きよこの日記

2002年11月29日(金) 村上春樹『スプートニクの恋人』 〜とりあえず〜

まだ、読んでいる途中なのですが、いろいろ物思わせる文章で、たくさん書きたいことがあります。
今日のところはこの部分について。

「ぼくと彼女は自然に心をかさねあわせることができた。ぼくとすみれは、ちょうどふつうの若いカップルが服を脱いでお互いの裸体を晒しあうように、それぞれの心を開いて見せあうことができた。それは他の場所では、他の相手では、まず経験できない種類のことだったし、ぼくらはそのような気持ちのありかを損なわないように――口には出さずとも――大事にていねいに扱っていた。
彼女と肉体的な喜びを分かちあえなかったことは、言うまでもなく、ぼくにとってはつらいことだった。もしそれができていたら、二人とももっと幸福になっていたに違いない。でもそれは潮の満ち干や、季節の移り変わりと同じように、力を尽くしたところでおそらく変えようのないものごとだった。そういう意味ではぼくらはどこにも行けない運命であったのだとも言える。ぼくとすみれが保っていた微妙な友情のような関係は、たとえどれほど賢明で穏やかな考慮を払われたにせよ、いつまでもは続くものではなかっただろう。その時ぼくらが手にしていたのは、せいぜいが引き延ばされた袋小路のようなものでしかなかった。それはよくわかっていた。
しかしぼくはすみれを誰よりも愛していたし、求めていた。どこにもたどりつけないからといって、その気持ちを簡単に棚上げにしてしまうわけにはいかなかった。それにかわるべきものなどどこにもないのだから。
そしてまたぼくは、いつか「唐突な大きな転換」が訪れることを夢見ていた。たとえ実現する可能性が小さいにしても、少なくともぼくには夢を見る権利があった。もちろんそれは結局、実現することはなかったのだけれども。

すみれの存在が失われてしまうと、ぼくの中にいろんなものが見あたらなくなっていることが判明した。まるで潮が引いたあとの海岸から、いくつかの事物が消えてなくなっているみたいに。そこに残されているのは、ぼくにとってもはや正当な意味をなさないいびつで空虚な世界だった。薄暗く冷たい世界だった。」

また、村上春樹に代弁されてしまった。私の気持ちを。
一分の狂いもない正確さと端的さと繊細さで。

もやもやして、ぼんやりしていて、自分でもよくわからない私とあの人の関係なのに、この文章でそれがすばらしく無理なく、正しく描ききられていて、ううーん、とうならされました。
この物語の“ぼく”が私で、“すみれ”があの人。



2002年11月28日(木) コンプレックスと優越感

コンプレックスは悲しい感情です。
私は自分に向けられるコンプレックスを感じる時、どうしようもなく、居所のない、肩身の狭い気持ちになります。

教師、という職業はどうも人にある種のコンプレックスを感じさせがちなもののようです。
学校の中での出会いなら、教師は自然に存在できるのですが、他の場面で「はじめまして」と知り合ったとき。
職業を聞かれ、「教師です」というと、空気が変わる時があります。
「あ、小学校の」
「いえ、あの、中学校です」
「ふーん…。教科は何ですか?」
「国語です」
「へー、すごいですね。
学生時代国語なんて勉強しなかったなあ」
ほぐれかけた初対面の緊張感が、また高まるのを感じます。

コンプレックスの悲しさは、つねにその底に「他人との比較」と「自分の卑下」が横たわっていることにあるように思います。
他の誰でもない自分なのだから、他の人とくらべようなんてないのに、あえて比較して、自分の欠点をつきつめて、自分を貶めてしまうことは、とても悲しいことだと思います。

もちろん私も多くのコンプレックスを抱いています。
そして、すごく悲しいです。
だから、コンプレックスを感じる瞬間は
「はあ、すごいなあ。
でも、私は私、比べちゃだめだ」
って、言い聞かせるようにしています。

「他人との比較」で、「自分の優位」を確認する感情を、優越感と言います。
優越感ほど愚かで、醜い感情はないように思います。
私は優越感を憎みます。

だって、そもそも他人と自分をならべて、価値の優劣をつけることにどれだけの意味があるでしょう。

なんて、言ったら、
「じゃあ、学校で成績をつけたり、点数を出したり、順位をつけるのはなんでだ?」
って言われてしまうかもしれませんね。
もちろん、点数も、成績も出しますが、それはその人の価値そのものではまったくないのです。
あくまで、その教科なり、観点なりでの到達の「めやす」なんだって思います。
その「めやす」をもとに自分の現状を把握して、励みにするためのものだと思っています。

