Dance日記帳
モクジキノウヨクジツ


2006年05月29日(月) 感覚喪失

日舞の稽古へ。

此れでもか、と、ダメ出しを喰らい、大腿も心も疲労困憊。

おおよそあがった「汐汲み」を浚ったのだが、曖昧な動きや、うっかりど忘れしてしまった部分があったりと、叱られても当然。
しかも、今月は稽古が不規則になっていたりして、毎週コンスタンスに練習できていないのだから、尚更にダメ出し具合も割増しされる。

「稽古は一日休んだら三日分休んだことになる」という師匠の言葉。
痛く身体にも心にも突き刺さる。

解剖学的にも少なくとも週に最低2回は同じ内容で同じ分量の練習を続けるのがベストではある。此れがやんわりと身体を維持できるラインだ。
1週休むと、結果間が2週空いてしまうことになる。
自主練習では流石に師匠に見てもらう程の内容には追い付かない。

踊ることを心底楽しむことができる躯と心を保つためには、どんなに忙しくても週に最低2時間から4時間の稽古は必須であるということを今日の稽古を通して痛感する。
たった2週空いただけで此処まで辛く感じるとは。
ひとつの型を浚うだけでも、膝が笑い、腿がひきつる。
肌着を越え、更にはお端折した浴衣のうえの腰紐を越え、伊達締までもが汗で驚くほど重くなる。
こういう時の稽古は「踊る愉しさ」など一切なく「只管に辛い」のだ。何故此処迄して自虐的に踊るのだろうかと不思議に思うくらい辛い。
自由に動かぬ自分の身体が、単なる重い荷物のようで、厄介で堪らない。
久々に本気で泣きそうになりながら四肢を動かす。
汗を拭う間もなく。

稽古のあと、稽古場の板床の上に正座し、師匠の話を聞くことおおよそ半時。
完璧なまでに感覚を失ってしまった脚。
S先輩も久々に一緒に稽古したMさんも3人して床の上に呆然と座ったまま。
「まずは指を折りなさい。感覚が戻るまで立っては駄目!」という師匠の指示のもと、3人とも無様な姿でフリーズ。
ジワジワと戻ってくる脚の感触に戸惑いつつ、正座も毎週やっておかなきゃ駄目ってことなんだと思う。
躯の感覚というのは其れほどまで忘れやすく、思い出しにくいものなのだろう。

自宅に戻り、暫く正座のまま繕い物などをして反省をしてみる。
既に大腿は絶望的な筋肉痛に見舞われている。
バンテリンを塗って、ストレッチをしていいかげん寝るとしよう。


2006年05月26日(金) 依存症

『依存症』を聴き乍ら日記執筆。
その裏側ではiTuneがフル活動。

Red Hot Chili Peppers、Rihanna、Mellow Vibes、Bonnie Pink,Josephine Sincereなど、支離滅裂なセレクション。
音楽に関して、本当に私は節操がないと思う。
「食わず嫌い」は人生の損。「聴かず嫌い」も同様。

普段の私の音楽シーンは、此れまた支離滅裂。
朝から午後にかけてはiTuneのネットラジオでクラシックかSmooth JazzやSmooth Loungeなどを流し続ける。
気合いの入った掃除やら、仕事がある場合は別途CDをセレクトする。
夕方から夜にかけては只管に林檎。
トレーニングや移動の時には新しいアルバムのチェック。ハウス系が何故か多い。レッスンで使おうとして入手したR&BやRock,Pops,Hiphopなどをリリックを無視して聞き齧る。
日舞の稽古の前には長唄や常磐津を。
いざデスクワークとなると「静寂」。そして、何より好ましい音楽は「雨音」だ。

ダンスの先生だからと言って、音楽に造詣が深いわけではない。
単なるフィーリングで聞き分け、選ぶのだ。
音楽については、MDSのメンバーのほうが私より何倍も詳しい。

