなやり方には抵抗があるし、非常に違和感を感じる。(これが中国人に染みついてる、いわゆる中華思想というやつだろうか)。たとえこれが「東洋的な酒飲み文化」の中でかわされた「たわいもない会話」であってもだ。ただ、俺はもっと、この「酒飲み文化」に慣れる必要がある(笑。というのは、日本人や台湾人と酒を飲むとき、少なからぬ人が自分の言動にたいしてあまりに無責任で、それを酒の席だということで正当化する傾向があるということをヨーロッパに住んでいると忘れるということだ。俺はこういうタイプがものすごく嫌い(笑)なのだが、まあ、違う文化の人たちなので文句を言ってもしょうがない。逆に、そういうときの方が相手の本音を聞きやすいぐらいに考えよう。ただ本音が聞けても仕様のない人も多いのが事実で、こういう席ではやはり特に注意して相手を見なくてはいけない。イギリスでは酒のせいにして悪態をついたりするの人は「だめな人」と言うような風潮を感じので、俺はイギリスの酒飲み文化の方が危害を加えられる心配がなく、楽でいい。


 さて、その場に来ていたほかの人たちは「敢えてその話には加わらない」と言う感じ。北京から来ている友達のフラットメイトでさえ「話題を変えよう」という。彼らの反応は正しい(笑。そして、もちろん話は軽く第二次大戦にも及ぶ。


 俺は第二次世界大戦において日本は「有罪である」と思っているが、どういう世界状況の中で日本がなぜそのような政策をとるに至ったのか、また戦略はどうであったのか、どこが正しくどこがまちがっていたのか云々を考えることは別の次元の話だ。戦争に負けると、どうも心理的にそういう思考そのもの悪であるというふうに思いがちだが、諸外国と付きあっていくためにはどのような将来像を思い描くにせよ、必ず必要なことだ。蛇足ながら、もう一つその台湾人の彼の言。「もし第二次大戦がなければ、中国はもっと発展していた」。出来るものなら俺としても是非そうやって欲しかった(笑。


【今日の献立】

ズッキーニとなすび、アスパラガスのシチュー
カボチャの煮付け
黒米・玄米混合ご飯

【一口レッスン】

 ズッキーニはイギリス英語ではcourgetteといい「クジェット」と発音。フランス語も同様。アメリカではzucchiniという。なすびはイギリスではaubergine(オーバジン)が一般的で、フランス語(オーベルジーンヌ)と同じ語。ちなみにアメリカではeggplant(エッグプラント)というとか。

 中国語でなすびは「茄子(チエズ)」で日本語と同じ漢字。ではズッキーニはと調べると「緑皮西葫蘆(リューピー・シーフール)」。葫蘆(hu2lu)とは本来ヒョウタンの意味らしく、ズッキーニは「緑の皮をした西洋のヒョウタン」と言う訳語が当てられている。辞書を引くと「葫蘆裡装的甚麼薬」と言う項があってなかなか面白い。文字通りには「医者が薬入れのヒョウタンの中に入れてあるのはどんな薬だか知らない」と言う意味で、転じて「腹の中にどんな考え、たくらみがあるのか知れたものではない」と言う慣用表現らしい。「不知他葫蘆裡装的甚麼薬」で「あいつは腹の中で何をたくらんでいるかしれたものじゃない」となる。すごく中国語らしい響き。「葫蘆裡賣的甚麼薬」とも同義。


2004年02月13日(金) 【ほん】 綿矢りさ「蹴りたい背中」



 きました。本年度芥川賞受賞作。史上最年少。と、話題にこと欠かないこの作者。TBSテレビのニュースで見るかぎり、なんともつかみどころのない大学生の女の子という感じ。ま、知らない人なので「つかみどころがない」というのも失礼な話だが、俺にとっては興味深い人出少し親近感を感じた。俺がテレビを見てそう思えるということは、逆に太い神経を持った人なのかもしれない。受賞の当日の会見のとき、テレビのインタビュワーが彼女の足が青あざになっているのを目ざとく見つけ「今日は、足どうかしたんですか?」と問うのに、両手で顔を覆いながら「あー、そうなんだー、こういうのもあるんだー」と言っていたのが非常に印象的だった。どうもその当日か前日にどこかで転んでひざをぶっつけていたらしい。

 彼女のインタビューで頼もしく感じたのは芥川賞の受賞について「大変光栄に思うけど、流されないようにしたい」と言ったこと、そして自分の作品について「あくまで娯楽として楽しんでもらいたい」と言っていたことだ。こうやって文字にして書くと普通だが、彼女がインタビューに答えているのを見たときには、なんとも立派な態度だなと感心した。