その人そのものの価値なんて、誰にも測ることなんてできないんです。

“実るほど頭を垂れる稲穂かな”
という格言は真理をついていると思いませんか?
「知ること」とは「無知を発見すること」と切り離して考えることはできないのです。
だから、きっと、本当に物を知り、よく経験を積み、尊敬に値する人というのは、「自分の身のほど」をよく知る人だと言えるでしょう。
ことさらに自分の優位を口にする、優越感を強く感じる人は、まだまだ自分の力なさに気づいていない人だ、と私は思うのです。



2002年11月27日(水) あきらめのなせる技

つきあってみたいって思える人にであった。
私は人の好き嫌いが大きいから、ほとんどあった瞬間に峻別してしまう。
「つきあってみたい人」「ともだちの人」
そして、圧倒的に後者が多い。

その人は会ったときに
「好みのタイプだなあ。」
と思った。話すほど、いい感じ。卓球も悪くない。
楽しくお気軽に付き合ってみたいって思った。
一瞬あの人を忘れられるかもしれないって思った。

久しぶりあの人に会うことになった。
萩に行ったときのお土産を渡すついでに、食事でも、って。
私はこの一年であきらめることに慣れっこになって、多くを期待しないでいることができるようになった。
でも、それでも、はしゃいでしまう。
いつもより、体温1℃高いかんじで多弁です。
私の車の助手席にあの人がいる。
それは不思議な感覚です。

仕事の近況も話してくれた。
すごくアットホームで、雰囲気のいい職場だって。
その職場の、のびのびとしていながらアクティブな様子を聞くにつけ、最近の私のがつがつした余裕のない働きぶりが反省されてやみませんでした。
「明日できることを今日するな」

こういう話をすると、
「やっぱりいいなあ」って思います。
こういう深い話をできる人はなかなかいない。

たとえ意見が食い違っても、それはお互いの価値観の違いとして認められる、尊重できる。
いくら言葉を費やしても、まったく言葉が素通りしてしまう人とのつきあいは、その徒労に幻滅してしまう。
しきりに肯定してくれる人でも、私の真意のどこまで理解してくれているのか、疑いたくなる。
あの人とは、心の底で共感できる。

さて、でも、これは恋心とは違うのかもしれないなあ、という発見もありました。
一時期のようにどきどきしたり、カーってなったりポーってなったりはしない。
でも、これはあきらめのなせる技かもしれない。
「どうせ彼女とは別れないんでしょ」
「私と付き合う気なんてないんでしょ」ってさ。
確かに、取られたくない、離れたくない。ずっと一緒にいたい。って思っているけど、あきらめる準備もし始めている。
「付き合ってみたい人ができた」
言えそうな感じだ。



2002年11月26日(火) しおどきですか?

学校のLANを利用する関係で、パソコン担当の先生にいろいろ教えてもらった。
ITの世界って日進月歩ねえ。
「春に備えて、そろそろパソコン買い替えたほうがいいんじゃない?」


そういえば、春から教師なわけで、そうするといろんな仕事をパソコンでやるわけで、そうなると、職員室の共用のでは追いつかないわけで、当然自分のパソコンとなるわけなんだけど、私のパソコンって、すごいんです。
鮮度が命のパソコン業界で、ほとんど骨董品適価値すら出つつある、Windows95です。
CPUが175で、ブロードバンドなんて夢のかなたのアナログ回線。
ピーガガガガ。
って、つなげています。

それでも、今の私のパソコンライフにはまったく支障なしなので、買い替えなんて、寝耳に水でした。
「そうかあ、さすがに要領の大きなものあつかったりするには遅いだろうなあ。
買ったほうがいいのかなあ」

でもなあ。
今のこのパソコンは、実は「成人のお祝いに」っておじいちゃんが買ってくれたものなんです。
だから、すごく思い入れがあるし、捨てられないし。
できることなら、使えなくなるまで大切にしてあげたいんです。



2002年11月25日(月) 山田詠美と川上弘美

旅に出るときに、準備するもの、はみがき、お土産、着替え、カメラ、それから、電車の中で読むための本選びは私にとって、かなり重要なのです。

片道約10時間ものまとまった暇な時間ができるのですから、有効に使わねば。
しっかり図書館で選んできました。
でも、予想が外れて読むのが嫌になっちゃったり、気分にあわなかったりするかもしれないってことも考えまして…
今回の旅の選書コンセプト、「女流作家短編読み比べ」で選んだのは山田詠美の『晩年の子供』と、川上弘美『神様』です。
どちらも短編集。
そして、二人とも私の好きな作家です。

「いままではまるで関連なく個別に読んでいたこの二人の作家の作品を、気の向くままに、ごちゃ混ぜに読んでみたら、一体どんな感想や発見があるかしらん?」
なんて、思ったわけです。

