宿題

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2005年02月28日(月) 裏庭の柵をこえて/大島弓子
ぼくはこれから とみちゃんが宿題から解放される日まで

とみちゃんの宿題ひきうけマンとして生きればいい!



とみちゃん 

ぼくは今 かなしみのあまり自殺してしまおうかと思いましたが

この前 子供をのぼらせる木のようになろうと

(すなわちそれは 現在とみちゃんの夏休み宿題のひきうけマンになること)

心にちかったのを思い出しました

ぼくは生きなければなりません

明日は 宿題をもってきて下さいますように



あたしが中学にはいると おにいちゃんは松くい虫なんとかという仕事をするために

とおくの山に行ってしまいました

それまでは ほんとうに毎年 おにいちゃんは

”とみこの夏休みの宿題のために生きた”

のでありました


★裏庭の柵をこえて/大島弓子★

2005年02月27日(日) たそがれは逢魔の時間/大島弓子
魔が刻とはよく言ったものだ 

わたしはときどき幻惑される

少女はあれから一度も現れないのではない

この時間 少女は変装して

いつもかならず私の前をとおりすぎてみているのかもしれない

ときには ぼくの前をゆきすぎる少女という少女

だれもかれもが彼女に思われる

そしてあしたこそ あたりかまわずつかまえて

仮面をはがしたしかめるのだ

という妄想が

ひましに強くなるのを感じながら

魔が刻が過ぎて闇になると

ぼくはいつものように家路に着くのです


★たそがれは逢魔の時間/大島弓子★

2005年02月26日(土) たそがれは逢魔の時間/大島弓子
今なら言えるだろう

告白するのだ 告白するのだ

告白して不幸になれ


そうだ

不幸だ 不幸だ

不幸がこわかったのだ


★たそがれは逢魔の時間/大島弓子★

2005年02月25日(金) たそがれは逢魔の時間/大島弓子
ペンダントありがとう 

わたしも譲くん好きです

わたしの夢は譲くんといっしょにくらすことでした

いっしょに食事をして いっしょに散歩して いっしょに旅をしたい

いっしょに眠り いっしょに笑い 

卒業しても 夏がきても 秋がきても 

病気のときも 死ぬときも きっとあなたを思いだします


★たそがれは逢魔の時間/大島弓子★

2005年02月24日(木) 夏のおわりのト短調/大島弓子
あと一度だれかにあえるといいな

心中のときはあんなにへいきだったのに おかしい

いま死ぬとなると さみしい

だれかにあいたい でんわでもいい だれかに…

だれかにさよならと 言いたい!!


★夏のおわりのト短調/大島弓子★

2005年02月23日(水) 夏のおわりのト短調/大島弓子
あんた 鳥になくなと言える?

鳴いたとりはうるさいからライフルでうてる?

あなたが父をみつけるってことは 母にとって死刑宣告だ

かわいそうだろ 不眠症なんだよ

だからあんたのすべきことは 今日みたことは今日かぎりわすれて

早ね早おき勉学猛進 A大にパスすること

で つかれて鳥のようにさけびたくなったら 

あまい菓子でも焼いてしこたまくらうのだ


★夏のおわりのト短調/大島弓子★

2005年02月22日(火) 45年後…/藤子・F・不二雄
大人のび太「そうか、きみが勉強してるわけないか。バカなこときいた」

のび太「あんただれです?」



のび太「あのさあ……ずっと気になってるんだけど……。

ぼくが大人になって、社会にでて、ちゃんとやっていけるのかな」

大人のび太「つまり、ぼくがどんな人生を歩んできたか、聞きたいわけ?」

のび太「いや、やっぱりいい!聞くのがこわい」



のび太「大人になっても運動神経はにぶいんだね」

ドラえもん「のび太だもんね」



大人のび太「なにかおれいをしたいのだが……。そうだ宿題でも手つだおうか」

のび太「できるの?」

大人のび太「この年で小学生の宿題ができなくてどうする」



大人のび太「一つだけ教えておこう。きみはこれからも何度もつまづく。

でもそのたびに立ち直る強さももってるんだよ」


★45年後…/藤子・F・不二雄★




■「未収録作品スペシャル25巻」から。
「全作品中、最も遠い未来からあの人が会いにきます」って書いてあったけど、
45年後ののび太がちょっとでいいから入れ替わりたいとか言って遊びにくる話。

2005年02月21日(月) 「関係」を荘厳するために/永原孝道
瓦礫の中から過たず玉を選び出す目利きの目が鋭いとするなら、

青山の眼は鋭いというよりも、濃い。

瓦礫さえも見つめ続けることで玉に変えてしまうような、そんな眼だ。



そういう眼だけが、ただ真贋を見分けることだけに長けた目利きの眼と違って、

「関係」を荘厳できる。


★「関係」を荘厳するために/永原孝道★

2005年02月20日(日) 利休伝ノート/青山二郎
利休の根本的な思想の中には、本当は茶道も礼儀も無い、何もなかった。

この世がことごとく虚偽に見えたのだ。

美も亦利休には嘘だった。

ただ人があり、社会があり、からくりがあり、嘘八百があり、厭わしかったのだ。

狂いのような梅毒で鼻の落込んだ加藤清正を慰めるのには、

唯二人で一つ茶を飲むことしかなかったのだ。


★利休伝ノート/青山二郎★

2005年02月19日(土) 本の装幀について/青山二郎
模写が多いのだが、知らない人が見ると私が図案を考え出したように思うらしい。

だから、図案というものに感心した人が多かった。

確な、工芸的な、古い模様の蔭に隠れて私は私なりに装幀業を営んできたのだが、

(この中に、辱しいと思うものはあるかね)と言う愚問に接して、

専門家という者をハタと私は意識した。

専門家という者は、たとえば烏がカアカア鳴く様なものである。

烏でも社長でもいゝ。そのものを否定するのは勝手だが

(君はカアカア言って、辱しくないかね)と聞きたくなるのは、良かれ悪しかれ愚問である。

詰まらぬ装幀だが、私が二十年間に二千点も人から求められていた間に、

彼は何をしたかというと考えていたのである。

考えていた男が現れて、私に言った言葉だった。


★本の装幀について/青山二郎★

2005年02月18日(金) 破壊と創造のサンバ 最後/筒井康隆×町田康×中原昌也
「もっとめちゃくちゃすればいいんです」

筒井 僕は最近、自分の死のことを考えるんです。普通、年をとってきたらだんだん耄碌して、訳がわかんないうちに死ぬでしょ。それは、ちょっと嫌だなと思って。やっぱり、せっかく生きてきたんだから死ぬ苦痛もちゃんと味わってみたい。あと、一番苦しいのは焼け死ぬってやつだけど、一瞬でいいから、どんな感じがするのかを体験してみたい。本当に「心頭滅却すれば火もまた涼し」なのかと(笑)。ここではっきり宣言しておくと、僕はもうあんまり小説を書きません。で、収入も少なくなっていって、忘れ去られて死ぬというのもいいかなと思っている。結局、死を考えると、どうしてもロマンチックになっちゃうんだよ。でも、死を怖がっている間は生きているんだし、死んじまえば怖がることないわけだし、やっぱり死そのものは記号にすぎないと思うんだよね。植物人間になって、それをもう一人の自分が2スタかどこかでモニターで見ることができたら、それもいいんだけどね。

中原 僕も、死んだら楽かなとたまに思ってますよ。

町田 中原さんは、まだ死は遠いですよ。

筒井 実は僕が怯えているのもそれでさ。両親とか親戚を見てると、ずいぶん長生きしそうなんだよね。

中原 そんな不愉快そうな顔して言わなくてもいいじゃないですか!