【紀伊国屋BOOK WEBより】

蹴りたい背中
ISBN:4309015700
140p 19cm(B6)
河出書房新社 (2003-08-30出版)
・綿矢 りさ【著】
[B6 判] NDC分類:913.6 販売価:\1,000(税別)

愛しいよりも、いじめたいよりももっと乱暴な、この気持ち。高校に入ったばかりの“にな川”と“ハツ”はクラスの余り者同士。臆病ゆえに孤独な二人の関係のゆくえは…。


【感想】

 なんというのだろう。好き嫌いで言ったら嫌いじゃないな。ま、面白い感性だなと思う。何ヶ所か面白いと思うフレーズがあった。あまり書くとネタバレになってしまうので控えるが、例えば最後のあたり「はめられた」という言葉が出て来るあたりとか、結構面白かった。

 思い出したのは、10年前に吉本ばななの「キッチン」を読んだときのこと。「蹴りたい背中」は「キッチン」に比べると、すごくすっきりしているなと感じる。「キッチン」を読んだときには、形としては当時新しかったかもしれないが、感覚としてはあまり新しさを感じなかった。「キッチン」はどちらかというとおれたちの世代(昭和46年生まれ前後)の持つかよわさ、もしくはセンシティビティみたいなものに共通するものがあった。吉本ばななは嫌いではないが、敢えていえば、その気だるい感性に「アンニュイ」で「おしゃれ」なフレーバーをかけたような感じだった。「蹴りたい背中」には強さを感じる。俺自身があまり持っていない強さを感じる。情景描写はビジュアル性が高く、台湾映画「藍色大門」(邦題は「藍色夏恋」だったかな?)を思い出させる。筆致もどちらかといえばニュートラルな感じで、暗くない。もちろん人によっては「暗い」といっているようだが、俺はあまり暗さを感じない。暗さがあるとすればそれは前提として当たり前にあるのであって、それをいかにやりすごすか、楽しむかみたいなところを感じる。

 この本を読んで思ったのは、主人公ハツと同級生のにな川の醸し出す雰囲気だ。むかしロンドンで出会った俺より5歳ぐらい年下の、今27歳前後の男の子たち(彼らは当時は23前後だったのだけど、俺と同様に彼らも年をとっているということに気付いてがく然!!)もしくは、もっと若い人たちのそれ。当時から思っているのだけど、彼らは「偉いな」と。俺らにとって当たり前でなかったいろんなことが、彼らにとってはもうすでに前提になってしまっていていること。そして妙にさばさばして感じられること。

 そういう意味でも、俺にとっては新しくて、ちょっと懐かしいような雰囲気を感じる本だった。やっていることはたいして変わらないのに、ちょっとした環境や時代の変化、共有されているその時の雰囲気などで、人々の持つ感覚、そして小説の中に表現されてくるものが違ってくる。そしてそれは「変わらないもの」が自然に「変化していく」というものすごい可能性を感じさせてくれる。文芸賞受賞作の「インストール」も機会があれば読んでみたい。


2004年02月12日(木) Xデー・牛丼が消えた日(笑

 俺は毎日ロンドンで、インターネットを通してTBSのニュース番組を見ているが、昨日今日と久しぶりに爆笑したニュースがあった。それは牛丼報道だ。牛丼好きが多いのはともかくとして、ニュースキャスターまでもが「本当に一大事でした」とか言い出してびっくり。

 とくにサラリーマン諸兄が役者も顔負けという感じで、痛切な思いを語るのにはどうしても笑が込み上げてくる。日本のサラリーマン諸氏はこんなにもかわいらしかったとは。報道陣が詰めかけている東京のとある牛丼屋では牛丼を食べる最後の客となる人にカメラがくぎ付け。こんな状態で落ち着いて食べられるわけがない。俺だったら食べずに帰ってしまうかもしれない。もしかしてこの人、最初から出ることになっていたのではないかと思えるほどに愛想が良く「やっぱり無くなるのは寂しいですね」などと言う。

 海外から客観的に見ると今回の牛丼騒動は何かが変。It's so funnyな感じだ。もちろんTBSのnews-iしか見ていないので、この局が偏っているだけなのかもしれないけれども、とくにこのニュースがイラクの報道のすぐ後に来ると、初の海外派兵に対する不安を無理に牛丼フィーバーで乗り切ろうという感じで、そのアンバランスが絶妙でおかしい。

 地方ではどういう風になっているのか知らないが、なんかこれは都会的な現象じゃないかなという気がする。もしかしたら多くのテレビネットワークの本社が集まる東京的な現象かもしれない、という気がした。現象というよりはマスコミがあおっている一種のお祭りという感じか。