踊りたくなる曲と、じっと聴いていたい曲、創作意欲の湧く曲、耳障りな曲。
本来の楽曲のジャンルや形式に関わらず、私の耳は勝手にカテゴライズしてゆく。

No music,No life
とは良く言ったもの。
私は
No dance,No life
であるから、No dance without musicという意味で人生に欠かせない。
正に音楽に依存していると云えよう。


2006年05月20日(土) 言の葉

ダンスは何故愉しいのだろう。

単に身体を動かすだけであれば、スポーツジムでマシントレーニングやエアロビや、今流行りのヨガやピラティスのほうが良いだろう。

どうしてダンスに魅力を感じるのか、そして、それ以外のものが代わりになることはないのだろうか。

長年踊り続けていると、同じ自問自答を繰り返す。

自己表現

思いや考えや、心に詰まったものを吐き出す最高の手段。
言葉以上のものを伝える方法。
「目は口ほどに物を言う」と言うのだから、目という小さなパーツだけではなくて、身体全部を使うダンスはもっともっと「物を言う」のだと思う。

表現を伝える相手は誰かじゃなくて良い。自分自身。

今月の作品については、可也「自己表現」を遣ってもらわないとならない。
「自己表現」の基本練習だろう。
自分に向き合い、自分の心情を知り、それをまず言葉にすることから始めて欲しい。

もし、フィクションストーリーをもとに踊るとしても、基本的な喜怒哀楽については「自分ならではの表現」を知っておかないとならない。

例えば、「泣く」ということについても、いろんな表現があるだろう。
「号泣」なのか「しくしく泣く」のか「泣き笑い」なのか「嗚咽を堪えた」ものなのか「声を上げて泣いている」のか。
同じひとりの人間であっても、心はひとつであっても、そこに在る感情は様々。同じ「泣く」でも、何通りもの感情や違いがあるのを知っているはずだ。其れをまず言葉にしてみる。詳しく説明してみる。
その作業をするうちに、少しずつ「動き」に思いが沁みてくるのだ。

語彙が少なくてもいい。
自分の持つ言葉で、気持ちを綴る。
他人に伝わらなくてもいい。自分がわかれば十分だ。
そのうち「人に誤解なく伝えたい。そのためにどうすれば善いのだろう。」という域に達するようになるだろう。

レッスンが長続きしているメンバーや着々と上達するメンバーに多く共通することは、彼等は実によく私あてにメールを送ってくれる。
其所には単なる愚痴やら、ダンスへの思いやら、お休みの理由やら、雑談までが書かれている。筆無精ならぬキーボード無精の私が全く返事を出さなくても、思い付いたことなどを言葉にして送り続けてくれる。
其れは確かに私に対する応援でもあるのだろうが、本人たちが気付かぬところで彼等を成長させる栄養になっているのだ。
「単なる愚痴」とは言うけれども、其れが大切。
自分が何をどう感じたのか。どう思ったのか。
起きている現実や、物事の現状を語るよりも重要だ。
此れができる人は、ダンスのうえでの表現についても抵抗や迷いがみられない。
自分が心のなかに溜めてきた思いや、心の動きを表現できた時、すっからかんになった心と程よく疲労した躯とが絶妙なバランスをとって、其れが踊る快感につながってゆくのだと思う。

何をどうしたら、もっともっと愉しく踊れるのか。
自己表現はどうしたら出来るようになるのか。
悩んだり、迷ったり、わからなくなったら、まずは愚痴メールを書いてみてください。メールは個人的過ぎて嫌だと思うのならば、掲示板に何か話題をふってみてください。
自分自身の中で「愉しいディスカッション」をしてみてください。

オープンクラスを見学しに来たダンス経験者の友達が「思っていたより難しいよ〜〜〜〜〜!」と驚いていた。
確かに、今月、皆さんに求めるものは「ターン」だとか「ジャンプ」だとかテクニカルなものではないので、いつもより難しいのだろう。