読んでみて、思ったことは、山田詠美は冷めた大人で、川上弘美はロマンチストだなって。
これは、読む前の予想とはまったく逆だった。
「山田詠美はすごく繊細な心の動きも見逃さずに描写にうつしとるなあ」っていう印象をもっていたし、
「川上弘美の文章ってこざっぱりしてるって言うか、味気ないくらいだよな」
って思っていたし。

この2冊は偶然、童話風味の作品が多かったんだけど、山田詠美は子供の率直な視点を借りて、誰も口にしない大人の世の中の暗黙の了解の不条理さ、みたいなものをはばかることなく白昼のものにしてしまった。

とくに、それを強く感じたのは、「迷子」。
隣の家に突然やってきた赤ちゃん。大人はみんな「赤ちゃんが産まれた」というが、それが嘘だって私は知っている。
そして、ある日、私はお隣のおばさんがその子に向かって話しかけているのを見てしまう。
「いつでも好きなだけお菓子をあげるからね。だって、うちの子じゃないもんねえ。」

「くまにさそわれて散歩に出る」
という、表題作「神様」の冒頭がこの一冊のすべてを物語っている。
「くま」というのは、比喩でも渾名でもなんでもなく、正真正銘の熊なのだ。
どの作品も、不思議な生き物が登場する。
あまりにもそれが自然で、読みごこちがいいから、
「小説って?文学って?」
って、自分の常識をひっくり返されてしまった。
ありていに言うなら、宮沢賢治をほうふつとさせるっていう感じでしょうか。
一番のお気に入りは「クリスマス」
友達が置いていったランプの腹をこすると、若い小柄な女が現れた。その名はコスミスミコ。
コスミスミコと私の奇妙な共同生活が微笑ましいのです。

と、いうわけで、この旅はなかなか充実した読書旅行でもありったわけです。



2002年11月24日(日) アット☆ホーム

萩では、友達のユキちゃん家に泊めてもらいました。
ユキちゃんの家に泊めてもらうのは何度目かな。

ユキちゃんはお父さんと、お母さんと3人でくらしているのですが、信じられないくらい、ユキちゃん一家は人がいい!

だって、最初に泊めてもらったのは、私とゆきちゃんが出会ったその日だったんだもん。
一緒の学校に一緒に採用されて、先生方との顔合わせのときに初めてユキちゃんと会いました。
私は、まだ引っ越しが終わってなくって、新しい部屋には電気もついていない。とりあえず荷物だけは夕方に届くから、まあ、何とかなるかな、って思っていたら、
「そんなのたいへんやん。
うちに泊まりーや」
って、ユキちゃんが誘ってくれたんです。

ちなみに、私は実家に友達を呼んで泊めたことすらなかったので、青天のへきれき!
「ええ!こんな見ず知らずの私を泊めてくれちゃったりするの?」
で、のこののこ泊めてもらいに行ったんだけど、お父さんもお母さんも、快く私を迎えてくれました。
一緒に食卓を囲んで、テレビを見て…。

それ以来、晩御飯に呼んでくれたり、お正月を独りで過ごすっていったら、呼んでくれたり、ほんとうによくしてもらって。
大好きなユキちゃん一家です。

私も、いつか、こんな家庭を築きたいな、なーんて、あこがれのユキちゃん家です。



2002年11月23日(土) 旅は道連れ世は情け

帰りの新幹線で隣に座った紳士に話しかけられた。
「どこまでいかれるんですか?」
「長野県まで」
本から目を上げて答える。
「私は愛知県の三島に行きます。
今日は広島県で工場を見てきました。」
「そうですか…」

私はこういう感じが何とも苦手だ。
ついつい「名古屋駅まであと2時間一緒なのかあ」
と、思ってしまう。

でも、新幹線で隣り合わせた人は、話しかけなければ他人のまますれ違っていくはずの人だ。
せっかく隣り合わせたのも、何かの縁かな。と思って本を閉じます。

「お国はどちらですか?」
「インドです。インドでIT関係の会社をやっています。」
まあ、インドから…はるばるようこそ。

そう言えば、オーストラリア人の女性と隣り合って、3時間おしゃべりして過ごしたこともありました。
彼女のショッピングの趣味から、その時勤めていた幼稚園の園児の話、オーストラリアにいる彼との遠恋の話まで。

日本人に比べて、外国人の人って、「旅は道連れ」感覚が強いのかもしれないね。
こんなに話し掛けられるなんて。

日本人の人に話しかけられたこと、ほとんどないなあ。
あ、ナツコサンと知り合ったきっかけは、ナツコサンが駅で私に話しかけてきたからだった。
でも、ナツコサンは留学経験が長い、国際派な人だからちょっと例外。

