楓蔦黄屋
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2020年12月31日(木) 戊申・大晦日

大晦日にはまだまだ特別感を感じる。

ある種の緊張感があるからだろうか。
カウントダウン感がすごい。

昼間にけっこうな文章を書いたのだが
ウッカリ消してしまった。
エンピツならではだ。

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きのうは
H&Mのリサイクルボックスにドキドキしながら向かったわけだが、
ふつうに服を箱にいれたらふつうに店員さんが気づいてくれて
ふつうに値引きチケットをくれたという
すばらしい結果に終わりました。
よかったよかった。
子どもの靴下を買って帰りました。

これからも利用したい。

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こたつでみかんやらカニやらぶどうやらを
楽しみつつあと5分。
ドキドキだ。
できれば大晦日ぐらいは一生ドキドキしてたい。

2020年12月30日(水) 丁未・衣替え

服がやっとどうにかなった。

クローゼットの中の服がいつ見てもパンパンで
何があるかいまいち把握できないし、
把握できないからつい新しく買ってしまう
という悪循環がちょっと改善された。

私は着替えるのが面倒くさい。

その日の気温と気分と用事とを照らし合わせて
服を選び、そして寝間着を脱ぎ、
そして選んだ服を着る、という行為に
ものすごい労力を費やした気持ちになってしまう。
要するに苦手なのだ。

スティーブ・ジョブズのように毎日同じものを着られればラクだとも思うが、
しかし私は身につけているものに大層気分を左右されてしまう上に
「いつも同じ」ということにかえってストレスを感じてしまうタイプなので
その方法はたぶん合わないなと思っていた。

ならばせめて、「組み合わせを考える」という労力を省けないだろうか。

「着回し」というテクニックが当たり前のように謳われている昨今であるが、
別に着回さなくてもいいんじゃないか。
このトップスにはこのボトムス、と決めて、基本それ着てりゃいいんじゃないのか。
「私服の制服化」ってやつだ。

というわけで決めた。
かなり楽しかった。
そしてクローゼットがかなりすっきりした。

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要らない洋服がけっこうはっきり区別できる。
買い足すのもきっとラクになる。

要らない洋服はH&Mのリサイクルボックスに出してみることにした。
ブランド問わず、靴下かたっぽでもよれよれのTシャツでも汚れたシーツでも
布なら何でも回収してリサイクルします、というスタイルがとてもいいと思った。
服をただゴミにするのはあんまり気持ちのいいものじゃないが、次の道筋に送ると思えば気がラクだ。

まだ出してないからどんなものかドキドキする。

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着回さなくてもいいやと思って気づいたことがある。

「オールシーズン着られる」ものも、別にオールシーズン着なくていいということだ。

春まで長く着られる冬物でも、春か冬どっちか着れば別にいい。
どっちかに決めて制服化したほうがラクに着られる。

今まで服は「春夏」「秋冬」でざっくり衣替えしていたが、
「春」「夏」「秋」「冬」で細分化したほうが
常用クローゼットの中はすっきりする。

春用にと決めたレースのスカートを
どうしても冬物に合わせたいとかいうこともたまにはあるだろうが、
そしてそのときはふつうに合わせようと思うが、
たぶんそんなことは本当にたまにだ。

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この整理整頓をするにあたって、いっこだけ気をつけた。
「どうでもいい格好」も2、3通り制服化すること。

この場合の「どうでもいい」は
「着なれてるけど気分が上がったりはしない」だ。

服の断捨離の基準で「着て気分が上がるか否か」というのがあるが、
私には気分が上がる服を着る気分じゃない日が毎月必ず数回は訪れる。

体調よくない日、気分がどんよりする日、
ラクにいきたい日、ホッとしたい日。
そんな日には
適当に選んだちょっとイマイチな服がとても安心する。

だから、どうでもいい服はけっこう重要だ。
心地いい生活をするためのクッションになる。
そして気に入った組み合わせの制服は、気持ちを新しくしてくれる。

私がスティーブジョブズスタイルに向かないのもこのへんに理由がある。


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来年の夏は、ワンピースとカラー靴下の組み合わせを楽しんでみようかなと今から思ったりしている。