2006年05月18日(木) 偶然は必然

Dance Space Wingの舞台を鑑賞しに下北へ。

そもそもWingの公演だというのに下北の劇場とは。それだけで、十分無理があるなと思いつつ。万が一、運良くチケットが入手できればと智恵に頼んでおいた。
散々の苦労を重ねたうえ、昨日の夜には「ごめんなさい。やっぱりキャンセル待ちでしかチケット取れそうにないです。」というメールが届く。
彼女のことだから四方八方手を尽くしてチケット手配をしてくれたのだろう。メルパルクホールであってもチケット不足、整理券での入場というのが普通だから、それこそ下北のタウンホールじゃ到底無理。納得の了解だ。
「一生懸命チケットさがしてくれて有難う。残念だけど、また今度誘ってね!」と返信して引き下がる。

斯くして、昨日の日記通り、今日の予定は本格的衣替え、そしてジムでのマシントレーニング&ゲルマニウムで体調を整えるつもりだった。

納戸に引き蘢っていたわけで、たまたま部屋に戻った時に着信があったのに気付いて、留守電を聞く。どうやらチケットのキャンセルが出たらしい。慌ててコールバック。「ごめん、結局午後3時にじゃんけんで争奪戦して駄目だった!」まあ、そう運良く物事が運ぶわけはない。

その電話をきっかけに、トレーニングウェアに着替え、ジムに向かう。途中のコンビニでウ゛ァームをチャージ。するとバッグの中の携帯がまた着信を知らせている。

今度こそ本当にチケットにキャンセルが出たとのこと。今からならダッシュすりゃどうにか開演に間に合う(因に、開演1時間半前!)そのまま踵を返して自宅へ行き、速攻着替えて車に飛び乗り下北へ。
山手通りを飛ばし、ギリギリに現地着。

ここからはネタバレになるので、明日見に行く人は読まないほうが良いかもしれません。

先ずは、奇遇というより、偶然の必然とでも云うのだろうか。

私は今回の公演で何を期待していたかと云うと、原田薫の作品。
兎に角好きなのだ。ダンサーとしての彼女も、彼女の作品も両方。

受付で手渡されたプログラムに目を通すと、彼女の作品は「秘密」と「落日」とある。
どちらかならば、大して驚くこともなく「ふーん。随分地味なタイトル。」で終わったのだろうが、二つのタイトルを見て心臓がキュッとなる。
この両方とも、私の愛する『東京事変』の曲のタイトルだからだ。
「まさかね・・・」とは思い乍らも、隣に座る智恵に「これ、両方とも『事変』の曲名だよ。まさかとは思うけどさ。」と呟いてみる。

客電が落ちる。

鳴り出したイントロで叫びそうになる。正に、『東京事変』の「秘密」だ。こんな偶然があって良いのだろうか。
いや、矢張り、偶然ではなくて、此れこそ必然なのかもしれない。

ラストナンバーは「落日」。
此れについては、私のブログを前々よりご覧になっている皆様にはお判りの通り。
この曲については、大変な思い入れがある。
「落日」はアルバムに収録されている作品ではない。
シングルのカップリングで、本当に、本当に『東京事変』が好きだったりしなければ深く聞き込むことは滅多にないと思う。
ピアノの切ないイントロで始まる美しい曲で、シングルが発売になった直後に相当ハマり、一日中聴いていたほど(今も毎日一度は耳にしている)の作品だ。
過去にブログでも取り上げている(ブログのタイトルにまでしている!)。

舞台で照明が点く前に、「サビはどう踊るのだろう?」「ブリッジのところは?」「アウトローはどうなる?」と、あれこれ考えてしまう。

暗転の中に、「落日」の綺麗なイントロが流れる。
白い衣装のダンサーが流れるように踊り出す。
もう、猾いとしか言い様が無いのだ。猾い。私も踊りたい。否。踊るより、ずっと観ていたいのかもしれない。