筒井 江戸川乱歩みたいに、小説を書かなくなって延々と生きているのも面白いなとは思うんだけれどさ。とにかく、今のようにろくに破壊もできないで小説を書き続けているのは、もう嫌だね。もうやるだけやったもん。今度出すつもりの短編集だって、あのうち半分くらいしか気のきいた破壊ができなかったものね。あなた方にはわからないでしょうけれども、若い頃に昔の人の書いた小説作法とかを読んだり、何だかんだで技術が身についてしまったから、いくらめちゃくちゃ書こうとしても辻褄があっちゃうんだよね。ちゃーんと首尾が整っちゃうんだよ。嫌ですね。

中原 いやいや、そんなことないですよ。思った通りに壊れない無様さも、やっぱりある種の破壊じゃないですかね。

筒井 無様さ……。

中原 ひどく失礼な言い方ですけどね。はは。

筒井 中原さんは壊し方の理想というのがあるわけ?

中原 いろいろできるじゃないですか、他人の手を借りるとか。最後の数行を知らない人に書いてもらうとか。筒井さんも、もっと下らないものを書きましょうよ!赤ちゃん言葉でしか書かないとか。

筒井 それ、俺書いたよ。『バブリング創世記』で。でも本当に壊し切るまでは決断がつかないんだよね。だからね、これは悪口になっちゃうんだけど、島田雅彦の例の<無限カノン>三部作。あれは確かに面白くて、夢中になって読んだよ。皇室を書くという勇気も買う。だけど、読んだ後でよく考えてみたら、いや、よく考えなくてもそうなんだけど、あれ、ただの封建的ロマンなんだよね。だから面白いんだ。こんなこと言うと悪いし、あれだけの力業ができる作家は他にあまりいないんだけど、自分があれを書くことは否定したいんだよね。だから今、小説はいったんぶっ壊さなきゃいかんと思う。もし小説を本当にぶっ壊したとして、じゃあわれわれに責任があるかというと、ないと思うんだ。文化的ミームが必ず残るわけでさ。僕はそれを信頼してるんだよ。だから責任持たなくていいやって、そう思ってたんだな。

中原 いやいやいや。

筒井 何だよ。

中原 何か言わなきゃと思ったんですが、気のきいたことを思いつかなくて。

町田 めちゃくちゃをやればいいというのではないですよね。お話をうかがって思うのは、小説的感興というのがあって、このドラッグってこんな感じだよね、とかアルコール飲んだらこんな感じになるよねとか、この音楽聴いたらこういう風になるよね、みたいな、「だいたいこんな感じ」という小説の感興として事前に分かりすぎていて、自動的に過ぎるなあ、ということで、それは身体にも頭にもあって、そんな小説と想像力との関係を壊したほうがいいのかもしれないと思いました。

筒井 そうですよね。小説なんていくらぶっ壊そうとしたって簡単には壊れないんだから、もっとめちゃくちゃすればいいんです。

中原 でもはっきり言って、僕は小説をぶっ壊そうと思ったことがなくて、単に常識を知らないだけなんですけどね。

筒井 そんなことないって。

中原 いやいやいやいや。

筒井 あなたの小説を読んで、僕や町田君があれだけ笑うわけだから。

中原 せめて笑わせないと、嫌われちゃうじゃないですか。

筒井 おっ。俺と町田君を笑わせておいて「せめて」なんて言っているぞ。

中原 いやいやいや。

町田 文学面している小説でも、変な日本語がいっぱいあるんですよね。こんなの何でチェックしないんだよっていうのが結構ある。でも中原さんの小説を読むと、ぶっ壊れているように見えるけど、日本語のもとのところがちゃんとしてるから、笑えるんだと思うんですけどね。

中原 それは編集者が一語一句疑って、必要以上にチェックしてるからじゃないですか。

筒井 そんなことないよ。あなた、「PHP」を書き写して小説を書いたって言ったけど、才能があれば、既成の小説のおかしなところばっかりを探し出してきても、それだけでパロディ小説ができちゃうもんね。俺も「時代小説」というのを書いたけど。

町田 ああ、あの作品、最高です。忘れられませんよ。

筒井 あれは成功したね。この前、白石加代子が朗読してくれて、彼女の朗読は批判的なところがあるからどうなることか本当に不安だったんだけど、みんな笑いころげてくれて、安心した。くだらない時代小説を山ほど読んだおかげです。

中原 そういえば、引っ越しで忙しかったんで、「新潮」で書いた小説のフレーズを「文学界」に使いまわしたら、編集者に唖然とされましたけど。どうせ同じようなことしか書けないんだから、いいじゃないですか。ねえ。

筒井 わははは、自分盗作か。

町田 どうも、同じようなことしかできない、というのがポイントですね。要するに、本当の意味での楽器の技術がある人は、いろいろな演奏ができると思うんです。ただ、楽器ができないから、じゃあサンプラーでやろうかと言った時、音色をいろいろ変えたりとか、エフェクターを使ったりとか、いろいろ工夫せざるをえない。

筒井 ああ、そうか。

町田 デヴィッド・ボウイという歌手がいますが、僕は全然音楽の才能がない人だと思っていて、ただ、手を替え品を替え、工夫する才能があるんですね。この前、武道館というところに初めて行って、デヴィッド・ボウイのコンサート見たときにはなにか、思想のないファシズムみたいで面白かった。で、中原さんの小説もそれに近いようなところがあって。

中原 なははははは。

筒井 中原さん。デヴィッド・ボウイは嫌い?

中原 大っ嫌いなんですけれども。なはは。この間も、『ジギー・スターダスト』のフィルム上演権が切れるというんで、最終上映会にいって、音楽は本当に嫌いなんだけれど、衣装の早変わりは良かったですよ。

町田 そうですね。なにもできないからこそ、いろいろなことやる。鳩、出したり。

筒井 だから、中原昌也に限っては自分盗作も許す、ということでいいじゃないですか。それは文学的主張になるよ。漫画家のサトウサンペイが三箇所くらいの連載で最後の一コマだけが違って後は同じ、というのをやって、問題になったんだよね。彼の言い分は覚えてないけど、最後の一コマだけ変えて三作書くということこそ、彼にとっては重要なアイデアだったと思うんだよね。

中原 そうですね。絶対そうですよ。同じ文章だって違う気持ちで見れば違うものに読めるわけだし。マンネリだと思うのは、読者の方が悪い。冷水で顔洗ってから読めと言いたい。なははは。