日本人の人に話しかけられたこと、思い出した。
いつものように大きな荷物を持って新幹線に乗り込んだんだ。
結構込んでいて、三人がけの座席の一番通路側をようやく見つけた。
お土産の紙袋と、スポーツバックを棚によいしょと押し上げて、ほっと一息腰をおろそうとした瞬間、
「あぶない!」
キオスクで買ったサンドウィッチを座席においていたのを忘れて座ろうとしたのを、隣の席の男性が止めてくれた。
「あ、ありがとうございます」
なんて感じのいい出会い!
だけど、なんだか気恥ずかしくって、結局それから降りるまでどちらからも話し掛けることなく終わってしまった。



2002年11月22日(金) 旅に出ます。探さないでください。

連休を利用して、旅に出ました。
行き先は、懐かしくて、ほろ苦い思い出の地、萩です。

私が去年まで働いていた学校では、昔から勤労感謝の日は、バザーの日なんです。
一年でこの日だけ、学校が開放されるんです。
そして、生徒も教師も一つになって一生懸命働く奉仕の日なんです。
学校を去って半年、みんなに会いたくなっちゃったんです。

行くまでは、みんなに何を言われるかなー、寒い反応だったらいたたまれないよなー。
って、ちょっと心配していたんだけど、まったくの杞憂でした。
「わー!先生―!どうしたん!」
「へへへー。飛んできちゃったよ。元気にしてた?」
笑顔笑顔の再会です。
去年に比べたら嘘みたいに落ち着いた、っていろんな先生から聞いていたけど、一人一人の顔からもそれは伝わってきました。
2年生になって、後輩ができて、しっかりと自分の足で歩き始めている感じがしました。
ほんとうに、私は嬉しいぞ!
指導する私と、それに反抗する彼女たち。
苦しいこと、悔しいこと、悩んだこと、山ほどあった日々だったけど、後に残るのはいい思い出だけなんだね。
私にとっても、彼女たちにとっても、すべてはいい思い出になって、心から笑いあい、うちとけあうことができました。
むしろ、ぶつかりあったことが多かった子のほうが愛着を感じるなんて知ったら、まじめにいい子にしている子は怒るかな?
でも、いい子も手のかかる子も、みーんなかわいいんだよお。

夜ご飯を一緒に食べに行ったのは、勉強が嫌で嫌で、親とも学校とも大喧嘩したすえに夏休み前に退学していったしーやんでした。
しーやんは家庭環境が不遇です。中学生の頃から悪いグループに入っていて、目付きも悪く、すぐに乱暴なことを言います。
でも、根はすっごくやさしい子です。
そして、さびしがりやです。
学校をやめてから、ガソリンスタンドでバイトをしているのですが、ギャル風のコートから出た手のひらは車の油で黒ずみ、水で荒れていました。
「働きものの手でしょ?
私、学校を3年間続けられなかったから今のところは絶対3年間続けるんだ」
体が弱くて、今日も風邪をひいていたのに、無理して、バイトに行って、昼に店長に帰らされたそうです。
そして、夜、何も言わずにやってきてくれたんです。
「だって、これを逃したら、今度いつ先生に会えるかわからんもん」
うれしいね。ありがたいね。
でも、自分のことをしっかり大事にするんだよ。

いつでもべったり慕ってくれなくていい。
「きよこ先生が一番好き!」
なんて言ってくれなくていい。
逆境にあって、苦しくて困ってしまった時、思い出される教師でありたい。
何かのときにはいつでも頼ってね。
私でできることなら、手を貸すから。



2002年11月21日(木) go Dutch or be treated

私にとって「おごってもらう」ということは、どちらかというと居心地の悪いものです。
もちろん、お財布から出ていくお金は一円だって少ないほうがいいわけで、「ラッキー!」」という気持ちがないといったらうそなんだけど、でも、なんともびみょーな感じ。
なんでだろう?

自分の分は自分で。
だから、私は人におごる喜びはわからない。

ある時、男の先生3人と焼き肉に行きました。
支払いの段になって、もちろん私も払う気でしたが、
「頼むからここはおごらせて!お願いだから。
女に金を出させるのが耐えられないから、払わんで」
と、懇願されて、お言葉に甘えさせてもらったことがあります。
ただで焼き肉、おいしい話ですが、なんとなく、落ち着かない。

いっぽう、スカッとおごられたこともあります。
サークルの先輩がパチンコに勝ったときとか。
「わーい」って、もろ手を挙げてついていきます。
おじいちゃん達とご飯を食べに行っても、「ごちそうさまー」っておごってもらいます。

「女だから」というのに引っかかっているのかもしれない。
前の話の先生は、女に金を出させるのがとにかく嫌なんですって。性分として。
女のほうとしても、頑としてお金を払いたいって言うわけじゃなく、払わせては申し訳ないってことなんだから、お互いに利害は一致しているはずですが、でも、何か引っかかるのは私だけでしょうか。