 ロンドンからしてみれば、ロンドンに一件でも吉野家があってくれればどんなにいいか、、、というかんじで、東京の牛丼Xデーのフィーバーぶりをにやにやと眺めている。同時にカメラアングルをずっと引いて見れば、海外派兵、それに引き続く強行な牛肉輸入停止措置も、日本が「独立国家」になるための一連の試金石なのかななどと思う。マスコミ報道とは裏腹に、現在、実際に日本を取り巻く国際的政治環境が激動期を迎えていることに思いをはせ、新しい国の船出に対する期待と今までのタブーを破る罪悪感が交錯し複雑な思いがする。


2004年02月11日(水) 【ほん】 中国帝王図(講談社文庫)



 この本、うちの本棚を整理していたら出てきたもの。どこからうちの所有になったのか不明。うちの本棚には、日本に帰国して行く際に人が置いていった本がいっぱいあるが、自分で買った覚えが無いので多分これもその内のひとつ。可能性が高いのは3年前にフラットシェアしていたフラットメイトのクロベエ。彼が遠くロシアに旅立つ際に数多くの書籍をいただいた。その書籍群は「クロベエ記念文庫」として今もロンドンの日本人に潤いを与え続けている。


【紀伊国屋BOOK WEBより】

中国帝王図 (講談社文庫)
ISBN:4062645025
217p 15cm(A6)
講談社 (1998-12-15出版)

・田中 芳樹・井上 祐美子・狩野 あざみ・赤坂 好美【文】
・皇 名月【画・文】
[文庫 判] NDC分類:288.492 販売価:\495(税別)

中国の始祖・黄帝から最後の皇帝・宣統帝(溥儀)まで、歴史に燦然と輝く帝王たち。その勇姿を描くのは華麗な中国王朝物で人気の漫画家・皇名月。
そして壮大な中国歴史小説を得意とする人気作家・田中芳樹をはじめ、井上祐美子、狩野あざみ、赤坂好美、皇名月が覇者の歓喜と悲壮を記す。愛蔵版歴史絵巻。

黄帝

夏の桀王・殷の湯王
殷の紂王
周の武王
周の幽王
斉の桓公
宋の襄公
晋の文公
呉王闔閭・越王勾践〔ほか〕


【俺の感想】

 うーん。なんというのだろう。まず、これってどういう人が読むのでしょう?? インターネット上にイラストのホームページとかを持っている、歴史好きな人たちは好きそう。個人的にはこの本の挿し絵があまりこのみではないし、みんな同じ顔に見えてしまうので、本来この本の売りであるはずの「挿し絵」は何も訴えてこない。それはちと残念。

 おれは学校の授業で司馬遷の「史記」や「春秋左氏伝」そして「孟子」などをやっているので、禹(う)・尭(ぎょう)・舜(しゅん)から始まり、暴君として知られる殷(いん)の紂王(ちゅうおう)、それを討って殷を滅ぼし周をたてた武王など、この本にはなじみの深い王たちが登場する。春秋左伝に出て来る放浪の公子、後の晋の文公こと重耳(ちょうじ)の話や「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」で知られる呉王闔閭(こうりょ)と越王勾践(こうせん)の話も紹介されている。ただどうなのだろう、背景を軽く知っている人向けというべきか。それともイラスト好きな人向けというべきか。中国の歴史を全然知らない人が読むには専門的な用語が多く、背景の説明がなさ過ぎるし、背景を良く知っている人は読んでも内容があまりに簡潔すぎるので物足りなく感じるだろう。広く浅くという感じ。多分イラストがなければ成り立たない企画ではないかと思う。

 田中芳樹という人どこかで聞いたことあるなぁと思って、銀河英雄伝説の人かなと思っていたらやっぱりそうだった。なんかこの人の書くものを読むと、俺はいつも「何も感じない」ということになってしまう。なぜなのかはわからないが、横山光輝のマンガの方がまだ入ってくるという感じ。で、この本は共著ではあるが、やはり全体的にそういう雰囲気が漂っていて、個人的にはどうしても表層的な感じがするといわざるを得ない。俺とは違った想像力を持ち、違ったリアリティーを持った人はまた異なる読み方が出来るのだろうなぁと思った。


2004年02月10日(火) 「判断」しないということ

 先日、日曜日の日記に書いたことに対して、何人かの人から心配のメールをいただいてしまった。非常にうれしかった。この場でもお礼を言っておきたい。

 みんなは、俺が何か不愉快な出来事に遭遇したと思ったらしいが、実は最近は非常に調子も良く、とくに不愉快な事件に巻き込まれてはいない。ただ、突然思い出してしまったのだ(笑。ま、思い出せる余裕があるというか、思い出してひととおりむかつくとすっきりしてしまうわけで、自分ではむかしに比べて「健康だなー」と思うけど、そんなことで多くの人に心配をかけるのは申し訳ないなとも思うし、同時にすごくうれしくもあった。