この私の驚きと喜びと興奮やら感動をどう文字にして伝えたら適切なのか解らない。

溺愛する楽曲を何よりも素晴しいと思っている振付け師によって作品化されているのだ。
此れ程までの贅沢はあるのだろうか。

そして、何処かで、薫ちゃんも『事変』が好きだったんだ、、、と思うと、何だか其れだけでも嬉しく思えてならないのだ。
私が好むものを、好きな人も好む。それは偶然であり、そして、矢張り何処か必然だ。大きく括れば「テイスト」なのだろう。方向性が似ていることは当然でもあるだろう。

最後の最後まで、ドタバタしながらもチケット争奪戦を繰り返してくれた智恵に心から感謝。
本当にありがとう。

*追記*
時代はモダン&コンテンポラリー。全12曲ほどあり、前曲裸足。
バレエテクニック必須のムーブメントが多く、半端な身体能力では誤魔化せない作品がならぶ。
出演ダンサーは発展途上の子が多く見受けられる。それがまた、今後の日本のダンス社会を強いものにしていってくれるような予感を与えてくれる。
Artの色濃くなることは決して悪いことではないと思うし、ダンスが好きな人であれば十分楽しめるのだろうが、ダンスを知らぬものにとって、尚更の敷居の高さとなるのならば不安。ダンスは高尚なものばかりではないと思うから。観客に媚びぬ作品作りは、ある意味純粋なのだろう。
会場はどう見てもダンス関係者ばかりだったので余計なことだが。


2006年05月17日(水) 休日の快楽

雨続きの毎日。
梅雨ほど蒸すわけでもなく、この時期の雨は心地善い。

ホームページを更新し、新しいコンテンツなどを仕上げていて気付いた。
もうすぐ6月。
余りにも速過ぎる。先日までセーターにコートだったのに。
肌寒く感じる夜も、残すところ僅か。
夏生まれの癖に、夏嫌いな私にとって厳しい季節がやってくる。

未練がましくするのは止めよう。
どんなに足掻いたところで季節は巡ってくるのだから。

今更?と言われてしまいそうだが、少しずつ衣替えを始める。
まずはウールのものや、真冬にしか使わないものを片付けるところから。
抑、片付けマニアで、ハマると一日がかりなもので、明日のオフは間違いなく一日何度に籠ることだろう。
可也変態っぽいが、一日どっぷりと片付けや整理整頓に掛りっきりになれると思うと、今からワクワクするのだ。

たぶん、学生時代、勉強すると机に向かっては抽き出しの中の文具を整えたりしていた頃に此の快楽を覚えたのだろう。


2006年05月14日(日) 千思万考

「ひと」も「もの」も、そして「振り」も多面性。
眺める角度によって様を変える。

さて、今月のオープンクラスの振りは、受け取り方、理解の仕方、イメージの持ち方などによって変わるものだ。
有名な楽曲なので、よく曲を聞いて、その歌詞やメロディを自分なりに理解し、深読みして振りに反映して欲しい。

では、私はどう考えているか。
詳しく此処で説明をしてしまうと、皆さんが「自分のSuper Star」が踊れなくなるのでヒントだけ。

私はカーペンターズの歌詞をベースにしつつ、その裏側で東京事変の「Super star」をレイヤーさせてイメージしています。
私にとってのスーパースターとは、異性ではなく同性で、憧れの存在。
近付きたいと思う気持ちと、何時までも崇めていたいという気持ちが交差します。
キーワードのsad guitarについては、舞台に落とされる、エンディング時のサスライトの影にかけています。

皆さんのスーパースターは?