女だからおごってもらえるというのは、やっぱりずるいように思います。
お勤めしていなかった時代だったら仕方がないかもしれないけれど、今の時代、働かない女のほうがまれなんですから。

そして、おごられると、恩義を受けたような気がして、借りができたような感じもします。
自分の一部を所有されているような、といったら少し言い過ぎでしょうが、でも、フェアーではなくなってしまうような気になります。
「ご飯たべに行こう!」
と言うのも、おごってもらえることを期待しているみたいで、言いにくくなってしまいます。

年長者が年下の人におごるのを受け入れられるのは、いずれは自分が年長者になって、おごる立場になるから「今はおごってもらっちゃおう」と気楽なんでしょう。

では女だから、と、おごられた場合、
「お金のかわりに、何を求められているんだろう」
と、考えると、陰うつな気分になります。

そもそもこんなことを考えたきっかけはある出来事でした。
私は男友達と、女友達をひきあわせるコンパを催そうと企てたんです。
で、調整していたら、女友達が
「ほかにもコンパの話が合って、そっちはおごりなんだよねー。で、他のメンバーがそっちにひかれているんだよ。やっぱ、おごりは強いでしょ」
という感じで、コンパの話は座礁しちゃったんです。

なんだか、さもしいなーと思ってねえ。
「おごられたい」っていう本心は、せめて胸に秘めておくべきものじゃないかなあ、って思うんですよねえ。



2002年11月20日(水) 巣を作らずにいられない

お勤めをはじめまして、ほとんど家を留守にしています。
家には、寝に帰るだけというような日々です。
だんだん、部屋が荒れてきました。
うーん、情けない。
ちょっと時間がないぐらいでCan’t keep my room cleanなのです。

『土佐日記』の最後の一節、紀貫之一行がいよいよ京に入り、夜になってようやく自分の屋敷に辿り着いた場面を思い浮かべます。
(原文があるといいんだけど…)
やっと懐かしい屋敷にたどり着いてみたら、5,6年の間に、まるで1000年もたってしまったか、と錯覚してしまうほど、
見る影なく屋敷が荒れ果ててしまっている。
立派な枝振りだった松も枯れて、庭のところどころに、雨が降ったら池になってしまうようなくぼみができてしまっている。
「垣根はあっても隣同士、水臭いこといいっこなし」
なんて、隣人が自分から管理してくれると言ったのに、どうしたことか。
相手の好意に甘えることなく、こちらからも何かのついでには、いつも贈り物だってしてきたのに。
「きっと、心が荒れてしまったんだろうね」

家が荒れているということは、人の心の荒廃の反映なのです。
さもありなん。
時間がないなんていったって、狭い部屋のこと、何時間も掃除に時間がかかるわけじゃないし、気持ちの持ちようなのにね。
忙しくってもきれいなお部屋でうるおいのある生活をしたいもんだなあ。

でも、結局、週末とかにまとめて掃除したり、やっつけるってパターンになってしまいます。
これが、男の友達の多くはそうじゃないらしい。
ちらかろうが、洗濯物が溜まろうが、休みの日はせっかくの自由な時間だから遊びたいんだって。

私は外に出かけても、部屋が汚いと何か気になるんです。
これって、女の本能なのかなあ、っていう気もします。
巣作りの本能。



2002年11月19日(火) 音乞い

面白いこと、発見した。
名づけて「音乞い」

人からもう聞かなくなった、いらないカセットテープを貰うの。
聞かなくなったカセットテープって、かさばるし、重ねたら音悪くなっちゃうからあんまり重ねられないから、たまって結構やり場に困っちゃうもんだよね。かといって捨てられないし。
そんなカセットをもらって聞くの。
通勤の車の中で。

車を運転しているときって、両手と目がふさがっちゃってるから、何もできないけど、頭の中が結構ヒマで、手持ちさたなので、音楽を聴くのにもってこいの時間。
片道一時間なので、60分テープだって、一日で2回も聞いてしまう。
(すごい山道なので、ラジオも入らないんですねー)
自分のテープはもう耳にタコができるほどきいちゃったんです。
それで、思い付いたのが「音乞い」です。
友達チョイスだから、自分じゃ聞かないような曲が入っていて、新鮮。
友達の意外な趣味がわかったり、面白いよー。
誰の損にもならないというお得感がうれしいでしょ。
みんなに広げたい、「音乞い」の輪。



2002年11月18日(月) 中傷と真実

新しい世界に飛びこんで、一から何かを学んでいくとき、手取り足取り教えてもらえることなんて期待してはいけないと思う。
たとえ一から十までマニュアルがあって、
「すべてを私が教えてあげる」
といってくれる人がいるというようなラッキーな環境であっても、自分がその新しいことを身につけるためには結局自分の頭を働かせて、自分の手と足で経験していくほかないんじゃないだろうか。