 
 ここ2年、とくにNLP(神経言語プログラム)を勉強し始めてから学んだことで、今とくにその重要性を感じているのは「人を判断しない」というスキルだ。この「人を判断しない」というのは、自分の考えや感覚で相手の人のことがどんな人であるかを勝手に判断しないということ。俺は生まれてから30年間、そういう感覚を持ったことがなかった。だから社会との自分との関係はつまり「判断し、判断される」関係でしかなかったし、だからこそ「どう判断されるか」によって行動が決まり、いかに正当な根拠をもって人を「判断する」かが重要だった。(だから儒者が嫌いなのかも、、、=余談(爆)

 その「判断し判断される関係」の影が自分の中で薄くなりつつある。ではこの新しい感覚というのは何かというと、つまり自分はいろんな場所において、理由なくその場にいることが出来るということだ。それはどういうことかというと、自分が何者で、どういう理由があってその場にいるのかという説明を相手から要求されず、しかもこちらも敢えていわなくていいということだ。こういう感覚を持って育ってきた人にはなんとも当たり前すぎてわからない話かもしれないが、そうでない人間にとっては人生観が180度変わってしまうほどの大きな驚きでもある。

 
 自分が判断することを出来るだけしなくなったからといって、周囲の人々がそうしなくなるということにはならない。他人はコントロール出来ないのだから仕方がない。そこでなんとか身を護る手段を考えなくては行けませんねと(笑。つまり今の俺はそういう段階ですよということ(笑。どうも今思えば「お寺さんノリ」で、延々と下手にいい人を演じ過ぎ、気がついたときにはピエロになっているというのが物心ついたときからのパターンだった。まわりにはどういう風に写っていたかはわからないが、少なくとも自分的にはそうだったし、同時に忸怩たる思いにも悩まされ続けてきた。

 
 今は、自分は自分のことしか出来ないという感覚が強い。「他人はどうでもいい」などという言い方をしてしまうので、また誤解されてしまうのだが、どうもこういう言い方というのが俺は好きらしい。他人がどうでもいいわけがない。が、敢えてこういう風にいってしまうのは「一人レトリック」だろうか? 前提を簡単に共有する技量が足りなすぎで、反省しなくてはいけない。
 
  


2004年02月08日(日) ことばの問題

 どこかで向いていないと思いつつも、俺が外国語を勉強しているのはもしかしたら「ことばから自由になる」ためかもしれない。英語・エスペラント語・フランス語・北京語・広東語・台湾語。かじっただけの言語なら数はもっともっと増える。こんな言語ジプシーのようなことをやっていても到底まともな職には結びつかない。

 ひっくり返すと、まともな職につなげようという気がそんなにないのかもしれない。食っていくためなら最終的にはなんとでもなると思っている。それは同級生たちが大学生をやっているときからやっていたさまざまな仕事の経験や、職業としてのストリート・ミュージシャンという経験による。
 
 はっきり言う。人のことはどうでもいい。基本的に人がどんな仕事をしようが知ったことではない。その人が幸せであればいいなと願うだけだ。仕事などというものは、その人の全てを表すものではない。そしてその人にはその人の事情というものがある。人によってはひとつの仕事に情熱をかけることができ、そしてその職業がその人の人格すら現してしまうほどのものになることもあろう。しかし、そんな人間は一握りだということは実は多くの人が知っている。自分が満足できない仕事をすれば、誰しもが満足できる仕事、自分をより表現できる仕事をしたいと思うのは当然だ。ただそれは本人自身の問題でしかない。


 ひとつのことばをここに置いてみよう。誰もが知っていることばをひとつ取って置いてみよう。そのことばは誰しもが知っているはずのもので、「それ」は「それ」であるべきものだとみんな思っている、、、と俺は思っている。

 俺がそう思うために必要な条件とはなんだろう。そしてその考えが「通用する」ための条件とはなんだろう。「通用」しないのだと思うために必要な条件はなんだろう。


 ひとつの観念があり、その観念を受け入れるグループがある。そのグループが堅牢であれ脆弱であれ、大きかろうとも小さかろうとも、それがその観念を支えるに十分であればこそ、そこに存在の危うからざることが保証される。ではそれはなんだ。