2020年12月27日(日) 甲辰・大安・やすみ

身体がすごく休みたがっている。

思えばこの1年、休みらしい休みをとったことがなかった。
去年はとった。…かな?あれ、一昨年だったかも。

ずうっと仕事のことを考えていたし、
そもそも「休日」というのが制定されていない。
加えて親という業を背負っている。
逆に言えば休みたければいつでも休めるわけだが、
誰かに許されたわけではないので休んでいる間いつも後ろめたい。

そういう1年だった。

そういう後ろめたさで身体を壊したりしたもんだから、
秋口あたりからもうその後ろめたさを放棄した。

休んでもたいがいは何とかなってきた。
ならもう休んでしまえ。
休んでダメになるならもうそれはそれ、先のことなど考えてたって
どうせ憂い通りになったことなんてないしもういいや。

と考えるようにしたら
別に状況は良くもならないが悪くもならず、心持ちだけがちょっとラクになったので
まあじゃあこれはこれでいいかな、と思うようになる。

そんなこんなで仕事を納めた。

そしてそこからこっち、ビックリするぐらい何もできない。
身体が全然動かない。

こうやって無為に日記などぽちぽち打つならできる。
本を読んだりもできる。テレビも観られる。ゲームもできる。
でも家事がなんにもできない。
部屋の掃除をしようと思ったけどそれもできない。
しようとすると頭がフリーズする。

これはもう、1年分休めということだと思っている。
というわけでゴロゴロ休んでいる。

一緒に住んでいる人たちは、そんな私を特にとがめることもなく
家のことをやったり楽しく過ごしたりしてくれている。
そして私は逆にふざけがてら鬱陶しく彼らにつっかかったりしている。

いま一緒に住んでいる人たちが、この人たちで本当によかった、と思う。

2020年12月25日(金) 壬寅・クリスマス

メリークリスマス。

もう何をしても、子どもの頃に感じてた
あのクリスマスのきらめきや特別な空気感は
味わえないけども。

でも実はサンタさんはいると今でも思っている。

記録の上でしか存在しないなら徳川家康だって一緒だ。

とはいえ盲目的に信じているのとはちょっと違って、なんというか

ここ数年、クリスマスを親として毎年慌ただしく過ごしていて、
その原動力になっているのは確かに自分が子どもの頃サンタさんにもらったすべての輝きで、
そうするとああやっぱりサンタさんていうのはいるんだなと、
いるからこうやって私は子どもが楽しめるように手を動かしているんだなと、
そう思うわけです。

親の手柄をサンタにとられてたまるかみたいなことは、だからあんま考えたことがないわけです。



2020年12月23日(水) 辛丑・お風呂

お風呂に入る気がおきないなあ。

長年勘違いをしてきたが、
私にとって毎日の入浴はリラクゼーションではなく
義務なのだと知った。

銭湯とか、スパとかは大好きなのだ。
大きな湯船につかるぜいたく、あれこそはリラクゼーションだ。

でも身体を洗う行為は義務。歯磨きと同じ。
そしてうちにはたっぷりとお湯にたゆたえるほどのだだ広い浴槽はないので
毎日の入浴は完全にオール義務だ。

しずかちゃんは何が楽しいんだろう。

でもお風呂に入らないと汚れるのだ。
寝てるあいだに汚れるのだ。
人は寝てるあいだにコップ一杯の汗をかくと聞く。
お風呂に入らないと、身体にたまった垢がその汗と混ざり合って
起きたときけっこう汚れてるのだ。
私は垢もけっこう出るタイプなので。

で、お風呂をリラクゼーションと思っていた頃は
もう面倒くさくて仕方なかったが、
これは義務なのだと思うと不思議なことに面倒くささが軽減する。

今日は夜にスピッツのオンラインライブチケットを買ってある。
スピッツのライブなんて劇的にひさしぶりだ。隼ツアー以来だ。
新譜は必ず買ってきたが、ライブは行っていないので
本ライブのチケットはことごとく外れた。