だから、私は「全然仕事の引継ぎをしてもらえなかった」って言いたくない。
強がりが二割。
あとの八割は、人のせいにする居心地の悪さ。
本人のいないところで悪口を言う自分の姿は、情けなくって後味悪いもん。

それでも、ちょっと日記でぐらい愚痴ってしまいたい気分です。

「引継ぎ1時間、メモ5枚ぐらいしか残してくれなかったじゃないの、無理だよー!」

産休に入る直前、その先生が教えてくれたのは、事務室の鍵のありかと鍵のかけ方ぐらいだった。
「大丈夫、大丈夫。全然大変な仕事なんてないから。
私この学校で事務らしいこと何にもしてないんだよー」
せめて、嘘は言わないで欲しかった。

今、学校の事務の仕事は、給与関係、予算関係、人事関係、すべてパソコン上の統一システムで管理されていて、それぞれに細かく規定があり、次々とやってくる締め切りに間に合うように、教育事務所に作成した書類を提出していく仕組みになっています。
ひとつひとつ、過去の書類を捜し出して、それをもとに、どういう形式で作ればいいのか、どういう手順を踏めばいいのか推理したり、他の学校の先生に質問したりします。
(産休に入ったとたん、その先生は音信不通になってしまいました)

でも、はじめに書いた通り、どんな仕事でも、結局全部手取り足取り教えてもらえるわけなくって、自分で学んでいくしかないんだから、って思うので、
心の中で悪態をつくのはがまんして、やるのです。

ただ、一つ、とってもつらいことがあります。
「このやりかた、引継ぎで聞かなかった?」
って聞かれること。
その人は前任の先生を信頼しているから、当然引き継いでいるはずだって思っている。
私は「全然聞いていません。」っていう言葉がのどまで出かかっているんだけど、それを口にすることは、前任の先生を批判して悪者に仕立てあげるみたいでできない。

言葉を失って、あいまいに首をかしげる私です。



2002年11月14日(木) 落ち葉を集めて焼きいもしよう

松が紅葉するなんて、今まで知りませんでした。
松本城は今、真っ赤に紅葉していますが、上高地は落葉松の黄金色でそれは鮮やかです。

お掃除の時間に玄関を掃いて、落葉を集めるのも楽しいひとときです。
今日もそんな風にして、一人、掃除時間を延長して掃いていたら、小学生がめいめいにビニール袋をもって、出てきました。
「何するの?」
「落ち葉集めてやきいも焼くの」

なんとー!のすたるじー。
これは私もたくさん落ち葉を集めて、ちょっと仲間に入れてもらいたいものですなあ。
と、思ってまた、掃いていると、4年生のミナミが一人ぽつんと立って泣いていました。
「どーした、ミナミ、こっちきて、集めた落ち葉袋に入れてくれない?」
けんかしたのかな?悲しいことがあったのかな?
まあ、いいや。私は先生でも友達でもないから、詮索はしないよ。
一緒に落ち葉を拾いましょう。
と、いうわけで、私が箒で落ち葉を集めて、ミナミがそれを袋に入れる、という、二人三脚でやっていきました。

そんなうちにミナミの涙も乾いて、いつもの元気が戻ってきました。
「うわー見てみて!おもしろい!」
落ち葉の山にぐっと顔を近づけて小さな子枝を見ています。
???何がおもしろいの?
「ほら、たくさんぶつぶつがある」
どうやら小枝の斑点模様が面白いと言うのです。
そうだねえ・・・。
言われてみれば、不思議だねえ。
木の枝を絵に描くとき、ついついまっ茶色にしてしまうけど、じっくり観察してみたらいろんな色や細かな模様があって面白いねえ。
「あ、栗が落ちてるよ」
「ほんとだー。でも、このあたりには栗の木はないみたい。どこからどうやってここまで来たんだろうね」
15分も拾ったでしょうか。
ごみ袋いっぱいの落ち葉をミナミは誇らしげに一人で背負って、みんなの輪の中に戻っていきました。

お芋を焼くのはまた今度なんだって。



2002年11月13日(水) あこがれのクジゴジ

「クジゴジしごとやってみたーい」
これが、前の学校で教師をしていたとき、同僚の先生と言う決まり文句だった。

クジゴジしごと、つまり、九時から五時までとか、就業時間きっちりの仕事です。
教師は時間どおりってわけには行かない。
部活の顧問をしたり、家に帰って予習があったり。
仕事終わってスーパーで買い物してたら、生徒にばったり会って、また教師の顔しなきゃならなかったり。
すっぱり行かないんです。