 このがんじがらめなことばの世界から抜け出そう。自分が思い描くものをつくっていけばいいだけじゃないか。そしてどんどん簡単にしていこう。ことばに縛られず、ことばをばらばらにしていこう。そして、こいつらをばらばらにしたときに一体何が残っているかの方が重要なんじゃないのか? その日に、何もなかったと気付いて途方に暮れるよりも、いまからその先を見ていくことが出来るはずだ。


 俺は勝手にやらせてもらう。だから俺のことも構わないでほしい。甘えるならもっと上手にやるもんだ。俺が君たちより楽な人生を歩んできているわけではない。いいとこ取りをしようとするのはやめてくれ。君たちが自分で決めたなら、それを胸を張って成し遂げてくれ。おれはそうしよう。胸を張って進もう。自分で選んだ道を。


2004年02月06日(金) 週末は香港映画的展開

 うちの大学では、来週はリーディング・ウィークといって、授業はなく各自自習しなさいという一週間。俺は「読書週間」と訳している。この時期、図書館リサーチの課題、論文の準備などなどやることはてんこ盛り。しかしリーディング・ウィークの前の週末ぐらいは羽を伸ばしたいもの。ということで、今日は台湾人の友達の中華の食事会に、自分の友達を誘って参加。

 俺は揚げ魚と「田鶏」を注文。「田鶏(ティエンジー)」とはカエルのこと。カエルを揚げたものが「香菜(シャンツァイ)」と一緒に出てきたがこれがなんとも美味。香菜というのはコリアンダーのことで東南アジア系の料理にはかかせない食材。日本人は食べれないという人が多いけど、意外と慣れるもんじゃないかと思う。俺も18歳の時はじめて広東省の広州市を訪ねたときには全然食べれなかったのに、いつの間にか食べれるようになっていた。魚もすごくおいしく注文したものにハズレなしでご満悦。

 その中華レストラン台湾人の友達が案内してくれたのだが、中に入ると延々と階段を上がって4階に。ちょっとばかし迷路のような感覚。そしてその部屋、なんとも怪しい一室。その部屋の前には謎の中国系の一団が意味もなくたむろしている。「怪しい」。 一緒に行った友達は「何やら香港映画のようだ、、、」と緊張。 曰く「これから麻雀が始まるのか??」 確かに今日の雰囲気は怪しかった。どこからともなくサモハンキンポーが出てきそうだった。英語、北京語、広東語、台湾語、日本語が交錯する怪しい一室。しかし気がつけばカラオケまでついているその部屋で大騒ぎ。一同超満足。

 その後は友達とクラビングでキングスクロスのスカラへ。ロック・ポップス系のクラブで、俺はすごく好き。やはり2時を過ぎた辺り、客が少しずつ減ってきたなぁというころから選曲が良くなってくる。ノッてくると身体が機械的に動き出す感じで、もう息が上がってるのに止まらない(笑。水泳しているときに500メートルぐらい泳ぐと、なぜか身体が自動的に動き、休む気がしなくなるのと一緒な感じで面白い。

 3時に退散。キングスクロスから91番のナイトバスに乗る。このバスは地下鉄のピカデリー線の終点であるコックフォスターズ行き。今日のお客はすごかった。1階はそうでもなかったが2階に上がると雰囲気が一転。相当に騒がく怪しい雰囲気。十代の若い子らがポテトチップスなどのスナック菓子を大声をあげながら食い散らかし。俺が座ったとなりの子はいきなりたばこを吸いだす。車内はもちろん禁煙。階段の柵の部分から足を投げ出して、今にも1階に落ちそうな形バランスをとりながら「俺にもポテチをくれよ」とせがんでいるやつまでいる。久しぶりに体験するマナーの悪いロンドン。はじめてロンドンに来る人なら危険すら感じてしまうだろう。物おじしなくなった俺。このやんちゃなガキどもに何を言われたとしても無難に対応できる自信がある。良くここまで慣れたなぁと思う。

 さて、明日は2時半からうちの学校で台湾学生連盟主催のスペシャルVCD上映会。どうも政治関係の内容らしい。どんな人と出会えるか期待。


2004年02月04日(水) チャイニーズ・テイクアウェイ 中華お持ち帰り

 ロンドンはいま夜の3時半。さっき11時に寝てしまい、2時に目が覚めた。現在ご飯を炊いている。昨日はどうもご飯を作る気力がなく、水に浸しておいた切り干し大根もラップして冷蔵庫にしまってしまった。この切り干し大根、ピカデリーの近くの「らいすわいんショップ」という日系食料品店で2ポンド50(約500円)もする高級品。日本では百円ショップで買えそう。台所にある買ってきたばかりの大きなカボチャ(Kabocha Squashとかいてある)も早く煮付けにしてくれとせがむ。