筒井 そうなんだよ。それでいいんだよ。いいのかな?いや、いいんだって。わはははは。


★破壊と創造のサンバ 最後◇新潮10月号/筒井康隆×町田康×中原昌也★

2005年02月17日(木) 破壊と創造のサンバ 4/筒井康隆×町田康×中原昌也
筒井 「破壊」ということを考え始めたのは、つい最近のことで、それまでは「冒険」をやってるつもりだったんです。とにかく今までにないものを書くという意味でね。けれども、本当に意識して、小説を壊さなきゃ駄目じゃないかと思い始めたのはつい最近のことで、そういえば、大森望さんが雑誌の座談会で言ってたけど、今、SF界で僕に影響を受けた若い連中がやたらと冒険しているんだって。だけども、SF仲間のお遊びになってしまう。だから、やっぱり越境しなきゃ駄目っていうことですよ。SFから普通の文芸にいくことが越境を言えるかどうかわからないし、僕のことをSFをダメにした戦争犯罪人のひとりだと言う人もいるけど、少なくとも御二人は音楽から文学に越境している。むしろ音楽であれだけのことをやってるんだから、小説で何をやってもいいんだよ。
 
中原 そうですよ、文学は何をやってもいいんですよ!筒井さんの小説で、兵隊が一から十まで数えて十行稼ぐというのにすごく影響されまして、どうやったら文字数を稼げるかってことを常に考えていますね。

筒井 中原さんのこういう不真面目さって、真面目の裏返しなんだよ。僕は昔、真面目にふざける、なんてことを言ってたんだけれども、中原さんの場合どうなるんだ?ふざけることが真面目なのか、ふざけないのが不真面目なのかな。

町田 中原さんの場合は、真面目なことを言うのは相手に悪いと思っているから。

中原 なははは。

筒井 ああ、それはあるな。不真面目といえば、「介護入門」でこの前の芥川賞をとったモブ・ノリオって人は昔、僕のファンクラブの最年少会員で、受賞記者会見ではマイクに突っ込んだらしいけど、パフォーマンスは小説でやったほうがいいよ。

中原 なるほど。

筒井 介護していたお婆さんをめちゃくちゃにしちゃうとか。

中原 でも筒井さんは実は、そういう小説を既にお書きになっていると思いますよ。

町田 僕も何か思いついて、「ああ、これは筒井さんがやってたか」ということがよくあります。

筒井 それは僕だってありますよ。いくらいいアイデアだと思っても、必ず誰かやっている人がいる。それは、必ずいるんだ。H.G.ウェルズが『タイムマシン』を書いて、その次に最初にタイムマシン物を書いた人というのは相当な勇気がいったと思うよ。盗作だもんね。でも、その後いろいろな人が同じアイデアで書いたから「タイムマシン物」というジャンルができたわけで、盗作とそうでないものなんて紙一重なんだから、気にしなくていいんですよ。

町田 枠組みを壊す苦しさというのがあると思うんですよね。たとえばプロレスでも演芸でも、見るほうが枠組みがあると思って安心して見ているから、クレージーなことをやっても、笑ってもらえる。でも、その枠組みを破壊して物を作ると、キチガイ扱いされる。あんまり破壊しすぎると、何か空中に立っているみたいな苦しさがありますね。

中原 自由奔放にやるっていうのは大変だなぁ。やっぱり決められた安全地帯でやってるのが一番いいってことなんですかね。

筒井 こらっ!

町田 うわっ。

筒井 やっぱり、最終的な破壊というのは自分自身を破壊することだと思うんだよね。たとえば、中上健次がそうだったんじゃないかと僕は思うんだよ。『破壊せよ、とアイラーは言った』って彼の本があったけど、彼は実生活も破壊的だったけれど、小説のテーマも、文壇的に受け入れられるギリギリのところまで行った。劇画の原作まで書いて。これ以上は駄目なのかというんで、彼はよっぽどイライラしたんじゃないか。で、ついに自分を破壊しちゃった。彼のすごいところっていうのは、それじゃないかと思う。僕は御二人ともそういうところがあると思うんです。

町田 確かに、そういう感じはありますね。人生が徐々に破壊されていっているのかもしれません。

中原 僕は自分が書いたものより、現実のほうが破綻してますけどね。なはは。

町田 そういえば、鼎談をはじめる前にうかがいましたが、住む場所なくなって出版社を泊まり歩いたり、わざわざ信濃町(編集部注/創価学会の本部がある街)に引っ越したりしたのも、ネタにしようと思ってわざとやってるんですか?

中原 違いますよ!毎日が悲惨なだけですよ。昨日も寝てたら、子供の頃に死んだ飼い犬が夢に出てきて、起きたらサメザメと泣いてたんですから。年金を払う金もないし。あ、信濃町に越してから、すこしアイデアが浮かびましたけど。

筒井 どんなの?

中原 「踊る池×大作戦」(編集部注/映画『踊る大捜査線』にかけている)という、野蛮な第三文明をナパーム弾で焼き払う話なんですけど、編集部にそれは問題があるから他の作品にしてくれって言われて、じゃあ、「踊る池×小作戦」というのはどうでしょうか、と。第三文明を殲滅する妄想にかられた男が池×小学校にいって、最後は子供たちと仲良くする話ですって言ったら、もっとひどいから、絶対にやめてくれって。だから信濃町は越すことにしました。

町田 それは書く前に編集者に話すから駄目なんですよ。

中原 ペンネームも考えましたよ。オール大西巨人とか、オヨヨ健三郎とか。

町田 どんどんやったほうがいいですよ。

筒井 小林信彦が怒るよ〜。

町田 僕は最近、「公三と主税(ちから)」というタイトルを思いつきました。

中原 なはははは。

筒井 わはははは。バカなことを書くのはマトモなことをマトモに書く以上に体力がいる。すごい力技なんだよ。


★破壊と創造のサンバ 4◇新潮10月号/筒井康隆×町田康×中原昌也★

2005年02月16日(水) 破壊と創造のサンバ 3/筒井康隆×町田康×中原昌也
「今回は誰も死なない小説を書こう」

町田 中原さんの小説を読んで、中原さんの音楽と共通するところがあるなと思ったんです。本人は音楽と小説は別だとおっしゃっているかもしれませんし、それは当たり前という前提の話ですが、中原さんが最近出した本『キッズの未来派わんぱく宣言』に付いているCDを聴いたら、拍子がなくて、音のテクスチャーだけっていうか、ただ、いろんな音をコラージュしてある音楽で、それを聴いた時に思ったのは、タイム感、時間がないということなんですよね。
それで中原さんの小説が何でこんなに面白いのかなと考えてみると、やっぱり小説に時間が全然ないんです。普通の小説はそこに時間がないとなかなか読んでもらえないから、嘘くさくても一応あるということにしてやるんですけれども、中原さんの小説の場合、ドアを開けたらいきなり壁、どっちを向いても行き止まりみたいな感じで、時間がまったくない。それが音楽と平行線上にあるなという風に思ったんです。中原さんの小説の世界を普通に書いちゃうと、ただ失敗した小説になっちゃうと思うんですよね。

中原 タイム感ですか……。確かに僕は楽器ひとつ弾けないし、リズム感も悪いし、コードだってまったく分かってませんけど。

筒井 またまた、嘘ついて。そんなわけない。コードが弾けなくて音楽作れるの?