だから、あこがれの学校事務@クジゴジしごと。
いやあ、全然学校に行くときのプレッシャーが違う。
気楽だ~。のんきだ〜。
マイペースにデスクワーク、たまにやってくる生徒と楽しくおしゃべりして。
意外と向いてるのかも…。
なんて思っていたら、今日校長先生が
「4月からは教壇に立つんだから、そのつもりでね。
学校の様子に慣れて、時間を作って、授業見学させてもらったり、ティームティーチングでやってもいいし」

はっ。
半分忘れてた!私、教師になるのよね。
あんまり事務の仕事に一生懸命になって、事務のプロを目指しちゃう勢いだったよ。
いかんいかん。
教師の視点を忘れちゃいけませんな。



2002年11月12日(火) 窪塚洋介の『GO』

いやあ、窪塚君、いい!

『GO』は在日韓国人の高校生が主人公で、現代社会が抱える人種や国家、イデオロギーの問題を考える…
なんて、そんなうじゃうじゃした理屈を、かっとばして、有無を言わさずとにかく、面白い!
って、思わされちゃったんだけど、
窪塚洋介の存在感だよねえ。

へそまがりの私だけど、認めないわけにはいかないだろうなあ。その将来性。
今、活躍しているどの俳優さんにもない、スケールの大きさ、比類のない個性、圧倒的な魅力がある。
それは演技の「うまさ」とはまた違うものみたい。

全然違う話になっちゃうけど、いつか、宮沢りえが激やせしたり、自殺未遂があったり、マスコミの餌食になっていたときに、バッシング記事にこんなのがあった。
「いままで宮沢りえがもてはやされていたのははじけるような魅力があったからで、演技力があったからじゃない。」

でもさ、これって悪いことじゃないって思うの。
技巧的だけど、まったく魅力がない人と、
技術はないけどなぜか目を離せない人、
演技者として、どっちがいいかって、私は後者だと思うな。
そういう人って、華があるっていうよね。
窪塚洋介という人には、すっごい華がある。
『GO』の窪塚洋介と言うより、むしろ、窪塚洋介の『GO』だった。



2002年11月11日(月) ハッピーバースデー

11月11日という、これ以上なく覚えやすい誕生日が悪いんだ。
なんだかんだいって、今年も「なにあげようかな?」って自然に考えちゃう私がいた。
今日はあの人の誕生日。
最近、あんまり会ってないし、仕事忙しそうだし、電話もあんまりできないけど、どうしてるのかな?
手紙を書いてみた。
プレゼントは結構前に買ってあった。
ネットの本屋さんで見つけた『BLACK JACK』英語版。
「『BLACKJACK』は何度読み返したか分からない」
ってくらい、好きなようだから。

初めてケーキやいてみた。
材料混ぜてオーブンに入れるだけのたいしたことないやつだけど。
学校から帰ってから作り始めたから、できた頃には日付が変わっていた。
それから家まで持っていったけど、まだ帰ってきてなかった。
予想していたので、とくにがっかりもせず、ドアノブに紙袋をひっかけて帰った。

あなたを祝う3度目の誕生日。
来年も、再来年も「おめでとう」と言えますように。



2002年11月09日(土) 綿谷りさ『インストール』

人に本を勧めるって、ちょっと難しい。
自分が読んで超感動したりすると、
「すっごいいいよ。
めちゃくちゃはまるって!!」
とか興奮覚めやらず、ついついびっくりマークいっぱいで話しちゃうんだけど、「いいよ!」というおすすめの本と言うものは、期待や先入観が邪魔をして、純粋に楽しめないことが多いものです。
「前評判の割には面白くなかった」
「期待していたのと違った」
という結果になってしまいがち。

綿谷りさの『インストール』に、前評判は不必要だった。
ないほうが良かった。
“現役女子高生の文藝賞受賞作!”
ついつい色眼鏡で見てしまって、「高校生作家にしては…」
という視点から逃れるのに苦労した。

「女子高生が書いた等身大の物語」なんてアナウンスがなかったら、もっと公平な判断ができたろうになあ。

まあ、知ってしまっているものは忘れられないからしょうがないとして、なるべく先入観なしに読むように努力してみました。
そして、思うことは、すごくいい作品だ、ということ。

高校3年生。自称無個性な受験生が、自分の生き方に疑問を持って…というさわりから、
「多感な時期にありがちな、自意識過剰なナルシスト、おセンチ小説か」
とおもって読み進めると、あっというまに話しは転がって、思わぬ展開にびっくりさせられた。
そして、最後にはその話としての完成度の高さに感心しきりだった。