 ということで昨晩は、久しぶりにうちの近くの中華でお持ち帰り。うちでは英語のChinese Takeaway(中華お持ち帰り)を省略して「チャイテク」と呼んでいる。ここに行くのは久しぶり。で、最近目を見張る(??)進歩を遂げている広東語で会話。やっぱりあまりしゃべれないが、おばちゃんとキンガイ(おしゃべり)。この時期クリスマスで散財してしまったイギリス人は、クレジットカードなどの請求に追われて外食を減らしているらしく、商売はいまいちというようなことを話す。

俺「ネイデイ・サーンイー・ディムヨンア?」
おばさん「オーケー(OK)ラー。マーマーデイ」

「商売はどんなですか?」「まーまーですね」という会話。こんな簡単な会話でも出来るようになったらうれしい。この時期に客足が鈍って影響が出るのは「ヤッニン・ヤッチー(一年一次)」で「モウバンファー(没辧法)」らしい。つまり、「一年に一回はやって来る」ことで「しょうがない」ということ。広東語が上達するのはいいが、台湾で勉強した台湾語(閔南語=ミンナン語、いわゆる福建方言)は記憶の彼方へ。ま、基本的な言葉は覚えているけど少し悲しい。

 例えば日本語の「大丈夫」に当たる言葉は以前の台湾日記のタイトル「めいぐあんしー(没関係)台湾日記」の中でも使った「没関係」。もう一つは英語のno problemに相当する「没問題」というのがある。同じ漢字を使うがこれを北京語、台湾語、広東語で比較すると

【没問題】no problem
北京語 メイウェンティ
台湾語 ボブンテー
広東語 モウマンタイ
日本語 ぼつもんだい(??)

となる。「メイグアンシー(没関係)」の台湾語はいつも没問題を使っていたのでわからないが、

【没関係】it doesn't matter
北京語 メイグアンシー
広東語 モウグアンハイ

となる。広東語では「ムガンイウ」という言葉の方が多用されるらしい。


 うちの近くでは夜の10時ぐらいから、延々と鳥がさえずって、今も窓越しにぴーちく言っているのが良く聞こえる。寝る前に聞いた鳥の声と今聞いているのが同じなのかは謎。でも夜の10時に鳴く鳥はさすがにearly birdとは言い難いか。ご飯が炊き上がったので、そろそろ寝るとしよう。


2004年02月03日(火) インソームニャー

今日は早く11時半に寝たというのに、気がつけば明け方の3時半。気がつけば10年間培った「朝日とともに寝る」という習慣が頭をもたげてくるのかもしれない。しかし、あくまで規則正しい生活習慣を目指すのだ!!

不眠というのは英語でinsomniaという。愛用のCOLLINS COBUILD ENGLISH DICTIONARYによると

Someone who suffers from insomnia finds it difficult to sleep.

とある。次項にはinsomniacというのがあって、これは眠れない人を指すようだ。

 そういえばさっき目が覚める直前、夢の中で広東語で会話していた。何を話していたかは不明。しかし、4年前はじめてフランス語を習いはじめたときと同様、頭の中で延々外国語が流れるときというのは言語を習得中である証拠だ。4年前のある日、寝ている間に俺の頭の中で同じフランス語のフレーズが延々と繰り返された。「ケスク・イリヤ・ドン・ラ・ヴァリーズ??」。荷物の中身は何かという意味だが、、、授業で警察に職務質問される場面をやった夜に見た夢だからしょうがない。

 さて、今日学校でドイツ人(こいつは旧東独の出身)のトーマスが授業をちょっと抜け出しているところに遭遇。今まで何をしていたのかと問うので、自習室で勉強していたというと「すごくdiligentだねー」といわれた。聞いたことある単語なぁと思ってどういう意味かを問い返すと「中国語の『用功(よんごん)』だよ」といわれて、あーなるほど。で、すぐに思い出したのが「ディリゲンタdiligenta」というエスペラント語の単語。熱心な、勤勉なという意味でした。hardworkingの堅い語だそうです。

 ちなみに不眠症はフランス語ではinsomnie(アンソムニ・女性名詞)でそういう人のことはinsomniaque(アンソムニアック・これも女性名詞)というらしい。「不眠症になる」はavoir des insomniesでなぜか複数形。英語はhave insomniaでhave some insomniasではないらしい(笑。北京語では「失眠症(シーミエンジェン)xi1 mian2 zheng4」というらしい。広東語ではなんというのだろう。明日先生に聞いてみよう。おや、5時15分になってしまった。もう一度1時間半ほど寝て、広東語を予習して学校に行くか!!