中原 何かひとつくらいまともに弾ける楽器が欲しいなとずっと思ってたんですけど、最近、ようやく見つかって。風呂場で吹く口笛なんですけど。ははは。モリコーネとか。

筒井 モリコーネはいいよね。そうそうそう。中原さんの小説に「石原慎太郎」とか「中原昌也」がいきなり出てくるでしょう。この固有名詞の出し方っていうのはものすごい破壊力だよ。ああ、こういう手もあるんだなと。

中原 普段は僕、固有名詞を出すのにすごく抵抗があるんですけれども、石原慎太郎だけは許せないというか。具体的に本人がどうということじゃなくて、何も考えないで盲目的に支持している人たちが、本当に嫌いで。なはははは。

筒井 だから、固有名詞を出すのが嫌いな人が思い切って出すから破壊力があるんだよ。新幹線の中で光子がね──。

中原 誰ですか、光子って。森ですか?

筒井 筒井光子。妻でございます(笑)。光子が中原さんの本をゲラゲラ笑いながら最後まで読んで、面白いと言ったんで、「この小説が分かったら現代文学の読者として一人前だぞ」って言ったら、それは僕や町田君の小説を先に読んでいたからで、そうでなかったら、これは分からなかったって言うんで、「偉い」と言って、すぐに抱きしめてキスして、ついでにセックスを……しなかったけれどもね(笑)、新幹線の中だから。

町田 中原さんの小説に似ていると思うんですが、交通事故の見物渋滞ってありますよね。ただ車が壊れて人が倒れて血が流れているだけなんだけど、なぜかみんな見てしまって交通渋滞になる。人が目の前で死んでいるとか、世の中には、本当に壊れたものは普段はありえないわけで、それが文章という形で存在しているというのは、僕はちょっと奇跡的なことだなと思ったんですね。

中原 品性と引き換えにして得た奇跡ですかね……。

筒井 三島賞をとった『あらゆる場所に花束が……』でも死体がゴロゴロという感じで出てくるね。

中原 小説を書くたびに、今回は誰も死なない小説を書こう、暴力とか出てこないのを書こうと思うんですけれども、そう考えているとイライラしてきて、つい書いちゃうんですよね。

町田 『文学界』に載った短編「女たちのやさしさについて考えた」も出だしは好調だったのに、後半やっぱりいつもの世界になっちゃいましたね。

中原 毎回そうなんです。

筒井 イライラすると殺すというのはあれだな。

中原 そうですよ、よくないですよ。

筒井 僕の『夢の木坂分岐点』、これ谷崎賞を取ったんだけれども、選考委員の丸谷才一さんは不満だったらしいんだよね。なぜかというと、主人公が最後に死ぬから。あの人は、登場人物を前触れなしに殺しちゃうというのが気に食わないらしい。せっかくその長編で育ててきた主人公が最後に何も理由なしに死ぬというのがいかんというんだ。それだけ死を大事に考えている人がいるのかと思って、僕は逆にびっくりしたんだけどね。
昔、星新一が自分の死期を悟ったのかどうか、「筒井君、死というものをどう思うのか」って僕に聞いたんだよね。僕はちょっと酔っぱらってて、粋がって「死というのは記号に過ぎませんよ」みたいなこと言ってさ。彼は笑っていたけども、ある意味で、僕は今でもそう思っている。アリ一匹が踏み潰され死ぬのと人間一人死ぬのとどっちが巨大な死か?普通は人間の死ということになるわけだけど、マッコウクジラを、シロナガスクジラでもいいけど、人間が寄ってたかってドッカーンと殺したら、やっぱり巨大な死としか言いようがないわけでさ。人間一人の死よりも巨大という感じがするんだよ。逆にJ.G.バラードの短編に「溺れた巨人」というのがあるけど、あれは溺れた巨人が海岸に打ち上げられてだんだん腐っていくというだけの話ですね。あれなんかは、あまり巨大な死という感じはしない。町田君の『パンク侍』にも死体はいっぱい出てくるね。この作品、最初の方で『大菩薩峠』のパロディなのかなと思ったけど、全然違って、すごく面白かったですよ。作中に出てくる「腹ふり党」っていうのがとにかくすごいね。

町田 あれは試しにやってみましたが、結構苦しいです。

筒井 ツイストが流行った時には腸捻転を起した人もいたんだよ。

中原 「腹ふり」は、町田さんのアルバムのタイトルになっているくらいだし、ずっとこだわっていた言葉なんですか?

町田 最初は深く考えてたわけじゃないんですけどね。小説って、特に長いものの場合、書き出しのうちは割といい加減なものじゃないですか(笑)。

筒井 じゃあ最初のうちは、こんな大量虐殺にしようとは思ってなかったんだ。

町田 最初の構想では、腹ふり党というのが現実化しちゃうところまでは書こうと思ってましたけれども、戦争でこんあに死ぬとは予想してませんでした。

中原 まったく淀みなくアイデアがあふれまくっている感じがしましたけど、そんなことないんですか。

町田 これを書いている時はちょっと妙な感じでしたね。前半が連載で後半が書き下ろしだったんです。僕は書くのが遅いんですけれども、三百五十枚くらいの書き下ろし部分を実質的には一ヶ月半くらいで書いたと思うので、やっぱりシュールな状態というか世界に入って書いたのかな。

中原 僕の場合、死を扱うというのは安易だという負い目が常にあって、でもそれをやっちゃうということで、「ああ、自分はやっぱり駄目だな」と思ったら、またイライラしてきて死体を出しちゃうというのがありますけどね。

筒井 丸谷さんも、そういう意味で言ったのかな。よくわからないけど。

町田 先日、『世界の中心で、愛を叫ぶ』の映画の予告編を見たんですね。そしたら、これは見たら僕は泣くだろうなと思ったんですよ。

筒井 エリスンの『世界の中心で愛を叫んだけもの』は傑作だけどね。誰も評価しないね。読んでないんだな。

町田 行定勲という監督はうまくてその手腕によるところが大きいと思うのですが、やっぱり、あんな子供がかわいそうじゃないですか、死んで(笑)。

中原 現実感のある死を商売にすることのほうが冒涜的だと思いますけどね。僕に言わせれば!

町田 本当にそうだと思います。結局、ジャズにせよパンクにせよノイズにせよ、そういうものに対する抵抗だと思うんですね。一行書けば終わる話を大問題であるかのように書いたり、自分で問題を作っておいて自分で悩んだりするのはバカみたいだというのがあって、そのことの恥ずかしさとの戦いだと思う。中原さんの小説で特徴的なのは、商業の文章というか、ものすごい陳腐で紋切り型の文章をわざと多様してますよね。あれが笑っちゃうところなんですけれども、それも一つの抵抗だと思うんですよ。

中原 もし書く才能があれば、僕も難病物を書いてみたいですけどね。なはははは。

筒井 やっぱり破壊することイコール創造が可能なのは、音楽と文学だけだと思う。あと、演劇や美術もあるけど。でも建築は絶対に無理だ(笑)。

中原 破壊がもうちょっとポピュラーになってほしいものです。そうしたらちょっとはまともなのを書こうかなという気になる。

筒井 あなた、あまり卑下しなくていいですよ。

中原 いやいやいやいや。


★破壊と創造のサンバ 2 ◇新潮10月号/筒井康隆×町田康×中原昌也★

2005年02月15日(火) 破壊と創造のサンバ 2/筒井康隆×町田康×中原昌也
「もう茶碗は残ってないんで」

町田 「ジャズ」という言葉には蔑称のようなニュアンスがあります。

筒井 ジャズ、イコール、バカという意味ですか(笑)。

町田 三遊亭歌笑の爆笑落語がジャズ落語と言われていたこともあって、そんなことから類推しているだけなんですけど(笑)。「パンク」というのも、もちろん蔑称で、チンピラとか小僧とか薄のろとか、そんな意味です。「ノイズ」は「スカム」とか「ジャンク」とかとも言われているように、文字通りの蔑称です。どれも、「一段下」みたいな感じがあります。