そのひさびさのオンラインライブをお風呂に入らない身体で観るってのはなあ。
やっぱりゆっくりさっぱり観たい。

こうして日記を書くことによっても、お風呂に対する面倒くささが薄れてきたことだし
さて、よしお風呂いれよう。

明日はクリスマスイブだね。

そうそう、今日で仕事納めでした。
一年間お疲れさまでした、トゥーミー。本当に今年はよくがんばったと思う。

2020年12月21日(月) 戊戌・冬至・好きでないもの

冬至。
ゆず湯に入ったりはしなかった。
でも冬至。夕暮れがきれいだった。

ライブカメラにハマっている。

毎日、世界の気になった都市を3つほど巡回している。
もともとは東京のライブカメラで
朝なんとなく「出社感」を部屋の中で感じてから仕事をしたくて見始めたのだが
そういえば世界を見られるんじゃないかと思って見ている。
外国ではたいてい昼夜が逆転していて面白い。

ライブチャットも楽しめる。
日本語をほとんど見かけないからだ。
何言ってるかパッとわかんないからめちゃくちゃ気軽だ。

私も英語でやる。
でも合ってるかわかんないから一度DeepLで日本語にして
おかしくないか確かめてからやる。
たいしたことは打ってないから英語でもできる。
英語以外の言語は日本語を翻訳してぶっこむ。

チャットもその場その場で、なんとなくお国柄みたいなものが出るから面白い。
けっきょく、一番のんびりして平和なのが東京だ。
みんな優しい。

ニューヨークはトランプのことばっかり話している。
私はパンダのことばっかり話した。だっているんだもん。パンダ。

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そろそろ何かを学ぼうとして興味のない本を読むのをやめようかと思う。

今年、2冊ほどそれで失敗した。
それなり生きてきて、もう自分には好きでないものから学んでるヒマはないんだな、ということがわかった。

友人が星読みの勉強を始めている。
この先はもう身軽に、フットワークを軽く生きていったほうがいいとのことだ。
腐れ縁も切っちゃっていいとか、地位も名誉も気にしないとか。

人の口から語られるものはあまねくフィクションだ。
創作の意識なく事実を語っていても、人の口を通した瞬間それはフィクションになる。
と私は思っている。

だから話半分に聞くのがちょうどよいと思っている。

友人の忠告もありがたく、しかし半分だけ受け取る。
心にひっかかってるな、と思ったものだけ考える。

好きでないものがたくさんある。
好きなもののほうが少ない。

好きでないものに心と身体を動かさない準備を、
この30代最後の歳に1年かけてしようと思う。
四十にして惑わない準備だ。

好きでないものに心を動かさないためには
まずは初動が肝心だ。
何事もまず心構えだ。

しかしどうしたらよいものか。それを1年かけて学ぶ。
2020年の目標は「wrap around fluffy」だったが、
2021年の目標は「好きでないものに心を動かさないための心構え(仮)」かな。


2020年12月12日(土) 己丑・熊蟄穴・ピアノ弾き語り

ピアノ弾き語り活動を、ぼちぼち再開しようかなとひそかに画策している。

あまり集団行動に向いていないのに大学時代はバンド活動をしていた。
ピアノは弾けるが、東京事変のコピーバンドでもないかぎりは
キーボード活躍の場は少なくてつまらないのでもっぱら歌を歌い散らして満足していたが、
卒業してからあるときを期にピアノの弾き語りを始めた。

もっと早くに始めればよかったと思うが、
私は長いこと「弾きながら歌う」ができなかったのだ。
練習してみたらできた。できるもんだった。

初めて1人で弾き語りとしてステージに立ったときは
その心細さにビックリしたものだ。
バンドのときはステージ上のプレッシャーを分散してもらっていた。
1人だと緊張がその比じゃない。ピアノの発表会より緊張する。声を出さないといけない分。
MCとかも初めてやった。なんかおかしなことばっかり語ってた気がする。
でも仲間の和を重んじるバンドよりもはるかに自分に向いていると思った。私は自分勝手なので。

