singersong professor KMの日記

2012年02月27日(月) 気になる

 先日(2月22日)の日経経済教室「民主主義の機能不全(上)」で加藤創太国際大学教授の弁を読んでいて、大変気になった。

「日本ではなぜ個人レベルの経済規律が国家レベルの規律につながっていないのか。国民一人ひとりはモラルが高く優秀だが、政治リーダーや官僚が悪いという面もあるだろう。しかし政治家を選んでいるのは国民だ。」

 だからうまく選ばれていないのではないかというわけだ。それは次の要因によるという。

 「懸命な有権者であっても、正確な情報を持たなければ、賢明な選択をできるとは限らない。また情報の不足は不確実性を増し、短期利益の優先にもつながる。政府と有権者の間の情報格差を縮めるのにまず必要なのは、政府による情報の徹底開示だ。」

 さらに、情報を開示しても「「良い政治」の実現のため時間をかけ情報を集めて投票する行為は他人に任せようという利己的な誘因が働く。」つまりフリーライダー(タダ乗り)が生ずるという。

 「「ただ乗り」の防止策として考えられるのは、政治単位を身近なレベルに小さく切り分け、権限を委譲することだ。「小さく身近な集団」の方が「ただ乗り」の問題は緩和されるからだ。」というわけだ。

 しかし、この切り口は極めて標準的な切り口ではあるが、その大前提として人間は合理的な存在であるとしていることに問題有りと思う。そんな建前論で語っていたら、いつまでたっても世の中良くなりはしないだろうと思う。

 人間は不合理な存在だと言うことを前提にして、ではどうすればよいか、そう言う問題の建て方をしないと、いつまでたっても世の中を良くすることはできないだろう。

 それは、社会全体に信頼関係を醸成すること、というか、政治家などにノブレス・オブリージュを期待する。厳しく言えば、義務付ける。そうでない人には退場願う。みんなが功利主義的に行動すれば、うまくいかないはずである。そういう大前提をおいてから、議論を進めるべきだと思う。そういうことを常識にしておかないと、良い政治家は現れないだろう。情報が出されるから、悪いことができないだろう、そういう面はあるとしても、脅しによってではなく、良識によって、良い行いをするモノだ、というのを常識にしないと、いつも逃げ道が作られるだろうと思う。


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