中原 なはははは。

町田 パンクというのは本来、これまであった音楽に対して、違う行き方、もう一つの行き方で行こうとして始まったものです。音楽については、僕はパンクから出てきたわけですが、小説に関して言うと、パンクが直接小説の文章に影響しているという感じはあんまりないんですね。むしろ、これまでの読書体験とか落語とかの影響の方が大きいんです。たとえば最近書いた『パンク侍、斬られて候』で、時代小説の中で現代的な言葉づかいをしているのは、僕なりの「破壊」のつもりなんですけれども、多分、筒井さんの「ヤマザキ」を読んでなかったら、発想していなかったと思うんですね。先行する筒井さんの小説があったんで、気楽に、というとあれですけど、そんなに頑張らなくてもできたというところがあったんですね。

筒井 いや、でもやっぱりこれは町田君にしか書けないパンク小説になっているんですよ。僕が書いても「ブギウギ侍」にしかならんわけ(笑)。

町田 ただ、それがパンク的なやり方なのかというと、そうでもなくて、もしかして僕自身の性格なのかなという気もしてて。別に無理して破壊しようとか思っていなくても、「こういうルールですよ」ってみんなが知ってるはずのことを、なぜか自分はいつも聞き漏らしているんです。夏休みにみんなで集まってラジオ体操をやりますよって言ってるんだけど、僕はその告知をなぜか聞いていないから、最初の一歩から入っていけないんですよね。多分、不注意で聞いていないだけだと思うんですけれども、では自分でやってみようかと思う時に、ラジオ体操というのはこうやってやるんだということを調べるという能力が欠如していて、自分が勝手にラジオ体操と名付けたものをやっていると、結果的にはパンクになってしまうということなんですよね。
ジャズとパンクの大きな違いがありまして、ジャズというのは演奏する側に技術の裏付けがありますが、パンクというのは技術の裏付けがまったくないところから始まっていますから、最初は何かできても、だんだんやることがなくなってくる(笑)。

中原 なははは。

町田 だから「こんなもの破壊してやる」といって茶碗を叩き壊した後は、もう茶碗は残ってないんで、粉々になった茶碗を自分で拾い集めて復元してもう1回壊すしかない(笑)。そういう情けなさに耐えることというのが自分の一つのやり方なのかなという気はしますね。
ちょっと話は外れるけど、パンクって読書家の人が多いんですね。それは中原さんもそうだと思うんですけれども、なぜかというと、音楽にあんまり自信がないんですね(笑)。

筒井 エエーッ!そうなの?

中原 なはははは。

町田 つまり、ちゃんと音楽の教育を受けた人とか、ロックが好きでギタリストになろうとする人は、音楽学校にいったりギターの練習とかの努力をしたりするんです。ただ、パンクというのはそこから脱落したところから始まってますから、ちゃんと音楽できる人に対して、コンプレックスがある。自分は楽典や和声すら知らないし、駄目なんじゃないかと思っているところがあって、それを埋めようとして読書に走る。あいつらは単純な音楽バカだ、俺たちはこんなにいろいろな文学とか読んで頭いいんだというふうに言いたがる傾向があって、そういう、元来言葉を志向しがちなところへ、僕自身の性格というのも相俟って、後に行けば行くほど小説を書くのが大変になってくると、だいたいそういう流れだと思います。

筒井 パンクの音楽そのものを文章にはできないというのは、ジャズも同じです。結局、その思想なんですよね。パンクの場合は、明らかにカウンターカルチャー。ただ、ジャズの場合は、既成のものに対する破壊じゃなくて、もともと黒人の民族音楽から出てきている。その辺の違いだけじゃないかと思うんですよね。中原さんはどうなの?

中原 僕はノイズの人たちの中に入るという意識が実はあんまりないんです。僕が音楽を始めた頃というのは、いわゆるサンプラーが出てきた頃で、他人の音楽をパクッて楽曲に取り入れるのが当たり前の手法になってたんですが、その頃に盛り上がってきたミドルスクールと呼ばれるヒップホップは、元曲に対してのリスペクトがあってサンプリングしているということになっている。結局は剽窃のくせに、リスペクトとか言っているようなところがすごい嫌いでした。僕はむしろ、リスペクトもなにもない楽曲で、死体をこき使って無理矢理同じことをバカみたいに何度も何度もさせるような感じのサンプリングがやりたかったんですよ。それは多分、僕が書いているものも同じで、いきなり小説を書けと言われて、何も書くことねえなと思って実家にあった「PHP」とかを読むといい話が書いてあるんで、そのまま書き抜いて固有名詞を変えたら、「ああ、もう小説できたじゃん」みたいな感じで出しちゃうというか。

筒井 いやあ、それだけじゃないと思うよ。この人がすごく読んでいると言うことを僕は知ってるんだ。福田和也があなたが読んだ凄い本をたくさん教えてくれて、驚いたもんね。

中原 そんなことないですよ!福田さんが大げさに言っているだけですよ。

筒井 中原さんの一番新しい短編集だけれども、『待望の短編集は忘却の彼方に』、何じゃこのタイトルは(笑)。タイトルからしてぶっ壊れているわけ。中の短編はみんなそれぞれ、ぶっ壊れ方のサンプルみたいなもんでさ。みんなすごいわけよ。やっぱりただじゃこんなことはできませんよ。中原さんは過去の小説をたくさん読んで、どこをどうぶっ壊したら一番面白いかを考えてるはずだ。

中原 いや、でも御二方のように、ただ壊すだけじゃなくて、エンターテインメントとして読ませるものを書く技術が僕にはないので。

町田 僕も中原さんの短編集を読んでめちゃくちゃ笑いましたよ。

筒井 笑うよね。

中原 僕は小学生の時に「亭主料理法」とかの筒井さんの小説を読んですご
い影響を受けましたし、町田さんの『パンク侍』だってマジに素晴らしかったですよ、本当に!