自分の歌ってる歌とか聞き返したくないですが、
弾き語りするのは大好きです。自分の姿みえないし。

弾き語りのライブを主催してみよっかなんて友だちと言ってたけども、
そうこうしてたら子どもが生まれて、仕事も忙しくなって
いったん保留となった。

そうこうしてたら、ちょっとではあるがピアノ練習しよっかな、とふと思うぐらいの余裕は生まれてきた。

じつは楽譜はコツコツ買いためてはあるのだ。
弾いてみたいものが10曲ぐらいある。

家の近くにスタジオもある。今も営業を続けてくれている。ありがたい。

まだ友だちがライブしてくれる気があるかな。あるといいな。


2020年12月07日(月) 甲申・大雪・歳時記カレンダー

ヘンな夢をたくさんみる。

たいていは仕事が進んでいなくて、納期ギリギリになるとたくさんみる。
起きているときにあせることはほとんどなくなったが、
やっぱりそのぶん心のどこかでストレスを感じているのかもしれない。

さっき昼寝したときには蘭寿とむさんとお会いした。
夢の中でもおきれいだった。

起きてしばらくしたら、家族が宝塚版「逆転裁判」を観はじめた。
…予知夢?

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ある時期から、歳時記カレンダーを仕事部屋にかけている。

「山茶始開」(さんちゃはじめてひらく・椿が開花する頃のこと)や
「朔風払葉」(さくふうはをはらう・冷たい北風が木の葉を散らす頃のこと)や
「橘始黄」(たちばなはじめてきなり・柚子やミカンなどが黄色に色づき始める頃のこと)など
カレンダーでなんとなく意識してるとまさにその通りになってたりして、
なんというかちょっとした魔法気分だ。
呪文を唱えたらその通りになっているというか。
本当は逆なんだけども、それも含めてちょっとしたマジックショーのようだ。

もしくはアドヴェンドカレンダー感があって楽しい。
クリスマスまでのカウントダウンじゃなく、毎日送られる小さな贈り物感があるというか。

歳時記カレンダーを作っている人に心から敬意と感謝を。

2020年12月02日(水) 己卯・橘始黄・ちょきん

部屋をきれいに保つことについてわずかばかりではあるが前進できたんだから、
経済観念においても育てようと思って遅すぎることはもしかしたら
ないんじゃないかと思いはじめてきたお。太鳳。

わりと欲しくなったらすぐ買ってしまうタチだ。

昔に比べたらさすがに少しは考えるようになってきたが、
ひょんなことから小金が入ったりするともう財布のヒモはガバガバだ。
財布のヒモっていうか、指から流出するクレカの情報が。

世の中には借金に抵抗がある人もいると思うが、
クレカ程度ならば私はあまり抵抗はない。
要は返せばいいからだ。
返さないから大変なことになるわけで、ちゃんと返せば別に何の問題もないのだ。

「正しい借金ならば、返していくことで逆に信用になる」というのは母の主張だ。
奨学金を返済し終わったとき、ちょっとだけその意味を実感した。

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しかしまあ、ここらで少しは「お金を使わないでとっておく」という技も身につけたほうがいいのかもしれない。
家のローンをわずかではあるが背負っている身としてそう思う。
奨学金のときの経験で、自分は「借金を返すために働く」のが別にイヤな性分ではないことを知った。
ならばお金をお金のまま所持できるよう精進するのもいい経験になるかもしれない。

そういうわけで、ちょっと前からやってみたいことがあった。
それは「つもり貯金」だ。

カードの支払額を見るたび、「このお金を全部貯蓄に回したらけっこういい額いくよなあ」と思っていた。
それを実行するのだ。
何か欲しいものがあったら、お金を支払う感覚でメイン口座から貯蓄口座へ振り込む。

最近、それを初めてやってみた。

おお。
わりと抵抗があった。
「こんなの買っちゃって本当によかったんだろうか」という後悔がほんのり芽生えた。
モノが手に入るときはまっっっっったく感じない類の後悔だ。

ただ口座の額がマイナスになる(実際はならないが)だけなので
次にお金を使う抑制力になりえるな、これは。

ちなみに1ヶ月以上経ってもまだ欲しかったら
そのときは迷いなく貯蓄口座からお金を払って買ってよいルール。
なのでガマンしているという感覚は一切ないのも有効だ。
むしろちょっと購買欲も満たされてる。