2006年05月13日(土) 杞憂

新しい作品をリリースする時は、もの凄い不安に駆られる。

善いものをと心をこめて振り付けたつもりだが、踊り手の皆さんの気持ちにそわないものになっているのではないか。
自己満足で終わっているのではないか。

何時だって、中途半端な自分が此処にいる。
自分の感性で「善い」と思い、其れを皆様に伝えようとするのだが、同じ自分の中で「其れは傲慢」という声も聞こえたりする。
何時だって、新しいものをひとに見せる時は迷う。躊躇する。
心の底で受け入れて欲しいと懇願しながら。

さて、今日(昨日)は新しい作品のリリース。
レッスン中にうまく踊り方や表現の仕方を説明しきれない部分があったりして、苛立つが、矢張り長年私のもとで踊ってきているメンバーは説明不足であったとしても私の云わんとする部分を察知して踊ってくれるので驚きながらも嬉しく思う。
余計な説明を求めるよりも、楽曲を素直に聴き、振りをすんなりと受け入れ、イメージ通りに動いてくれる。
多分、其所にあるだろう、所謂私の「スタイル」というものが彼女たちの中にも設立されているのだろう。
うっかり説明しそびれた部分についても、素早くキャッチしてくれているので頼もしいとさえ思える。

しかし、矢張り気になるのは評判だ。
何時もとは違ったイメージの振付けに戸惑うだろうし、拒絶反応もあるだろう。果たして、今回の作品は皆さんにどう受け入れられたのか不安でならない。

自宅に戻ると何通かのメールが届いていた。
其所には「今回の作品、好きです」というものがあって、心底仕合わせを感じることができた。
メールで新しい振付けについての感想を聞かせてくださった皆さん、本当にありがとう。いつでも不安に思い、路頭に迷う、そんな部分を支えてくれるのはメンバーの皆さんの励ましや、些細な一言。

心をこめて振りを作って、本当に善かったと思うのだ。


2006年05月12日(金) 憧憬

日舞の稽古へ。

師匠の舞台以来の稽古。
先週の感動を未だ鮮明に覚えている。

一通りの稽古が終わり、他のお弟子さんたちと一緒に談笑。
師匠がどのような心境で舞台に立っていたか、舞台の裏でどのような事があったのかなど、いろいろなお話を伺う。
ジャズの舞台と共通する話や、作品についての話などにも及び、普段の稽古とは違った意味で学ぶことが多かった。

勢いで、今まで分からずにいて、しかし、恥ずかしくてなかなか聞けなかった質問などもしてしまう。
「清元」「長唄」「常磐津」の違いを説明してもらい、1年にも渡る疑問が解消されたのが何とも嬉しい。

更には勢いに乗りまくり、此れまた酷く恥知らずなことを言ってしまう。
先週の「感動しました」など陳腐な台詞じゃなくて、もっときちんと自分が感じたことを師匠に伝えようと。
しかし、舌先から滑り落ちた言葉は「カッコイイ」という、更なる稚拙なものだった。恥の上塗り。嗚呼。自分の語彙の少なさに絶望さえ感じる。
言ってしまってから戸惑うばかり。いっそ言わなければ良かったと。
こうなってしまえば破れかぶれ。ヤケクソだ。
緞帳があがったとき、師匠が踊り始めた瞬間に首筋に鳥肌がたったこと、どれほど客席で「私、この先生に教わっているんです!」と自慢したく思えたかということ、一挙一動を瞬きもせず見つめ過ぎて、あまりに瞳が乾燥して泪がこぼれそうになったこと、そして、日本舞踊が今まで以上に好きになったこと。
まるで恋の告白をするかのように、心拍数を上げ乍ら洗いざらい申し上げた。事実、師匠の艶姿は私の目蓋の裏にしっかりと焼き付いている。

師匠は「これは今度ご飯でもご馳走しなきゃならないわね」などと茶化しておられたが、一瞬真顔で「楽屋に来た時の、貴女の顔は忘れないわ。そりゃもう、今まで見たことないようなほど嬉しそうな顔して立っていたからね。」と。
言葉にうまくできなかったとしても、私が如何に感動していたかは知らぬうちに表情に出ていたのだろう。