筒井 わははは。褒めあいになってるな。


★破壊と創造のサンバ 2◇新潮10月号/筒井康隆×町田康×中原昌也★

2005年02月14日(月) 破壊と創造のサンバ 1/筒井康隆×町田康×中原昌也
「小説を壊そうと思い始めてね」

──今回、鼎談をお願いした御三人にはいくつかの共通点があるように思います。第一に、音楽との深いかかわり。第二に、アンチモラルな作品世界。第三に、現代的ヒューモアの最前線をなす言語感覚。さらに、町田さん、中原さんは幼少の頃より筒井さんの愛読者であり、筒井さんは御二人の才能を最初期に評価されました。まずは、話のとっかかりとして、筒井さんに、町田さんと中原さんの音楽を聴いていただきます。

(町田氏のCD-RをPLAY)
町田 これは売り物じゃなくて、音楽じゃなくて詩の朗読なんですけど。

中原 おお〜!朗読っていっても音響の処理とか、すごい凝ってますね。

筒井 いいね。面白いじゃないの。

町田 冗談でやってみただけでして。パソコンに最初から入っている音楽ソフトで作ったんですけど。

筒井 そうか。パソコン一台でこんなのが作れるんだ。


(中原氏のヘア・スタイリスティックス名義のCD『Custom Cook Comfused Death』をPLAY) 
中原 いやあ、恥ずかしい。

筒井 思ったより、きちっとしてるじゃない。小説よりよほどいいよ(笑)。

中原 なははは。

町田 かっこいいじゃないですか。

中原 これ打ち込みでやってて、生演奏じゃないんです。ああ、ひどっ、ひどいな!いや、もう恥ずかしい。

筒井 きちんとしてるっていうか、汚くないんだよね。思っていたよりはね(笑)。

中原 町田さんのバンドの曲も聴きましょうよ。「朝日がポン」がいいって友達が言ってたんですけど。

(町田氏のバンド、ミラクルヤングのCD『ミラクルヤング』をPLAY。♪朝日がポン、のぼってポン 君は不細工だ……)
中原 すごい。なはははは。筒井さんがクラリネットを吹かれているLP盤(『THE INNER SPACE OF YASUTAKA TSUTSUI』)がここにありますけど、これも聴きたいなあ。

筒井 僕のはいいよ。いい。これはつまらん。やめて、もう、恥ずかしいから、本当に(笑)。
やっぱり最初は、三人に共通する音楽の話から始めましょうか。僕がジャズで、町田君がパンクで、中原君が……いつも中原中也って言っちゃうそうになるんだよね。チューヤじゃなくってナカヤ。だってこっちが町田町蔵だから、こっちは中原中也(笑)。で、中原君はノイズ。「新潮」は文芸誌だから、それぞれの音楽がそれそれの文学とどう結びついているかというところで話を進めていくしかないと思うんですがね。だけど、ジャズとパンクはえらい違いだし、パンクとノイズも違う。だから、どこで結びつけるかというと、僕が考えたのが「破壊」ということなんです。それがこの三人の、しかも音楽と文学とに共通するものではないかと思うんです。
僕のことからいいますと、ジャズに入れあげたのが中学時代です。特に僕が好きだったのはスウィングジャズなんだけど、第二次世界大戦の前だったか大戦中だったか、スウィングジャズ全盛期のアメリカに著作権管理組織ができたわけですよ。今の日本で言うとJASRACみたいな。それで著作権料の問題が非常にうるさくなって、ほかの作家のものを演奏すると金がかかるようになった。で、ジャズマンはみな貧乏だから仕方なく、クラシックをジャズに編曲──われわれは「ジャズる」といってるんだけど──したんです。以前から、たとえばリムスキー=コルサコフの「熊ん蜂の飛行」をピアノでブギにした「バンブル・ブギ」とかもあったんだけれども、たとえばベニー・グッドマンだったっけ、ウェーバーの曲を「レッツ・ダンス」なんて曲にしたり、トミー・ドーシーがいちばん多いんだけど、メンデルスゾーンの「春の歌」をやったり、歌劇「サドコ」の「印度の歌」だとか、クラシックを軒並みジャズにすることでクラシックという権威を何かバカにして、笑い物にしているという感じがして、僕にとっては非常に刺激的だったんです。今にして思うことだけど、どうも僕のパロディの原点はその辺にあるんじゃないかという気がするわけですよ。もちろん、オリジナルのスタンダードナンバーもたくさん聴いてましたし、それはそれでよかったんだけど、クラシックをジャズったものが特に好きだった。ポピュラーでもカテリーナ・ヴァレンテが「エリーゼのために」をルンバで歌ったりもしているけど、やはりジャズの方が、クラシックを批判している感じがして、ずっとよかった。
そういえば、「君が代」を卒業式で歌う歌わないという問題が以前からあるけど、音楽の先生が「君が代」をジャズで伴奏したって話があるんです。伴奏がジャズでもちゃんと歌えるんだよね。もちろん、その先生は後で罰は受けただろうけれども、生徒の中で泣きだした子がいたっていうの。ただ歌わないというのならいいが、ジャズにされるのは耐えられないっていう素朴な愛国心のような気持ちが奥底にあったんじゃないかな。とすると、この「ジャズる」というのは大変な破壊力なんじゃないか。クラシックをジャズるにしても、やっぱり古典的な権威をバカにしてて面白いから、聴いてる方は笑いますよ。
で、僕の場合はずっとパロディをやってきたわけですが、最近御二人に多少は影響されているのかもしてないけれども、小説を壊そうと思い始めてね。ただ、今から考えてみたら、昔からそれとなしにやっているんですよ。僕が『筒井順慶』書いたとき、武蔵野次郎さんという批評家が「楚々とした美人がちょっと着崩しているのは非常になまめかしいけれども、この小説は初めから崩れている」っていうようなことを書いたんです。これは批判なんだけど、僕はうれしかったんだよ。それから二十年ほど経って『筒井順慶』が文庫で再版されたときに、解説をお願いしたくて、編集部が連絡したら、武蔵野さんはあの作品を貶したつもりだったから「エ!」って絶句しちゃったんだって。で、今になって、今度は意識的に小説を破壊しようと思い始めた時、御二人の小説には感心するんだけれども、小説を壊すというのは大変なことなんで、僕は短編でしかまともには壊せてません。今度『壊れかた指南』というタイトルで短編集を出そうと思ってるんだけど(笑)、その中の半分くらいしか成功していない。でも、町田さんの『パンク侍、斬られて候』や中原さんの『あらゆる場所に花束が…』は長編で小説を壊した。これは大変な力量なんですね。
僕は、小説のアイデアそのものは無意識から来ると思う。だけど、壊しかたにもアイデアやエネルギーがいるわけで、ではそれはどこから来るかというと、どうも天の一角みたいなところからのような気もする。つまり小説自体を壊すということは、相当たくさんの小説を、しかも深く読み込んでいないとできない知的、意識的な作業なんですね。最近僕が書いた壊れた話しでいうと、「稲荷の紋三郎」という短編があって、本当なら四十枚くらいの話なのが、二十五枚か三十枚くらいのところまでは普通の時代小説で、いよいよこれからクライマックスという時に、やめちゃった(笑)。先を書いても予定調和になるだけだとわかっているし、自分の書きたいところまで書いたらそこでやめるほうがいいんじゃないかということを、この間京極夏彦と話をして、そういう結論が出たのでここでやめる、といってやめちゃったの。案の定、読者のおっさんから編集部に電話かかってきて、ネチネチ文句言われたらしいんだ(笑)。それが僕はもう非常にうれしかったね。やっぱり文句を言われなきゃ壊したことにならない。素人が小説を壊そうとしたって、ただのめちゃくちゃにしかならんわけでしょう。やっぱりいっぱい読んでいるから壊すアイデアも出てくるのでね。……ああしんど。喋りすぎました。あとは御二人に任せるんで、よろしく(笑)。