さて、この方法は私に合ってるだろうか。



2020年12月01日(火) 戊寅・師走・おかたづけ

仕事部屋がそろそろ散らかってきたので片付けたい。

が、なんだか気分が乗らずに放置したまま何日か経つ。

仕事部屋に限らず、
「部屋をきれいに保つ」ことに関してだいぶ前から試行錯誤している。
諦めたり、諦めきれなかったり。

「部屋をきれいに片付ける」ことはできる。
要らないものを捨てて、必要なものをそれぞれの居場所におさめればいい。
でもそれと「部屋をきれいに保つ」というのはじつは全く別のスキルだ。

「片付ける」というのはつまり「散らかす」とセットになっていて、
要するに「きれいに保つ」のとは正反対のスキルではないかと私は思っている。
「きれいに保つ」というのがどういった行為から成り立つものなのか
私は知らない。教わってもいないし自ら手習いにも行っていない。

長年、「片付ける」=「きれいに保つ」だと思いこんでいた節がある。

逆なんだと思う。
「きれいに保つ」=「片付けない」なんだと思う。
「片付ける必要のない状態に設定する」ことなんだと思う。

書いてて気づく。

「散らかったものを収納にセットする」のではなく、
「現状の散らかった状態に、収納のほうをセットしていく」
というのが有効なのではあるまいか。


やってみよう。

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てなわけでとりあえず、
家にあまっていた数々のカゴたちを仕事部屋に一挙召還。
散らかっている箇所に設置。

おお。スッキリ。

自分の散らかしがちな場所とモノの種類が一目瞭然になる。
必要な収納家具が見えたのでそれをぽち。

と同時に、自分の散らかさない場所も見えてくる。
散らかさないでちゃんといつもきれいになっている箇所もあるのだ。
モノ単位で収納場所が決まっている作業机だ。

「小物」というざっくばらんなくくりではなく
「シャーペン、消しゴム」「手帳」「はさみ」といった単位で
100均の箱やお菓子の空き箱なんかに、マステに名前を書いたラベルを貼り付けて収納してある。

このマステラベル収納を試そう、思いついたときは
これで果たして散らからないようになるのだろうかと自分でも思っていたが、
結果1年半、きれいに片付いたままだ。自分に合っていた。

この「ラベルを貼り付ける」というのがミソで、
こうするととたんに頭の中までスッキリして、何も考えずにモノを出し入れできるのだ。
ラベルがある=名前のついてある場所にしまうという作業も好きらしい。
居場所を作ると安心するタチなのかもしれない。

自分のアクセサリーだの趣味のものだのをしまうキャビネットも散らかっていない。
これもしまい場所は決まっているが、ラベルは貼っていない。
キャビネットは長いことキッチンで使っていたものを、家具シートを貼ってリメイクしたもので、
小物入れなんかもそれなりにこだわって選んだ、
要するに自分が気に入るものだけで作り上げた収納場所で、
そういうものだとラベルを貼らなくても頭の中は常にスッキリしている。

「しまうべき場所にいちいちしまう」という行為もどうやら好きらしい。苦にならない。
しまうべき場所が目に見えていないのが苦なのだ。


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服なんかも、基本的にハンガーにかけてしまうのが好きだ。服そのものが見えるから。何よりのラベルだ。
たんすの引き出しにも、いちいちしまうものが書いてある。
こないだ、衣替えのときには、中身の見えないたんすにしまってある服の絵をカンタンに描いて貼った。
散らからなくなった。

基本的に着替えるという行為がめちゃくちゃ面倒くさいのだが、
これをやったらちょっとラクになった。


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部屋をきれいに保つ方法を、誰にも教わらなかったのでこうして
不惑を前にしてもまだ試行錯誤している。

でも試行錯誤して、できるようになるのは嬉しい。
この喜びが勝っているから、部屋が散らかっていると気になるんだと思う。
部屋が散らかってても全然気にならなくなりたいとは思わない。



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