バランスが絶妙だと思った。
等身大だからこそ見えるリアルな今の姿、心の動き。
感傷やナルシシズムに陥らず、登場人物一人一人の個性を描ききる観察眼。
奇想天外で、あっと言わせる展開で読み手を引き込みながら論理展開に無理がなくて、納得させられてしまうストーリー構成。
イマドキとれたての新鮮な若者言葉と、お堅い表現を自在に操る日本語の豊かさ。

ただ、とってもこの作者はとっても頭が切れるっぽいから、高校生作家、って言う看板と、かわいらしい装丁にかわいらしい内容を期待して読んだりすると、がっかりかもねえ。
人の観察とか、結構残酷なくらい鋭いところをついている。

――よくクラスのみんなは、自分を可愛く見せるためにわざわざ不器用なふりをしてドジッ子を装う娘達をぶりっこなどと呼んで嫌うが、この本物の不器用よりはそのぶりっこ達の作られた不器用さのほうが余程マシだと思う。媚びの武器としての不器用は軽い笑いを誘う可愛いものだけれど、本物の不器用は、愛敬がなく、みじめに泥臭く、見ているほうの人間をぎゅっと真面目にさせるから。――



2002年11月08日(金) 今日がヤマダ

学校事務の先生って、いつも事務室にいて、新しい黒板消しを用意してくれたり、コピーの取り方教えてくれたり、とか、私の想像力ってそんなもんだったんだけど、その目測はかんなり甘かったらしい。

とくにこれからは年末調整って言う、所得税に関わる控除の申告があって、その後には来年度の予算の編成、先生方の異動が待ち構えているんですって。
「よく、ひきうけたねえ…」
は、すいません。むこうみずに飛び込んでしまいました。

なにはともあれ、飛び込んだからにはやるしかないわけで、がんばるんば。

今日は年末調整の資料の提出締め切りでした。
先生方に出してもらった収入、保険料、扶養親族の書類をもとに資料を作成するわけです。
先生方に書類の書き方を質問されるんだけど、私もにわか勉強だから、大変でした。
そういう私も去年まで、事務の先生に泣き付いて言われるままに書いていたんだもん。

確定申告ってナニ?控除って?
ぐらいの勢いだったから、ほんとに初めての世界です。
おおざっぱを辞任する私にとって、書類を正確に緻密に作ると言うのは超苦手です。
「ここはどっちを記入するのかなー?」
って迷ったとき、「まあいいや。誰が死ぬわけじゃないし」
なんて、適当に判断しちゃいたくなるんだけど、ここで良く知っている人にちゃんと質問しなきゃなんないんだよねえ。

せっせせっせと準備をしといたはずなのに、やっぱりぎりぎりになっちゃうのは私の性格からでしょうか。
もう、今日は本当に余裕がなくって、書類の山で、半泣きでした。
「今日、私年末調整の締め切りに間に合わないので、給食抜きにしてください」
給食を先生方と一緒に食べて、おしゃべりして、っていう時間も惜しいぐらい。
「そんな、食べなきゃだめだよー。わかった、給食事務室に運んできてあげるから」
なんて
いってもらって、ありがたいことです。
そんな悲壮な午前中だったんですが、必死にやったら、意外と余裕が出てきて、無事に一緒に給食を食べることもでき、提出書類がちゃんとそろっているか、見直す余裕もありました。
やったぞー。
大波のりこえた!



2002年11月06日(水) クランベリーケーキの山

トンネルを抜けると、雪国だった…。
今朝は、特に寒い朝で、学校近くのトンネルを抜けると白い世界でした。
今度の学校は上高地、と呼ばれる日本アルプス山麓の観光地付近なのですが、とっても寒い!
今年は全国的に冬の到来が早いようですが、それにしても…。
私は事務室で一日中書類に向かっているのですが、窓にはまるで絵葉書のような景色が広がっていて、目を楽しませてくれます。
赤、黄色、オレンジ、色とりどりに紅葉した日本アルプスの山々に、粉雪が降り積もっていって、まるでたくさんのベリーをつかったフルーツケーキにグラニュー糖を振りかけたような鮮やかさです。
おいしそう…。

今日は一日ずっと雪が降りました。
グラニュー糖はどんどんと降り積もり、夕方にはメレンゲをこんもり乗せたようになりました。

地元の先生方に聞いても、こんなに早く雪が降るようなことは例年にはないそうです。
大体積雪は12月になってからというから、1ヶ月ぐらい早いんですね。
片道一時間、車を運転して通勤する私にとって、事故を起こすんじゃないかって、不安になってしまいますが、でも、紅葉に雪景色が一緒に見られることなんて、そうめったにないことです。
事務室の窓だけでなく、どこを見ても本当に絵になる。
掃除で集める落ち葉ですら、思わず拾い上げてしおりにしようかと思うような美しさです。



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