★破壊と創造のサンバ◇新潮10月号/筒井康隆×町田康×中原昌也★

2005年02月13日(日) パラレル/長嶋有
「そういえば昼間、女がきたけど」

「どんな女だった」津田はいきなり真顔になった。

今現在、何人の女と付き合っているのかという疑問が浮かんだが、

それは後回しすることにした。

「なんか、唇がすごく赤くて」

「あいつか!」津田がいった(このときはすぐに通じた)。

目が正面を向いている。怒っているのだろうか。

「ひどいんだ!ひどいことした」

といってふーっと息をついた。遠くでレジスターがレシートを印刷するカタカタいう音が響いた。

「なんかいってたか」

今の口ぶりや昼間の女の様子から「ひどいことした」のが津田だとは分かったが、

どんなひどいことをしたのかは津田はいわなかった。



「何人と付き合ってんの、今」

やっと尋ねることが出来た。津田は、それに答える代わりに

「俺はね、恋愛は駄目だよ。他人の気持ちがわからないんだ」

と弱音をはいた。自嘲ではなくて言葉の通りだという。

「だって他人は俺じゃないから、分からない」

女は、分からないことが分からないようなんだ。

分かろうとしないだけでしょう、なんていうんだ。

「ああ、分かるよ。分からないのが分かるよ」

僕も力強く賛同して焼酎を呑む。

「いや、おまえたちは分かり合ってるじゃないか」と津田はいった。

おまえたちはいい、おまえたちはいいと何度もいって机に突っ伏した。

「よくないよ」

離婚するかもしれないんだ、僕はついにいったが、津田は泥酔して寝入っているようだった。



「俺、もうカタギの女は口説かない」といってみたり、

「大輔がもっと育ってくれればなあ」と職場の話をしたり、

ぶつぶつとうわごとを繰り返していたが不意に

「なあ七郎、おまえ俺が女に刺されるかなにかで死んだらさあ、

ヨットで沖まで出て、夜明けに俺の骨を散骨してくれるか」などといいだした。

船舶免許もないしヨットも持ってないよと答えるとガバリと起き、僕の顔をみて

「俺、おまえのそういうところ好きなんだ。いつでも打てば響くように

台無しな答え方してくれる」

と微笑んで、またテーブルに突っ伏した。

「いつでも」ってことないだろう。抗議しようか迷っていると(後略)。


★パラレル/長嶋有★

2005年02月12日(土) パラレル/長嶋有
「さて、結婚とは文化であります」

「文化などと大げさな言葉を申し上げましたが、実はまったく些末な事柄なのです。

先日、サッカーの中継をみていたら、アフリカの選手がゴールを決めたときに、

不思議な踊りをしました。あの踊りが我々には分からない。

だけど彼らにとっては重要な意味がある。彼らをして彼らたらしめるものといっていい。

文化というのは、そんな風に国や民族に生じる固有のものであります。


だけども、都道府県にだって、町にだってその地域ならではの文化が生じます。

そのように考えていけば、一番小さな文化の単位は家族、

ひいては夫婦ということになるのではないでしょうか」

「恋人が長くつきあうと、最近なんだか夫婦みたいだ、などといいます。

互いの存在に慣れてきて、かつてのときめきがなくなった。

ここでつい夫婦という言葉をネガティブなものとしてとらえがちになりますが、

それは違います」

「夫婦のようになった、と感じるとき、その二人の間には確かに文化が芽生えているのです。

食卓でそれとって、といっただけで『それ』がソースか醤油か分かる。

たてつけの悪い扉を開けるときの近田の入れ加減を二人だけが会得している。

そういう些細なものの集合はすべて文化で、外側の人には得られないものなのです」

「今の時代、籍を入れて結婚することの意味はゆらいでいます」

「籍を入れずに同棲することを選ぶカップルもいます。恋人のままでもいいじゃないか、と。

だけれども、これは断言してもよいですが、文化のない場所に人間は長くいられません」

「お二人は夫婦という文化に守られるのではなく、

結婚によって自分たちを守る文化を築いていってください」


★パラレル/長嶋有★

2005年02月11日(金) パラレル/長嶋有
「だから、物語が終わるのは『悲しい』だけど、文化がなくなるのは『怖い』なんだ」

水を飲んで少し明晰さを取り戻したという感じで、、津田は昼間のスピーチのつづきを不意にいった。

「わかったかサオリ」わかんない。サオリは売り言葉に買い言葉のようにいったが、

僕はその一言で津田のスピーチがさらに完璧なものになった気がした。


★パラレル/長嶋有★

2005年02月10日(木) パラレル/長嶋有
「そういえばあんたのゲームの、あの台詞よかったよ」

中の女の子が「いい目をしてるっていうけど、どんな目よ」っていうでしょう。

あれって本当だよね。死んだ魚みたいな目をしたいい奴もいるよね。

褒められて悪い気はしないが、死んだ魚みたいないい人というと

なぜか津田しか思い浮かばない。

屋上から小便をして、しらを切り通したまま大人になった男。


★パラレル/長嶋有★

2005年02月09日(水) パラレル/長嶋有
夫婦円満の秘訣は信じることです。

信じるとは、なにか疑わしいことがないから信じるのではなくて、

ただもう無闇に信じるのです。

屁理屈も理屈、邪道も道、腐れ縁も縁。


★パラレル/長嶋有★

2005年02月08日(火) パラレル/長嶋有
まずはポットとカップにお湯を少し注いで温める。

温めているうちにお湯をさらに沸かしてぐらぐらと沸騰させる。

温まったところでポットとカップの湯を捨てる。

ポットに付属の茶こしをとりつけて、ティースプーンに山盛り一杯の茶葉をいれる。

カップに沸騰したお湯をいれてから、ポットにうつす。ほら、少しも難しくない。

ところが、注いだお湯は茶こしに入った茶葉の浸るところまで届かずに底のほうに溜まっている。

一人分にしてはポットが大きすぎた。

茶こしを使わずに直接葉をいれて、注ぐときに茶こしを使ってもよかったのだが、

一度お湯を注いでしまったからいまさら遅い。僕は舌打ちした。

このままでは茶葉がもったいないので、マニュアルからは外れることになるが、

茶葉をさらに足して、やかんにあった残りのお湯をほとんど注いだ。

食器を洗うつもりで多めに沸かしておいたのだ。たっぷり三人分はあるだろうが、

どうせおかわりをするからいい。

再び隣室に走る。使えそうなカップを探した。

マグカップ以外には、ビール用のコップや計量カップしかない。

茶葉が開く時間は三分だから、もたもたしてはいられない。

できればそれらのカップにも残りのお湯を注いで温めておきたい。

こういう性格が妻の気持ちを冷ましていったのか。一瞬立ち止まる。

茶碗をみつけた。それではまだ余ると考えて、

仕方がないから「耐熱」と書かれた計量カップを使うことにする。

やがて台所に三本の湯気が立ち上った。マグカップを手にとり、口を近づけてすすって、満足した。

とてもいい茶葉だと思い、教会でのもてなしを思い返す。

天国とは、あの空間そのもののことではないか。

マンションの扉に鍵のささる音がした。まだ夕方の六時だ。

津田がこんな時間に帰ってくるはずがない。不審者かと思い身構える。

身構えたところでいざというときになにをすればいいのかは考えられなかったが。


★パラレル/長嶋有★