憧れの人がいるということは、それだけで人生を特別なものにしてくれる。
其のような人と出会えたことが、何より貴いと思うのだ。


2006年05月11日(木) 黄泉の恋

Y子の熱い誘いにより、『エリザベート』を観に行く。
鼻水に咳という、風邪の諸症状を携えて日比谷へ。
体調の悪いオフの日くらい、安静にしてろと言われてしまいそうだが、この『エリザベート』のチケットは完売のプレミアムもの。
矢張り観ておきたい。咽飴にティッシュを持参し劇場へ。

出だしからして、男性8人のユニゾンを目一杯見せつけられ、瞬きを忘れる。非常に善くトレーニングされたダンサー揃いで、ミュージカル特有の「中途半端なダンサー」ではないことに新鮮な喜びを感じる。

あまりミュージカルを観たいと思わない理由は、どんな有名どころの舞台を見ても、やはりダンスを重視してしまうために酷評となってしまうから。そして、やはり歌やら台詞やらが入らぬ、純度の高いダンスだけの舞台が一番好きだから。

成る程、この作品がロングランをし、多くのリピーターファンをもっているのも納得だ。
平日のマチネだというのに、満席。私以外のお客がみんなディープなファンに見える。

良いものは何度観ても良い。
作品其のものにおいても、キャストにおいても。
其のような単純な方程式を今更確認した。新しいものが全て善いわけではないのだ。逆に、古典とは言わないまでも、昔より善いとされていてたものが今でも善く思われるのは、然程珍しいことでもないだろう。
ついつい新しいものに飛びつく傾向にある、そんな今の生活を見直すべきなのだろう。

MDSのレッスンにおいても、意外や、昔の作品が好きだと仰るメンバーも少なくはない。
リバイバルを踊ると、喜んでくれるメンバーがいるということは、私の作品の中においても、何度踊っても善いと言ってもらえるものがあるということ。嬉しいことだ。

とは言え、先ほど新しい振りが一部完成した。
懐かしい、誰もが知っているであろう、あの曲だ。
トートダンサーにインスパイアされた部分は否めない。


2006年05月08日(月) 紫煙拒否

余程普段の行いが悪いのだろうか、珍しく風邪をひいてダウン。
先月もNYから戻る直前に風邪をひいて苦しんだのに。
2ヶ月も立て続けに通院するとは。歳のせいだとは思いたくはないが、矢張り抵抗力が弱ってきているのだろうか。

折角ゴールデンウィーク明けの、ゆったり過ごせるオフの日に、結局は病院巡りツアーで一日が終わる。
具合の悪いことに、ゴールデンウィーク明けだからこそ待ち合い室は通常よりも混み合っているわけで、昼飯も抜きで待ち合い室待機。

本当に最近、喉が弱い。
タバコの煙をモロに吸い込むと、必ず2〜3日以内に「咽頭炎」を発症する身体になってしまった。
もともと喫煙してたという弱味もあるので、友達に隣でタバコを吸われると冗談まじりに「煙たいなぁ」とパタパタ扇いで我慢。
場所がバーだったり、居酒屋だったりすると、それこそタバコが無理ということ自体が逆に悪いような気さえしてしまって・・・結局こうして数日後に声が出なくなって苦しむのだ。

でも、此れ程までに症状が悪くなってくると本当にタバコ臭いところには怖くて行けなくなる。
ある程度空間が広いところであれば被害は少ないのだが(頭が痛くなる程度)、バーなどの狭くて換気の悪いところは無理。
近い将来、NYのようにレストランもバーも居酒屋も全面禁煙にして欲しいと強く望むだけ。本当はちゃんと「病気になるから私の近くではタバコ吸わないでね」と言えばいいのに、言い出せない自分が悪いのだろう。
則ち、今まで私が無遠慮に吸っていた分のツケが廻ってきたのだろう。
ある意味、自業自得、苦しんで当然なのかもしれない。