2004年02月02日(月) 【映画】恋はデジャ・ブ Groundhog Day

 日本語のタイトルを見ていたらきっと見ないだろうなという映画。この邦題、見終わったあとインターネットで知ってびっくり。allcinema onlineの感想には「この題名のおかげで紹介しても誰も見てくれない」とか「題名にに惑わされず見てほしいとか」書いてある。いい映画なのに題名の付け方まちがいましたねー。この男優、高校時代映画館で見た「三人のゴースト(Scrooged)」の人。この人「フィッシャーキング」にもでていたと思っていたら、それはロビン・ウィリアムズでどうも勘違いだったらしい。女優はどこかで見たことあるなぁと思っていたら「セックスと嘘とビデオテープ」の人だった。





【allcinema online より】

恋はデジャ・ブ (1993)
GROUNDHOG DAY

上映時間 101 分
製作国 アメリカ
公開情報 Col=COLTRI
初公開年月 1993/10
ジャンル コメディ

監督: ハロルド・ライミス Harold Ramis
製作: トレヴァー・アルバート Trevor Albert
ハロルド・ライミス Harold Ramis
C・O・エリクソン C.O. Erickson
原案: ダニー・ルービン Danny Rubin
脚本: ハロルド・ライミス Harold Ramis
ダニー・ルービン Danny Rubin
撮影: ジョン・ベイリー John Bailey
音楽: ジョージ・フェントン George Fenton 
出演: ビル・マーレイ Bill Murray
アンディ・マクダウェル Andie MacDowell
クリス・エリオット Chlis Elliott
スティーヴン・トボロウスキー Stephen Tobolowsky
ブライアン・ドイル=マーレイ Brian Doyle-Murray
マリタ・ゲラーティ
ロビン・デューク Robin Duke

 TVキャスターのフィル(B・マーレイ)はある日、同じ日を繰り返し体験していることに気づいた。彼は“過去”の経験を活かして、愛する女性に告白しようとするが……。サタデーナイト・ライブのメンバーによるライトなコメディ。  
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【感想】    ↑
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 すぐ上の「作品解説」を書いた人、この映画見なかったか、何も感じなかったかどちらだろう。このallcinema onlineというところ、データベースとしては結構いいが、どうも作品解説が偏っているような気がする。どなたか、もうちょっといい映画検索サイトがあれば教えていただきたい。

 この映画はチャンネル5でいつものようにたまたまやっていた。偶然なのは、先日うちのクラスメート(ブラジル生まれ、アメリカ育ちのドイツ人)と話してるときに話題になった映画だったということ。俺は今日までこの映画を見たこともなく、ご飯を食べながらなんとなく見ていて、もしかして彼の言っていた映画ではないなと思いながら最後まで見た。同じ日が繰り返されるのがちょうど2回目の朝というとこから見始めた。最後まで見て、これはどうもその映画だったらしい。

 そのクラスメート曰く「毎日朝起きると同じ日(昨日)が延々と繰り返される」映画だという。どんな映画かなと思っていたら、この映画すごく良かった。上の解説にある「彼は“過去”の経験を活かして、愛する女性に告白しようとする」というのは、俺的には少し大ざっぱに言いすぎな気がする。この映画のテーマが、そういう打算的な感覚を越えてしまったものを扱っているように思えるからだ。

 毎日朝6時、ニュースの取材に来ている同じ街の同じホテル、同じ部屋で目が覚める。この映画はこれが延々繰り返されることになる。見ていると途中でなんともやり切れなくなってくるのだが、軽快なコメディータッチで描かれていて、すごくすっきりしている。

 絶望した主人公はあらゆる方法を使って何度も自殺を試みるが、その努力もむなしく「前の日(2月2日)の朝6時」に同じベッドの上で目を覚ますことになる。途中ではこの、あまりに執拗な「賽の河原」的現象に、見ているほうも途方に暮れてしまうが、その日に街でどんなことが起こるか秒刻みで知り尽くしている彼は、その後、困っている人々を助けたり、または喜ばせたりを毎日繰り返していく。氷の彫刻を練習し、ピアノを習い最後には一流の腕になる。最後は忘れてしまったころにやっとハッピーエンドがやって来る感じでほっとする。ぱっとしない日常に埋没し、特別新しいことをするやる気も出ずだらだらしている人には刺激になっていいかもしれない。「あと一年であなたは必ず死ぬ」といわれたらどうするかという質問があるが、遠回りしてたどり着く境地はある意味この映画のそれと近いかもしれない。元気が出る映画、前向な感じで俺はすごく好き。

 Sony Pictures Video Informationというところにコンパクトでましな解説を発見。以下コピペ。

 聖燭節を訪れたお天気キャスターが田舎道で足止めを食い、その上おかしな事に永遠に2月2日を繰り返す爆笑コメディ。
「ゴーストバスターズ」「スペース・ジャム」のビル・マーレーと「フォー・ウェディング」「クローンズ」のアンディ・マクドウェルが共演の全米初登場第1位を記録した大ヒット作。監督はハロルド・ライミス。


2004年02月01日(日) 「人肉饅頭」?? 水滸伝、実は強烈!!