2005年02月07日(月) パラレル/長嶋有
扉が開き、知らない女性が現れた。大きな鞄を手にもっている。

津田の、新しい彼女か。

女は怪訝な、というよりもなんだか不機嫌そうな顔をしている。

「どうも」僕は津田の友人で、少し前から泊めてもらっているのだと説明した。

「もしかして七郎さん」といったので驚いた。

女は赤くつやつやした唇の端で笑ったように思えた。コートの襟のファーが純白なので唇が余計に目立つ。

台所に三人分入った紅茶と、僕の下着姿を見比べながら女はいった。

「誰かくるの」

「いや」僕はマグマップを置いて、ベッドから半分ずり落ちているズボンを急いではいた。

「よかったら、それ飲んでいいよ」津田の彼女?と訊こうとして

「津田の知り合い?」と言い直す。女は答えずに、台所の茶碗をじろじろとみた。

「彼は?」

「今日も仕事みたいだよ」

「だったら伝えて。いくって決めたって」女は突然きっぱりした口調でいった。

「どこにいくって」女はいえば分かるといった。くだらないことをきくなという感じだった。

「『私じゃなくても、いつか誰かに刺されるよ』って、彼にいって」女は僕を見据えて言い放ったが、

その前の「分かる」の断定だけで僕はもう十分すぎるほどうろたえていた。

女はふと紅茶を手に取ろうとカップに触れて「熱ーい」といってますます不審気に僕をみた。


★パラレル/長嶋有★

2005年02月06日(日) ヒコーキ野郎のフランス便り/藤田嗣治
宇和川大兄、葉書が今朝来た。おつがさんが病氣だつてね。

切角君は慰めて可愛がってやる可しだ。

一番いい薬は呑氣と遊ぶと言う薬と思う。

君や僕は決して病氣にはなりつこなしだね

青山が巴里へ来たつてね。君からよろしく言つてくれ給へ。

何うだい巴里は、だんだん皆帰って行くね。淋しくなる許りだね。

しかし巴里に居る事は何より幸だ。

僕なんざはこんな田舎に落ちこんで何時になったら巴里へ出られるか分かつた事じゃない。

君から巴里の女へよろしく言つてくれ給へ。


9月十五日 田舎者藤田


裏──宇和川大臣?何大臣だへ左大臣かい、此間は二階で一寸御目にかかつたが、

僕も後で御話するつもりでたのが君が見えなくなってそれきり忙しくて

(巴里の女たちに取りまかれて)会えなかつた、惜しかつた。

宇和川左大臣 川島女大臣


★ヒコーキ野郎のフランス便り/藤田嗣治★



■これも宇和川さんへの葉書。1915(?).9.15日の消印。

2005年02月05日(土) ヒコーキ野郎のフランス便り/藤田嗣治
君からの御手紙委しく有り難う。

早速たばこのピエール御送り下すつて今早速調法した所です。

田舎者になると何にもしりません。

可笑しい様に世間にはうといのです。

巴里にはいい風が吹かないのですか。

僕等を□なんて何うして、只呑氣位がせめてもでしょうね。

公報の通り品行方正ですよ。

これで金がたまり相で居てたまらないから可笑しいや。

パンテオンへよろしく。

ルクサンブルの夕散歩サンミッシェルの□運動お羨ましい事です。

ピエールの御礼まで。


田舎 藤


裏──巴里の連中へよろしく御伝へ下さい。

御無沙汰許りしてね、すみません。

又面白いことは通知します。君からもね。

コントは今夜巴里へ行く由です。


★ヒコーキ野郎のフランス便り/藤田嗣治★



■宇和川通喩さんへのハガキ。消印は1915.8.21。

2005年02月04日(金) 1914年 ヒコーキ野郎のフランス便り/築添正生編
音楽学校でコルネットを専攻し、音楽家を志した清武が飛行家になることになったのは、

音楽学校在学中に結婚した妻が女の子を出産した後二十歳の若さで亡くなり、

悲しみのあまり自殺もしかねない様子の清武を案じた清武の友人の母が、

彼を叱咤するつもりだったのだろう、

「死ぬ気なら飛行機乗りになれば良い。そうすれば死ねるかもしれない」

と言った言葉が清武をフランスの飛行学校へ向かわせ、

悲しみに沈んでいた彼を救う結果になったと『バロン滋野の生涯』にはあるから、(後略)。


★1914年 ヒコーキ野郎のフランス便り/築添正生編★

2005年02月03日(木) ジャージの二人/長嶋有
分からないが、とにかく選択だった。選択してしまった。どうしようもなかった。

日頃から人生は選択の連続にみえる。だけど本当には選択できる機会なんて、

ごくわずかなのだ。大抵は、否応なく選ばされる。

そのことだけはさすがに三十年近く生きてきて、もう知っている。

膝についた小さな砂利をはらい、立ち上がった。

(おまえが俺を許すのではない、俺がおまえを許すのだ)。

もう一度、心にすりこむように思う。

帰りはなぜかミロよりも勇ましい気持ちになって、早足で大股になった。

大槻ケンヂが「戦え!何を!?人生を!」と百回くらい叫び続ける歌を

心の中で思い返しながら歩く。たしかあの歌は「才能の枯れた奴がいた」ではじまる。

才能のないかもしれない奴はどうしたらいい?


★ジャージの二人/長嶋有★

2005年02月02日(水) ジャージの二人/長嶋有
駈けながら、妻との初めてのデートを不意に思い出す。

オールナイトで夜十時からのライブだった。「どこかで飯でも食いませんか」

と誘ったら「それより」と向こうが誘ってくれたライブだ。

彼女の友達が出演するという。ハガキに印刷された地図は大ざっぱで、

駅を出て歩いてもなかなかつかない。歩き回るうちにただの住宅街に入り込んだ。

外灯も、今のこの森ほどではないがまばらだった。

僕は無言で後をついていきながら肌寒さを感じていた。

十字路の外灯の下で妻はもう一度ハガキを出して地図を回転させて、ふうん、

と唸った。それから振り向いて「ねえ、喉飴もってる」と尋ねたのだ。

あれは十一月のことだった。その後すぐにライブハウスはみつかった。

彼女の昔からの友達が大勢きていて、僕は朝までずっと人見知りしていた。

みたライブの内容は忘れていて、その台詞だけ憶えている。

それから僕は喉飴の類を持ち歩く癖がついたのだが、妻はあれきり尋ねたことがない。


★ジャージの二人/長嶋有★

2005年02月01日(火) 針がとぶ/吉田篤弘
──そう。私はこの世のあれもこれもが愛おしくてたまらない。

雑貨屋は面白いか?と彼に尋ねたとき、すぐに返ってきた彼の答えだった。

目尻に皺が集まり、「あれもこれも」と、両手を拡げながら強調して言った。

その様子がこちらの頭に焼きついて、さっそく私も、「あれもこれも」を描くことになった。

まずは目の前にあった黒パンをひとつ。やはり12枚。それを自分に課すことに決めた。

どんなものでも、とりあえず1ダースは描いてみること。

じつに雑貨屋的影響力の表れだった。

黒パンを描き終わると、隣にあった胡桃を描いた。

次には、その隣に転がっていた林檎をふたつ描いた。

そうしてテーブルの上のものはひととおり描いてみたが、描き終わってしまえば、

たいていのものは食べてしまった。

次々、パスパルトゥが運んでくれるので、私は一歩も外へ出ることなく、

一日中、テーブルの上のものを描いては食べて暮らしていた、

素直に「あれもこれも」と口ずさめば、描くものは無限にある。


★針がとぶ/吉田篤弘★

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