しかし、仕事柄、声が出なくなると厳しい。
暫くは自重しろということなのか。悩むところだ。
紫煙に負けない強い喉が欲しい。

嫌煙と言うと、単に好みの問題でタバコ嫌いと思われるけれど、実際は私みたいに本当に病気になっちゃうからタバコの煙を避けたいだけで、好みだとか気分とかでいやがっているわけじゃないとわかってもらいたいと強く思うのだ。私の症状はまだマシな方で、喘息の人などはタバコの煙を吸った夜には発作を起こして救急車での搬送というのを何度も経験している人もいるみたいだし(義理の妹がそのひとり。だから、私も喫煙時代に彼女の前や彼女の家では絶対に吸わなかった。嫌味だとか、単なる趣味の問題じゃないと知っていたので。)、僅かに顔に煙がかかっただけでアレルギー反応を起こして顔が腫れてしまったり涙がとまらなくなってしまったりする人もいるのだ。
例えは悪いかもしれないけれど、花粉症の人に向かって、杉の花をプレゼントするようなものだろう。「ほら、綺麗な花でしょ?花に罪はないでしょ?」という感じに。花の好き嫌いの話をしているわけではないというのに「花を嫌いだなんて!」みたいな扱いをするのと同じように思えるのだ。

「吸わないで」と云われれば、尚更に吸いたくなるのが喫煙者の常であるのもわかる。イライラした状況に陥れば、すぐにでもタバコに手が伸びる。そういう「病気」な部分を十分に経験してきているからこそ、喫煙者に「タバコやめて」と言えないのだ。蝙蝠のよう。
いつか飲食店がアメリカのように全面禁煙になる日まで、喫煙経験者である嫌煙者は我慢をするしか他に道がないのだろうと思う今日この頃。

今日は体調が悪いせいか、ついつい愚痴っぽい内容。
もう、いいかげん寝ることにしよう。


2006年05月03日(水) 談論風発

大型連休真っ但中。
関越自動車道の渋滞は可也のものとの報道。

閑古鳥を予想しつつ予定通りのクラシックバレエレッスン。
関越自動車道に人口の多くが偏っている状況で、駒込の地下のダンススタジオの人口は薄くなるばかりと思っていたのが勘違い。
大型連休に関係なく仕事の人や、大型連休だからこそ私同様引き蘢りに快楽を覚える輩が少なからず居たと云う事。

ルミナスラックをバレエバー代わりに使ったのはMDSが歴史上初めてだろう。笑えない状況に、次のバレエレッスンの時までには新しいバーを購入せねばならぬと。

さて、あれも此れも教えようと、いろいろと計画はたててきたものの、実際バーが足りないという事情が大きく作用して、大きく時間をオーバーしたうえに、それでも説明不足、練習不足は否めない。
本当は、もっといろいろと練習したり説明したりするつもりだったのに。

しかし、普段のジャズのクラスでバレエの基礎を僅かに齧るのとは違って、ゆっくりと時間を割いて、基礎の基礎をチェックできるということは素晴しい。
つま先や膝のゆるみ、ほんのちょっとした部分をきちんと直してゆける。
感動的な変化はないにしても、少しではあっても、レッスン中に見られる変化が教える立場にしては新鮮で刺激的。

さ、参加された皆様、翌朝には驚くほどの身体的変化、別名、筋肉痛が貴方を襲っていることでしょう。
どこが痛むのか。
そして、何が愉しく思えたか、またやってみたいと思ったかなどなど、是非とも掲示板に報告されたし。
希望者がまだいるようでしたら、次の企画も考えておこうか、、、などと思っていたりしつつ(其の前にバー買えよっ!)。
感想をあれこれ教えてくださいね。


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