
|
 |
| 2005年10月04日(火) ■ |
 |
| 田中泯 |
 |
映画「メゾン・ド・ヒミコ」を観ました。 「たそがれ清兵衛」という映画に出演していた田中泯さんが出演している ので観に行ったのですが、残念でした。 ある日突然、妻子を捨てて出て行った男。 男は「ゲイバー」のママとなり、一世を風靡した。 が、引退。 それは男がガンに冒され、余命いくばくもなくなったから。 男はホモのための老人ホームを作る。 そこへ、男の恋人(オダギリジョー)が、男(田中泯)と娘(柴咲コウ) を仲直りさせるため、娘に老人ホームの手伝いを依頼する。 多額の借金のために嫌々ながらアルバイトをすることとなった娘。 だが、娘にはゲイに対して極度の嫌悪感がある。 ふたりは仲直りができるのか……。
田中泯、オダギリジョーの演技はよかったです。 老人ホームに暮らすホモの面々もよかった。柴咲もそこそこだった。 この作品を悪くしているのは監督。 この作品には問題がいくつかある。 突如捨てられ苦しんだ娘と、自由に生きてきたように見えるゲイの確執。 ゲイの老後。 死に行く恋人を介護する若きゲイの苦悩。 中学生で自分がゲイだと気づいてしまった少年の苦悩。 その他にもいくつか存在するのだが、どれも結局解決していないのだ。 確かにすべて解決するのは不自然だ。 だが、映画なんだからある程度、これからの時間に夢を持たせるべきだと 思う。 というか、結局問題だけいくつも並べながらどれも解決できなかったのは、 監督が「ゲイ」というものを理解できなかったからのように思う。 その迷いどおりにすべてがあいまいになったように思う。 これからの時代、十分起こりうるトラブルをテーマにしているにもかかわら ず、夢や希望すら残せない作品に仕上がっていて大変残念だ。 せっかくの田中泯の演技も生きていない。 「たそがれ〜」では、初めて殺気というのを感じられたすばらしい演技だった のに。 つくづく映画とは監督だけでも役者だけでもできないことを痛感した。
|
| 2005年10月03日(月) ■ |
 |
| 浮き草 |
 |
先日「風の前奏曲」という映画の試写会に行ってきました。 タイの映画で、今まさに死に行こうとしているラナートというタイの 伝統楽器奏者が、自分の人生を振り返るというストーリー。 最近ではめずらしいCGを一切使っていない作品で、とても素朴でいい 映画でした。 タイには第2次世界大戦の時、近代化を進めるあまり、タイ古来のものが 一切禁止された時期があったそうです。 それはラナートをはじめとるす伝統楽器の演奏も禁じるものだったのだ そうです。 この映画の主人公・ソーンはラナートのカリスマ奏者で、彼の晩年に 伝統楽器の演奏が禁じられたわけですが、彼は「伝統音楽は人々の根っこだ。 その根っこがしっかりしていれば、どんな嵐がきても倒れることはない」 と、伝統音楽を守ろうとしています。 彼はけっして近代音楽を否定していません。 ピアノにあわせて演奏するシーンなども出てきますし、とても考えが柔軟 です。 私はこの映画を見て「日本ってなんて根っこのない国なんだろう」と思った んです。 とても柔軟に新しいものを取り入れてきたと思います。 でも、その一方でいとも簡単に今までの伝統を捨ててきたな、と。 日本には次世代に伝えるべき伝統がない。 これでは「日本らしさ」など、どこに残るのでしょうか? こんな根っこのない国、誰が信じられるのだろう? 今、リサイクル活動をなさっている外国の方が、日本の「もったいない」と いう言葉にいたく感銘を受けて、自分たちの活動のスローガンに 「MOTTAINAI」という言葉を使ってくださっているという記事を 読みました。 この「もったいない」という心、日本人それも次世代を担う人たちにあるの でしょうか? まず、私たちの世代がすでに親たちから伝統をうろ覚えでしか伝えてもらえ なかったのに、こんな私たちが自分の子供たちに伝統を、日本を伝えられる のでしょうか? やはり日本は、アメリカ合衆国の日本州となってしまうのでしょうか?
|
|