 また本の紹介で書くと思うが、高島俊男著「水滸伝の世界」を読んでいる。これは学校で水滸伝の授業をとっているせいで興味をもって読んでいるのだが、実は水滸伝という小説、思っていた以上にめちゃくちゃな話だ。

 もちろんうちの学校では、水滸伝の中国語版を英語に翻訳しながら授業を進めていく。日本語に翻訳しながらだと完全に理解できることこの上ないと思うが、英語の国でやっている以上当然英語に訳す。そのため、出来るだけ多くの予備知識を得て、全体像を把握しておくために、日本に帰ったときにこの本を買ってきた。

 さて、人肉饅頭屋というのは、もともとの水滸伝のなかで出て来る一種の峠の茶屋的な店で、有名な豪傑がしびれ薬を飲まされ、あわや殺されて饅頭の餡にされてしまいそうになる、、、というシーンのことだ。しかもこういうシーンが出てくるのは一度や二度ではない。

 武松という水滸伝の中で有名な豪傑は、峠の茶屋で饅頭を食い、あんこの中に陰毛(!)があるのに気付いて、ここが人肉饅頭屋だと気付くというくだりがあるらしい。そして肉付きが良かったか、金を持っていたか出ターゲットにされた本人は、しびれ薬をのんだふりをして店主たちをやっつけるという話。うーん。

 峠の茶屋や、梁山泊近くの茶店で、お客にクスリを飲ませて殺し、金品を奪おうする場面は見たが、実は元ネタでは全部人肉饅頭屋なのだろうか?

 もう一つびっくりしたのは将来梁山泊の頭領となる宋江が、彼を陥れ殺そうとした黄文炳という男をとらえ、梁山泊に持ち帰ったときのはなしだ。その後多くの武将たちが黄文炳を裸で吊るし、取り囲んでいるときに黒旋風李鉄牛こと李逵は「こいつはよく肥えているから、焼いてくったらうまそうだ」といって、足の方からいいところを少しづつ切って、炭火で焼いて酒の肴にしたというのだ。しかも、その場に同席した晁蓋までもが「まったくだ、ナイフを持ってきて火鉢に炭火をおこし、少しづつ切って、焼いて酒の肴にして、そうして宋江の恨みを晴らすことにしよう」といったらしい。そして最後に李逵は黄文炳の腹を割き内臓を取りだして酔いざましのスープをこしらえたらしい。

 なんともえぐい。横山光輝のマンガから入った俺には刺激が強すぎる。なんでこんな鬼畜小説をしかもイギリスの大学にまで来てやらなくてはいけないのか? この描写、実は中国でもあまりのひどさに中国共産党の差し金か何かで、内容が変えられたり、はしょられたりしているらしい。多分うちの学校で使われている教材も、この残酷な描写はカットされているに違いない。先生に聞いてみよう。

 もう一つびっくりしたのは、さっきも言った李逵の残虐ぶりだ。こいつは2丁の斧を振り回す暴れん坊だが、けんかっ早いだけでいいやつなんだとばかり思っていたら、実はとんでもない殺人鬼らしい。いまちょうど学校で宋江が神行法をあやつる戴宗と出会い、そして李逵とも出会う場面をやっているのだが、この本を読んで、李逵の本性を知ってしまったらどうもただのB級ホラーやくざ小説を読んでいるだけにしか思えなくなってきた。いや、中国の大衆小説だし、多分もともとそんなものでしかないのかなという気もしてきた。それにしてもびっくりした。

 びっくりするのはやはり、中国人の考えの中に人肉を食うという行為が「ひとつの可能性」としてあり得たということだろう。恨みのある相手を殺してくってしまうというのは、中国では古来からあったらしいが、大衆小説でここまでめちゃくちゃ言わなければならないのは、ヨーロッパの中世にもにたり、なんとも不気味だ。高島俊男氏が言っていて面白いのは、日本の大衆小説である忠臣蔵で、もし吉良邸に討ち入りした四十八士が上野介を取り囲んで喰ったら大衆的支持は得られないだろうという点だ。たしかに、、、。日本と中国の間にはやっぱり思いもつかないような違いがもっともっと転がっているような気がする。


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